第33話  第五巻 聖域の闇 手打

早朝、東京へ着いた森岡洋介は帝都ホテルで仮眠した後、午後一番に唐橋大紀の事務所を訪れた。連れ立ったのは、蒲生亮太と静岡から合流させた足立統万の二人である。

 影警護として付き従っている神栄会若頭補佐の九頭目弘毅には、夕方まで仮眠すると言ってホテルの部屋で待機させた。言うまでもなく、虎鉄組同様、大物国会議員との面談を秘匿するためである。

 面談場所は、国会議事堂の裏手に建つ議員会館ではなく、赤坂に構えている事務所であった。

 二人は過去に一度だけ出会っていた。唐橋大紀は、森岡洋介の祖父洋吾郎の葬儀の際、弔辞を読んだ父大蔵に付き添っていたのである。しかし、当時森岡は十歳、しかも二千名を越える参列者とあって、大紀の顔など覚えてはいない。

 事務所に入ると、秘書らしき男が蒲生を見て、おや? という顔をしたが、蒲生本人は気づいていなかった。

 唐橋が待つ部屋には森岡一人が入った。

「初めましてと言って良いのやら、お久しぶりと言って良いのやら」

 森岡は当惑の体で挨拶した。

「久しぶり、だろうな」

 と、唐橋は答えた。

 唐橋大紀は六十八歳、細身の体躯だが頭髪も豊富で高齢を感じさせない精力感があった。もっとも唐橋に限らず、政治家という生き物は皆同様ではある。

「忙しい先生に急遽時間を取って頂き、恐縮しております」

 と深々と頭を下げた森岡に、

「いやいや、大変に懐かしい人からの連絡だったから、私も心が弾んだよ」

 言葉とは裏腹に、唐橋は薄く笑った。

 今や唐橋は、政権与党民自党の最高幹部の一人である。通常であれば、昨日の今日で会える人物ではない。しかし、昨今の国会議員にとって最も重要なことは、天下国家の政ではなく自身の選挙であり、畏怖することは落選である。実に嘆かわしいが、これが現実である。したがって、地元の有力な後援者は大切に扱わざるを得ない。

 その一人である森岡忠洋からの懇請とあれば、断るわけにはいかなかった。しかも森岡忠洋の口ぶりからして、灘屋の親族一同は、未だ森岡洋介を総領として扱っている。そうだとすれば、恩を売っておくのも悪くないと考えた。

「さて、急用とやらの中味を聞こうか」

「単調直入にお訊ね致します。先生は宗光賢治という人物と知己がおありとか」

 転瞬、唐橋の顔から笑みが消えた。

 凝っと森岡を睨み付け、

「思いも掛けない名前が出たな。君のような若者の口から出るような名ではないぞ」

 戒めるように言った。

「恐縮です」

 と、森岡は言ったが、その表情に少しも変化はなかった。その泰然自若とした落

ち着きに、むしろ老練なはずの唐橋の方が気圧された。

「どこからそのような情報を得たのかな」

 心の乱れを押し隠すように低い声で訊いた。

「私の近しい者から入手しました」

「私と宗光氏との関係は、極々少人数しか知らない秘事だというのに、なかなかの

情報源を持っているな」

 唐橋は皮肉交じりにそう言うと、ソファーに背もたれ、

「仮に知己があったとして、それがどうかしたのかな」

 と凄んだ。

 たいていの者であれば、大物政治家の圧力に怯むところであろうが、

「先生に仲介の労を取って頂きたいと思っております」 

 森岡はどこまでも悠然としていた。

 唐橋はこれにも驚いた。祖父、父を早くに亡くし、灘屋は廃家同然と聞いていた。然るに、眼前の男の漲る余裕はどこから生まれて来るのか。一体どのような人生を送っているというのか。

