第44話 第六巻 決意の徒 周到
大阪に戻ってから数日後のある夜、石飛将夫は梅田の高級料亭幸苑に於いてある男を接待していた。
三十歳手前、長身で中肉中背、目元が涼しく鼻筋の通った美男は丸種証券株式部の井筒孝之(いづつたかゆき)である。
かつて石飛が勤めていた丸種証券は、社員数が二百三十名ほどの中堅証券会社で、関西を本拠としていた。井筒は、四年前に石飛が懲戒解雇されるまで部下だった男である。仕事のイロハを教わったのが石飛であり、井筒は彼が顧客の金を着服した経緯も知っていた。
石飛は幸苑でも最上級の部屋を用意した。むろん、森岡の指図である。
「これは……」
井筒孝之は言葉を失った。
料理もコースではなく、板長のお任せとした。これもまた、森岡が女将の村雨初枝に話を通していた。
幸苑は大阪でも指折りの高級料亭である。関西政財界のお歴々も足を運ぶ名店である。そこの最上級の部屋、しかも板長のお任せ料理となれば、目の玉が飛び出るような高額料金となる。
だが、井筒が驚いた理由は他にあった。ほんの十年ほど前のバブル絶頂期には、銀行、証券といった金融機関は異常な株高で活況を呈していた。数千万円のボーナスを手にした証券マンが、マスコミの間で話題になったりもした。
井筒自身はバブルの恩恵に預かっていないが、先輩諸氏から数多の零れ話を聞いていた。それなりの交際費を使える主任の立場に職にあった石飛からも、高級料亭での宴会や北新地のクラブをはしごした話を聞いていた。だが、その石飛にしても、幸苑は役員クラスの上司と同伴でないと敷居が跨げないと耳にしていた。
実は井筒も、幸苑には一度だけだが、顧客である中小企業の社長に連れられて来たことがあった。したがって、いまさら厚遇の接待に驚くことはない。井筒が目を疑ったのは、接待主が石飛将夫だということである。
丸種証券を懲戒解雇された後、西成で日雇い労働をしているという噂を耳にしていた。噂の真偽はともかく、彼がこのような料亭に足を運べるとは信じられないのである。
いや、金だけの問題であれば奇跡は起こるかもしれない。競馬で大穴を当てたとか、宝くじが当ったとか、そういう幸運は誰の身にも起こり得る。
だが、この幸苑は『一見はお断り』を標榜している店だと承知していた。極道の世界においては、伝説の大親分である神王組三代目の田原政道でさえ入店を断られたという噂を、二十八歳の若造でも耳にするほど幸苑は高名な料亭なのである。丸種証券時代に利用していたというだけでは入店できないはずだった。
石飛将夫は、如何にしてその幸苑から入店を許されたのだろうか――。
井筒孝之の疑念はそのことなのである。
「幸苑を使えることが不思議か」
石飛もそのことは見抜いていた。
図星を指された井筒は、
「いや、その、まあ……」
としどろもどろになった。
「君の疑念はわかる。俺自身も、我が身の浮き沈みの激しさに戸惑っているからな」
石飛は自嘲の笑いを浮かべた。
「主任の身に何が起こったのですか」
「主任は止してくれ」
「では、先輩と呼びます」
とあらためた井筒の両眼が鈍く光った。
「ところで、今日は私に何の用ですか」
石飛は酌をしながら、
「難しい話は次にしないか。今夜は互いに久闊を叙して飲もうや」
と言った。
「うーん」
井筒は満たされたグラスに口を付けず、そのままテーブルに置いた。
「そのように硬く考えるな。君に迷惑の掛かるような話しではないから」
石飛は気分を和らげるように言うと、鞄から封筒を取り出した。
「これは車代だ」
「車代?」
井筒は差し出された封筒の厚みを見て訝しげに言った。百万円だと思われた。
「心配するな、汚い金ではない。君も何かと物入りだろう」
石飛は含みのある言葉を吐いた。
森岡は、勅使川原公彦が立国会の資産の一部を株式で運用していると突き止めていた。立国会の元中国地区の幹部だった南目昌義からの情報である。昌義はさらに、旧知の立国会員から、資金の三分の二は複数の大証券会社で分散投資、残りの三分の一を丸種証券ら関西の中小証券会社を通じて仕手株に手を出している事実を聞き出していた。
勅使川原が所有する宗教法人・勅志会の内情までは掴むことができなかったが、おそらく同様の運用方法だと推測された。
関西の中小証券会社は、古くから仕手筋が良く利用していた。というのも、いわゆる『天下の台所』と呼ばれた時代から、米相場を操ったのは関西商人だったという風土や、そもそも創業者自身が一廉の相場師だった者が多く、気概というか気心が通ずるのである。
そこで森岡は、探偵の伊能剛史に丸種証券の社員の身上調査を依頼した。簡単に言えば、金に困っている者を洗い出し、籠絡しようというのである。
その結果、候補に浮上したのが井筒孝之だった。
井筒の人生は貧乏との二人三脚だった。幼い頃、両親が離婚したため、母の手一つで育てられた。絵に描いたような貧困生活の始まりである。もっとも、井筒本人は慣れっこになったようで、少々の生活苦には動じない精神が養われたと前向きに捉えている。
アルバイトをしながら、大学の二部つまりは夜間授業を受けて、丸種証券に入社した。営業成績も優秀で、この不況下でもリストラの憂き目に遭うことはない立場だった。
だが、井筒は金を切望していた。
彼には結婚を約束した女性がいたのだが、その彼女というのが京都で二百年の歴史を誇る老舗の呉服屋の娘だったのである。
当主の社長が丸種証券の顧客であり、井筒も担当補佐として呉服屋へ通っているうち、娘と知り合い交際に発展したという経緯である。
二人は結婚に向けて準備を始めているのだが、費用の分担という問題に直面していた。裕福な新婦側は、式や新居の費用は心配要らないと申し出たが、井筒は自身の力で賄いたいと思っていた。婿に入るのではなく、あくまでも嫁に貰う側だというプライドがあったのである。
