第45話  第六巻 決意の徒 晋山


 それから一ヶ月後の、一九九九年四月吉日。

 神村正遠の京都大本山・本妙寺晋山式が、華やかな中にも厳粛に執り行われた。前貫主の山際が亡くなってから、実に二年もの月日が流れていた。

 本妙寺は室町時代の中期に、天台学徒から天真宗に改宗した栄智(えいち)上人によって開創された、大本山の中では比較的歴史の浅い寺院である。

 京都の中心部にあることから、その敷地は他の大本山に比べようもなく狭いが、同じ上京区にある京都御所の近くとあって、開山以来公家との交わりが深く、境内の墓地には幕末時に、非業の死を遂げた公家衆の墓標なども散見されるほどの名刹であった。

 森岡は、大阪本社の社員に準備のための自主的なボランティアを募った。その結果、土日の二日間で延べ百十三名が本妙寺の準備に参加した。森岡の信条として、いかに社長といえども個人的な用件で社員を強制的に動員することはしない。

 まして宗旨の関わりが無いとはいえ、天真宗以外の信者にしてみればわだかまりがあるというものである。

 それでも森岡と神村の関係を知る幹部社員はもちろん、森岡の人柄に惹かれる社員を中心に多数の社員が手を挙げたのだった。

 本妙寺の修行僧に加え、神村の親交のある寺院の修行僧らも駆け付け、晋山式の準備を手伝った。本堂や宝物殿といった重要箇所は手馴れた僧侶に任せ、ウイニットの社員は庫裏や客間、廊下の雑巾掛け、襖や障子の乾拭き、浴槽、トイレ、庭掃除などの力仕事を担当した。

 襖や障子の大きさは一般家庭のおよそ二倍、重さは四倍近くもあって一筋縄ではいかず、また大本山にしては比較的狭い敷地とはいうものの、それでも約八千坪もあり、一口に庭掃除と言っても容易ではなかった。

 森岡は自身の他、野島、住倉、中鉢といった最高幹部に加え、坂根と南目、蒲生、足立、宗光をトイレ掃除担当とした。森岡と南目は、経王寺に寄宿していた折の経験で手馴れたものだったが、初体験の野島らは悪戦苦闘した。

 それでも、他の者は文句一つ言わずに、黙々と便器を磨いていたが、

 住倉は、

「社長、なんで俺らがこんなことをするんですか? 下の者にさせりゃあ良いじゃないですか」

 などど、正直に愚痴を溢すものだから、

「阿呆。上の者ほど、率先して嫌な仕事をせんでどうするんや」

 と、森岡から叱責を受けたりしたのだが、それがまた厳かな中に笑いを生んで、和やかな雰囲気を醸し出した。

 こうして準備万端整い、森岡は待ちわびたこの日を迎えていた。彼にしてみれば、我が事のように晴れやかな一日だったに違いない。

 京都の大本山と本山の貫主六名と貫主代行一名を従え、神村が正導師を務めた。天真宗おいては、大僧正すなわち法主にしか許されない赤色の僧衣を、この日ばかりは特別に身に纏うことを許され、一人だけ抜きん出て御本尊の前に座し、読経の先導を司った。

 神村の五十代という、肉体と精神と技量の三者が見事に合致して発せられる経は、朗々として三百畳を誇る本堂中に響き渡り、最後部の片隅に控えていた森岡をも神聖な心地に誘った。

 本堂を埋め尽くした二百名の招待客と三百五十名の信者の誰もが、この若い貫主の美声に酔い知れ、当寺院の将来を疑わなかった。

 森岡はその一部始終を目に焼き付けていた。やっと、夢の実現への扉を開いた瞬間だった。彼の胸には達成感と共に、万感迫る想いが溢れていた。


 晋山式が終わると祝宴となった。

 客殿の大広間と続き間の全ての襖を外しても二百畳にしかならなかったため、ご本尊の前に白幕を張り、本堂も会場の一つにした。両方に適度の間隔で丸テーブルと椅子を置き、老人や身体の不自由な者は椅子に腰掛け、他の者は立食形式とした。