 唐橋は話の先に興味が湧いた。

「仲介の労? 君は宗光氏と会ってどうしようというのだ」

「虎鉄組の鬼庭組長に取り成して欲しいことがあるのです」

 唐橋は再び目を剥いた。

「宗光賢治だの鬼庭組長だのと、いったい君は何をしようというのだ」

 唐橋の鋭い舌鋒に、森岡は岡崎家での経緯のみを話し、京都大本山本妙寺の貫主を巡る暗闘は秘匿した。相手は老獪な政治家である。いつ寝首を掻かれるとも限らない。

「昨今の極道者は、一般人の拉致監禁などという愚かなことはしないはずだ。虎鉄組は、必ずや君が警察には内緒で金の要求に応じると見越しての蛮行ということだな」

 唐橋は事情を察したように言い、

「それで、宗光氏には何を依頼するのかね」

「部下と私の命の保証です」

「虎鉄組は君の命まで狙っているというのか」

「可能性は否定できません」

 森岡は事もなさげに言った。

 その、臆病風に吹かれている様子が微塵もない言動に、唐橋は腕組みをして思案に耽った。

 やがて、おもむろに口を開いた。

「残念だが、君の期待には応えられない」

「無理ですか」

「誤解して貰っては困る。虎鉄組の名を聞いて怯んだのではない」

 承知している、と森岡は肯いた。

「父大蔵と君の祖父洋吾郎氏との過去の経緯も関係ない。私は父から詳しい事情を聞かされ、努々灘屋を恨んではならぬ、と釘まで刺されている」

 森岡は、ではなぜ? という顔をした。

「実はだ、森岡君。私は宗光賢治とは付き合いがないのだよ」

「そうなのですか」

 蒲生の誤認だったのか、と落胆した森岡を見て、

「君の推察どおり、あの街宣活動の中止を宗光氏に願ったのは私だが、如何せんそれまで彼とは一面識もなく、とてものこと交渉どころではなかった。ところが、ある私の後援者から呼び出しがあり、指定された赤坂の料亭に行くと、宗光氏が待っていたというわけなのだ。後援者は、私に手柄を上げさせようとしたのだ」

 と経緯を詳らかにした。

「その後援者と宗光氏が知り合いだったのですね」

 そうではない、と唐橋は首を横に振った。

「後援者は別のある人物を頼ったのだが、そのお方が宗光氏と昵懇だった、いや宗光氏は借りがあるようなことを口にしていた」

「その人物とは?」

 森岡が前のめりになる。

「それはわからないのだよ。宗光氏が固く口を閉ざしたのでね。ただ、そのお方の口利きのお陰で宗光氏が街宣活動の中止したのは間違いない」 

「……」

 何とも要領を得ない話だった。

「訝しい話だと思うだろうが、その頃の阿久津首相はノイローゼ気味になられるほど追い詰められておられたし、傍にいた私としては藁にも縋りたい思いでいたというのが事実だ。半信半疑だったが、思い切って会ったのが正解だったという訳なのだ」

 その後、阿久津首相も仲裁に入った謎の人物を知りたがったが、仲立ちをした後援者は名を明かさないという約束していると、頑として口を割らなかった、と唐橋は補足した。

「だから、私は宗光氏には何の影響力もないのだ」

「良くわかりました。お手間を取らせて申し訳ありませんでした」

 森岡は深く頭を下げると、鞄の中から一千万円の束をテーブルの上に置いた。

「君……」

 唐橋が眼を剥いた。

「貴重なお時間を割いて頂き、ありがとうございました。これはほんの気持ちです」

「気持ちって、いくらなんでも……」

「領収書のいらない金です」

 戸惑いを見せる唐橋に、そう言い足して森岡は腰を上げた。

――万事窮すとはこのことか……。

 森岡は途方に暮れる思いで退室した。

 唐橋との面談が不調に終わったことで、仮に虎鉄組から金銭以外の条件を突き付けられても、拒むことができなくなった。しかも、条件の内容が自身のことであればともかく、神村の進退に関することであれば……そう考えるだけで、森岡は暗澹たる気持ちになっていた。

 部屋を出た森岡に、秘書が近づいてきて、

「何かありましたら、御連絡したいので」

 と携帯の番号と宿泊先を訊ねた。

 むろん、森岡に拒む理由はない。

 秘書は、森岡ら三人をエレベータ前まで見送ってから唐橋のいる部屋に戻った。


「一緒にいたうちの一人は、元警視庁のSPだった男です」

「なに」

「確か、田淵首相の警護に当っていたと思います」

「なるほど、SPからの情報か」

 唐橋は得心顔になった。

「威風堂々とした佇まいに加え、ぽんと一千万を差し出す気風といい、元SPを従えていることといい、灘屋の親族が期待しているだけのことはあるな」

 得心した唐橋大紀の脳裡に、ふと二十六年前の記憶が蘇った。

 父大蔵に同道して、灘屋の当主洋吾郎の葬儀に参列した大紀は、その際異様な光景を目にした。

 当時の浜浦界隈はまだ土葬であり、葬儀中も遺体は祭壇の前に安置してあったのだが、少年がその遺体から片時も離れずにした。いや、離れないどころか、遺体の布団を剥がして横に添い寝したり、面布を退け、顔を覗き込むようにして何やら喋っているのである。

 涙を流すどころか、笑みさえ浮かべている。傍から見れば、祖父の死を理解できない少年が、まだ生きている病人とでも会話しているように映った。

 それだけであれば、まだ理解できなくもなかったが、何を思ったか、遺体の口元に自身の口を近づけ、息を吸い込むようにするではないか。

 それはまるで、死者の魂を体内に取り込もうとしているようであった。

 そうした少年の常軌を逸した奇行もさることながら、加えて目を疑ったのは、家族や親族の誰一人として咎める者がいなかったことである。

 死者から殊の外溺愛されていた少年である。親類縁者も彼のなすがままにさせたのだろうし、少年にして見れば、愛する祖父の死を受入れ難かったのだろうと推察されたが、それにしてもあまりに奇異な光景だった。