とはいえ、井筒には方策がなかった。入社五、六年では退職金の前借などできる相談ではないし、証券不況の中、破格のボーナスなど期待できない。唯一の可能性としては、それこそ巨額の資金を運用してくれる得意先を獲得することだった。
数十億円単位で売買を繰り返し、年間売買手数料が一億円を超えるようなことがあれば、多額のボーナスも期待できた。しかし、そのような幸運などそうそう舞い降りるものではない。
井筒は忸怩たる思いで時を過ごしていたのである。
伊能の報告を受けた森岡は、石飛に命じて井筒の懐柔を指示した。
「先輩の目的は何ですか」
井筒は封筒の上に手を置き、突き返した。
「本題はまたにしようと思ったが、仕方がないな」
井筒は真顔になると、
「情報が欲しい」
と言った。
井筒の面を不安の色が覆った。
「情報とはどのような」
「心配するな。インサイダーといった犯罪行為ではない」
インサイダー情報ではないと聞いて、井筒の表情が幾分和らいだ。
「では、いったいどのような」
「端的に訊こう。立国会や勅志会の金を扱っているだろう」
「……」
井筒は返答を躊躇した。丸種証券にとっては最上級の顧客だったのである。
「調べは付いているんや」
「ではなぜ?」
「確証が欲しいのや」
石飛はもう一度封筒を押し出した。
「返事がし辛いのやったら、首を振ってくれ。どうだ」
井筒はなおも逡巡していたが、やがて観念したように首を縦に振った。
「いくらぐらいだ。百か」
単位は億である。
井筒は横に振った。
「では二百?」
また横に振った。
「三百か?」
石飛の声が上ずった。
「いえ」
と、井筒が言った。語調に反対だとの意が含まれていた。
「ああ、五十ぐらいか」
井筒は首を縦に振った。
「五十ということは、丸種が本星ではないのやな」
井筒はまた首を縦に振った。
「いあや、ありがとう」
石飛はここで話を打ち切った。まずは皮切りである。程好いところで引くのが上策だった。
「どうだ、この後時間はあるか」
「はい。家に帰っても誰もいませんし……」
「そう言えば、入院中のお袋さんの調子はどうだ」
「お陰さまで快方へ向かっていますが……」
井筒は語尾を濁した。少額の生命保険にしか加入していなかったので、医療費がかさんでいた。
「お前も何かと大変やろ。今後も手助けするで」
「……」
井筒が警戒の目を向ける。
「誤解するな。情報とは関係なくや」
「先輩は、その……」
井筒の語調が疑念を訴えていた。石飛もそれは承知していた。
「詳しいことはまだ言えないが、金主を見つけたんや」
「丸種の顧客ですか」
石飛はにやりと首を横に振った。
「いずれ、君にも引き合わせるつもりだ」
「その金主というのは、勅使川原氏の相場に提灯をつけるつもりなのですか」
提灯をつけるとは、有力な大手筋に付和雷同して売買することで、鯨に吸着するコバンザメみたいなものである。
――そんな姑息なことじゃない。
と、石飛は口から出そうになったが、
「まあ、そんなところだ。だから、これからも便宜を図ってくれれば、それ相応に謝礼はする」
そう言って、石飛は封筒を仕舞えと目で訴えた。
幸苑の後、石飛は井筒をロンドに誘った。
井筒はまたも目を剥いた。ロンドは北新地でも指折りの高級店である。三十歳手前の若いママは、とてつもない美貌の持ち主との噂は耳にしていたが、実際に自分の目で確かめたことはない。長らく続く株価低迷で、証券会社はどこも青息吐息である。
「いらっしゃいませ、石飛様」
ママらしき美女が挨拶した。井筒の目にはずいぶんと親しげに映った。石飛はこのクラブでも常連なのだろうと推測した。
むろん、これも森岡の計略である。石飛は、ロンドには森岡のお供で二度訪れただけである。
「山尾茜と申します」
「丸種証券の井筒孝之です」
緊張の声で言った井筒を、
「彼は丸種のエースだよ」
と、石飛が持ち上げた。
「まあ、それは素晴らしいですわ」
茜はことさら目を輝かせた。
「いや、それは……」
井筒は戸惑いと照れの入り混じった顔をした。
「わあ、凄い。仕事ができるのですね」
「石飛さんがおっしゃるのなら間違いないわね」
席に着いたホステスたちが口々に煽てた。
これもまた森岡の謀である。
案の定、井筒は頬を紅潮させた。言うまでもなく、ロンドのホステスたちは粒揃いである。それも並みの美女ではない。皆、アイドルか女優の卵といってもおかしくないほどの美形である。遊び慣れていない者であれば、気分が高揚しても無理はない。
井筒が育った環境から、森岡は飾った世界を見せることが効果的だと考えた。純朴な青年に対して、あまり筋の良いやり口ではないが、森岡は心を鬼にしていた。
「ママ、ワインにしようかな」
石飛が茜にサインを送るように言った。
「いつもので宜しいでしょうか」
茜も取って付けたように訊いたが、上気した井筒は何の違和感も抱かなかった。
茜の指示で黒服が持って来たのは、ロマネ・コンティだった。一本が百万円もする最高級 酒である。
「これは……」
井筒は溜息を吐いた。
彼にとっては夢のような時間が流れた。これまで華美、絢爛、飽食といった言葉と無縁の人生を送って来た。お盆と正月が一緒に来たという程度のものではなかった。少なからず心を浮つかせた井筒だったが、片隅に冷静な部分も残していた。
石飛が席を立った隙に、
「いつもこうなのですか」
と、茜に訊いた。
彼女はたおやかな笑みを浮かべ、
「はい」
と肯いた。頭に森岡の姿を浮かべての返答である。
「石飛さんはどなたと一緒に来られるのですか」
「ウイニットの森岡様ですが」
「森岡……」
井筒は目を丸くして茜を見た。証券マンであれば森岡洋介の名を知らない者はいなかった。ITベンチャー企業が東京に集中する中で、数少ない関西が本拠の企業なのである。
「どうして」
と訊こうととして井筒は言葉を切った。この際、理由などどうでもよいことだった。森岡であれば確かな金主である。それがわかっただけで十分だった。
だが、
