希死念慮が満ちる前に

No.2149

第1話 緑の悪魔とチェーンソウ

 緩慢で無気力な時間が、もう何時間も続いていた。

 手に持ったチェーンソーが、低周波振動を僕の手に伝えながら目の前の蔦を切り裂いていく。ヘルメットで視野角度が減った視界の隅っこで、僕と同じ防護服を着込んだ連中が機械的に目の前の植物を刈り取っていく。四方へ植物の残骸をまき散らしながら進む連中のその向こう側には、呑気に晴れ渡る空。そして、澱みひとつない空を下方から蝕むように、くすんだ緑色の海。それらが、それぞれの境界線を境にしてバックグラウンドの風景を占領している。これ以上ないほどシンプルな構図であるが、それがかえって僕ら闖入者を油染みのように浮き立たせているように見えた。

 何だか、息が苦しい。

 まただ・・・自分で自分に呆れながら、僕は防護服に連結されたナイロンチューブの根元のバルブに手をかける。分厚い防護服越しではこの程度の手先の作業ですら難儀する。二度、三度と掴み直しながらゆっくりと回してやると、ようやく完全にバルブを開けることができた。ひんやりと冷たい空気が、背中から回り込むようにしてヘルメットを満たしていき、そして肺へと達した。外の世界で生成された酸素の味は格別だ。死に体だった四肢が生き返るようだ。コロニーの中では、もうこんなにおいしい酸素のあるところなどないだろう。

 僕が悦に入っていると、ヘルメットのスクリーンに「notice」の文字がピカピカと点滅した。続いて、耳元に取り付けられた通話用スピーカーからいたって事務的な自動音声が垂れ流される。

―――SK321さん。ただちにドレーンのバルブを規定位置へ戻してください。忠告に従わない場合、付与される酸素量の減量が執行される虞があります。ただちにドレーンのバルブを―――

 はいはい、わかったわかった。

 僕はひとりごちながら再びバルブを捻り、元の位置へ戻した。

途端に、空気がまずくなった。僕はさっきの酸素の分の大きなため息をした。

 コロニー外での作業のために着込んだ防曝服。これを着込まなければ、僕ら人間は外に出て活動することすらままならない。とはいえ、得てして人間が本来備わっているポテンシャル以上のことをやろうとする場合、多かれ少なかれ何かしらの制限を付されることはこれまでの歴史が証明している。この防護服もまた、酸素を供給するための図太いドレーンを背中部分に挿し込む必要があり、そこから供給される酸素量にも厳しい制限が課せられているのだ。

 不自由を強いられるのはそれだけではない。この防護服は、有害物質を遮断するためにやたらと分厚い生地で縫製されているらしい。だから、生身の体に比べれば言うまでもなく重く動きづらい。あくまで僕の個人的感覚ではあるが、酷い筋肉痛の体のままゲル状の液体で満たされたプールに突き落とされ、その中で溺死しないようにともがいている―――この作業を行うとき、僕は斯様なあらぬ錯覚に囚われるのだった。

 それに加え、僕の両の手はいま重たい旧式のチェーンソーの柄を力なく握りしめ、目の前で繁栄を誇る「緑の悪魔」へ、高速で回転する刃先を無手勝流に押し当てているのだから疲労感は一層濃くなる。2ストロークエンジンのチェーンソーは、ピストンの上下運動によって動力を取り出す構造になっている。そのため、最新式のものに比べて手先から体へ伝わる振動は比ではなかった。この振動というのは厄介なもので、初期段階では何ともないのだが、数分、数十分、数時間と時間が経過するにつれて、じわりじわりと体力を手の感覚を奪っていく。斯く言う僕も例外ではなく、もはや自分が柄を握っているのかそうでないのかわからないほどだった。この感覚が馴染めず、ドロップアウトしていった連中も何人か知っている。ここを辞めたところで一体どこに奴らの受け皿があるというのだろうか・・・あまり考えたくはなかった。僕の場合、それはすぐさまわが身になる可能性が潜んでいる空想だったから。

 薄くなる意識。僕はヘルメットの中でぶるぶると頭を振り、悪い想像をどうにかこうにか振り払う。そして、無我夢中でチェーンソーを振り回す。僕の進路を塞ぐように生える植物は、背丈こそ僕よりも随分低いのだが、その分水平方向への繁殖を強くせよという遺伝子が組み込まれているらしく、複雑に幾重にも茨と茨を絡ませながら植生している。その連なりは僕の視力が利く限りの全ての地上に続いていた。途中、その緑の海の中にボコリボコリと針のような緑色の塔のようなものが見え、ところどころにぐねぐねと蛇行する川の黒い水面が、日の光に反射して僕の眼球を光で刺していく。

 ふと、チェーンソーの歯先の回転が鈍くなった。見ると、植物の硬い幹の部分に歯が突き刺さり、歯の断面が擦れて動力をスポイルしているらしい。僕は幹を足で押さえつけてからチェーンソーを引き抜き、今一度チェーンソーの歯を押し当てる。今度は上手くやれた。数十センチもある太い蔦を刈り取ると、毒々しい紫色の内部構造が露わになり、その中から緑色の粘着質の液体が勢いよく飛び出す。噂によればこの液体は強酸性この飛沫のせいで当初は真っ白だったはずの防護服は体の前面部だけ緑色に染まっていた。何となくではあるが、正直あまり気持ちのいいものではない。この防護服の外には自分に害を成す得体の知れない液体で覆われているというのは。

 予期せず、防護服に仕込まれたスピーカーからアナウンスが鳴り響いた。

「B班の皆様、除草作業お疲れ様です。今から1時間、B班の皆様は休憩となります。監視官の指示に従い、コロニー南側〈イワフネ・ゲート〉にて除菌処理を行ってください。なお、休憩後の作業開始時間は―――」

 意識が朦朧としていたせいで気付かなかったが、どうやら昼の休憩の時間らしい。狭い視野で辺りをぐるぐると見回すと、僕同様に緑色に染めあがった防護服を着た他の連中が、腕をぐるぐる回したり、腕に手を当てて伸びをするようにのけぞったりしている。彼らは皆、アナウンスで指示されたイワフネ・ゲートへ覇気のない足取りで歩いていく。その先には、まるで都市の上に透明な半球を被せたかのようなコロニーが鈍い光沢を放っている。

 僕はふと、コロニーとは反対側を見やった。そこにはなお、緑色の海が視界が霞む先まで続いているばかりだった。


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