禍者の始祖

二谷文一

禍者の始祖

 狂気をどう携えて生きてゆけばいいのかということに対して、明確な結論を捻出する必要があった。

 家は近くにある。

 紛い物の家だ。

 宿主はまるで原形を留めていない、魔物と言っても差し支えないのではないか――否。

 それは紛れもなく人間で現在る。

 故に比喩としての表現にとどめておくのが相応しい。いや寧ろ、表現することそのものが憚られそうなのが今日の浮世の風潮というものだろう。

「…………」

 舗道を歩いていると視界に入らざるを得ないのだ。一軒家ばかりが連立しているこの界隈には、人の気配さえ感じることができないけれども、あの家は違う。

(確かに……黒い)

 人気ひとけを察知するのが特技である自分ではあるが、これほどに過疎化の進んだ町は、視たことがない。

 連立する家々に、各々町民が棲息しているはずなのだが。息づいているはずなのだが。

 どうしてどうして見当たらない。

 屋内に誰の気配も感じないのは不可思議としか言いようがない。

「あの家に行ってみよう」

 行ってみたところで何かが分かる訳でもあるまいに。

 ……はてさて、あの家の住人は、死んでいるのだったか、生きているのだったか――


  ****


 純粋な暗闇なんて存在しないんだ。

 例えば今ボクがいるこの部屋は密閉されていて、完全な要塞シェルターだけど、一条として光が差し込まないなんてことは、あり得ない。

 光の反射する余地のない暗闇の中ではどんな概念も漆黒に染まってしまう。即ち盲人と同等の状態になるわけだ。その時恐怖の感情は頭の隅から吹っ飛んで雲散霧消する、そして心がやがて静まっていく。

 薄暗がりを人間が恐れるのはそういう理由ことだ。

 想像の余地が生まれると同時に、化け物が産み落とされる。

 目の前に視えるのは自分自身の化身で――自己嫌悪の、権化、みたいなもので――

「きゃははははははは!!」

 少々すこし、狂ってきたか。

 調子が狂ってきたか。

 ――頭の螺子が、螺子が…………ぽろりと落っこちた。

 いいや、これは…………竜頭りゅうずか。

 ボクの頭部は――狂った時計…………?


  ****


 玄関の表札には「橘」とだけ、一文字記されていた。

 どうやら手書きのようで、家人の悪筆さが見て取れる。字が潰れてしまって、非常に汚らしい。

「…………」

 なんともお粗末な家である。廃墟の如き陰鬱さが、その場を占拠している。単に「場」が悪いのかと言えば、そういう訳ではないのだろうが。

 二階建てなので窓くらいめられていても不自然ではないだろうと高を括っていざ訪問したのであったが、しかして家の状態は予想を上回る酷さだった。

 屋外そとから見ても瞭然としている――屋内なかがどうなっているのかは、窓のひとつも据えつけられていないために全く判らないが……その設計だけでも、内部の異常さが滲み出ているような気がしてならない。

(こんな辺鄙なところへ、独りで来たのは迂闊だったな……)

 せめてもう一人友人でも連れて来させるべきだった。この愚行は、後に響くな、何となくそう思った。

 門戸に鍵はかかっていなかった。扉の開く音に、反応する気配は――現時点では感じられない。存在自体は感覚として捉えることが可能でも、その一挙手一投足を感知することができないのだ。

 うなれば違和感、異質感。曖々とした境界線がそこには浮かび上がっていた。

(輪郭が……混じる……)

 確認しなくとも二階にいることは自明であったし、追わずとも彼の現在位置は容易に知れた。

 黒白こくびゃくが馴染んで、灰色に変わっていく。まさに境界線ボーダーライン。黒色に染まった彼は、モノクロの世界に溶け込んでいる――

 廊下をしばらく進むと右手にきざはしが見えた。丁度大人一人が通れるぐらいの幅だ。恐らく、彼のいる部屋にはこの手段ルートで十分に到達できるだろう。

 そう確信する自分が、少しだけ恐くもあった。


  ****


 肉が食いたい。

 ボクは飢えているから、肉が食いたい。

 単純な生理現象だと甘く見ていると痛い目を見る。ボクはその被害者でもあり加害者でもあった。

 空腹は耐えようと思えば耐えられるけれど、それに甘んじている内は絶対に空腹の美味を忘れることができないのだ。空腹感は人間を堕落させる。より本能的な、より鋭敏な感覚を取り戻していく……。

 ボクは敗けつづけているのだ。なんとなく分かった風にそう悟った。

 打ち克つためには食う以外ない。たとえ食らうものがなくたって、たとえ躰(からだ)が動かなくたって、食うしか道がないのだ。

 ――ム、ム………………


  ****


 部屋は四部屋ある内の一つだった。

 当然の結果だ。

 自分専用の部屋を持ったことがないので、どういう外観をしているものなのかが、ごうほども想像がつかなかった。

(外観に法則性などないし、それに扉だけで外観と看做してしまうのは如何なものか――)