「森岡様の幼馴染のお兄様だそうですよ」
茜が自ら話した。
――なるほど……。
井筒は得心した顔つきになった。同郷であれば、過去の不祥事など不問に付してもおかしくはなかった。
「井筒様は石飛様の後輩でいらっしゃるのでしょう」
「部下でした」
「それは良いですね」
茜の言い様には含みがあったが、井筒は悪意を感じなかった。
「先輩の金主って森岡という人ですか」
席に戻った石飛に、井筒は待ち兼ねたように訊いた。
「誰から聞いた」
「ママさんです」
「ママも口が軽いなあ……」
と、石飛は口を尖らせたが、これも芝居である。
「私がしつこく訊いたものですから」
井筒は茜を庇った。
「先輩は森岡さんと同郷だそうですね」
「同郷いうても俺の一家は、俺が中学一年のときに故郷を出ているから、それほど親交があったわけではないが、俺と森岡社長との間には曰く言い難い因縁があってな、今は世話になっているのや」
「因縁?」
「それは、今は言えんが、森岡社長が金主なのはそのとおりや」
「さきほど、森岡社長は提灯買いをされる、と言われましたね」
「まあな」
「丸種を使って貰えるのですか」
森岡であれば、多額の投資をするかもしれないと皮算用をしての問いだった。
「それは俺にもわからん」
石飛は素っ気無く言った。
「先輩、何とか森岡社長に丸種(うち)を使ってもらえるよう話をしてもらえませんか」
「ついでに担当者を俺にしてくれ、ってか」
石飛は井筒の心中を覗き込むように言った。
「ま、まあ、できればそうして貰えれば……」
井筒は気まずそうに目を逸らした。
「社長には話をしてみるが、あまり期待はするなよ」
石飛は可能性が低いことを示唆して話を打ち切った。
それから一時間ほど昔話をした後、井筒は店を出た。
井筒の姿が消えると、石飛はVIPルームに入った。そこには森岡、蒲生、足立と宗光の四人がいた。
普段、森岡がこの部屋を利用することはない。ロンドは名立たる企業のお歴々も通う店である。自分が使用してしまうと、彼らの足が遠のくのではとの森岡の配慮である。しかし今宵は、井筒と石飛の様子を窺うため、VIPルームに身を潜めていたのだった。
森岡はホステスたちに、しばらくの退席を願った。
「どうだった」
「脈はあります」
石飛は、少し高揚した顔つきで井筒とのやり取りを話すと、
「もう一押しだな」
聞き終えた森岡が腕組みをした。
「何か良い策がありますか」
と、石飛が遠慮がちに訊いた。
しばらく沈思していた森岡は、
「京都へ行ってみるか」
と呟いた。
翌日の夜――。
森岡洋介の姿が京都祇園のクラブ菊乃にあった。森岡の初めての女性である片桐瞳がオーナーママの高級クラブである。
元々は、桂国寺貫主の坂東明園を籠絡するために、森岡が一億円を出資してオープンさせた店だった。しかし、柿沢康弘の片桐瞳に対する卑劣な蛮行の慰謝料として取り立てた五億円の中から、瞳がその一億円を返済したため、今や名実共に彼女がオーナーの店であった。
「あら、ずいぶんと御見限りだったこと」
瞳はいきなり嫌味を言ったが、目は微笑んでいた。
「何やかやと忙しくてな」
「神村先生の件が決着したので、京都には用がないというのね」
「そういう訳やない。京都どころか、大阪ですら落ち着いておられんのや」
全国を飛び回っていると、森岡が弁解すると、
「それじゃあ、茜さんも寂しいでしょう」
瞳がからかうように言った。彼女は森岡が茜と結婚することを知っていた。
「いや、彼女は彼女で色々あるからな」
「お店を引かれるのでしょう」
「そうや。それで店を誰に任すか悩んでいるところや」
茜は、森岡と所帯を持つのを機に、水商売から足を洗うつもりでいた。ロンドはちいママに任せようと考えていたが、当人が器ではないと辞退したため、代わりの人選に悩んでいたのである。
「結婚するのも、案外楽じゃないのね」
瞳は同情の色を滲ませて言う。
「それで、今日はどういった用件なの」
「なんや、ようわかるなあ」
「洋介が、ただ酒を飲むために京都くんだりまで足を運ぶはずがないでしょう」
「それなら話は早い」
森岡は苦笑いをしながら、
「鈴川という呉服屋を知っているか」
と訊いた。
瞳の目に怒りが宿った。
「馬鹿にしないでよね。鈴川って京都でも名の通ったお店なのよ」
「それは悪かった。じゃあ、お姉ちゃんも着物を買ったことがあるのか」
「芸者のときに二、三度あったかな。今はほとんど洋服だから無沙汰しているけど……」
「そうか。でも、お姉ちゃんは着物も似合うけどな」
「あら? じゃあ、一枚買ってくれない」
瞳は甘える仕種をした。彼女は四億円という大金を手にしている。店の経営も順調である。だが、夜の世界に生きている女は、いや女という動物は男からの贈り物を期待する生き物なのだ。
「良いよ、買おう」
「嬉しい。でも良いのかしら、茜さんは大丈夫なの」
「茜はこんなことで悋気するような女じゃない」
「それはそうね。いちいち焼餅なんて焼いていたら、貴方とは一緒になれないものね」
瞳は自分自身が納得するように言った。
「その代わり、ちょっと頼みがあるんや」
「やっぱり」
そう言って口を尖らした瞳に、森岡は顔を近づけた。
一週間後、石飛将夫は井筒孝之からの連絡を受け、幸苑に席を設けた。その動揺した声から、彼の身に何か降り掛かったようだった。
「先輩。前の件ですが、森岡社長さんに話して頂けましたか」
井筒の声には切迫性が感じられた。
「話しはしたが……」
と、石飛は語尾を濁して不首尾を臭わせた。
「駄目でしたか」
井筒は落胆の色を露にした。
「どうかしたんか」
石飛は気遣うように訊いたが、むろん芝居である。森岡の仕掛けた罠に嵌まり、焦っているのが手に取るようにわかっていた。
「実は、困ったことになりました」
と、井筒は深刻な顔で、婚約者の父親から言われたことを話した。
