第三十六話 小モルトケ、東部戦線への援軍派遣中止を決定
『これは戦勝ではなく、敵の秩序だった退却にすぎない。どこに戦利品や捕虜があると言うのだ?』
―エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン陸相、後に参謀総長(勝利に浮かれる第三軍司令部を見て)―
「やっぱり、閣下なら私とお会いしてくれると思っていましたわ」
「……それで、君達文民が何のようだね?いくら君が内閣の一員だとしても、本来ならばこのような会見の場を設けること自体ありえないことだ。たとえ君が国内の治安を司る内務大臣だとしてもだ」
「あら、冷たい。ありがたい忠告は黙して聞くべきよ」
「どういう意味だ!?」
「そのままの意味よ、モルトケ参謀長。忠告は黙して聞くべ――」
「だから、いったいど――」
「第二軍と第三軍から二個軍団を東部戦線に送るのはやめなさい」
「……!!」
モルトケは驚き黙るしかなかった。ヒトラーはわざとモルトケが激昂するように仕向け、突如として彼の核心を突いて機先を制したのである。予想もしていなかったヒトラーの言葉にモルトケは動揺する。口にすらしていない自分の考えをピシャリと当てられ、モルトケは一瞬思考停止に陥った。
そのさまを見てカラカラとヒトラーは嗤う。口元を長い袖で隠してヒトラーは嗤う。悪神嗤う。参謀総長の重責で神経が既にまいっているモルトケはヒトラーの態度に、敏感に反応した。
『主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい』
袖の奥で嗤い声と共に漏れ出るは旧約聖書の一節であった。元々文学青年であったモルトケは、聖書はもちろん一般教養として知っている。一瞬モルトケは、眼前の底意地悪い小娘に畏怖と尊敬を抱きさえした。
「なぜ……そのことを知っている…………?」
掠れ、掠れ、なんとかモルトケは声を振り絞る。
『数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる』
「なっ、なんでも知っているとでも言いたいのか!!」
「何でもは知らないわ。ただ起こったことだけを知っているだけよ」
「何を!何を言っているのだお前は!!」
「事実を、真実を、歴史を、私は言っているだけよ。歴史は何をすべきかは教えてくれないが、何をしてはいけないかは教えてくれるわ」
モルトケは押し黙り、それ以上ヒトラーと対話するのをやめた。会話を諦めたのである。ヒトラーの言葉はマトモな人間であれば、誰しもが気が触れている発言だと思っただろう。しかし、モルトケにはそうは思えなかった。対話は諦めたが、何か引っかかるものを感じた。啓示、直感、勘。それら諸々の得も言われぬ何かをモルトケは感じた。そして、その『何か』をモルトケに抱かせた時点でヒトラーは目的を完遂していた。
最後に一言、トドメの一言を残してヒトラーは去る。
『汝のすばらしい叔父ならば、余にそのような答えをすることはなかっただろうに』
開戦直前、
モルトケは彼の甥であった。偉大な叔父と比べられる矮小な自分。ヴィルヘルム二世が自分を参謀総長の任に就けたのは、自分の能力からではなく『モルトケ』という名前を欲しがったからであることを、モルトケは十分よく知っていた。ヒトラーのこの一言がモルトケを決心させた。二個軍団を東部戦線に送ることをモルトケはやめにしたのである。
(私は凡才だ。いや、愚将だろう。私にできることは何もない。独創的な計画を発案するのは無理だ。私に出来るのは計画を修正することだけ……)
『かならず戦争になる、絶対に右翼を強化せよ』。シェリーフェンの遺言が頭に響く。
(しかし、シェリーフェン閣下。貴方の計画には欠点があった。貴方はあまりにも補給事情を無視しすぎている。右翼に戦力を集中しても補給が追いつかない。ましてや中央部がガリアの猛攻に晒された場合、右翼は孤立してしまう。できるだけ現実的な数を右翼に残し、中央を厚くするしかない。そうしてしまえば、ガリア軍を一網打尽にするような大包囲は不可能となるだろう。なれば、右翼がガリア軍を小包囲して多大な損害を与えるしかない……)
