engage1 極東より愛をこめて
極東より愛をこめて ①
──ここに連れてこられてから、どれだけの時が過ぎたのだろう。
少女はそんなことを思っていた。
汚れた髪に、ボロボロになった服。もうしばらくシャワーを浴びていない。
げっそりとした頬に、深くクマの浮かんだ瞳。
少女は薄汚れた床にうずくまったまま、生気のない瞳を一点に向けている──そこには赤黒いシミがべっとりとへばりついていた。
少女は今、監房の中に囚われていた。ガランとした監房の中に、一人きり。
監房の中には吐瀉物の悪臭がこびりついていた。ところどころ壁が壊れ、むき出しになっている。あの壁に出来た赤黒いシミは、一体何で出来ているのか──少女は考えないようにしていた。
それを理解すれば、きっと自分は壊れてしまう。そんな予感がしていた。
そういえば──少女は視線を、監房の外に向けた。
監房の前を走る廊下には人気がない。
今日はまだ、いつもの声が聞こえてこなかった。苦痛に耐えられず、何かを懇願する子どもたちの声が。
少女が閉じ込められているこの監房には、以前まで他の人間も居た。
自分と同じように、ある日突然誘拐されてここに連れてこられた子どもたちが。
連れてこられた子どもは出身どころか、年齢も性別も異なっていた。
ただ共通していたのは、全員が十八歳に満たない子どもだったということだ。
その中に、女の子が一人いた。
彼女はレイナと名乗っていた。年齢はちょうど、少女と同じくらい。
レイナはもう既に連れて行かれてしまったが、少女は彼女と何度か話を交わしたことがあった。彼女は少女と同じ、東北の出身だった。
彼女との会話を思い出す。
「一体ここはどこなんだろうね」
ある日の夜、少女が食事として出されていたパンをかじっていると、隣に座っていたレイナがそんなことを口にした。
「さあ」
少女は適当に答えた。少女にとって、そんなことはどうでもいいことだった。この場所がどこかわかったところで逃げ出す宛があるわけでもなく、外に出る方法もないのだ。少女は逃げ出すことを、既に諦めていた。
「多分、九州か北海道のどっちかだと思うんだよね」
「どうして?」
思わず少女は尋ねていた。
「だって日本の端っこじゃない。だから助けがなかなか来ないのよ」
レイナの言った言葉に、思わず少女は吹き出した。
「ふっ、ふふ……」
「え、なんかあたし変なこと言った?」
「単純すぎるよ……あはは」
そういえば、笑ったのなんていつ以来だろう。少女は笑いながら、そんなことを考えていた。ここに連れてこられてから、一度も笑ったことなんてなかった。そんな気分になったことすらなかった。
少女があまりに笑いすぎたのか、レイナは頬を膨らませてむくれていた。
「ひどーい! わたし真剣に考えたのに!」
彼女はそう言って、同じようにパンを齧った。
「でも、きっと逃げ出してやる」
パンを乱暴に食いちぎりながら、レイナはそんなことを言った。
「生きて帰って、また普通に学校に通って、普通に生活して、普通に生きるの。だからあたし、絶対に諦めない」
そう言ってパンを食べる彼女の姿に、少女は励まされた。
そうだ、もう一度、普通に生きたい──
絶対に諦めない──それは何度も彼女が口にしていた言葉だった。
だが、少女がその言葉を聞いたのはその日が最後だった。
次の日、レイナは連れて行かれた。
牢から連れだそうと出そうとする監視の男に、レイナは叫びながら必死に抵抗していた。だが大人の男の腕力に抗えるはずもなく、彼女は連れて行かれてしまった。
レイナはただ見ていることしか出来なかった。他の子供たちも同じだった。ここで目をつけられれば、連れて行かれるのは自分かもしれない──そう思うと、少女は一歩も動けなかった。
監視の男たちは数日に一人、監房から子どもを連れて行く。順序も規則性もなく、突然監房から連れだされ、そしてどこかへ行ってしまう。