それに寄ると、昔馴染みの祇園のクラブのママが、着物の反物を買い求めにやって来たのだが、その折聞き捨てにできないことを言ったのだという。
「何と言ったんや」
「私が新居のマンションの購入を決めた、と言ったらしいのです」
「ん? 別におかしいことはないやろ。結婚するんやろ」
「ええ、でもまだ新居をどうするかは決めていないのです。それを寄りによって、五千万もする高級マンションを買うだなんて、私には無理なのです」
「だったら、デマだと言えば良いじゃないか」
「それができないのです」
「わからんなあ」
「元々、彼女の両親は結婚に掛かる諸費用の一切を持つ、と言ってくていたのです。もし、私には買えないなどと言ったら、それこそ話が蒸し返されてしまい、今度こそ断れなくなります」
石飛は呆れ顔になった。
「君もおかしな男だな。費用を出さないと言っているのではなく、全額出すと言っているのだろう。出して貰えば良いじゃないか」
彼女の両親は、井筒孝之が苦学したことを知っていて、むしろ甘やかされて育っていないと好意的に捉えていたのである。
「私のプライドが許さないのです」
「彼女の両親は、憐れんでいるのではないと思うがな」
「それはわかっています。でも、婿に入るのではありません。あくまでも私は嫁として彼女を貰うのですから……」
「それで、そのママさんとやらの話を認めたのだな」
「仕方なく」
適当なマンションを物色中だと言ったのだという。
「全額、お前が出すのだな」
「いえ、先方の、折半しようというご厚意は受けることにしました」
「頭金にもよるが、半分というと二千数百万円か。銀行でローンを組んだらどうや」
「ローンは組めません」
「なんでや。丸種やったら問題ないやろ」
丸種証券は、大阪証券取引所の一部上場会社だった。
「保証人がいないのです」
井筒は唇を噛んだ。両親は彼が子供のとき離婚していた。親戚とも縁遠く頼れる者がいないというのだ。
「彼女の両親では嫌なんだな」
「半額を出して頂き、残りのローンの保証人にまでなって貰ったのでは、結局おんぶにだっこになってしまいます」
「お前も難儀な男やな。折半の提案を受け入れたのなら、全額でもあまり変わらんがな」
石飛は苦笑いをすると、
「それで、どうするつもりや」
と、井筒を覗き込んだ。
井筒は喉の渇きを潤すかのようにグラスを一気に飲み干した。
「私の保証人をお願いしたいのですが」
「俺にか?」
「はい」
「それは無理や。俺はまだ定職に就いておらん」
石飛は即座に断った。
「そうでしたね……」
そう言った井筒だったが、表情に落胆の色はなかった。
「先輩、先輩は森岡社長に信頼されているのですよね」
井筒が念を押すように訊く。
「まあ、株式投資を一手に任されているから、ある程度はな」
石飛は自身有り気な顔を向ける。
「でしたら、森岡社長さんに助けて貰えるよう頼んで頂けませんか」
「しかし、お前を担当にして丸種で株を売買したところで、二千数百万の高額ボーナスを手にできるほど手数料は稼げんやろ」
「ですから、その……」
井筒は目を伏せた。
「何や。この際や言うてみい」
「森岡社長さんに保証人になって頂けないかと」
井筒は顔を真っ赤にして俯いた。
うーん、と石飛は唸った。
「いくらなんでも、見ず知らずの他人に保証人は頼めんやろ」
「それはそうですね」
井筒は、今度は明らかに肩を落とした。端から森岡が本命だったのだ。
だが、と石飛が語調を変えた。
「事の次第を打ち明けて頼んだら、保証人ではなく金を貸して貰えるかもしれん」
「え?」
「森岡社長は人助けが日課のような人だからな」
「本当に……」
井筒の顔が明るくなったが、それも束の間だった。
「でも、保証人がいません」
今、井筒自身が保証人がいないと言ったばかりだった。
「それは大丈夫や。俺が保証人になったろ」
「先輩が……?」
銀行ローンの保証人にはなれないと言ったはずである。
「森岡社長に信頼されているというのは嘘ではないし、今は定職に就いていないが、いずれ社長の会社に入る予定なんや」
「では、ではそのようにお願いして頂けませんか。もう他に頼る人がいないのです」
今にも泣き出しそうな井筒に、石飛は心に痛みを覚えた。彼もまた中学時代に父を失い、苦労する母親の背を散々見ていた。同じような境遇に育った井筒を騙すようなことはしなくなかったが、ただ最終的には井筒にとっても悪い話ではない、と自分自身に言い聞かせていた。
「じゃあ、お前から直接頼んでみろ」
「はあ?」
井筒は、瞬時言葉の意味がわからなかった。
「社長は近くにいらっしゃる」
「……」
「お呼びするから、待っていろ」
石飛はそう言い残し、部屋を出て行った。
井筒は大きな動悸を繰り返していた。まさか、森岡当人と会うことになるとは思いもしなかった展開だった。
五分後、石飛が森岡を連れて戻って来た。蒲生、足立と宗光も一緒だった。
「私が森岡です。大まかな話は石飛から聞きました」
森岡は鷹揚に笑いながら、井筒に酌をした。手にしたグラスが震えていた。
「は、初めまして、井筒孝之と申します」
井筒は緊張の声で自己紹介し、森岡のグラスにビールを注いだ。
「良いでしょう。二千五百万をお貸ししましょう」
森岡はあっさり言った。
「……」
井筒は拍子抜けしたような顔をした。
「ただし、条件があります」
森岡の眼つきが鋭くなった。
「一働きして頂きたい」
「情報をお渡しするのですね」
「うん? どういうことですか」
森岡は怪訝な顔をした。
「森岡さんは提灯買いをされるのではないのですか」
井筒は過日の石飛との会話を思い出していた。
――ああ、なるほどそう言う話になっているのか。
森岡は仔細を飲み込むと、
「いや、それも考えましたが、止めました」
と如才なく答えた。
「では、私は何を?」
「こちらの情報をある人物に流して頂きたい」
井筒は少し考え込んだ後、
「立国会ですね」
と勘良く言った。
「そうです」
