第三十四話 タンネンベルクの戦い

『マルヌ川の場合と同じく、有名なタンネンベルクのドイツ軍大勝利の話も、伝説的過失の記念碑である。なぜなら実際のところこの記念碑は、泥の台座の上に伝説で上塗りした木製の像が立っているにすぎないからである』

                    ―リデル・ハート『第一次世界大戦』―


 ガタンゴトン、ガタンゴトン――

 軍事特別列車が、ゲーマルトを西から東へと横切ろうとしていた。列車の中、目張りをされた車窓の前で一人の女と一人の男が向かい合って座っている。机の上には給仕室から持ってきた珈琲が、まだ温かい湯気を昇らせていた。女は珈琲にありったけの砂糖を入れ、スプーンでそれを混ぜた。一方、男は微動だにせず、その様をただ眺めていた。

「なんだね?レオンくん?」

 女は醜悪な笑みをこぼして聞いた。

「いえ、あまり珈琲は好かないもので、ルーデンドルフ閣下」

「そうか」

 あまり興味もなさ気に、ルーデンドルフは小さく呟いた。レオンはその様を見て不安にかられる。

(……罵倒するかと思いきや、そんなことはなかった。いつもなら「なんだ。珈琲すら飲めないのか、この餓鬼め」ぐらいは言ってのけるのに)

 レオンはいつもと違うルーデンドルフをみて、なんだか気味が悪くなる。

「……まったく、厭な役目を押し付けられたよ」

 怨めしそうにルーデンドルフはまた呟く。

「はぁ」

「西部戦線の何処かならまだしも、東部戦線に回されるとは……」

「嫌なんですか?」

「考えても見給え、レオンくん。シェリーフェン・プランはルーシアなんか放っといてガリアを先に撃滅する計画だ。ということは、必然的に東部戦線は使える兵力が少ない」

「……心中お察しします」

「私がまだ参謀本部でエリートコースを歩んでいる時に、シェリーフェン伯爵と作った計画だからな。どこがババを引くことになるかはよく分かっている」

 ルーデンドルフはシェリーフェン・プランの生みの親の一人であった。必然、シェリーフェン・プランでどこが一番辛い思いをするかは知っていたのである。

「どうにもならないのですか?」

「どうにもこうにもならんな。予定よりも遥かにルーシアの動員が早かった。少ない手持ちで一発逆転の包囲殲滅戦に賭けるしかなかろうよ」

ズズッ――大きな音を立ててルーデンドルフは珈琲をすする。全兵力の九割が西部戦線に配置されている以上、東部戦線で使える兵力は雀の涙ほどであった。

「階級が足りませんと、モルトケに言ったが聞き入れてはもらえなかった」

「それで代わりにヒンデンブルク閣下を名目上の上司としてつけると言われたのですか……」

「今頃化石のような爺を出してきた所で使い物にはなるまい。実質的な権限は私にある」

「事実上の昇進ですね」

「まったく嬉しくはないがな」

 会話が途切れる。重苦しい空気が場を包んだ。レオンは場の空気に嫌気が差して、ヒンデンブルクのことを思い出そうとする。

(パウル・フォン・ヒンデンブルク。一時は陸相の地位に推挙されようとしていたほどの傑物だった。まぁ、しかし。それは昔の話だ。今はもう引退して片田舎で気ままな隠遁ぐらしをしていたと聞いている。それがどうしたことか。東部からルーシア軍が迫ってきていると言うので、駄目駄目な第八軍の司令官が解任。可哀想なことに、その後釜に予備役のヒンデンブルクが収まったのだ。もちろん、第一線から外れて久しいヒンデンブルクに指揮をとるのは無理だ。そこでこの厭らしくて、ヒステリーで、婚期を逃した年増女が第八軍参謀長にめでたくご就任というわけだ)

「おい、絶対今私の事を馬鹿にしただろ?」

「はぁ、なんのことでしょうか?」

 レオンは急に話しかけてきたルーデンドルフに不意をつかれた。

(なぜ、バレた)