連れて行かれた子どもがどうなるのかは、少女にも察しがついた。毎晩響いてくる悲鳴、絶叫──それが何を意味するのかは誰でもわかる。
だからその日の夜に聞こえてきた叫び声も、誰の声なのかはっきりとわかった。それでも、少女に出来ることなど何もなかった。
そして数日後、少女はもう一度彼女の姿を見た──必死に抵抗していた監視の男相手に、恍惚とした表情を浮かべながら連れ添っていくレイナの姿を。
一体、彼女に何があったのか。少女にはわからなかった。
ただ理解したことは、連れて行かれてしまえば自分も彼女と同じように、自分では無くなってしまうだろうということだけ。
怖い。
怖い。怖い。怖い。
この場所に連れてこられてから何度も味わった感情──だが決して慣れることのない恐怖。じわじわと精神が蝕まれていることがわかっていても、少女にはどうすることも出来なかった。
少女は自分の足をギュッと抱き寄せて、小さくうずくまった。
ガランとした監房には、もう他に子供はいない。残されているのは少女だけだった。それが何を意味するのかは考えるまでもない。
次は自分の番だ。
「誰か、誰か助けて……」
少女は涙を浮かべて、声をふるわせながら目を瞑った。
その時、遠くから大きな音が響いた。少女は思わず頭を上げる。
聞こえてくるのは叫び声と──銃声、それに爆発音。乾いた音が何度も鳴り響いて反響している。
(銃声……?)
少女は立ち上がって、監房の外側を覗き込んだ。人気はなかった。
何かが起きている。普通じゃない、ここの人間が意図しなかった何かが。
もしかしたら──少女の胸に、ほんの僅かな希望が灯る。
もしかしたら、助けが来たのかもしれない──そんな希望が、少女に芽生えた。
誰かが、遠くから廊下を走ってくる足音が響いて、少女は後ずさった。
息を上げながら現れたのは、監視の一人──冴えない風貌をした男だった。
少女は彼の顔を覚えていた。この男はレイナを連れ去った張本人だ。
「おい、早く出ろ!」
男は監房の鍵を開け、乱暴に扉を開け放って叫んだ。
その表情に余裕はなかった。何かに怯えているのか、額には大粒の汗がびっしりと浮かんでいて、しきりに自分の背後を気にしている。
まるで誰かに追われているかのように。
「時間がねえんだ! とっとと出やがれ!」
男に腕を捕まれ、廊下に放り出される。背中から叩きつけられて、少女は息をつまらせた。
そして照明に照らされた男の姿を見て、少女は絶句した。
男の服の胸元には、真っ赤な──真っ赤な何かが染みこみ、ポタポタと床に垂れていた。
「ひっ……!」
思わず尻もちをついた少女を、男は手首を掴んで強引に引き寄せる。
グイと羽交い締めにされ、少女は見動きが取れなくなった。男の手にはいつの間にか拳銃が握られていた。
「クソ、こうしている間にも奴らが来てるんだよ畜生め! こんなに早く来るなんて聞いてねえぞ……こうなったら、一人でも使えるようにしてから売り捌いて……」
男は悪態を吐きながら、少女の頬に拳銃の銃口を押し当てる。
殺される──
「お前もすぐにあいつらのようにして売りさばいてやる……」
男が何を言っているのか、少女にはわからなかった。
「動くな」
そんな男の言葉を遮るように、背後から声が響いた。
「両手を挙げて、ゆっくりとこちらを向け。いいな?」
だが男はその言葉に従わずに、少女のこめかみに拳銃を突き付けた。
こめかみに伝わってくる、金属の冷たい感触──その死の恐怖に、少女は声にならない声を悲鳴を上げる。
「こっちには人質が居るんだ。俺を撃ってみろ、この子も死ぬんだぜ?」
男はそう言って、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