「しかし……」
井筒は困惑した顔つきになった。
「ご心配なく、不正な情報を流せとは言いませんから」
「では、どのような」
「私の動向を向こうに伝えて欲しいのです。たとえば、私が手掛ける銘柄とか……」
「はあ?」
井筒は間の抜けた声を出した。
通常の株式売買では、安い値で買い、高い値で売って値鞘を稼ぐのが常道である。逆もあるが、その場合は信用取引になるので、素人には手が出し辛い。効率良く値鞘を稼ぐには、なるべく仕込み作業を察知されないように注意を払うのが肝要なのだが、それをわざわざ知らしめるとは愚考にも程があるというものだ。
「まあ、それ以上は追々ということで、今日は大いにやりましょう」
森岡は井筒に酌をしながら、話しに蓋をするように言った。
すると、井筒が急にそわそわし始めた。
「どうかしたのか」
石飛が声を掛けると、
「あのう、森岡さんにもう一つお願いがあるのですが」
井筒は伏せ目勝ちに言った。
「何ですか」
森岡はどこまでも柔和である。
「実は……、実は……」
井筒は何度も言い掛けて口籠もった。
「おいおい、自分から言い出しておいて、それはないだろう」
石飛が急かすと、ようやく井筒は腹を決めた顔つきになった。
「森岡さんに私の結婚式で出席して頂けないかと……」
そう言うと、井筒は流れ出る冷たい汗を拭いた。
「いきなり何を言うとるんや」
石飛が怒ったように言った。それはそうだろう、初対面の相手を自身の結婚式に招待するなど常軌を逸している。
蒲生、足立、宗光の三人もまた失笑する中でただ一人、当の森岡だけが井筒の心底を見抜いていた。
「承知しました。でも、私一人で良いのですか」
「はあ、ですが他には知り合いがいませんので」
井筒は肩を落とした。森岡はにやりと笑った。
「貴方がその気にさえなれば、味一番の福地社長もどうにかなります」
と言ったところで、はたと気づいた。
「そうそう、表千家の室町宗匠や、法国寺の久田貫主にも声を掛けられますよ」
森岡は、マンション購入費用に拘る井筒であれば、結婚披露宴に出席する者の社会的地位にも拘りを持っていると看破したのである。何と言っても、新婦側は京都の老舗呉服屋の令嬢である。経済人はもちろんだが、宗教人や茶道や華道といった文化人とも知己があるに違いない。
「ま、まさか……」
井筒はあまりの大物の名の連続に信じられないという顔をした。
「嘘ではありません。近々社長は、福地社長と共同事業を始められます」
石飛の説明にも、
「本当に?」
井筒は未だ目を丸くしていた。
「ただし、貴方が私の同志なることが条件ですがね」
「同志?」
「心を一にして人生の目標に向かう、ことですかね」
「人生の目標……」
「そう難しく考えることはありません。一緒に仕事をし、酒を飲み、遊ぶ。そして困ったときは助け合う。ただそれだけのことです」
「皆さんはそうしていらっしゃるのですか」
「そうですね。私たちは皆、家族のようなものですね」
足立の言葉に石飛、蒲生、宗光の三人が大きく肯く。
「私に丸種を辞めて、森岡さんの許で働けと」
「そこまでは申しません。当面は丸種に居て貰います。その後はゆっくりと相談するということでどうですか」
そう言った森岡の横で、石飛が険しい表情を浮かべていた。
「実はな、井筒。前に話した森岡社長との因縁だが、俺はある理由から社長を殺そうと、ナイフで刺したことがあるんや」
「……」
思いも寄らぬ話に、井筒の脳は混乱した。
「ほんま、危ないところだったなあ」
当の森岡は他人事のように腹を擦っている。
「ある理由とは」
井筒は恐る恐る聞いた。
「それは、この場では言えんな」
と明言を避けた石飛は、
「ともかく、理由がどうであれ、森岡社長は俺の蛮行を許して下さったばかりか、こうして仲間として迎え入れて下さる心の広い人やで」
と、神妙に言った。
井筒は懸命に思案した。証券業界は不況の真っ只中だった。バブル崩壊後、日経平均は右肩下がりを続け、最近少し持ち直しているが、これとて継続的なものか怪しいものである。
その点、IT業界はインターネット技術の開花により、時代の華として勢いのある業界である。今後も明るい展望に満ち満ちている。
今現在、株式市場に賑わいが戻り、日経平均が持ち直しているのも、IT業界の上場ラッシュが起因である。少々、バブルの感も否めないが、社会的要請からしてIT業界の未来は保証されている。しかも、森岡はウイニットに留まらず、新たな事業展開にも乗り出している。
――人生を掛けるのは今かもしれない。
井筒の心に熱いものが迸った。
「私も仲間に入れて頂けるのですか」
「貴方さえ良ければ……」
井筒は意を決したような面構えになり、座布団を横に置いて居住まいを正した。
「決めました。宜しくお願いします」
決然とした口調で言って頭を下げた。
「ありがとう」
森岡も軽く頭を下げて謝意を表すと、
「そうなると、二千五百万にもう五百万を加えて三千万を支度金として差し上げます」
事もなさげに言った。
「そ、それはあまりにも……」
井筒は尻込みをした。
「聞くとことに寄りますと、お母様が入院中とか、何かとお金も掛かるでしょう」
「しかし……」
「足立ではありませんが、家族は助け合うのが当たり前です」
――家族か、本当に家族に加えて貰えるのだな……。
井筒は胸が熱くなった。
長い年月、彼には母しかいなかった。その母も近年は病気がちで、経済的にも精神的にも頼ることができなかった。むろん、結婚すれば家族は増えるが、とはいえ眼前の森岡ほど頼りになる男はそうそういるものではない。
「井筒、折角の社長の御好意や、有り難く貰っておけ」
石飛が言うと、
「大丈夫、その分扱き使われて元を取らされますよ」
蒲生が冗談を言って笑った。
「蒲生の言うとおり、貴方には重要な役回りをして貰わなければなりません。三千万はその報酬の前渡し金だとお考え下さい」
と、森岡が微笑んだ。