 レオンはルーデンドルフの察しの良さに身震いした。

「君は癖がある。私のことを馬鹿にした時、いつも口角が三度ほど上がるんだよ。気づいてなかったかね?」

「……これは大変失礼いたしました。そのようなこと露程にも気にしては――」

「――ばかめ。嘘だ。カマをかけただけだ。上官侮辱で営倉送りにしてやろうか??」

「なっ……」

 レオンは内心グツグツと煮えたぎる思いを抑えるので精一杯だった。まんまとかけられたカマに引っかかった自分に心底ムカついた。

(悔しい!!!本当に悔しい!!!糞め!!!死んでしまえ!!!!)

「――失礼します」

 レオンとルーデンドルフのいびつなコミュニケーションに衛兵が割って入る。

「魔法兵からの伝令です」

「ご苦労。下がって良いぞ」

 厳封指定された指令書は第八軍から発せられたものだった。ルーデンドルフが封を割いて中身を見る。数枚の紙片をパラパラとめくって一瞥する。

「ほぅ……」

「どうかなされたので?」

「第八軍には誰が居るか知ってるかね??」

「確か第八軍には閣下と同じ時期に参謀本部にいたマックス・ホフマン中佐殿が作戦参謀として務めていたかと……」

「ふふふ……君は暗記科目ならやっぱり得意なようだな」

 ルーデンドルフは作戦書をレオンに突き出した。

「失礼致します」

「ホフマンは私と同様に優秀な人間だ。ちょっとオイタが過ぎて、これまた私と同様に左遷された人間だよ。扶瑠戦争で観戦武官として扶桑の……えーと確か黒木為楨クロキンスキーとかいう奴についてたらしい。対ルーシア戦のスペシャリストだ」

「はぁ」

 ルーデンドルフの言葉を空に流しながらレオンは作戦書をめくる。そこには東部からスチームローラーの如く押し寄せるルーシア軍の動向が非常に詳細に書かれていた。

「これまた、すごい。殆どルーシア軍の作戦が筒抜けではないですか。ホフマン殿は占い師か何かでしょうか?」

「はぁ……。これだから君は私のような左遷された人間のお付なんかしてるんだ。まったく。三枚目を見ろ、三枚目を」

 レオンはペラリと二枚目をめくって三枚目を見る。

「……まじですか?」

「マジだ」

「ルーシア軍ってここまでダメダメでしたっけ?」

「むしろゲーマルトの将校団が優秀すぎると言うことも出来る」

 なんと、三枚目にはルーシア軍の完全な電報が載っていた。つまり、ルーシア軍の動きを第八軍は完全に掴んでいたのである。

「平文で電報って……。うちの士官学校一年でもこんなことしませんよ……」

「同数の兵力なら一年生でも良い勝負するかもしれんな」

「ありえますね……って。この作戦計画、すごい大胆ですね」

 ペラペラと更に作戦書をめくってレオンは驚愕した。走り書きされた矢印が地図の上を縱橫に走っていたのである。

「鉄道を活かした包囲殲滅だ。西部戦線のように戦場が狭かったらできない戦術だよ」

「え―っと……。軍を多い方と少ない方の二つに分けて、ルーシア軍AとBのそれぞれに当たらせる。というのが作戦のあらましですね」

「幾つかの修正点がある。まず第一に、ルーシア軍Aの動きは鈍い。少ない方は更に戦力を削って、第一騎兵師団だけをA集団の前に置いとけば大丈夫だろう」

「一個軍に対してたった一個師団で当たらせるのですか……?」

「『集中の原則』。士官学校で耳にタコが出来るほど聞いたはずだ。まぁ、時にはこの原則を破らないといけないわけだが、今回は原則通りにやる」

「はぁ……では浮いた戦力はどうするのですか?」

「多い方を更に増強して、B軍に注ぎ込む。第二十軍団、第一軍団、第十七軍団を全て費やせば、恐らくB軍は慌てふためいて自爆するだろう。なにせ、自軍の正面に三個軍団がいきなり現れるからな。上手くいけば両翼包囲の完成で大打撃を与えられる」

