第4話 肩書き自衛官

 2020/4/11 7:40 千葉県習志野市津田沼


 自衛隊航空幕僚監部総務課総務部副部長補佐、田神芳雄二等空佐は自宅マンションで、新聞を広げながら欠伸を噛み殺した。

 もともと軍人らしからぬ優男の彼だが、今は更に加えて充血した目と、剃り残した髭と、直しきってない寝癖に、ダメオヤジギリギリのラインをキープしている。

 ここ一ヶ月あまり寝不足が続いていた。朝日が目にしみる。何となく食欲が湧かないのは、副交感神経の狂いだろうか。

 その時、オープンキッチンに立つ妻が、コーヒーを入れながら軽い嫌味を投げかけてきた。


「また遅くまで遊んでいたんですか?」

「流星とのコミュニケーションの一環だよ」

「ミイラ取りがミイラになったって感じに見えますけどね」


 田神は妻の言葉を無視して、新聞で顔を隠した。

 流星とは十七歳になる彼らの息子だ。夜な夜なゲームとネットに没頭し、不健全この上ない生活を送っている彼は、世間一般で言う引きこもり。ここ半年あまりは家から一歩も出ず、先月にはとうとう高校も辞めてしまった。

 そんな息子に田神夫婦は困惑し、説得と叱責を繰り返してきた。心療内科にも何度か連れていった。だが息子の生活態度は一向に改善しない。このままでは社会生活者養成所、通称“養成所”に行かざるを得ないだろう。それだけはどうしても避けたかった。

 社会生活者養成所は、増え続けるニートをどうにかしようと制定された『若年無業者支援法』により、満三十歳で基準値以上の収入がない人間を半強制的に収容する施設だ。入所すれば、社会に適用するようにカウンセリングや職業訓練などをしてくれるのだが、同時に一生消えない落胤が押されてしまうこととなる。噂によれば、養成所出身だというだけで入れない企業もあるという話だった。

 先月、心療内科の医者から、親が歩み寄る態度を示せば心を開くかもしれないとアドバイスを受けた。そこで田神は思案の末、一緒にゲームをしようと息子に提案したのだった。


「で、どうなんですか?」

「どうって、何が?」

「少しはあの子と心が通じるようになったんですか?」


 その言葉には“ゲームごときで”という意味が含まれている。自分は何もしないくせにと思った田神だったが、何も言わずに新聞を畳むと、焦げ気味のトーストにバターを塗り始めた。

 彼が妻に対して強気になれない理由は二つある。

 一つは今まで息子の教育を押しつけていたことだ。もっとも彼女が育児者として優秀ではなかったのは、息子の現状を見れば明白だとは思っている。もちろんそんなことは口に出して言えないし、それを差し引いたとしても、何もしなかった父親として負い目があった。

 そしてもう一つは、彼女の兄が直属の上官だからだ。

 若い頃は将来優秀な青年と評価された田神だったので、ぜひ妹をと勧めてくれた。だがそれは、上官が親族という足かせを装着しただけ。そう気付いたのは結婚後、言い方を代えれば後の祭。その証拠に、彼は長い肩書きのわりに目立った昇級コースを歩んでいない。


「それにしても、毎晩毎晩、良く続きますわね」

「あまり興味がなかったが、やってみると案外楽しいかもな」


 嘘だった。

 彼の根底にあるのは、ゲームマニアという称号。

 家族に話したことがない秘密である。

 あれは高校三年の春だ。当時ゲームマニアだった彼は、四種のゲーム機を保持し、手当たり次第にソフトを買い漁っていた。もっとも息子ほど見境がなかったわけではないので、勉学もそれなりに熟していたが。

 そんなある日、気まぐれで買ったフライトシューティングゲームにすっかりハマり、その勢いで志望を防衛大学に変更した。“戦闘機に乗ってみたい”というアホな理由は、今考えれば若気の至りというか何というか。