 唯一、扉が半開きになっている部屋があった。

 物音を立てないような静かな足取りで、真っ先にその部屋に辿りつく。

 開いた扉の隙間から中を覗く――すると。

「………………」

 無音且つ、無光である。但し、テレヴィが点いていた。古くのアーケードゲームのような映像が画面には映されている。

(おかしいな…………)

 明らかに不自然だった。確かにゲームをしているのに、そのブラウン管テレヴィには電源コードが一本も接続されていないのだから。

(そもそも、遊戯者プレイヤーが不在では、遊戯ゲーム自体が成り立たないはずだ)

 恐る恐る内部に入っていくと、ある真実が垣間見えてきた、ような気がした。

 テレヴィから少し離れた位置に、蓬髪の男が胡坐をかいていた。半開きの扉で、死角が生まれていたのだ。つまり、自分は扉を開け放った。

 男――否、その少年は微動だにせず、こちらには脇目もふらず、ゲームに熱中している――いや

(ゲームをしているのではなく、あれは只の映像……)

 眼はよく見えないが、辻褄を合わせるとしたら、それがこたえだ。一見ただテレヴィゲームをしているようだが、その実彼は、何もしていない。

 いいや、彼も彼とて何もしていない訳ではなかった。羽織っている甚平で見えにくいが、ちゃんと遊んでいる振りはしているようで――

 酷く湾曲した猫背で、肩と腕を大仰に揺らし、その双眸は画面の映像フェイクに釘づけになっている。

「…………あんたぁ何しに、ここにきたの」

 唐突に声をかけられる。どう返答すればいいか一瞬逡巡する。

「自分は……帰れないからここにいる」

「とりあえず座りなよ、そこにベッドがあるだろう……そう、そこ」

 依然として彼は画面をじっとみつめるだけで、こちらには一瞥さえしてこない。自分はというと、ベッドに腰掛けるでもなく床に座り込むでもなく、その地点にただ佇んでいるのみだった。

「……ん? いや、帰ればいいのに。ボクは何もしないからさ」

「ここでやることがあるんだ。君に関係することだし、だからこそ君が外せない」

「ボクに何の用があるっていうんだい。ていうか、そのスーツは何?」

「これは……、スーツなんかじゃあない。喪服だ」

「喪服……? 葬式じゃないんだから……あっ、――」

 その時になってようやく、こちらに顔を振り向けてくれた彼だった。こちらの意図に気づいたのか、憔悴の色を隠せないでいる。

「まさか……ここを葬儀場にするわけじゃあるまいね……?」

「…………」

 懐から匕首あいくちを無造作に取り出す――あくまでも冷静に、且つ迅速に。そして何よりも、殺意を以て――殺す。

「なっ何を血迷ったことを……してるんだっ」

 素早い足取りで瞬時に彼に近づいて。握った匕首を縦に振り下ろして。

「やっやめろォォッ!!」

 ――しかして彼の胸部を刺そうとした刹那、それは阻まれることになる。

「……うっ、…………はぁ、はぁ……」

 そこには――匕首の刃には、ただただ人間の左足が突き刺さっていた。


  ****


 なんで殺されかかっているのだろう。

 この僕が何故殺されそうになるっていうんだろう。

 今まで殺す側にまわっていたからか? 殺されるということへの認識が甘すぎた? それとも自分を過信しすぎたのか?

 ボクは少なくとも殺されはしない人間だ。

 何故ならそれをボク自身が知っているから。そのこと自体が殺されないことの証左になる。

 死にきれないと分かっていても、どうしても死にたくない。

 きっと神様が助けてくれるはずだ。どうせ死神は、ボクが請け負う役柄なのだろうから……


  ****


 左足からは血が出ていた。

「……っ!」

 どうやら彼が、手元にあった人間の左足で防御したらしい……そんなものが手元にあるのは、言うまでもなく異常だが。

 それはともかくとして。

 一体、誰の足なのだ、これは。

「――それ、食べる? 良かったらあんたにもあげるよ」

 虚ろな目で彼は言った。人が替わったように、別人格の如く、静かな声で呟いている。それは何なのだろう、狂っているのだろうか。……とはいえ渡されたものを持たない訳にはいかないので、必然的にその左足を受け取ることになる。

 だが彼はいまや正気ではないと思っていたが、どうやらそれは見当違いだったようだ――何せ渡された左足には、傷ができるほどの深い噛み跡が残っていて……つまり彼はたわむれに提案しているのではなく、正真正銘正気で自分にそう言っている、ということだ……。

 狂っている。正気ではないことを正気でやってのけるなんていうのは、

「……狂ってる」

「あれ、食わないの――? 確かに血抜きさえもしてないから、美味しくはないだろうけど」

 おもむろに左足を床に置くと、ごとりと重苦しい音がする。時間経過による死後硬直で、些か重くなっているのかも知れない。死体にしては臭いが酷くないので、まだ一週間も経っていないと見える。