「それでB軍を撃滅。返す刀でA軍を撃退ですか……」

「その通り。自分の才能に畏れすら感じるよ」

「なんとアクロバットな作戦……」

「世界でゲーマルト軍しかなし得ない高機動作戦だ」

「成功するでしょうか?」

「成功する。間違いなく」

 キーッ――!!甲高い声が鳴り響く。汽車がハノーヴァーのプラットホームに停まる。

「着いたか」

「そのようで」

 情報統制が敷かれ、殆ど人が居ない駅のプラットホームに二人は降り立つ。二人の前には、旧式の軍服に身を包んだ老人が立っていた。恰幅が良いその老人の表情は深い皺を湛え、いかにも偏屈爺の雰囲気を放っている。レオンは気後れしたが、ルーデンドルフはその雰囲気を物ともせずに、否、むしろ対抗して傲岸不遜に顎を上げてみせた。

 見た目では、殆ど親と子どもぐらいの差があった。舐めるように見つめ合う二人。その様は、双方が相手のことを品定めしているようであった。どちらが先に口を開くことになるのか。レオンは気になって仕方がなかった。二人の間で暫しの沈黙が流れる。すると、ここでレオンにとっては以外にもルーデンドルフが先に口を開いた。

「お初にお目にかかるヒンデンブルク閣下。このような所で無駄話をしている暇はございません。どうぞ列車の中に。作戦書が届いております」

「お初にお目にかかるルーデンドルフ参謀長。いかにもそのとおりだ。どうかよろしく頼む」

 レオンは、二人が認めあったのかどうかはわからなかったが、案外これはうまくいきそうだなと思った。我儘で、ヒステリーで、野心家のルーデンドルフすら包み込むような寛大さをヒンデンブルクからレオンは感じ取ったのである。

 列車の中に入ると、二人は直ぐに今後の対応を話し合った。

「既に現地のホフマンによって原作戦は下命されておりますが、この修正案をもう一度ヒンデンブルク閣下及び私の名で命令を再発行しましょう」

「……ルーデンドルフ閣下。畏れ多くも小官、一度出た命令をここで変更するのはいたずらに指揮系統の混乱を招くことにはならないのかと、たった今愚行したのですが」

 レオンがらしくもない疑問を口にすると、キッ――と、ルーデンドルフの鋭い眼光がレオンを貫いた。罵倒される。レオンはそう思ったが、次の瞬間口を開いたのはヒンデンブルクだった。彼はしゃがれた声で答える。

「そんなに我がゲーマルト軍の指揮能力は貧弱ではない」

「……出過ぎたマネを。どうかお許し下さい」

「ヒンデンブルク閣下。どうか、この莫迦な部下のことを許して下さい。こんな単細胞並みの脳細胞しか持たないコイツでも可愛い部下なのです」

(そんな、悪くない着想だと思うのだけどなぁ……)

 一瞬、レオンは少し傷ついた。

「いや、別に気にすることはない。君の部下は部下としての役目を果たしている」

(え、ヒンデンブルク閣下。お優しい………)

「フンッ……レオン!!ほらっ、感謝しとけ!!」

「……ありがとうございます」

「うむ、これからも精進するように」

(ヒンデンブルクお爺ちゃん大好き!!!!)