コンコン――幕僚の一人がヒトラー達と入れ違いに部屋へと入ってくる。
「総長閣下。モンス及びシャルルロアで抵抗していたガリア軍とブリタニア軍は敗走。我軍の勝利です」
「戦果は?」
「はっ。モンスとシャルルロアを奪取しま――」
「違う。都市の攻略などどうでも良い。奴らを撃滅したかどうかを聞いているのだ。どれだけの損害を我々は与えたのか」
「……敵軍の実質的な損害はそこまで大きくはありませんが、おそらく潰走しているので継戦能力は喪失しているかと」
「どうして……どうしてそんなことが言える!?」
モルトケは突然、幕僚の胸ぐらをつかみ詰問する。
「その根拠は何だ!!」
「参謀本部の同僚の殆どがそう言っています……」
幕僚の答えを聞くと、モルトケは掴んでいた胸ぐらを離した。幕僚を押しのけ、廊下を通って作戦室に押し入る。
すると、そこでは信じられない光景が広がっていた。幕僚がシャンパンを飲んでいたのである。部屋に満ちる香ばしい匂いは、そのシャンパンが最高級品であることを証明していた。凄まじい形相で入ってきた参謀総長に一瞬、幕僚たちはたじろいだが、すぐに気を取り直す。
「参謀総長閣下。勝利ですぞ。勝利のシャンパンは如何でしょうか?」
幕僚の一人はモルトケにシャンパンを差し出す。モルトケを怒りが襲った。差し出されたシャンパンを手で払い、拒絶する。そして、重い沈黙の中モルトケは激昂した。
「奴らは壊滅などしていない!奴らは潰走などしていない!!奴らは撤退しているのだ!!撤退だぞ、撤退!!それが何をするか分からぬのか諸君は!!??」
「モルトケ閣下。一度敗走した軍隊など恐るるに足りません」
「そうですぞ、閣下。現に彼らは撤退を続け、反撃する素振りすら見せておりません。三日三晩追い立てられ続けた敗北兵が、余勢を駆る我らに勝てるとは思いませぬぞ」
「……諸君は、何も。何も分かっていない。戦争が何なのか全く分かっていない。戦争は机上だけで行われるものではない!帳簿とにらめっこするだけが戦争ではない!!奴らは中世の傭兵などではない!国民から成る軍隊なのだ!!国を荒らされた国民が、そうやすやすと敗北するものか!!ナポレオン戦争でなぜガリア軍が欧州を席巻したか分からぬ諸君らではあるまい!?奴らはその子孫なのだぞ!?絶対に、絶対に奴らは立ち上がり、反撃してくる!!」
モルトケの剣幕に参謀達は動揺した。
敵の退却は聖典であるシェリーフェン・プランが示した予言のはずであった。彼らは参謀総長のナーヴァスな精神が遂にその重責に耐えられなくなり、崩壊したのではないかとさえ勘繰った。敵の退却は栄光ある勝利を確実にするものであった。それは福音であり、決して黙示録のラッパを意味するのではなかった。
モルトケは慣れない大声を出したせいで、大きく肩で息をする。憔悴しきった様子でヨロヨロと近くの椅子にへたり込んだ。虚ろに開かれた眼孔からは最早生気は感じられない。参謀たちはモルトケに声をかけることさえままならなかった。どのように声をかければ良いものか。参謀たちの間に困惑が広がる。
『捕虜はどこにいる。捕獲した大砲はどこにある』
モルトケはどんよりとした瞳で参謀の方を見ながら、そう呟いた。そのつぶやきは弱々しい声で、そしてどうしようもないほどの絶望感に彩られていた。
モルトケは叔父ほど優秀ではないにしろ、決して無能ではなかった。確かに精神力という面では指揮官としては不適任ではあったが、軍略家としては十分なほどの才覚を備えていた。それだけに、モルトケは悟っていた。
(敵の殲滅に失敗した現在。必ず反撃が来る。反撃に耐えられなければ、我が帝国は終わりだ。シェリーフェン・プランの失敗。それは長期戦への移行を意味するだろう。膨大な人命と資源の集中。おびただしい血と鉄が戦場に焚べられる事となる。私はこれから起こる全てのおぞましい悪夢に責任がある。逃げられない。逃げられないのだ。恐ろしい。嗚呼!恐ろしい!!)