 こうして、晋山式後も残った百七十余名が二ヶ所に分散し、廊下を渡って行き来をし、酒を酌み交わしながら歓談した。

 料理は森岡の計らいで、帝都ホテル大阪に依頼し、出張を願ったものである。寿司、天ぷら、鉄板焼き、中華料理、フランス料理、スイーツを始めとするデザート類と、ビール、ウイスキー、ブランデー、日本酒、焼酎、カクテルのアルコール類が用意された。

 本妙寺には、敷地を囲う塀伝いに百本近い桜木が植えてあり、陽春の盛り、さながら満開の桜を愛でる花見の宴ともなった。

 その中でも、一際異彩を放った場所があった。

 本堂と渡り廊下で繋がっている貫主室の隣室で抹茶が振舞われていたのである。元は書斎と応接間だったものを、山際前貫主が改装して茶室と控えの間にしたものだった。

 お茶を点てているのは、誰あろう茜だった。彼女は、表千家の講師の目録を有する高弟である。

 このお茶室には、馴染みの人々が集っていた。松尾正之助、榊原荘太郎、福地正勝、そして真鍋清志、高志の父子だった。松尾と榊原、そして福地の三人は見知った仲だったが、真鍋父子は初対面であった。言うまでもなく、神村が縁を紡ぎ、森岡に引き継がれた面々である。

 政財界の大立者である松尾正之助との同席で、真鍋父子には張り詰めた緊張感が漂い、それがまた榊原と福地にも反映していた。

 その空気を切り裂いたのが森岡だった。

「お呼びでしょうか」

 森岡は廊下に座し、声を掛けた。

「わしが呼んだんや。洋介、早う中に入りや、お前がおらんと堅苦しくてかなわん」

 榊原が砕けた物言いをした。

 失礼します、と言って森岡は障子を開けた。

「これはまた、皆様お揃いで何の集まりですか」

「何の集まりやないがな、洋介君。松尾会長が茜さんの点てる茶を所望されたので、私と榊原さんが同行すると、こちらのお二人がいらっしゃったのだよ」

 福地がそう言うと、

「森岡君に、茜さんはお茶室だと聞いたたものだから、やって来ていたところ、後から皆様がおいでになり、緊張していたところです」

 と、真鍋清志が冗談でもない顔つきで言った。

「では、私が御紹介すれば宜しいのでしょうか」

「そうしてくれるか」

 榊原が催促した。

「それではあらめまして……。まずこちらのお二人が、造霊園やホテル、ゴルフ場などの事業を展開されておられる真鍋グループの真鍋清志社長とご子息の高志さんです。真鍋社長は、三十年近くも昔、神村先生が初めて総本山を下りられたとき、師である滝の坊の中原是遠上人から紹介されたお方です」

 森岡は真鍋父子を紹介した後、

「さて、こちらの方々ですが、奥の方はご説明の必要もないでしょう、松尾電器グループの松尾正之助会長です。真ん中の方が、お札や護摩木、お札、数珠など寺院関係の商品を扱っておられる榊原商店の榊原社長。そして、手前の方が調味料で有名な味一番の福地社長です。福地さんは亡き先妻の父、つまり私の岳父だったお方です」