石飛将夫は、株式売買システムが弾き出した八銘柄の裏付け調査も行っていた。森岡が考案し、坂根秀樹が開発したソフトウェアシステムである。とくに本宮糸が教えてくれた近畿製薬は丹念に調べた。教えてくれたといっても、近畿製薬は買いなのか売りなのか、つまり買い材料があるのか売り材料があるのかわからなかった。
会社四季報の業績欄によると、ここ数年減収減益が続き、今季予想も同様の見込みとあった。つまりは売り材料である。事実、株価は七年前に高値を付けた後、右肩下がりとなっていた。
石飛は丸種証券時代に親交のあった、同じ関西の中小証券会社である『名越三郎(なごしさぶろう)証券』の株式部長の逸見と会った。
その名の通り、昭和初期に名を轟かせた相場師の名越三郎が創業した証券会社である。かつては、このように姓名をそのまま社名とした会社も多く散見されたが、昨今では社名変更によりめっきり少なくなった。
「お前、丸種を退職した後、音信不通だったが、今は何をやっているのだ」
逸見の顔には不審の色が浮かんでいた。
石飛が逸見を呼び出した場所は、言わずと知れた幸苑である。逸見は井筒孝之とは違い、幸苑は何度も暖簾を潜った店であった。逸見は石飛と同年代で、証券部係長の職にあったバブル時代を謳歌していた。その恩恵により、しばしば幸苑の料理に舌鼓を打つことができた。
しかし、その後の証券不況下にあって、幸苑は高嶺の花となった。その幸苑の女将が石飛を常連客、それも相当に上客のように扱っている。逸見の疑念は当然と言えば当然であった。
「ある人物の下で働いている」
「誰だ」
「それは勘弁してくれ。話せるときが来たら話す」
わかった、と逸見はあっさり追及を断念すると、
「これ以上は訊かないが、相当の大物らしいな」
石飛の目を見て言った。幸苑の常連はその男なのだと推量したのである。
「それが……」
と言って石飛は首を捻った。
「よくわからないのだ」
「どういうことだ」
「仕事は鬼のようにできる。人脈も唖然とするほど広い。だがな、いま一つ釈然としない」
石飛の正直な気持ちだった。彼にとって、森岡洋介は浜浦での印象が強烈だった。灘屋の総領として世間から一目置かれる存在ではあったが、石飛にとっては、近所の幼馴染で弟の死に関与していたという記憶の方が鮮明だった。
したがって、森岡の許で仕事をするようになり、彼の実力を目の当たりにしてもピンとこないのである。
「ふーん、嘘ではないようだな」
逸見は、役職こそ違ったが、かつての宿敵であり戦友でもあった石飛の性格を良く知っていた。
「それで、今日は何の用だ」
逸見が本題を促した。
石飛はカッと目を見開き、
「あんたにまどろっこしい駆け引きは止めよう。近畿製薬はどうだ」
と訊いた。
「どうだ、とは?」
逸見は怪訝な顔をした。
「買いか、売りか……」
「なんだと? お前は相場を張るのか……」
と言ったところで、逸見はたと気づいた。
「相場師に付いたのか」
石飛は元証券マンである。相場師の手伝いをしても不思議ではなかった。
ははは……、と石飛は笑い飛ばした。
「そうじゃない。俺のボスは普通の実業家だ。だが、少々株にも興味があるらしく、儲かりそうな株を探せと命じられたのだ」
ともっともらしい嘘を吐いた。
「そういうことか」
逸見は得心した顔つきになり、
「いくらなんでも、近畿製薬に買いはない」
と断言した。
やはりな、と石飛も心の中で頷いた。森岡が考案した株式売買システムでも、売り銘柄として推奨していた。
近畿製薬のここ数年の減収減益にははっきりとした理由があった。
薬害補償である。同社が販売した薬剤により多くの被害者を生んでしまい、補償費用が営業利益を上回っているのである。しかも、その補償はまだ数年先まで続く予定であった。
「近畿製薬なんて、誰も買わないし、カラ売りも妙味はないぞ」
カラ売りとは信用売りのことである。元々の株価が安値なのだから、そこから下がってもしれているのだ。
「お前の意見は聞いておくが、もっと詳しい情報が欲しいのだがな」
「だったら、業界誌の記者を当ってみろよ」
「誰か知っているか」
「『月間現代医療』の蟹江という男なら詳しい情報を持っているかもしれん」
「紹介してくれるか」
「それは構わんが、近畿製薬はないで」
逸見は駄目を押すように言ったが、
内心では、
――こいつ、まさか買いに回るのでは?。
という疑念を抱いていた。
「じゃあ、これはお礼ということで……」
と、石飛は内ポケットから封筒を取り出し、逸見の前に置いた。
「おいおい、幸苑で馳走になっただけで十分なのに、小遣いまでくれるのか」
逸見は驚いたように言った。厚みからして五十万円と見られた。
「今後もいろいろ世話になる」
石飛は含みのある笑いをしながら言った。
「そうか、じゃあ遠慮なく」
逸見は無造作に封筒を背広の内ポケットに入れると、
「ところでお前、今はどこに住んでいるんだ」
「決まったところはない。しばらくはホテルを転々とするつもりだ」
石飛が仲間に加わることになったとき、森岡は此度の仕手戦の中心に据えようと考え、当分住居を定めないことにした。仕手は影を踏ませないことが常道だからである。
それから一時間ほどで幸苑を出た。石飛は逸見をロンドにも誘い、二時間ほど切り上げた。
石飛はタクシーを用意すると言ったが、逸見は断った。まだ電車がある時刻でもあったが、彼には思惑があったのである。
「また会おう」
と言った石飛に、
「おう」
と方手を挙げ、背を向けて歩き出した逸見だったが、やがて踵を返し、石飛の後を着けた。
――奴の背後には誰がいるのだ。
逸見は石飛のスポンサーを割り出し、事の次第によっては顧客に情報を与える目算と、自らも提灯を点ける腹積もりがあったのである。
その逸見の後をロンドから出て来た男が着けていた。
石飛は何食わぬ顔で大阪梅田のパリンストンホテルに入って行った。
―しめた!
