第三十三話 シャルルロアの戦い・モンスの戦い 5/5

『この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること……これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である』

                ―マックス・ヴェーバー『職業としての政治』―


「ランレザック閣下。悪い報告です」

 ランレザックの副官は重い口を開いた。

「なんだ?」

 副官を睨みつけ、ランレザックは答える。

「アルデンヌで攻勢に出ていた第四軍の攻勢が頓挫したようです」

「そうか……」

 力ない声でランレザックは呟く。その姿を見て副官は胸が苦しくなった。

 ガリア軍上層部の不評を買いながらも、ゲーマルト軍の主攻がフランドル方面であることを進言したランレザック。そんな彼を、副官は誇りに思っていた。しかし、彼の置かれている今の境遇を見て、酷く不憫な気持ちに駆られた。

 そして、副官は己の運命を呪う。なぜなら、更に悪い報告をランレザックにしなければならなかったからである。

「もう一つ悪い報告があります。右翼第一軍団の眼前でゲーマルト軍が遂に渡河に成功したようです」

 唯一戦いを優勢に進めていた右翼第一軍団の眼前で、ゲーマルト軍が橋頭堡を確保。その報告にランレザックは大きな衝撃を受けた。

「……ゔっ」

 一瞬、喉が詰まる。激しい頭痛が彼を襲った。世界が廻り、視界霞む。

「……どうか閣下、ご指示を」

 現代の戦争は優秀な指揮官ほど過酷である。なぜなら、優秀な指揮官というのは、想像力が旺盛だからだ。想像力が乏しければ乏しいほど、戦場を経験しないので気持ちは楽である。しかし、想像力が旺盛な人間はそうはいかない。優秀な人間ほど責任感と良心の呵責に耐えられなくなる。先を見通しても、見通しても。待っているのは地獄なのだ。

 ランレザックは分かっていた。自分の双肩にガリアの未来が左右されるということに。勿論、その未来というのはこの戦争の帰趨だけを指すのではない。この場合の未来とは、今後一世紀のガリアの未来を指していた。

(……もはや、ここの維持は不可能だ。モンスで戦ってくれているフレンチには悪いが撤退するしかない。しかし、我々が撤退するということは、つまりプラン17の失敗を意味する。短期決戦の試みは破られたのだ。ここで……仮に。仮にだが、我軍が戦線を整理し、反撃に成功するとする。そうなったら待っているのは泥沼の消耗戦だろう……そうなったらどうなる?ガリアはどうなる?)

 ランレザックの脳裏を最悪の事態が駆け巡る。

(ナポレオン戦争で失った大量の人口。その傷はまだ癒えていない。それで持久戦なんてしてみろ。ガリアは第一線級の大国から滑り落ちることになる!!いや、ガリアだけではない!!欧州そのものの地位が失墜することになるのではないか!?)

 想像力が豊かで、そして哀れな指揮官は最悪の結末にたどり着いた。実際、その想像は史実を大まかではあるがなぞっていた。

 欧州の相対的な地位低下。それとは逆に、大西洋を挟んで欧州に位置する「彼の国」と、地球の裏側に位置する「島国」が新たに第一線級の大国として姿を現すのではないか。「島国」の方はまだしも、「彼の国」が世界を席巻することになるのではないか。

 最悪の可能性に思い至った時、ランレザックはそれ以上考えるのをやめた。

「全軍撤退せよ」

「しかし、参謀総長ジョフル殿がお許しになるかどうか……」

「事後に報告する。私の独断だ。ここを第二のセダンにする訳にはいかない」

(……そうだ。第二のセダンにするわけにはいかないのだ。私は軍人だ。祖国の勝利のために全身全霊を尽くす義務がある。たとえ、その行動が我らの子や孫に禍根を残すことになろうとも)

 『禍根』。それは果たしてガリアの国力低下のことを指すのか、欧州の衰退を指すのか。それとも――来るべきのことを指すのか。勝利は次の戦争を呼び寄せる。敗北も同様に、次の戦争を呼び寄せる。戦争は結局、戦争を呼び寄せる。

 ランレザックはそのことを理解していた。普我戦争で奪われたアルザス・ロレーヌを巡るゲーマルトとの対立。それが今回の戦争の遠因であることに思いを致せば、勝利しようが敗北しようが待っているのは薄暗い未来であった。


 一方、ガリア第五軍が撤退との報告を聞いてモンスにいたフレンチは狼狽した。

「な……撤退!?撤退だと!?勝てる戦いだぞ!?」

 取り乱すフレンチの正面で一人の女が涼しい顔で答える。

「仕方がないでしょう。ゲーマルトの圧力に屈しきれなくて当然です。なんせ我らの正面には三倍以上の敵が控えているのですから。それに、我々も消耗しています。これ以上の前進はいたずらに損害を増やすだけです、閣下」

「……残念だ。私達がもうあと一軍団ぐらいの兵力があればもっと戦果を拡大できたであろうに」

(――それは、どうだろうか?)