「まあいいけれどねェ、ボクが全部、きっちり最後まで、骨まで食べてあげるから」

 彼はそう言うと、こちらの方にある左足を床を這って取りにくる。

 が。

 その時だった。

 見ると、彼の座っていた床には、黒い染みのようなものが……

「何なのそれは……ペンキ?」

 怪訝な面持ちで、彼に尋ねてみる。

「ペンキ……? 見れば分かるでしょ……? これは、血痕だよ」

 彼は明確にそう断言する。

(あぁそうか、酸化した血は比較的黒く見えるから……)

「眼がどこか悪いの? ボクが切断したんだから、当たり前でしょ」

 ……躊躇する時間はいくらでもあったけれど、それでも時間を無駄にしたくなかった。思い切って、手間を省略するのが、吉だと思った。

「いやね……自分わたしうまれつきの全色盲、、、、、、、、、でさ……視えないんだよ」

「…………え?」

色が視えないんだよ、、、、、、、、、。世界が白黒モノクロにしか、視えないんだよ――」

「それじゃ、今の今まで……」

「そうだね……加えて視力も極端に低いから、大変だよ。君の顔だって――眼鏡がなきゃ視えない。まあ、今は掛けてないけれど」

 直後、時間が停止した。常時色のない、静止した世界を見ているので奇妙な言い方にはなるが……でも、それでも決定的に意味が違うことは明らかだ。雰囲気、ムード的な一時停止が起こっている。そう感じた。

「――……あんたはつまり、アレか……? 顔も判然と分からなかった、にも関わらず……安易に赤の他人を、殺そうとしていたのか――」

 安易いいかげんでなかったら人を殺してもいいのだろうか、自分わたしは迂闊にもそう答えたのだった。

 そこが始点だった。不穏当な空気は、終了時刻を示していた。

「あ、危殆あぶなかった……殺されるところだった……こんな道理ワケの分からない女に平気で応対していたっていうのが信じられない! でも、ボクは死なないんだ……運命でそう決まってるんだ。それと、同時に、あんたがとても怖いよ――怖くて怖くて仕方がない、怖くて怖くて恐くて恐くて蠱惑こわく蠱惑こわく蠱惑的こわくてきぃっ……そしてボクがこわい――こわすぎるあんたを壊して殺してばらしてしまわないか、心配でたまらない!」

 鬼の目をしていた。彼の双眸には、相貌には、先程の面影など微塵も残っていない。鬼気迫る形相で、顔を引き攣らせながらめつけてくる。

 瞳孔そこには絶望やら諦観やら悲哀やらが満ち満ちていて、これ以上ないくらい人間らしいどろどろとしたかおに、変わっていた。

「壊さなきゃ、ダメなんだ――修復不可能になるまで損壊させなきゃ――」

 途端、視点が回転する――わたしを押し倒して、彼は覆いかぶさる。

「蹂躙しなきゃ――ダメなんだ」

「あっ――……」

 言って、後悔する。時間に無頓着だったとか距離感を間違えたとか、そんなことを今更のように脳裡に浮かべながら。

 ぼやけていた視界は、さらに朧げになって――ついには世界が霧散した。


  ****


 憎悪と厭悪で渦巻いている…………

 消え失せてしまえばいいのに。

 人間は人間だ。

 瞬間に消失するわけ、ないだろう。

 絶望して、現実に向き直る。

 吐き気がしそうだ。

 現実を見て絶望するのではない。

 吐瀉物エゴを見て絶望するんだ。

 そう……夢でさえ保たれなかった自我を……。


  ****


 部屋の一室には少年がいた。肉を食っている。

 人間の左足――誰のものなのかは不明だが、それを少年が食っている。

 がぶり、と噛みついて、離さない。そのまま彼の歯は食い込んで、皮を突き破って肉を断つ。

 そのかたわらには、躰中を掻き乱された、自分がいた。

(――犯された)

 少年は既に、自分への興味を失くしていたようで――とうもろこしでも食うかのように、必死で足を、かじっていた。

(まるで狂っているのだ、この世界は――)

 自分に起こった現象ことに悶絶する余裕も嗚咽する余力もなく、只々虚しいばかりだった。

 一体この少年は何なのか……化け物か、あるいはそれ以外の何かなのか……。

 正座をして、甚平を袖に通し、左足を一心不乱に食らっている。

(…………ん、……あれは…………?)

 傾いた視点に見えたのは、少年の、否――左足の、膝から先がなくなった、、、、、、、、、、少年の、後ろ姿。

(じゃあ、あれ、、は、いや、まさか……そんなこと、、、、、をしていたなんて)

 ――無音のテレヴィが煌々と光る中、部屋の中には少年の咀嚼音だけが鳴り響いていた。


(終)

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禍者の始祖 二谷文一 @vividvoid

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