 と、真鍋父子に紹介した。

 それを機に、お互いが挨拶を交わし合い、ようやく場が和んだ。

「しかし、聞きしに勝る美形ですな」

 茜を見て真鍋清志が唸ると、

「そりゃあ、そうじゃろ。わしの孫娘だからね」

 松尾正之助が自慢げに言った。

「会長の御孫さん?」

 何も知らない真鍋清志は、絶句してしまった。

「また、会長もお人の悪い。真鍋さん、実の孫ではなく孫娘のように可愛がっておられるという意味ですよ」

 と、榊原が解説した。

「そういうことですか。いやあ、驚きました」

 真鍋清志は照れ笑いをした。

「ところで、媒酌人の件、会長はお受けになったそうですね」

 榊原が訊いた。

「わしも八十歳を超えてから仲人を務めることになるとは思いも寄らんかったわい。うちの婆(ばばあ)も、この世での最後の御奉公などと、張り切っておるわ」

「しかし、奈津実のときのように神村上人にお願いしたのではないのかね」

「松尾会長には申し訳ないのですが、最初にお願いしたのは先生でした。ところが先生は、奈津実とのときは大学を卒業した直後でもあり、これといった適任者も見当たらないようなので媒酌人も務めたが、今は経済人だから、今後のことを考えても確かな方にお願いした方が良いと辞退されたのです。その際、松尾会長を推されましたので、無理を承知でお願いに上がったところ、快くお引き受け頂いたという次第です」

 福地の疑念に、森岡が事細かく経緯を説明した。

「なるほど。しかし、神村上人一途の君が一度ぐらい断られたからといって、よくあっさりと引き下がったものだね」

 福地が怪訝そうに言った。

「先生には、前回と同様、式導師をお願いしました。仲人には松尾会長御夫妻、主賓に榊原さんと福地さん、友人代表に高志さんをと考えております」

 と、高志に視線を送った。

 大物経済人を前にして、緊張の極致にいた高志は、ぎこちない笑顔で応じるのが精一杯だった。

 森岡は神妙な顔つきで弁明したが、福地の指摘は的を射ていた。森岡は、ある理由から此度の仲人にどうしても神村を、とは望んでいなかったのである。

「神村上人の、森岡さんへの想いも深いですね」

 真鍋清志がしみじみと言った。

「真鍋さん、わしの想いも深いですぞ。血は繋がってはおらんが、茜は実の孫同様可愛いからの。森岡君も義孫ということになるで、今後は力になるつもりじゃ」

 松尾が真顔で言ったものだから、

「うっ」

 と、真鍋清志は再び言葉を失った。

「会長、独り占めは違反ですぞ。これまで何度も申しておりますが、洋介はすでに私の義孫同然でもあるわけですから」

 榊原が牽制するように言うと、

「お二人とは違い、私は本当の義父でしたし、洋介君は今でも変わらないと言ってくれています」

 と、福地が胸を張った。

「まあまあ、御三人とも良い年をされて、子供染みたことはみっともないですわ」

 茜が呆れ顔で言うと、どっと座が沸いた。

 そこへ、神村が久田帝玄、三友物産専務の日原淳史と、政権与党の参議院議員会長・桜内一二三(ひふみ)を連れてやって来た。

「皆様お揃いで、いかにも楽しげですな」

 神村が言うと、

「本日は誠におめでとうございます」

 と、一同が口を揃えて言い、軽く頭を下げた。

「有難うございます。これも皆様の御支援の賜物と深く感謝しております」

 神村も深く頭を下げた。

「しかし、何と言っても勲一等は森岡君だろうな。彼の献身無くしては、今日はなかったと言ってもよい」

 久田帝玄がしみじみ言うと、一同も頷きあった。

 しばらく静けさが漂った後、桜内一二三が口を開いた。

「ところで森岡君、私を憶えているかね」

「確か、竹山中先生の秘書をされていた頃、浜浦でお会いしたような気がしますが」

 森岡は記憶を辿るように答えた。

「そう。君はまだ小学校へ上がる前だった。竹山の親父と一緒に、島根半島界隈の票の取り纏めをお願いしに何度も伺ったものだ。君はいつも洋吾郎さんの胡坐に座っていた」

 桜内一二三は、首相を務めた竹山中の秘書から参議院議員に転出し、今や民自党の参議院議員会長として権力の中枢に座る大物議員である。

「そう言えば、私が大学を卒業するとき、先生の秘書から就職の件でもお電話も頂戴しました」

 桜内の秘書の言伝では、合併する前の菱友銀行、帝国航空、関東証券、東亜生命であれば、特別枠で就職できるというものだった。いずれの会社も、竹山が旧大蔵、旧通産の両大臣時代に関係を深めた会社だった。