 妻と付き合うようになってからは、ゲーム人生とはすっぱり縁を切った。多少未練はあったが、その頃はまだ輝かしい立身出世を夢見ていたのだ。

 彼女にはそんな過去があるなんてバレてないはずだ。

 と思っていたら、妻は意味深に微笑んだ。


「でもアナタ、昔からそういうこと好きでしたわよね」

「ん……?」

「結婚する時、アナタの荷物にゲームが幾つか入っていましたから」


 げに妻とは恐ろしい生き物で、すっかりバレていた。

 田神は苦虫を噛みつぶすように、トーストの端を噛みちぎる。

 それから、「いまろきろ、でぇむは、まかまかふごい……」と口の中でモゴモゴ言うと、「子供ではないんですから、口に物を入れて喋らないで下さい」と咎められた。

 本当に今のゲーム機は素晴らしいんだ、と田神は心で言い訳を繰り返す。家庭用テレビに繋いで小さなコントローラーを連打していた時代とは大きな違いだ。

 何より3D投影により、バーチャルな世界を楽しめる。今ハマっている対戦ロボットゲームは、本当にロボットを操縦している錯覚すら起こすことがあった。

 もう五十歳近いし、そろそろ自重できる年頃だと思っていたのが大間違いだった。深夜まで息子と一緒にネット対戦を繰り返す日々が続いている。

 と、その時だ。

 背後の扉から人が入ってくる気配がした。キッチンに立つ妻の瞳に戸惑いの色が浮かび、口の端がヒクヒク動く。一瞬のうちに、寝ぼけた朝の風景に、緊迫した空気が漂い始めた。

 珍しく、息子の流星が自室から出てきたのだ。

 だが彼自身にも、朝の爽やかさは全くない。乱れた長めの髪、充血している虚ろな目。また徹夜でゲームを続けていたのだろう。

 妻が「おはよう、流ちゃん。早いのね」と取り繕うように言う。その妙な猫なで声は、息子でなくても癇に障るなと田神は内心思っていた。


「寝てないから、おはようじゃない」


 案の定だ。

 ぶっきらぼうに言った息子は擦るような足取りで妻の前を通り過ぎ、冷蔵庫を開き、牛乳の紙パックを取り出した。それから再び妻の前を無言で通ると、今度は田神から一メートルほど離れた場所で、手にした飲み物をがぶ飲みする。

 微妙な距離感だ。だが一月前よりは格段に進歩している。何しろ、以前は半径二メートル以内には入ってこようとしなかったのだから。

 しかし、現状はこんなもんである。息子の視界には両親の姿など入ってはいないようだった。


「あれからずっと続けていたのか?」


 田神はなるべく穏やかにそう言った。ここで咎めるような調子が入ってしまうと元も子もない。今は叱るより理解する方が先決だと、カウンセラーの先生にきつく言われたことを守るだけだ。


「うん……」


 息子の視線が点けっぱなしのテレビへと移動する。画面には青い海原が映っていた。どうやら、一月前に沈んだオセアニアの島について報道しているようだ。

 彼はしばらくその画面に釘付けになっていて、手にした紙パックを取り落としそうな様子である。


「ええっと、流星、今日も一緒にゲームするか?」


 やんわりと言った田神の声など無視するつもりなのか、全く反応がなかった。


「流星?」

「うるさいな、したきゃすればいいだろ」


 その不愉快な物言いにカッとなりそうになるのを必死に堪え、田神は「そうだな」とだけ返事をした。

 しばらく流星はその報道を眺めていたが、やがて何も言わずにダイニングから出て行ってしまった。

 妻の溜め息が聞こえてくる。それを聞きながら、田神は小さく首を振った。

 いったい息子は何に悩み、何から逃げているというのだろう。

 学校ではイジメなど無かったと、教師から報告があった。妻も色々調べたらしいが、これと言って原因は見つからなかったらしい。

 息子の行く先に、暗然たる不安が田神の胸に渦巻いた。

 本当は、ゲームでのヌルいコミュニケーションをしている場合ではないのかもしれない、と。

 息子との関係が崩れていったのはいつからだろうか。小学生の頃は何の問題も抱えていなかったはず。少なくても映画ぐらいは一緒に見に行ける仲だった。

 あれは流星が小六の時だ。その頃ヒットしていた『GW』という映画を二人で見たのは。

 やがて、妻がコーヒーを持ってくる。彼女の顔は、もうすでにいつものそれに戻っていた。案外、母親とは図太いものだ。それとも息子と同じように、行く末の不安など忘れるに限ると思っているのだろうか。

 そんなことを考えて、薄茶色の液体を啜り上げた田神だったが、ふと今日は特別会議があるのを思い出した。ここしばらく大人しかった隣国が、再びミサイル実験を開始するという情報が入ったらしい。どうせいつもの虚仮威しだ。それに肩書きは長いが立場が低い自分には、意見を言う機会もないだろう。

 だから田神にとって、そんな“ドンドンミサイル”よりも、家庭内の問題の方が最重要課題であった。

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