がぶ
西川 旭
第1話
「う、動くな、でありますっ」
学校の帰り道。
俺は公園のベンチに座って、フリーペーパーのアルバイト情報誌をめくっていた。
その背後から震えた声が放たれる。
「動くなってなん……。ちょっ!」
一瞬、俺の視界に銀色の小さい板が映った。刃物? なんだってんだ?
「おとなしくしているのであります。手荒な真似はしたくないのであります」
声の主は、手に持っているナイフかなにかを俺の首に押し当てた。俺の心臓が暴れ出し、体中を嫌な汗と寒気が襲う。
「わ、わかった。落ち着いてくれ。抵抗はしないから」
振り向いて相手を確認する勇気もなく、俺は座って下を向いたまま体をこわばらせる。
「それでいいのであります。すぐに済むので安心するです。最初だけ、ちょっと痛いけど我慢してほしいのであります」
一体なにを言ってるんだ、なにが始まるんだ、なにをされるんだ。
俺はなにもわからないまま、相手の言いなりにおとなしくするしかすべを持たなかった。
体中を硬直させて次の挙動を待っている俺。その耳元に、声の主が放つ興奮した吐息がかかる。
変質者の通り魔か。俺は男なのに貞操の危機か。勘弁してくれ。まだ女の子と経験したこともないのに。
錯乱したまま思考をめぐらせていると、首と肩の中間あたりに刺さるような痛みが走った。
「っ!」
なにか尖ったものが肩の肉に食い込んでいる。その周りに、濡れたような感触もある。まさか、咬まれたのか?
俺は痛みに耐えるため、掌ににじんだ汗を握ろうとした。しかしそのとき、咬まれた左側の肩と左腕に痺れるような感覚が走っているのに気づいた。
いや、痺れと一言であらわせるような、単純な感覚じゃない。羽毛でくすぐられる快感、ぬるま湯に浸かる安心感、軽くつねられる心地よい痛み、その他さまざまな気持ちよさが、咬まれた部分から全身に広がっていく。
まるで、激しい運動をしたあとに風呂に入って、そのあとにプロのマッサージを受けたかのような脱力感、浮遊感……。ああ、なんかもう、どうでもいいや……。
「こんなことをしたくはなかったのであります。許して欲しいのです。ごめんなさい、ごめんなさい佐々木さん」
薄れゆく意識の中で、弱々しく謝り続ける声を俺は聞いていた。
なんだか聞き覚えがあるな。それに、なんで俺の名前を知ってるんだ……。
いつしか俺の視界は暗くなり、なにも聞こえなくなった。
最後まで残っていたのは、なにか大きくて温かいものに抱きかかえられている、そんな悦楽だけだった。
「ちょっと健太、大丈夫なの? いつまで寝ぼけてんのよホントに」
そんな声とともに、俺の体が激しく揺すられる。頭も叩かれている気がする。
薄目を開けると、常夜灯の光を浴びた俺の幼馴染、山田優子の瞳が俺を覗きこんでいた。
「ん。なんだ、優子じゃん。ふあ……、よく寝た。なんかスゲエ気持ちいい体験をした。体がフワフワしてる」
俺は、公園のベンチで寝転んでいたらしい。優子の膝から頭を上げて、盛大に伸びをする。
「なんでこんなところで寝てるのよ。ところかまわず寝る男ねえ」
寝ぼけたままの俺は、自分の顔を叩いたり、頭をかいたり、あくびをしたり。優子がなにか言っているけれど、わりとどうでもいい。
「よくわからん。ところでお前、俺の首筋に咬みついたりした?」
「はあ? な、なに言ってんのよあんた。なんでアタシがそんなこと」
俺は、意識を失う前に咬まれたと思われる、左の肩や首の辺りを掌でさすった。そこには、布のようなものがテープで貼られている。はがしてみると、消毒薬が塗られた医療用の脱脂綿だった。
点々模様に付着した、赤黒い血液の痕跡が生々しい。幸いにも、血は止まっているようだ。
「ど、どうしたのそれ? アタシじゃないわよ。蚊に刺されたにしては、大きいわよね」
ふさがり始めている傷跡を指で確認する。確かに、虫に刺されたにしては大きなくぼみが俺の体にあいている。
「夢じゃないとしたら、変な通り魔に咬みつかれたってことだろうな。吸血鬼とかかね」
「や、やめてよ……。警察とかに言ったほうがいいんじゃない? なにか盗られたりしてないの?」
そう言われて俺は持ち物を確認した。財布は無事。携帯は……、部屋に置きっぱなしか。教科書なんて別に盗まれても痛くないのでいちいち確認はしない。食べようと思って買っておいたキノコの山は、未開封できちんとカバンに収まっていた。
結論、なにも盗られてはいない。傷跡は微妙にズキズキするけれど、我慢できないほどじゃない。命が助かってなによりだ。
「まあ大丈夫だよ。警察とか面倒だし。なんか記憶もはっきりしないんだよな」
「そう。なんか怖いな、こんな近所で。本当に咬まれたの? 犬とかじゃなく? それってかなり危ない人だよ……」
確かにそのとおりだ。俺も実際、スゲエ怖いと思った。
それでもことが済んでしまうと、大事にならなくてよかったと言う安心がまずある。
そして、あのとき咬まれた痛み、そのあとから押し寄せ、体を駆け巡った快感。
経験したことはないけれど、酒や麻薬による気持ちのよい酩酊ってのは、ああいうのを言うのではないだろうか。
おかしな目に遭って心配されているというのに、それを気持ちいいとか言っていたら俺までおかしな人間扱いされる。だから優子には詳しく話さないでおこう。
夢なら夢でいい。現実だとしても、痛気持ちよくて得をした気分だ。
心配する優子と肩を並べ、俺は家に帰った。俺たちの家はこの近くにある、同じマンションの別棟なのだ。
「じゃあまたね。来週は遅刻するんじゃないわよ」
天性の世話焼き体質が染み付いている優子。新しく入った高校でも、なんの縁か同じクラスになってしまった。毎日毎日うるさいったらありゃしない。クラス委員としての変な義務感もあるのだろうか。
まだ俺の体にはなんとも言えない気だるさが残っている。都合のいいことに明日は土日、なにも予定はない。宿題なんて記憶から追い出して、せいぜい寝まくるとしよう。
(第2話に続く)
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