 言うまでもなく、竹山が森岡を厚く遇したのは単に恩義だけではなく、森岡の将来を見込んでいたからである。

「うん。あれはな、竹山先生のご指示だった。御恩を受けたお方のご子息だったので、もし就職で困ったことがあれば、面倒を見るようにとね。だが、余計なお世話だったようだね。今や君は立派な経済人だ。なんでも、自社の上場以外にも、数社の持ち株会社を設立するそうじゃないか」

「さすがにお耳が早いですな。私も一枚噛んでおります」

 松尾が感心したように言うと、

「松尾会長までも」

 と、桜内は目を見開いた。 

「その件ですが」

 と、森岡が福地正勝を見た。

「お義父さん、御紹介が遅くなりましたが、この方が三友物産の日原専務さんです」

「日原です」

「良い御返事を頂いたと伺っておりました。御礼が遅くなりました」

 福地は両膝に両手を着いて深々と頭を下げた。

「誠にありがとうございます」

「こちらこそ、宜しくお願い致します」

 日原も恭しく頭を下げた。 

 日原は、現在大手総合商社三友物産の代表権を持つ専務の要職にある。場合によっては社長の目も、との向きがないでもないが、彼は京洛大学卒であり、帝都大学閥が幅を利かす三友物産に於いてそれは至難の業であろう。おそらくは、定年前にグループ傘下企業の社長へと転任するのが妥当な線であった。

 三友物産の人事の内情を探った森岡は、味一番の経営を日原に委ねようと考えたのである。

「来年の春頃と聞いておりますが、その心積もりで宜しいでしょうか」

 福地が恐縮そうに訊いた。

「もっと早くにと思っていたのですが、いざ身辺整理を始めますと、意外に雑用がございまして」

 日原が苦笑いをした。

「天下の三友物産の専務さんですからな、当然でしょう」

 福地にしても日原の立場は理解できた。

「どういったお話でしょうか」

 話の蚊帳の外に置かれている真鍋清志が遠慮がちに訊いた。

「桜内会長のお話にもあったように、ウイニットと福地さんの味一番、松尾会長の個人会社、そして私の会社の持ち株会社を設立して、その代表に洋介をと考えているのですが、味一番は大会社ですので、福地社長の後継者を探していたのです」

