非日常

第六話 生徒会長の憂鬱


『君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを現実に備えていることではなくて、それらを身につけているかのように見せかけることだ。いや、私としては敢えて言っておこう。すなわち、それらを身につけてつねに実践するのは有害だが、身につけているようなふりをするのは有益である、と。たとえば見るからに慈悲ぶかく、信義を守り、人間的で、誠実で、信心ぶかく、しかも実際にそうであることは、有益である。だが、そうでないことが必要になったときには、あなたはその逆になる方法を心得ていて、なおかつそれが実行できるような心構えを、あらかじめ整えておかねばならない』

                    ―マキャヴェッリ『君主論』第一八章―



赤い絨毯が敷き詰められたある一室。

軍服に身を包んだ一人の少女は、手にもっている数枚の紙片に目を落とした。

左に架けた片眼鏡のレンズに光が反射する。


「はぁ……」

嘆息が漏れる。

頬杖をつく彼女は右の口角が上がり、自嘲じみた笑みを浮かべた。長い黒壇の前髪がベタベタとした汗で頬とひたいにひっつく。喉が急速に乾き、粘度の高い唾液が口に満ち満ちてくる。身体が火照り、急に気だるさが全身を覆った。

そんな状態の中、右手で目に被りそうな髪をかきあげ一言呟く。



「最悪だ。」

そう、状況は絶望的であった。

彼女は椅子に深く腰を掛け直して天井を見上げる。

白熱電球のシャンデリアがキラキラとやさしく輝いている。


懐古趣味的な彼女は最初こそ、それを見て少しばかり胸を打たれたものであるが、今の状況は彼女からその余裕を奪っていた。


否、その光景は彼女の精神を蝕みつつあった。

異国離れた地で、しかも時代は過去。おまけに別世界だ。

いくら気丈な彼女といえども精神の限界を迎えつつあった。


「タレスめ、こちらに後数人援軍を送るといったというに…」

左の下唇を噛み、怨めしそうに彼女が呟く。


「癖っ毛茶髪幼女め…絶対許さない。


………二年だぞ!!二年!!

一人で年端の行かない女が普通に生活するのにも苦労するだろうに!!

あぁもう!!」


柄にもなく彼女は盛大に愚痴をこぼす。

往年のあの雰囲気はそこにはない。


しかし、彼女とてかつては人の上に立っていた者。

このような醜態を晒すのは他人が見ていないところだけである。

マキャベリの教えを彼女は忠実に守っているのだ。

君主たるものは常に人心が離れないように演技をしなければならない。


彼女はもう一度紙片に目を通す。

最高機密指定であるその文書の表題は次のようなものだった。


フォックスレイ作戦の失敗についてDespre eşecul operațiunea Foxley


チッ…

鋭い舌打ちが響く。


――この瞬間における彼女の舌打ちに対しては一つ付言しなければならないだろう。

まず、前提として人前であろうとなかろうと、彼女は舌打ちをするような人間ではない。

しかし、ここでは彼女の舌打ちが漏れた。

その理由は、この作戦が失敗したことによって事態の推移はどうしようもない程決定されるからである。

しかも、最悪の方向で、だ。


1000万人の若者がこれから地獄の業火に焼かれ死ぬのを知って果たして人は普通でいることができるだろうか?

むしろ泣き喚かずに舌打ち程度で済ましている彼女の精神の図太さを賞賛するべきだろう(とはいっても、それは被害の膨大さに現実を直視できていないことの現れかも知れないが…)――


最高機密文書を机の上に盛大に放り出す。

彼女の眼には疲労と絶望が浮かんでいる。


彼女の双肩には世界が掛かっている。

彼女の薄くて小さい双肩にだ!!


「あぁ…助けがほしい……」

切実な願い。

普段の彼女からは想像できない嘆きである。


「神様、贅沢は言いません。

私の近くで私のことを支えてくれる人間がほしいです。


白馬の王子様なんて要らない。ただ近くでいてくれる人がいれば十分です。

だから、どうか、どうか…助けを……」


いかに冷徹な現実主義者リアリストである彼女とて女の子である。

幼少期には白馬の王子様を待望していた。

しかし、今の状況ではそのようなもの望むべくもない。


彼女は頭を机に突っ伏した。

ゴン、と鈍い音が響く。


「ふっ…何を言ってるんだろうか、私は。

そもそも私は無神論者ではないか。その私が神頼みなんて……

ふふっ、ちゃんちゃらおかしいわね……」


暫しの沈黙。

胸に閉まってある懐中時計の針の音が響く。


コンコンッ――

扉を叩く音がする。

突っ伏していた頭を持ち上げ、乱れていた髪を整える。

散乱した報告書をまとめて来客に備える。


「どうぞ」


「執務中、失礼します。

侍従じじゅう、西園春菜殿。折り入って急用の案件が発生しました。

急ぎ宮殿に出頭を」


「わかりました。

が、侍従で呼ばれているにもかかわらず、軍装では良くないでしょう。

着替えてから出仕いたしますので、少々お時間を…」


「いえ、女王陛下が私に仰せ仕るところでは、すぐにでも来て欲しいとのことですので……」


西園春菜は少々驚いた。

女王陛下は体面は気にしないが、常に余裕をもって事にあたる方である。

そのような方がすぐにでも来いとは何事であるのか彼女は不安になった。

が、彼女は不安を表に出さず淡々と返答する。


「うむ、了承した。女王陛下の仰せであればすぐにでもまかり越そう」


「車を待たせてあります。どうぞこちらへ」


外套を羽織り彼女は外に出た。

季節は夏に近づこうとしているが、欧州の夜は寒い。

息は白くはならないものの冷たい風が頬を撫でる。


春菜は夜空を見上げた。

先が割れた刷毛はけで塗りつぶしたような薄い黒が広がっている。


…しかし、シャンデリアの暖かい色をした白熱電球を見つめていたせいであろうか。


彼女には燦然さんぜんと輝く満月があかく、、、あかく見えていた。

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