第7話 ハードカバーと文庫版

 小学校の司書の先生は、昔話や簡単な歴史や文化の本、児童書の類を読みに図書室に通った私に『ハリーポッターシリーズ』を紹介してくれた。その内容に魅了され、すぐに当時刊行されていた『アズカバンの囚人』まで読んでしまったので、先生は続けて『ゲド戦記』を薦めてくれたのであった。

 前話でも触れたが、今思えばこれがファンタジー小説にのめり込む最大の要因だったと思う。アーシュラ・K・ル=グィンの作品との出会いは以降の読書傾向に決定的な指標をもたらしたのであった。 


 読書家の方々からすれば大した量ではないが、それなりにこの分野の本を読み、集めてきた私には、この分野の小説に対して鬱積した一つの不満があった。それは、多くの場合この分野の本が最初ハードカバーで発売され、そうそうソフトカバー版や文庫版が出ないということである。

 小学生から高校生の頃は、主に資金面でハードカバーの本を買うのが大変だった。かといって図書館や図書室で予約を入れて順番を待つというのも辛抱たまらないものがあったので、新刊は購入してしまい、資金の関係上本当に好きな本でも刊行してしばらく経ったものであれば図書館を利用して読んでいた(ゲド戦記など)。


 余談になるが、そういう意味で最初からソフトカバーで刊行された『デルトラ・クエスト』の登場は衝撃的だった。当時、一か月ごとに二巻づつ販売されたので、中学生の小遣いでもそれほど無理なく購入できた記憶がある。


 こうして順調にファンタジー小説を読んでいったが、最も印象に残った一冊を挙げるとすれば、それは高校生の時に発売されたアーシュラ・K・ル=グィンの『西のはての年代記シリーズの1、「ギフト」』だろう。トールキン作品は言わずもがな、ゲド戦記も『さいはての島へ』までの三部作は私が生まれる前に出版された作品であるため、これらの作品を読む時は、どこか神話に対する時のような緊張感と心持ちがあった。

 その点『ギフト』を初めとしたこのシリーズを読むときは、今まさにル=グィンによって紡がれているという臨場感があり、作品の驚異的な完成度と相まって名著の発刊に立ち会ったという特異な満足感が付随したのである。

 

 この『西のはての年代記シリーズ』は『ギフト』『ヴォイス』『パワー』の三部作で構成されており、それぞれの作品に対して強い思い入れと愛着があった、『ゲド戦記』『ホビットの冒険』『指輪物語』と同じように、三部作全てを通学のために住んでいたアパートに置いていた。そして、今まで取り上げた他のものと同じように、仕事のための転居が重なった時、母の勧めで実家に送り返したのであった。

 

 先ほど、小学生から高校生にかけての時分は資金面でハードカバーを買うのが大変だったと書いたが、大学生以降はワンルームのアパートからアパートへと転居する生活を送っているため、本の置き場が少なくなったことと引っ越しの手間を考え、ハードカバーの本の購入を躊躇する傾向があった。専攻した学問の本、現在の仕事で必要な本、本棚はとっくに不足していたのである。あれほど好きだったファンタジー小説も、実家に送り返すことに迷いはなかった。そもそもこの時は、どうせすぐに帰れるのだから、それで問題はなかったのである。


 2016年1月9日、家が燃えた。その翌週、燃え跡の解体が始まってから自分の本の残骸が堆積する場所へと向かった。二階の自室は完全に崩落し、直下に存在するかつて曾祖母が使っていた部屋と自分の部屋が混ざり合うと言う奇妙な状況が広がっていた。自分の部屋の家財は、焦げた一階の床に散乱している。

 遅れてきた消防車が撒いたという水は、自室の本に吸収され、残骸からは半端に形を残す本が多く見つかった。『西のはての年代記』の中では、『ヴォイス』のみ見つかった……いや、というよりも、両側から前後の巻に挟まれ、焼損が一番少ないと思われるこの第二巻でさえ、天地と小口、つまり本の側面は完全に炭化し、黒変しているのである。このことを考えれば、他の二冊を探す気にはなれなかった。仮に見つけた所で、このような痛ましい姿になった愛読書を再び本棚に収める気はおきなかった。


 不幸中の幸い……、何か自分を慰める時の文言の代表みたいな言葉であるが、私が燃えてしまった本を購入してから、火事が起き蔵書を失うまでの間に、これらの本の文庫化は大いに進んでいた。特に『西の果ての年代記』の文庫版は装丁も美しく、あれほどの良質な物語を1000円近くの値段で(三作品目の『パワー』は上下分冊だが)で楽しめるというものだった。この文庫化は、既に通販サイトや書店で知るところで、数年前、ハードカバー版は持っているが、これを自分のアパートに置くために買おうかとも本気で悩んだ時もあったくらいだ。


 この悩みは、およそ最悪の形で解決してしまったわけである。欲しかった『西のはての年代記』シリーズの文庫を、火事の自失から立ち直った私は、早々に通販で買い揃えることにした。欲しいとは思っていたが、実際に手に取って悲しいと思ったファンタジー小説はこれが初めてであった。改めて読んでも、その内容は文句なしに素晴らしいものであったが。



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