と、逸見は心の中で両手を叩いた。パリストンホテルの支配人とは昵懇の中だったのである。逸見は支配人を呼び出し、石飛がセミスイートルームを三ヶ月間押さえていること、また一ヶ月毎の精算とし、二百万円の保証金を入れていることも聞き出した。
ホテル側が宿泊客の個人情報の秘密保持を厳守しなくてはならないのは当然である。だが二人は、逸見がバブル時代にこのホテルを良く利用したのを機会に、ときどき有力な情報を流し、儲けの中から幾許かのキャッシュバックを受ける関係にあった。
逸見は石飛を訪ねて来る人物の特定を支配人に依頼し、帰宅の途に着いた。むろん、彼はそれほど期待していたわけではない。訪問客がフロントを通さずに、直接部屋に出向けばどうにもならないし、それが普通だからである。
ところが、翌日の夕方だった。支配人からの連絡を受けた逸見は、石飛将夫を訪ねた人物の名を聞いて驚愕した。
支配人から告げられた名は『峰松重一』だったのである。
当初逸見は、その名を聞いてもピンとこなかった。暴力団が株式や商品相場に手を出していることは知っている。目的はマネーロンダリングである。不正な手段で得た収益を相場を通すことによって、真っ当な金に再生させる資金洗浄のためである。しかし、神栄会は武闘派組織だったので、そのような経済活動はして来なかった。為に、逸見の脳裡に名が浮かばなかったのだった。
――神栄会が資金洗浄として株式相場に手を出すのか? その先兵役を石飛が任された……。
逸見は思わず身震いした。神栄会の寺島会長は、神王組本家の若頭であり、七代目の最有力候補である。峰松重一はその神栄会の若頭である。株式相場など下の者に任せ、いちいち口出しすることはないはずである。それが、自ら石飛の許に足を運んだのだ。容易ならざる仕掛けを施すに違いない。
逸見は、石飛の相場に提灯を点けようと算段していたが、とんでもないことだった。もし、神栄会に気づかれたら――気づかれない自信はあるが――どのような災難が降り掛かるとも知れない。
逸見は、触らぬ神に祟り無し、と退散を決め込んだ。
これは森岡の用心であった。逸見に相談を持ち掛ければ、良からぬ思惑が頭を擡げると推察し、胡麻の蝿を追い払ったのである。
ロンドを出た逸見の後を伊能の部下に着けさせ、パリストンホテルの支配人となにやら密談したとの報告を受け、峰松直々に、わざわざフロントに在室を確認したうえで石飛の部屋を訪ねさせたのである。峰松は、大阪では顔を知られている。フロントマンは大物極道の来訪を支配人に報告していたのだった。
パリストンホテルの一階の喫茶室で、石飛は蟹江という記者と会っていた。蟹江は医療業界誌を発刊している出版会社の記者である。
お互い自己紹介をした後、石飛が本題に入った。
「近畿製薬ですが、何か変わったことはありませんか」
「名越の逸見さんからも伺っていますが、とくに何もありません。相変わらず薬害補償で苦しんでいます」
「そうですか……」
石飛は抑揚のない声で言った。
「近畿製薬を手掛けるそうですが、まさか買いじゃないでしょうね」
その声には嘲笑の色が滲んでいた。
石飛は全く意に介することなく、
「まだ、近畿製薬に決めたわけではありません。他にも数銘柄候補に挙がっています」
と言った後、顔を突き出し、小声になった。
「ちょっと、やばい筋の金なんで、失敗は許されないんです。ですから、一つ一つ慎重にその業界の情報に明るい人から裏を取っているんです」
「やばい筋とはこれ、ですか」
蟹江は指先で頬をなぞった。
石飛は、そうだとも違うとも答えなかった。
その代わり、
「情報料として十分なお礼はしますから、妙な気を起こさないで下さい」
と恫喝するような目で言った。
「も、もちろんです。そもそも、うちのような安月給では株なんて手が出ませんよ」
「では、引き続き近畿製薬の内部事情を探ってもらえませんか」
「はあ……」
蟹江は気の無い返事をした。近畿製薬には何もない、と思っているからだ。
「これは情報料です」
石飛は封筒を差し出した。封筒は思ったより厚みがあった。五十万円のようである。たしかに、良い小遣い稼ぎにはなるようだと蟹江は内心でほくそ笑んだ。
「ついでで結構ですので、他の製薬会社の情報もお願いします」
石飛は近畿製薬に拘っているのではない、と煙に巻くことを忘れなかった。
一週間後、蟹江からある人物と会って欲しいとの連絡があった。
石飛将夫からその旨の報告を受けた森岡は、面会場所を帝都ホテル大阪のスイートルームにするよう指示した。話しの成り行きによっては、自らが交渉に乗り出すつもりだったのである。
蟹江が伴った人物は、猪俣という近畿製薬の経理課に勤める男だった。蟹江は、石飛から貰った五十万円をそのままそっくり自分のものにしても良かった。だが、この金を元手にして、さらに石飛から金を引き出した方が得策だと考え直した。
そこで、目を付けた猪俣に二十万円を渡して話を引き出したのである。
猪俣は三十五歳。短髪で身形も整い、眼鏡を掛けているせいか外見は真面目を絵に描いたように見える。気後れしているのか、視線が彷徨っていた。
「石飛さん。彼がちょっと気になることがあるそうです」
蟹江が背を押すように言った。
「確たる証拠というようなものはありませんが、社内がピリピリとしているのです」
「ピリピリ? 言い難いですが、倒産の危機ということですか」
石飛は遠慮がちに訊いた。
「いえ、ちょっと違う感じです」
と言った猪俣が苦笑いをした。
「たしかにうちは、いつ会社更生法を申請してもおかしくない状況ではあります。ですが社長が個人資産を注入しておりますので、もうしばらくはもつと思います」
近畿製薬は、巨額の薬害補償を負っており、経営状況は芳しくなかった。銀行の支援も通常融資ではなく、社長の個人資産を担保にしたものに切り替わっていた。
「そう言えば、私が取材した折も、何か神経質でした。いま思えば、業績悪化の苛立ちとは違う感じがします」
蟹江も同調した。
「起死回生の何かがある、ということですか」
と、石飛は水を向けた。