 斯くて、リエージュ要塞攻略の英雄ルーデンドルフは西部戦線から東部戦線へと戦いの場を変える。この少し後、ルーデンドルフはホフマンの計画に沿ってルーシア軍をタンネンベルクで粉砕。ルーシア軍は東プロイセンからの撤退を余儀なくされる。

 ルーシア軍は五万人が死傷し、九万二千人が捕虜となった一方で、ゲーマルト軍の死傷者は一万から一万五千人であった。さらにルーシア軍第二軍(上記B集団)に話を限るのであれば、総員十五万人の内残ったのは一万人ほどだった。また、ルーシア軍第二軍の指揮官サムソノフは自決した。

 文字通り『歴史的な』ゲーマルトの大勝である。この戦いは後に『タンネンベルクの戦い』と称せられ、指揮官のヒンデンブルクとルーデンドルフの名声は一挙に高まった。ルーデンドルフはこの勝利により、軍事的天才の名をほしいままにし、国民的英雄と崇められることとなるのである。

 東部戦線ではルーシア軍に快勝したゲーマルト軍であったが、西部戦線では当時としては有史以来、最大の陸戦が行われていた。『マルヌ会戦』。大戦の行末を決める決定的に重要な戦いの帰趨はどうなるのか。歴史は果たして変わるのだろうか。


☆☆☆☆☆☆☆

・ちょっと小話

 どうも、皆様。コメンタリーでお会いするのはお久しぶりですね。

 さて、今回は『タンネンベルクの戦い』についてちょっと小話をしようかと思います。この『タンネンベルクの戦い』によってルーデンドルフとヒンデンブルクは全ドイツの英雄となるわけですが、実はルーデンドルフがいなければもっと決定的な勝利をドイツは得られたのではないかと言われています。

 ルーデンドルフが第八軍に着任する時、既にホフマンによって作戦は殆ど発布されてました。しかし、もともとの第八軍司令官であったプリュットヴィッツの指揮系統を断ち切るために、ルーデンドルフは第八軍麾下の各軍団に、「俺が着くまでそれぞれ独自に行動せよ」とかいう電話をかけました。そこで第一軍団と第十七軍団はこの命令を盾にして、一日休息を取ったのです。

 しかし、それがいけなかった。その一日の遅れが、後々響いて、完全な両翼包囲の完成を阻むことになります。

 さらに、偶然にもルーデンドルフは助けられます。ロシア軍第二軍(上記ではB軍)はサムソノフの命令で両翼が包囲されかけているのにも関わらず前進命令を出し続けました。このロシア軍中央の怒涛の前進に一時ルーデンドルフは怖気づきます。そこで第一軍団の指揮官フランソワにロシア軍中央を裏から攻めろと救援を求めるわけですが、以外にもフランソワ。これを無視。フランソワはロシア軍の後方に塹壕を掘った陣地を設営しつつ進軍しました。時間が少し立ってロシア軍の攻勢が頓挫すると、ルーデンドルフは落ち着きを取り戻して第一軍のフランソワにそのままそこで陣取れと司令を出します。

 そんなこと言われなくてもわかってるわい、としたり顔のフランソワ。退却してくるロシア軍はフランソワが築いた防御陣地に退路を絶たれて敢え無く降伏しました。

 ロシア軍のサムソノフが現状判断を失敗したこと、そしてフランソワが命令を無視したおかげでドイツ軍は大勝したのです。けっしてルーデンドルフが一から十まで全て仕組んで勝ったわけではないのです。というわけで、上記のレオン君の具申は実は間違ってませんでした。因みにレオン君はオリキャラです。

 まぁ、だからといってルーデンドルフが無能であるというわけではありませんが、歴史というのは案外こんな感じに運と精神的要素で決まったりするのです。特に軍事ってそういうことよくあります。そういう意味では攻勢精神を唱えたフォッシュがある面では正しかったり……。たぶん、リデル・ハートが間接アプローチ戦略を唱えるに至ったのは、こういう軍事史の分析を基礎としているのでしょう。軍事は人によって行われる以上、人の精神に軍事は時として左右されるというのは動かし難い史実なのです。

 また付言すると、この時見せたルーデンドルフの情緒不安定さはドイツにとって大きな失敗をもたらします。それは大戦が終わる一九一八年、ドイツ軍の最終攻勢で発揮されることになるのです……

 

 あと最後にですが、できるだけ近日中に軍の動きとかを書いた地図を「小説家になろう」に載せようかと思っています。お楽しみに。では、また今度。

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