 榊原が事情を説明した。

「天下の三友物産の日原専務がその後継者ということですか」

「この上ないお方に恵まれました」

 福地が満面の笑みで言うと、

「すると、森岡君は一気に年商約一兆円の企業群を傘下に置く持ち株会社の代表に就くということですな」

 桜内一二三も驚いたように訊いた。

「いかにも左様です」

 松尾正之助がにやりと笑った。

「さすがは、灘屋の総領さんですな。亡き竹山の親父が足繁く浜浦を訪れ、また就職の世話をしようとした真意がわかった気がします」

 桜内が腕組みをして唸った。

 そのときだった。森岡は、それまで沈黙を通していた神村の視線を感じた。その厳粛な眼差しに、その意図を理解した森岡は黙って肯いた。

「この際、皆様にお伝えしたいことがございます」

 神妙な口調に一同が神村を注視した。

「ここにお揃いの皆様は、私ばかりでなく森岡君にもご縁のある方ばかりです。そこで、彼の身の上に関するある事実をお話したいと思います」

―洋介の……。

 榊原が、いまさらあらたまって何事だろうか、という不安な顔をした。

「さて皆様は、奈良岡先生はご存知でしょう」

「奈良岡真篤氏ですかの」

 松尾正之助が訊いた。

「はい。その奈良岡先生です」

「それならば、知らぬ者はおりますまい。なにせ、稀代の大学者ですからの」

 桜内が断定口調で言った。

「その奈良岡先生と高野山の先の座主堀部真快大阿闍梨様が、実の兄弟であることはご存知でしょうか」

 神村は皆を見回しながら訊いた。

「なんと、そうでございましたか」

 榊原が唸ると、

 福地が、

「姓が違うのはどうしてでしょう」

 と疑問を投げ掛けた。

「大阿闍梨様は、幼き頃に男児の無かった遠縁の寺院へ養子に出されたのです」

「なるほど」

 福地をはじめとして皆が得心の顔になった。

「兄は稀代の大学者で、戦前、戦中、戦後日本の精神的支柱、弟は日本仏教会の至宝、いやはや凄まじい御兄弟ですな。明治時代で言えば秋山兄弟ですかな」

 桜内が嘆息して言った。

 秋山兄弟とは、日本騎兵の父と言われ、日露戦争において、当時最強の騎兵軍団と目されていた、ロシア・コサック騎兵と互角の戦いをした兄秋山好古と、同日本海海戦で先任参謀として丁字戦法を考案し、これまた当時世界最強と謳われていたバルチック艦隊を完膚なきまでに撃滅した実弟の秋山真之のことである。

 たしかに、この兄弟がいなければ、日露戦争に勝利することは難しかっただろうと思われるし、もし敗北していれば、その後の日本の行く末は暗く惨めなものになっていた可能性が高い。

「私は奈良岡先生とのご縁から、大阿闍梨様とも交誼を結んでおりましたが、昨秋久々にお会いしたとき、驚愕の事実を告白されました」

 一同は食い入るように神村を見つめていた。普段の神村は、大袈裟な物言いをしないのだ。

「実は、森岡君はそのお二人の親戚筋に当るのです」

「何ですと!」

 一斉に驚嘆の声が上がった。

「真のことですか」

 榊原が真っ先に叫び、

「まさか、そのようなことが」

 福地は唖然として呻き、

 桜内は、

「さもありなん」

 と呟いた。

 竹山中が灘屋に、そして森岡洋介に拘った真の理由に突き当たった気がしたのである。竹山は島根の首領だった設楽幸右衛門基法の子飼いである。何らかの形で情報を手に入れた幸右衛門基法が、竹山に伝えていたとしても不思議ではない。

「大阿闍梨様が申されるには……」

 各々の感情が渦巻く中、神村は堀部真快から聞いた事実を縷々伝えた。 

「神村上人が御兄弟と昵懇の仲、その上人に見出された森岡君が御兄弟の縁者とは、何とも奇しき因縁ですな」

 松尾が達観したように言うと、

「これこそ、まさに仏縁の極みにございましょうな」

 久田が微笑で応じた。

「森岡君、大阿闍梨様が君に会いたがっておられる。なにぶん、もうお年だ。気持ちの整理が付き次第、高野山をお訪ねしなさい」

 神村は、珍しく命令口調で言った。

「承知しました」

 堀部真快大阿闍梨が面会を所望しているなど、存外のことだったが、森岡はともかくも畏まって頭を下げた。

 思いも寄らぬ話の成り行きに一同の口は堅く閉ざされ、重苦しい沈黙が座を覆った。

 やがて、松尾正之助がパンパンと手を叩いた。

「さあ、さあ。世間話はそれくらいにして、我が孫娘の点てた茶を満喫いたしましょうぞ」

 張り詰めた空気を切り裂くような松尾の自慢声が凛として一座に響いた。


 京都で神村の晋山式が行われていた同刻、東京センチュリーホテルの一室でも、ある秘密の会合が催されていた。

 天真宗八雲御所瑞真寺の当代門主・栄覚権大僧正の呼び掛けに応じ、立国会会長の勅使河原公彦、総本山滝の坊の中原遼遠、桂妙寺の村田光湛 、桂国寺の坂東明園、相心寺の貫主を辞した一色魁嶺、そして政権与党の重鎮監物照正が顔を揃えていた。