近畿製薬は、現社長の実父が創業した会社であり、会社の存続に思い入れがあるのは理解できた。味一番の福地と同様、現社長の個人資産は数百億に上ると見られたが、それでも資産の全てを擲つのは余程のことである。
「そこまではわかりませんが……」
そう前置きした猪俣は、
「これだけ業績が悪いのに、研究費だけは維持しています」
とここ数年の決算状況を説明した。
話を聞き終えた石飛は、思い詰めた顔つきで、
「どうです。お二人も私たちの仲間に入りませんか」
と訊いた。
「え?」
蟹江は戸惑いの声を発した。猪俣は訳のわからない面である。
「仲間って、あの筋でしょう」
蟹江は怯えた顔で訊いた。過日、石飛から危ない筋と聞いた蟹江は、逸見から神栄会との関係を聞き出していたのである。
ああ、それは……、と石飛は頬を緩めた。
「ここだけの話ですが、余計な動きを封じるため、名越の逸見さんには騙されてもらいました。私のボスは全くの堅気ですよ」
「そうなのですか」
蟹江は安堵したように言った。
「ただし、ボスが神栄会の若頭である峰松さんを顎で使えるのは事実です。ですから、一旦仲間になったら、裏切りは許されませんよ」
と恫喝した。
これは石飛のはったりである。森岡が峰松を顎で使うことなどできはしない。
「……」
蟹江はいったいどういう人物なのだろうと想像した。
「逆に、忠誠を尽くせばその恩恵は計り知れないものがあります。今度のことでも、良い情報であれば数百万単位の礼金が懐に入りますよ」
「数百万……」
二人とも口が半開きになった。
「どうです。仲間に入る気があるのでしたら、引き合わせますが」
石飛は決断を迫るように言った。
「いやあ、その……」
猪俣はとんだ話の成り行きに困惑した顔つきになった。
「心配いりませんよ。近畿製薬を乗っ取ろうなどとは思っていません。むしろ、材料があるなら支援しようという話です。ただ、その前に少し儲けさせて貰いますがね」
「会うだけでも良いですか」
蟹江が遠慮がちに訊いた。
「もちろんです。会って納得がいかなかったら断っても結構ですよ。ただし、今回のことは秘密に願いますが」
と念を押すように言った。
「それは承知しています」
蟹江が畏怖するように言い、猪俣も肯いた。
では、と言って石飛が席を立った。
「ここにいらっしゃるのですか」
蟹江が驚いた顔で訊いた。
「隣の部屋にいらしゃいます」
そう言い残して、石飛は席を離れ、やがて森岡が姿を現した。蒲生亮太と足立統万、そして宗光賢一郎が一緒である。
蟹江と猪俣は、森岡の姿に目を見張った。あまりに若いのである。何者であろうと、想像していたのは老壮年だった。
「初めまして、森岡洋介と申します」
森岡は丁重な挨拶をした。
二人は狼狽したように立ち上がって挨拶を返した。
「森岡洋介さんって、もしやウイニットの?」
蟹江が訊いた。
「そうです。さすがに記者さんですね」
業界は違えど、記者であれば情報を持っているのだと森岡は思った。
「違います」
蟹江は顔の前で手を振った。
「新地です。新地で噂を耳にしました」
「ああ、なるほど……」
森岡は、またあの馬鹿騒ぎの一件なのか、と苦笑した。
「失礼ですが、森岡さんが石飛さんのボスなのですか」
「ボスというのは如何なものでしょうか。同志、仲間といった方が適切でしょうね」
森岡が言うと、
「家族のようなものです」
と、足立が言い添えた。
「それより、石飛から聞きましたが、社内が変わった様子だとか」
「はい」
猪俣が肯いた。
「新薬の開発というのではないですか」
森岡は端的に訊いた。製薬会社の新薬開発を巡る思惑で、仕手筋が暗躍するのは日常茶飯事である。近畿製薬もこれまでに何度が仕手筋に狙われたことがあった。
「新薬については、十年来研究していますが、このところの社内には異様な緊張感が感じられるのです」
「ちょっとしたら、目途が付いたのかもしれませんね」
森岡は、本宮糸にあったき神様のお告げはそういうことなのだろう、と思いながら言った。むろん、新薬開発に成功したからいってすぐに販売できるわけではない。
「それで、私たちは何をしたら良いのですか」
蟹江が訊いた。
「近畿製薬及びその周辺を取材して、新薬開発目途の真偽とその内容を調べて下さい。ただし、あくまでも正当な取材をして下さい」.
続いて森岡は猪俣に視線を移した。
「猪俣さんは、勝手に耳に入る噂や肌で感じる雰囲気に気を配るだけで結構です」
「たった、それだけですか」
猪俣は拍子抜けしたように言った。
「猪俣さんは社員ですからね、インサイダーに引っ掛かる可能性がありますから、目立つような行動は控えた方が無難です」
森岡が自重を促したが、猪俣は高額の報酬が頭にちらついたのか、殊の外やる気を見せた。
「研究員の中に、大学の後輩がいますので、それとなく訊いてみましょうか」
「あまり、しつこくしない方が良いでしょう。それより、もし出来たならの話ですが、社長の資金繰りの状況がわかれば有り難いのですが」
「私では、ちょっと……」
一転、猪俣は難色を示した。彼は経理課の一職員でしかない。資金繰りという重大な職務とは無縁の存在なのである。
「調べて頂きたいといっても、具体的にどうこうしろというのではないのです。課内の雰囲気、部課長の顔色などから、切迫性があるのか、それともまだ余裕があるのかそれだけで結構です」
森岡は柔和な表情で言った。
「そういうことであれば、この場でお話しできます」
「ほう」
森岡が身を乗り出した。
「飲み会などで、課長は先行きの愚痴を零しています」
「資金繰りに苦労しているということですね」
「社長の個人資産も、そろそろ底を付きそうだということです」
「主要取引銀行はどこでしたかね」
むろん、森岡は調べを付けている。
「東京菱芝銀行です」
「そうですか」
森岡は、初めて知ったような顔をしながら、心の中で、
――いざというときは瀬尾会長に頼むか……。
と金融界の大物の名を思い浮かべていた。
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