モルトケは大戦争が長期戦に移行する可能性に感づいていた数少ない一人であった。優秀であればあるほど、大戦争は地獄と化す。彼は地獄が今まさに眼前に広がっているかのような錯覚を覚えた。
静まり返った作戦室に、一人の伝令が入ってくる。手には電報が握られていた。場の空気を察して、おずおずとモルトケに電報の内容を伝える。
「閣下。実は大変申し上げにくいことなのですが、陸軍省の一部と政府から東部戦線へ援軍を送れと圧力が――」
「断固として拒否しろ。気にするな。ルーデンドルフに全て任せろ」
「しかし……」
「……くどい。私は疲れた。何かあったら呼んでくれ」
「……はっ」
モルトケは気落ちした様子でふらりと立ち上がり、作戦室を後にした。威厳なき参謀総長。彼の両肩には責任だけが重く伸し掛かっていた。彼はまるで、刑が執行されるのを静かに待つ受刑者のようであった。どう足掻こうが状況は好転しない。彼に出来ることは待つことだけだった。
逃げられない。たとえ参謀総長の任から降りたところで、歴史の断頭台はモルトケを逃しはしないのだ。なぜならこの大戦争は今後一世紀を決定するからである。
モルトケの喉元には一世紀分の嫉妬、怨嗟、苦しみ、憎悪、暴虐と虐殺――それら全ての悲劇に対する責任が突きつけられていた。
斯くして、モルトケはヒトラーと会談。ヒトラーの啓示的な説得により政府の圧力を拒絶し、東部戦線へ二個軍団派兵を中止する。その二個軍団は史実で生じるはずの第一軍と第二軍の間に間隙を埋めることとなるのである。
ヒトラーの言うところの『不確定要素』の策動によって史実が改変される。史実通り、モルトケは歴史の断頭台の露と消えるのか、それとも史実を離れて英雄となるのだろうか。
☆☆☆☆☆☆
・ちょっとした小話
『汝のすばらしい叔父ならば、余にそのような答えをすることはなかっただろうに』
この言葉はこのライトノベル中では大幅にカット、再編成してしまった七月危機の最中に述べられたものです。七月危機中は非常に錯綜した外交が行われてまして、電報の応酬が繰り広げられていたました。
バンバン電報が飛び交いあう中、八月一日(ドイツが総動員を発令した日)に駐英大使から驚くべき情報がもたらされます。「ドイツがフランスを攻撃しなければ、イギリスは中立を確約する」、と言うものだったのです。
これにドイツ首脳部は大慌て。おい、待て。ロシアに宣戦布告+総動員しちゃったぞ。どうすんだよこれ。焦燥と混乱がドイツ首脳部を襲います。首相のベートマンと皇帝ヴィルヘルム二世は「フランスに対する軍事行動を停止せよ」と主張。一方、小モルトケは「そ、それは自殺行為であります!!無防備な背中(ロシアとは戦争状態にありますから、フランス側が無防備になる)を晒すわけにはいきません!!」と唇を震わせながらヒステリックに叫びます。
駐英大使はその後、英外相グレイと話し合ってイギリスの中立条件を纏めます、と知らせます。まだ意見がまとまらないドイツ首脳部。その時、発せられたのが『汝のすばらしい叔父ならば、余にそのような答えをすることはなかっただろうに。余が命令すればそれは可能とならねばならぬ』という侮蔑的な言葉でありました。
ところが、そうこうなんやかんやで大慌てだったドイツ首脳部にイギリスからまたもや電報が飛んできます。この電報にドイツ首脳部は唖然とします。電報の中身は以下の内容でした。
・イギリスの中立条件を提示せず
・フランスと軍事的な『睨み合い』を続けることが可能かどうか質問
・ベルギーに侵攻したらイギリスは絶対宣戦布告してやる
といった内容でした。ドイツはそんなん無理ですがなと、激昂します。なぜなら、「フランス・イギリスはドイツの後ろを刺しません」と確約してないからです。絶対ロシアを攻めたら後ろを突いてくるに決まっています。イギリスはまだしも、アルザス=ロレーヌ地方をドイツに取られているフランスは普仏戦争の仕返しを絶対にしてくるでしょう。また、この電報はイギリスの狡猾さもにじみ出ています。『睨み合い』。この語が意味するのはつまり、ドイツにはロシアとフランスをどちらも相手取って自滅してほしいという魂胆です。
カイザーは時ここに至って、事態の収集を断念。深夜にモルトケを宮殿に呼び出し、こう告げました。『さあ、そなたはしたいことができる』。
斯くて八月二日。ベルギーに自由通行の許可を求める最後通称を送付。翌三日午前十一時前、ベルギーはこれを拒否。同日午後五時半、ドイツはフランスに宣戦布告することになるのです。
ところで、やっとこのライトノベルの主題の一つである、『理性とはなにか?』につながる描写ができました。
非常に難しい話がこれから続く部分があると思いますが、読む分にはサラリと流してくれてかまわないです。終盤で全ての情報を開示していくつもりですので、完全に理解しなくても大丈夫です。ワクワクしてくれたら、十分です。
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