 瑞真寺の門主は、役職に関係なく荒行の回数によって僧階が決まっていた。荒行三回成満で僧正、同五回で権大僧正の僧階が授けられた。

 栄覚は四十七歳。すでに六回の荒行を終えていた。大柄な体躯で、傍目からもその聡明さがわかる顔つきをしていた。

「今頃、京都では勝ち誇った宴に酔っていることでしょうな」

 勅使河原の苦々しい言葉に、

「御門主、なぜ神村に塩を送るようなことをなされたのですか」

 と応じた一色魁嶺の語調には、少し不満の色が滲んでいた。

 プライドの高い彼は、規律委員会で軽い処分に終わったにも拘わらず、むざむざ貫主の座から降ろされたことに納得がいかないのである。

「一色上人、そう怒らないで下さい。今は申せませんが、そう遠からず私の真意がわかるでしょう」

 栄覚は意味深い笑みを浮かべて言った。

「と申されても、神村上人を本妙寺の貫主に据えることには、私も合点が行きませんが」

 村田光湛もまた栄覚の真意を図りかねていた。

「神村上人に関しては、この一年、二年の辛抱で決着が付くとの報告が上がっています」

「誰からですか」

 村田の問いに、栄覚は不適な笑みを零した。

「それは皆様にも申し上げられません。敵を欺くにはまず味方から、との教えもございます」

「では、これ以上の詮索は止めますが、間違いはないのでしょうね」

 村田が念を押した。

 栄覚は黙って肯いたが、

「ですが、さらに大きな障害が出来てしまいました」

 と険しい顔つきで言った。

「はて? 御門主のお言葉を信じれば、神村上人の件は片が付くとのこと、では他に誰が障害となるのですかな」

 勅使河原公彦が訊いた。

「おわかりになりませんか」

 栄覚の問い掛けに、一同は首を傾げて黙り込んだ。

「森岡洋介という男ですよ」

「森岡?」

「なぜ彼が」

「まさか、そのような」

 一同はそれぞれ唖然として呟いた。

「なるほど、神村上人の宗教人としての足跡にはこの私も頭を下げざるを得ません。もし上人が御宗祖様の直弟子の一人であったなら、必ずや後継に指名されていただろうと思うほどです。ですが、それは大昔の話。現代おいては宗教人として秀でているというだけで法主になれるほど単純ではありません。もっとも上人自身は法主どころか、本妙寺の貫主の座すらも望んでいたかどうかはわかりませんがね」

「まさか、そのような」

 一色が疑いの眼差しを向けた。

「確かです。神村上人は、己自身が宗教人としての高みに達することができれば、そして御宗祖様の教えをあまねく世に広めることができれば、僧階や役職には無欲だと思われます。事実、彼一人であれば、私もこのように警戒することもなかったですし、私が手を下さなくとも、法主の座はおろか、本妙寺の貫主の座すら射止められたかどうかも疑わしい」

