Action.21【 家庭内離婚 】

 妻の小夜子と家庭内離婚をして、かれこれ十年は経つだろうか。

 今年で銀婚式の夫婦だが、子どもたちが成長するにしたがって会話もなくなり、寝室も別になった。最近では食事も別々、夕食だけは妻が作ってテーブルの上に置いてあるので、仕事から帰ってからチンして温め独りで食べている。

 必要な連絡事項はメモしてテーブルに置くか、妻の携帯にメールで送信する。よほど事がない限り会話はしない。お互いに飽き飽きしている、側にいると鬱陶うっとうしい、同じ空間に居たくない。――まあ、そういう状況なのだ。

 もう慣れっこになって寂しいとも感じない。ただ、親戚の集まりや冠婚葬祭かんこんそうさいに出席するときだけは世間並みの夫婦をよそおっている。

 何が原因でこうなったのかはよく分からない。「あなたは冷酷な拝金主義者はいきんしゅぎしゃよ!」妻に批判されたことがあった。毎日、ひとの金ばかり数えている仕事だから仕方ない、わたしに融資を断られて首を吊った中小企業の社長も数人いるだろう。

 妻は社交的なので友人が多い。学生時代からバレーボールをやっていて地元のママさんバレーチームに属している。ボランティア活動にも熱心でよく出掛けている。

 それに比べて、わたしは仕事以外では人と付き合わない主義だから友人なんて者はいない。


 ――だが、わたしには密かな楽しみがある。それは誰にも言えない秘密の趣味なのだ。


 月に一、二度土曜日の夕方、わたしは仕事に行くようにスーツ姿で家を出る。

 黒いボストンバッグを持ってこっそりと出掛けるのだ。行き先は新宿周辺、まず駅のトイレで着替えをする。

 スーツを脱ぐと薄汚れた作業服にぼさぼさ髪のかつらを被り、いつもの眼鏡を外して、印象が変わるようにカラーコンタクトを付けて、念のため口ひげも付けておこう。舞台化粧用の黒っぽいドーランを塗って、日焼けした路上生活者に成り済ます。荷物はまとめてコインロッカーに預ける。

 この姿では誰に見つかっても、わたしが大手銀行の支店長には見えないだろう。そう、趣味というのはホームレスに成り済まして、新宿の街を徘徊することだ。

 土曜日の夕方、ひょっこり現れるホームレスのわたしのことを仲間はゴロさんと呼ぶ。なぜゴロさんかというと、いつも道端でゴロリと寝ているから――。ホームレスの呼び名なんてそんなもんだ。

 偽ホームレスを始めてから三年ほどになる。


 以前から、金も肩書も持たない人間の自由さに憧れていた。

 世間体なんて糞喰らえ! 路上に段ボールを敷いて、その上に身体を横たえ寝たふりをする。ホームレスの多いこの街では、もはや風景の一部と化して、誰もわたしに目もくれない。ああ、なんて自由な気分なんだ。

 今日は夕方からホームレスの支援団体が炊き出しをすると聞いた。

 すでに三百人くらいは並んでいるだろうか、みんな痩せて顔色が悪い。なかにはスーツを着たサラリーマン風のホームレスもいる、リストラされて就職口が見つからないのだろう。

 偽ホームレスのわたしも炊き出しの行列に並ぶことにする。

 のぼりに『ホームレス見守り隊』と書いた、お揃いの青いTシャツを着た、ボランティアが十人ほどで炊き出しの豚汁を配っている。

 順番を待ちながら、炊き出しの大鍋の方を見ていると、何んと驚いた! そこに妻の小夜子の姿があった。

 ボランティア活動をやってることは知っていたが、まさか『ホームレス見守り隊』だったなんて……。わたしの正体がばれたらマズイ、だが、こんな汚いホームレスが自分の夫とは気付かないだろう。

 逃げ出そうかどうしようかと迷っているうちに、わたしの順番がきてしまった。


「お名前は?」

 小夜子が微笑みながら話しかけてきた。

「ゴ、ゴロ……」

「ゴロさん、寒いけど頑張ってね」

 そういって温かい豚汁のお椀を手渡してくれた。

 家では口も利いてくれない妻がホームレスのわたしとなら話をしてくれる。その微笑みは慈愛じあいに満ちていた、まるでマリア様のようだった。

 わたしは数年ぶりに妻と会話をした、そして目と目が合って、まじまじと彼女の顔を見たのだ。もう五十は過ぎているがきれいだ。若い頃、彼女の容貌に惚れて結婚したが、一緒に暮らしているうちに女として興味を失くしてしまっていた。――それがどうしたことか、今見た小夜子はとてもきれいだった。ああ、胸が高鳴る。

 もう何年も家庭内離婚で冷え切った夫婦だったのに、銀行の支店長という肩書を捨てて、ホームレスのゴロになったわたしは、ありえないことに、わが妻小夜子にひと目惚れしたのだ。

 毎週土曜日の夕方になると、ホームレスの格好で炊き出しの列に並ぶ、憧れのボランティア小夜子さんと一言二言会話ひとことふたことかいわをすることが、至福の時だと思っている。

 自分の妻に二度目の恋をしたのだ。そんな、わたしは人から見たら奇妙な人間かもしれない――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る