眉間にしわを寄せ、険しい表情を浮かべながら拳銃を構えている。
「おっと、銃を降ろしな。こいつの頭を吹き飛ばされたくなければな」
男が拳銃の撃鉄を上げた。だが、少年は男の顔を見据えたまま──手にしている拳銃を降ろそうとない。
「聞こえなかったのか? 銃を下ろせ。あとは脱出用のヘリを用意してもらおうか。でなければこいつを殺す」
男の言葉に、少年は僅かに逡巡する素振りを見せると──何故か頷いてみせた。
「好きにしろ」
「なっ──」
頭上で男が息を呑む気配がした。
少女も息を呑む──この少年は、一体何を言っているのだろうか。
「好きにしろと言っているんだ。ただしその
少年は顔色一つ変えずに、拳銃を構えたまま淡々と告げる。
「こ、このっ……ふざけるなっ!」
男の拳銃──その銃口が、少女のこめかみから離れた。
そしてその銃口は、目の前に立っている少年へと向けられる。
「危ない!」
少女は叫んだ。
直後、一発の銃声が鳴り響いた。
少女は恐る恐る、反射的に閉じてしまったまぶたを開いた。
もしかしたら──少年はもう死んでいるかもしれない。男は少年を殺す気でいた。
そして銃声は、一度しか鳴っていないのだ。
だがそんな少女の予想は外れていた。
少年は眉間にしわを寄せて、先程と同じ場所に立っている。
少女がふと気が付けば、自分の首に巻きつけられていた男の腕が消えていた。
どうして──少女がそう思った直後、足元から叫び声が響いた。
「あっ……あああああああああああ!!」
男が自分の腕を押さえながら、地面にうずくまっている。
苦痛に満ちた叫び声。床には赤い液体が広がっていく。
「痛え、痛えええ! 畜生、ふざけやがって! クソ、クソッ!」
呪詛の言葉を吐き、喚き散らしている男を見る少年の眼付きは、氷のように冷たい──そんな表情を浮かべながら、少年がゆっくりと男へ近づいていく。
「ふざけているのはお前だろ?」
少年はそう言うと、うずくまってる男の太腿に銃弾を撃ち込んだ。
「ああ、あがぁあああああああああァ!!」
もはや言葉にならない絶叫が響き渡る。
「今まで何人の子どもに同じようなことをした? その子たちに、一度でも手を差し伸べたことがあったか?」
「や、やめろ! やめてくれ!」
男の懇願を無視し、少年は反対の足にも銃弾を撃ち込んだ。
「やめねえよクソ野郎」
そう言って少年は、男の足に出来た傷口に足先を擦りつける──叫び声も上げずに、男が地面に転がった。
「……殺したの?」
イリーナは少年に尋ねた。男は倒れたまま、ピクリとも動かない。
「いや、気絶しただけだ。22口径には大した威力はないから、よっぽど運が悪くなければ死にはしない」
少年はそう言いながら、手に持っていた拳銃をホルスターに戻した。
「殺したほうが良かったか?」
少年の言葉に、少女はビクリと身体を震わせた。そう言った少年の目線はあまりにも冷たかった。本能的な恐怖で、少女は後ずさった。
「冗談だ。こんな奴、殺す価値もない。だけど──必ず罪は償わせてやる」
そう言った少年は、気絶した男を睨みつけた。
「貴方は、一体……?」
「君を助けに来た」
助けが来た──少年の言葉の意味を理解した瞬間、少女は自分の身体から力が抜けていくのを感じた。
生きて帰れる。少女は目から涙が溢れ出してくるのを止められなかった。
また、普通に暮らせる。くだらないことをして、笑って、そんなふうに、普通に生きることが出来る。
地面にへたり込んで、少女は泣き続けた。
「遅くなってすまなかった。もう大丈夫だ」
「貴方は何者なの……?」
泣きじゃくりながら、少女は少年に尋ねた。
「俺は如月大河──正義の味方だ」
少年はひどく真面目な顔をして、そんなことを言った。
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