 栄覚は確信に満ちた表情で言うと、ふっと自虐的な笑みを浮かべた。、

「それを、森岡という男の存在が、この私にここまでのことをさせた」

「では、今後も森岡が門主様の前に立ち塞がるとお思いなのですか」

 勅使河原が穿った目で訊いた。

「彼のその後の人生目的によっては……」

「その後? いったい何の後でしょうか」

 村田が訝った。

「いえ。何でもありません」

 栄覚が口籠もったのを見て、

「お言葉ですが、御門主は神村上人とは早々に決着が付くと申され、最有力候補の中原上人とも話が纏まった今、森岡が誰を担いだとしても御門主の相手にはならないでしょう」

 村田の言葉に、

「法主の選出権を持つ四十六の子院に、十億ずつ配っても四百六十億程度です。相手が神村上人でなければ、金で済む話ではないでしょうか」

 と、勅使河原も同調した。

「いや、それは避けたいと思います。その程度の金なら、早晩森岡も手に入れることでしょう」

「では二十億」

「それはいけません、ますます買収競争になるばかりで、宗門の品位を著しく落とします」

 栄覚は不快感を滲ませて言った。

「勅使河原会長、御門主は買収工作などお望みではない」

 監物照正が釘を刺した。

「しかし……」

 それでも勅使河原が反論しようとしたが、

「金だけではない。独断で伊能とかいう探偵に暴力を振るったばかりか、森岡をも襲わせるなど、御門主の威光に傷を付ける蛮行ですぞ」

 監物が強い口調で咎めたため、

「むむ……」

 勅使河原はぐうの音も出なくなった。

 大物国会議員の威圧には、さしもの勅使河原も反抗できない。

「では、御門主はどのようにお考えなのですか」

 栄覚らしからぬ煮え切らない態度に、一色が苛立ちを露にした。

「そこが悩ましいところです。森岡がこれほどの男だとわかっていたのなら、彼と手を組んで神村上人を先に法主にすべきだったかと、後悔しているほどです」

「それほどの男とは思えませんが」

 一色は吐き捨てるように言った。

 森岡洋介と直に接し、その力量は認めていたが、栄覚ほどの人物にそれほどの言葉を吐かせることに嫉妬しているのである。

「当初私は、村田上人さえ味方にすれば、それで事は決着すると思っていました。神村上人の傍らに彼の存在を知ったときも、然程気にはしていませんでした。ただ念のためにと、父との縁を利用し、斐川角上人を取り込んでおいたのです。ところが森岡という男、本妙寺では圧倒的に不利な状況から、あわやというところまで盛り返し、法国寺の件でも清慶上人の磐石の優勢を崩しました。実に空恐ろしい男です。私が本妙寺の件で、急遽一色上人と坂東上人に協力を求めたのも、彼に対する恐れがあったからです」

 栄覚は正直な心情を吐露した。

「少々過大評価に過ぎませんか」

 一色はなおも不満顔で反論した。

「数百年の長きに亘る総本山と在野勢力の確執を雪解けさせ、さらに今後本格的に修復させるかも知れないのですぞ」

 栄覚が語調を強めた。

「御門主のおっしゃるとおり、総務と鎌倉の間を取り持つことに成功するとは想像だにしませんでした」

 村田が栄覚に同調すると、

「その結果、大本山のほとんどが森岡の軍門に下ってしまいました」

 板東明園も投げやりな口調で付け加えた。

 総務とは藤井清堂、鎌倉とは久田帝玄のことである。久田の法国寺貫主就任に続き、神村が本妙寺の貫主に就き、作野の国真寺をはじめとする静岡の三つの大本山も総務清堂の意向で森岡と親密な関係になっていた。

 唯一、旗色が不鮮明なのは、大河内が辞任した傳法寺だけという状況だった。

「しかも実際に会いましたが、敵にしたのは間違いだった、とあらためて思い知らされました」

「御門主は森岡にお会いになったのですか」

「偽名を使いましたが、見事に正体を見破られてしまいました」

 栄覚は一色に向かって苦い笑みを浮かべ、

「先程も申しましたが、この男は鎌倉どころか、敵対していた総務清堂上人まで取り込み、あまつさえ両者を和解まで取り持っています。この事実は、彼が単なる策略家に留まらず、人徳者であることの証明に他なりません。これは大いなる脅威となるでしょうな」

 と溜息混じりで言った。

「それは、まあそのようですが」

 一色は苦虫を噛み潰した。

 栄覚の畏怖すら滲ませた物言いに、村田は一抹の不安を抱きながらも、

「しかし、繰り返すようですが、いくら森岡が脅威であろうと、彼の担ぐ人物が御門主に比べ凡夫であればどうにもならないでしょう」

 と重ねて主張した。

「それはどうでしょうか。神村上人や中原上人以外であっても、この男の人徳と智力、そして財力があれば四十六子院の中にも靡く者が多いのではないでしょうかな」

「たしかに、あの大河内上人や芦名上人、斐川角上人の心まで掴んだと耳にしておりますし、かく言う私も籠絡された一人です」

 と、坂東は恐縮の体で言った。言うまでもないが、彼は大河内、芦名、斐川角とは違い、金に転んだだけである。

「坂東上人の言われるように、彼の魅力はなかなかのものです。ですが、私が真に危惧しているのはそのことではありません」

「他に何があるというのですか」

 村田が怪訝そうに訊いたが、栄覚は答えなかった。

 その場に疑念と困惑の空気が蔓延したときだった。それまで沈黙を通していた中原遼遠が初めて口を開いた。

「もしや御門主は、森岡自身が仏門に入ることを懸念されておられるのでは?」

「まさか、そのようなこと」

 村田光湛が驚嘆の声を発した。他の者も一様に驚きを隠せない。

「私にとって、それが一番の脅威となるでしょうな」

 栄覚は皆を見回しながら、ゆっくりと肯いた。

「そのような情報を耳にされているのですか」

 一色魁嶺が忌々しげな口調で訊いた。

「いえ。そうではありませんが、彼の傍には神村上人をはじめ、久田上人、総務清堂上人など数多の高僧が控えているのですよ。何かのきっかけでその気になっても不思議ではありません」

