階段マラソンマン

@kazuya

階段マラソンマン

ヤバイ!

体重が3キロも増えてる。

この一週間、仕事がやけに忙しかった。

日課の非常階段マラソンができなかった。


「また始めなきゃ!」

非常階段マラソンとは、私が考えた昼休みダイエットである。

昼休みになると、私はスニーカーとトレーニングウエアになる。

「お、マラソン、止めたんじゃなかんったのか」


係長の吉田が、うしろを通りながら言った。

くそッ!続きっこない!と思ってたんだ。

よし、これからは、絶対仕事よりマラソンを優先させてやる!

私は決心してロッカールームを出た。


廊下の非常ドアを押す。

真夏の日差しがきつかった。

踊り場で簡単な準備体操をすませ、非常階段を上り出す。

私の課のフロアは四階にある。


いったん屋上の十二階まで駆け上がり、一階まで降りる。

そして、また四階へ戻る。

その間の所要時間12分21秒。

これが私の最速レコードだ。


半年前に始める時は18分もかかっていた。

さあ、今日こそ新記録を出すぞ!

今週中に十二分を切ってやる。

これが今の私のひそかな生き甲斐だ。


会社の連中にこの楽しみは分かるまい。

終わって上半身裸になり、汗を拭き、顔を洗って十二階の食堂で昼食を執る。

それでも、一時までに十分以上残している

一週間ぶりの階段マラソンはきつかった。


体がなまっていた。

やっと八階の踊り場までたどりつき、これからだ!と言う時に、ギクリ!とした。

同僚の橋本由香がいた。

彼女は私の意中の人だ。


だが、手の届かない高嶺の花と。とっくにあきらめている。

由香は壁によりかかり、りんごをかじっていた。

「なにしてんだ?こんなとこで」

息を切らしながら言った。


これまで彼女に、声をかけたことなどない。

「階段マラソン、止めたんじゃなかったの?」

また、言われた。

これは課員全員、知ってるってことか。

「昼飯、どうした?」

由香はかじりかけのりんごを見せた。


ダイエットか?そんなことしてると、死んじまうぞ」

由香はかすかに笑った。

これまで見せたことのない

妙な笑いだった。


気になった。

私は由香を見詰めた。

「早く行ったら」

追い立てるように由香が言った。

いきなり由香の腕をつかみ、リンゴを取り上げた。


彼女は抵抗しなかった。

驚いたように大きな目で、間近から私を見た。

リンゴをてすりから地上へ投げた。

宙を舞ったりんごがアスファルトで、かすかなクラッシュ音をたてた。


「来いよ!」

私は言った。

こんなことを由香に言ったのは始めてだ。

「階段マラソン、付き合えっての」


今度は笑わなかった。 

「もっとも健康なダイエット法」

「パスする。この格好じゃムリ」


由香は会社の制服を着ていた。

「そんなもん、どうでもいい」

私は乱暴に彼女の手を取り、強引に階段を駆け上がった


初めて由香の手を握った。

形のいいひんやりした手だった。

由香が普通でない精神状態にある。

私は直感した。


若い女の体の重さが手に余った。

「重い!」

と、それが消えた。

由香が付いて来たのだ。

走っていた。


なんと、私を追い越して前へ出た。

スカートから伸びた形のいい脚が、目の前にあった。

速い!


くそッ!12分21秒の記録を持つ私が!

と思ったが、とてもついていけない。


由香がこんなに速いとは驚き驚きだった。

彼女がまともに走ったら、私の記録など簡単に破られちまう。

まずい!

これはまずい!


屋上へ着くと、由香は手すりの前に立って遠くを見ていた。

私はすぐにまわれ右をして階段を降りようとした。

記録、記録、記録がかかっている。

それでなくても途中由香をひろい、かなりロスしている


滑稽だが、その時私は本気でそう思ったのだ。

息切れと汗だらけの私に由香が言った。

「大丈夫、もうやらないから」

足が停まった。

息も止まった。


やはり、そうだったのか!

腹に両手を当てて由香は言った。

「この子を始末して、私も死のうと思った」


私は凍りついた。

「絶対、生んではいけない子だから」

身重の由香に、私は階段マラソンを強いたのか!

由香は背を向けたままだった。 


声を殺して号泣していた。

「りんごの潰れる音を聞いて気がついた」

押さえ切れない嗚咽が漏れた。

「赤ちゃんに謝った。バカなママを許してって」

由香は深々と頭を下げた。


「子供は事情なんて関係ないんもん。親の勝手が恥ずかしかった」

私は答えられなかった。

「綾部君、ありがとう」

そして、私の横をすり抜け、非常階段を駆け降りて行った。


翌日、由香は退職届を出した。

一週間後に会社を辞めた。

年の暮れ、社内に妙なうわさが流れているのを知った。

由香が父親のいない子を産んだらしい。、


男の子で、名前を雅之とつけたと言う。

雅之は―――私の名だった

課長を始め課員たちは、私を見ると意味あり気に笑った。

私は相変わらず、昼休みに階段マラソンを続けている。


誰も知らない孤独な記録に挑戦して。

汗みどろで非常階段を黙々と往復するのは、

我ながら異常だった。


だが、私が以前とちがうのは、

あの日、由香が立った屋上の場所を目にすると、

涙があふれて止まらないことだった。


なんの涙か分からない。

意味なんかないのかも知れない。

だが、そこを見ると涙があふれるのだ。


あの時、もう一歩踏み込んでいたら、

憧れの由香を自分のものに出来たかも知れない。

だが、私はやらなかった。


身重の彼女の弱身につけ込みたくなかった。

そんな自分は許せない。

私は走りながら声を殺して号泣する。

そした「良かった!」と何度もつぶやく。


12分21秒の記録は、いまも破れていない。

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