 春菜はフレンチの意見には賛同できなかった。

(……敵の指揮官は有能だ。もし、あのまま進軍を強行していれば今頃ゲーマルトの第一軍は空中分解していてもおかしくはなかった)

 春菜は敵の指揮官、つまりクルックのことを高く評価していた。なぜなら、彼は初めて見るであろう新機軸の戦術に、考えうる中で最適の解を出したからである。

 浸透戦術の骨子は指揮系統の破壊による敵の各個撃破にある。つまり、浸透戦術による攻撃を受けている中で、進軍することは自殺行為に等しい。それは、傷口をさらに広げるような行動であった。クルックはガリア軍中央の後背にまわるという戦略目標を捻じ曲げてまでも撤退し、第一軍を守ることを選んだ。非常に難しい取捨選択であったはずだが、彼は正解の選択肢を選んだのである。豊かな経験と、確かな知識に裏打ちされた見事な指揮であったと春菜は評価せざるを得なかった。

(撤退されたせいで、浸透戦術の衝撃は相殺された。ここで無理に我々が出ても下手すれば返り討ちに合うかもしれない。そのような博打は避けるべきだ。シャルルロアからガリアが撤退してくれて助かった。これでフレンチは退かざるをえない)

 シャルルロアからガリア軍が撤退するという報告を受け、実は春菜は内心、ホッとしていた。フレンチがモンスから撤退せざるを得ないからである。

 斯くして、モンスで遅滞戦闘に励み、敵第一軍の先鋒部隊を叩くという戦略目標を春菜は達成できたのだ。

 しかし、ここにおいて、新しい問題が浮上した。

(さて、困ったものね。このフレンチは)

 問題は、フレンチの性格にあった。想定よりもフレンチの精神が強固であったのである。春菜は当初、できるだけ自分が権限を握る形でブリタニア海外派遣軍を連合軍に組み入れることを画策していた。その際、フランドル軍を組み入れることも計画の上ではあった。しかし、流石にアルベール一世には吸血鬼の「魅了」が通用しないと思われた。そこで、列強各国の軍指導者の中で一番精神的に弱いと思われたフレンチに「魅了」を仕掛け、実質的な指揮権を連合軍に移譲しようと思っていたのである。

(誤算だわ。史実のフレンチなら大丈夫だったが、このフレンチは史実と違うようね。ジョフルほどではないが、だからといって言いなりになるほどでもない。まったく。いっそのことやってしまおうか……)

 目的のためには手段を選ばない。権謀術数主義マキャベリズム。春菜は現代日本の倫理観を持っていながら、目的のためなら非情な手段を使う覚悟があった。デーモンとの契約を、春菜はもう既に済ましていたのである。

(いえ、それは何ら問題の解決にはならない。仮に殺ったところで次出てくるのはどうせダグラス・ヘイグだ。彼には「魅了」なんて一切かからないだろうな。最高指揮官が立て続けに二人死ぬのは流石にブリタニア政府に目をつけられる。仕方ない。諦めるしかない。そうと決まれば……)

「我々も撤退しましょうフレンチ元帥閣下」

「あぁ、そうだな。今回の助力、感謝する。お陰で二個連隊の命は救われた。そして、これからもよろしく頼むぞ、ワラキアとガリアの連合軍諸君」

「えぇ、ご期待下さい。我々連合軍は現時点では世界最強ですので」

「まったくだ。ガリア軍のような腰抜けどもは信頼におけん」

(フレンチのガリアに対する不信感はこの世界でも健在……か。史実と所々ズレていながら結局、歴史は歴史通りに進行している。歴史の強制力運命が働いているとでも形容すべきか……)

と、その時。ある男の声が春菜の脳裏に響く。

(「生徒諸君。歴史というものは、分析と物語とが複雑に織りなされたものである。ヘーゲルやマルクスのように、弁証法的な発展過程として歴史を理解しようとするのは間違いであり、ましてやカルヴァンのように運命という言葉で歴史を還元するのは断じて避けなくてはならない。つまるところ、歴史の強制力などという言葉は、一種のまやかしでしかない。歴史は後世の歴史家達の分析と今生きている個々人の物語とによって不断なく織りなされている。歴史は決して、何某なにがしかの目的へと向かって発展しているわけではない)

(……ふふっ。まったく、あの男もいいことを言うものだ。そうだ。歴史というのは何かの目的に向かって進行しているわけではないのだ。考えても見ろ。水面下では大きな変化が起きているではないか。『核分裂のメカニズム』。物理学、工学上の幾多の障壁を乗り越え、この世界の人類は神の光を早くも手に入れようとしている。忌々しい魔女め。そこまでして世界を滅ぼしたいか)

春菜は下唇を噛む。

(……まだ『絶対兵器』の登場は遠い。早く、なんとかして魔女の目論見を頓挫させねばならない。間に合えばよいのだが)


 斯くして大戦序盤に行なわれた国境での戦いは、ゲーマルトの勝利で終わった。フランドル軍・連合軍・ガリア軍・ブリタニア軍はゲーマルト軍に多大な損害を与えることには成功するも、結局ガリア北部からの圧力に屈しきれず、撤退せざるを得なくなった。このことにより、ガリア軍のプラン十七は完全に失敗。ガリアが想定していた短期決戦の試みは破られることとなる。

 しかし、計画の修正を迫られたとはいえ、ゲーマルト軍のシェリーフェン・プランは健在であった。ゲーマルト軍右翼の第一軍・第二軍・第三軍は果たしてガリア軍を包囲することが出来るのか。ガリア軍とは違って、ゲーマルトの短期決戦の試みは成功するのか。

 大戦序盤の天王山。『マルヌの会戦』で両陣営の運命が決する。


 果たして、運命は逆転するのだろうか、それとも史実通りに進むのだろうか。

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