「うーん」

 一同が唸った。

「彼らが挙って薫陶すれば、あの男、宗教人としても一廉の者になると見ます」

「彼にそのような素養がありますか」

「素養? これはまた、中原上人のお言葉とも思えませんな。私も含め、この中に自らの素養というものを確信してこの世界に入ったお方はおられますかな」

 門主は皮肉混じりに言った。むろん、中原個人に向けてのものではない。

「私たちは皆寺院の子として生まれ、己の宿命に従っただけではないですかな」

 と言った後、一色と目が合った。

「一色上人は養子に入られましたが、それとて宿命にございましょう。しかし、森岡は、あの神村上人が自ら進んで手元に置いたと聞いています。ただ単に、人生哲学を教えるためだけだったとは思えません」

「神村上人は、森岡にこそ宗教人としての素養を見抜き、手元に置いたといわれますか」

「そのように考えれば合点が行くのではないですかな。それに、この男にはある種の『狂気』が感じられます」

「侠気?」

 中原が聞き返した。

「なるほど、彼には侠気もあるようですが、私が言うのは狂気です。神村上人に対する献身ぶりはまさに狂気そのものです。狂気と覚醒は表裏一体。ひとたび彼が宗教の真理を求め出せば、狂おしいまでにとことん突き詰めるでしょうな」

「しかし、彼はすでに三十七歳。仮にいますぐ仏門に帰依し、順調に荒行を積み重ねたとしても、年齢的に貫主の資格を得る五回が限度ではないでしょうか」

 中原はなかなか引き下がらなかった。ようやく神村との決着を見たというのに、その愛弟子の森岡洋介が脅威になると言われても納得が行くはずもなかった。

「それはそうでしょう。ですが、森岡自身が法主の資格を得られなくても、荒行を重ねる過程で、彼は人徳、智力、財力に加えて、さらに法力まで身に付けることになります。そのうえで誰かを担げば、彼の言はただの財界人のそれより遥かに説得力を増すことになります。これは神村上人どころの比ではありません」

 栄覚の言葉に、その場を重苦しい空気が支配した。

 それを打破したのが勅使河原だった。

「では、いっそのこと排除致しますか」

「排除? まさか命を奪うと」

 栄覚が驚いたように訊き返した。

「この際、他に取るべき方法がなければ、それも致し方ないかと……」

 味一番の件で煮え湯を飲まされ、遺恨を晴らす機会を狙っていた勅使河原ならではの物言いだった。

 だが、

「うほん!」

 と、監物が強い咳払いをして勅使河原を睨み付けた。

「おっと、これは失言でした。先ほどの忠告を忘れていました。今の言葉は聞かなかったことにして下さい」

 勅使河原はあわてて取り消した。監物は大物国会議員であると同時に、元警察庁長官である。彼の前で犯罪紛いの発言は言語道断であった。

「会長、宗教人にあるまじき発言ですぞ。そのようなことは、今後も努々お考えなさらないように……」

 と、栄覚も厳しく釘を刺した。

「……」

 怒気をも含んだ栄覚の一喝に肩を窄めた勅使河原に、

「会長、心得違いもほどほどにされよ。何と言っても、御門主は宗祖栄真大聖人の血脈者ですぞ。何度も言いますが、過度の買収工作しかり、暴力に訴えることしかり、そのような愚行で宗門自体を貶めるようなことだけは死んでもなさらない」

 監物が栄覚の心中を代弁し、

「しばらくは相手の出方の様子見となりそうですな」

 と諦め口調で締め括った。

「一つの区切りが付いたと思いきや、長い闘いの始まりに過ぎなかったようです」

 栄覚の嘆きのような呟きに、一同は返す言葉がなかった。

 

 


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