――あのとき、洋吾郎さんの魂が乗り移ったのかもしれない。

 唐橋は背筋に悪寒が奔るのを感じた。

「どうかされましたか」

 物の怪にでも憑り付かれた面相に、秘書が不安げな声を掛けた。

「いや、なんでもない」

 唐橋は我を取り戻すかのように首を振ると、

「とてつもない大物になるかもしれないな」

 と声にならない声で言った。

 その小さな呟きを秘書は聞き逃さなかった。  

「身上調査を致しましょうか」

「そ、そうだな、今後何かの役に立つかもしれん。だが、くれぐれも慎重に頼むぞ」

 唐橋は何かに畏怖するように言った。

「承知しました」

 秘書は緊張の面で軽く肯くと、札束を受け取り部屋から出て行った。


 翌日の午後三時過ぎ、東京丸の内にある東京菱芝銀行本店に、森岡と中鉢の他、南目、蒲生、足立、そして伊能の姿があった。南目ら四人は、現金を届けるまでの警護と、その後の事態の推移を見守るため森岡に従っていたのである。

 森岡は後日事情を明かすという約束を交わし、松尾正之助から東京菱芝銀行の瀬尾会長に便宜を図るよう一報を入れて貰っていた。身代金は、森岡個人の口座から引き出すのであるが、なにせ十億円を現金で用意するというのは、尋常なことではない。

 会議室で現金をダンボールに詰め込む作業中、会長の瀬尾が顔を出した。これもまた異例中の異例なことである。思いも寄らない東京菱芝銀行の天皇のお出ましに、銀行員が緊張を強いられる中、森岡は瀬尾に近づくと、

「ウイニットの森岡と申します。味一番の件ではお世話になりました」

 と頭を下げた。

 瀬尾は怪訝な表情を浮かべ、

「味一番と言いますと」

「社長の福地正勝は、かつての岳父に当ります」

「おう、そうでしたか」

 瀬尾は大きく顎を引き、

「松尾会長の御依頼とあれば、断れませんので」

 と微笑した。

「此度も申し訳ありません」

「いやいや、然したることではありません。ですが貴方は、余程松尾会長のお気に入りのようですな」

 瀬尾が熱い眼差しを向ける。

「とんでもございません」

 森岡は謙遜すると、

「後日、今般のお礼とお近づきの印に一席設けたいのですが、時間を頂戴出来ませんか」

「それは楽しみですな」

 瀬尾は穏やかな笑顔で言った。 

 

 森岡は虎鉄組本部に出向く直前になって、初めて影警護を務める九頭目弘毅に、東京へ出向いた真の理由を話した。

 深刻な事態を知った九頭目だったが、事ここに至ってはどうなるものでもなかった。虎鉄組に手出しができない以上、峰松重一に報告しても同じことである。

 九頭目もまた、森岡の身に何かあれば自身の極道世界における出世の道が絶たれることを覚悟しながら、彼の無事帰還を祈るしかなかった。

 虎鉄組本部は足立区千住曙町にあった。本部といっても神王組と同様、組長の住まいがその役割を果たしている。

 約一千坪の敷地は四方を壁に囲まれ、上部には忍び返しの鉄線が引いてあった。

分厚い壁の中は銅版が隙間無く敷き詰められている。防壁の強化と、いざというときの軍資金であった。資産隠しのため、金塊も埋め込んであるという風聞もあった。

 正門前で訪いを告げると、重々しい鉄の扉が自動で開き、中から出て来た数人の若衆が車の先導をしたり、外の様子を窺ったりした。

 車の後部から段ボール箱を運び出すと、中鉢は屋敷の外に出された。

 森岡は若衆の一人に案内されて奥へと向かった。

 通されたのは十畳ほどの茶室だった。先客があり、ちょうど茶が点てられていたところであった。想像もしない展開だったが、森岡は先客に目礼して横に座った。

「一服どうかな」

 お手前が訊いた。

 先客が正客(しょうきゃく)だとすると、お席主はお手前を兼ねていることにな

る。つまり、この袴姿の五十歳絡みの男が鬼庭徹朗だと思われた。

「頂戴いたします」

 落ち着いた声だった。

 森岡は、暇を見ては茜から茶道の手解きを受けていた。彼女は、表千家で台天目を相伝された上級者である。

 茶道には表千家の他に裏千家、武者小路千家などの流派があるが、流派が違えど嗜みがあるのとないとでは心持が違う。

 森岡が茶を頂いて所定の動作を終えたときだった。

「約束は守ったようだな」

 お手前が口を開いた。

「もちろんです」

「ではこちらも約束は守ろう」

 お手前が、

「青沼」

 と襖越しに声を掛けた。すると、開かれた襖の向こうに憔悴した坂根が座っていた。

 坂根は何か言い掛けようとしたが、森岡の目顔での合図に口を閉じた。

「失礼ですが、鬼庭様ですか」

 そうだ、とお点前が小さく肯いた。やはり、この男こそが十代目虎鉄組組長の鬼庭徹朗であった。

「鬼庭組長、このまま坂根を連れて帰っても宜しいのですね」

 森岡が念を押すと、

「構わない。だがその前に、一献傾けたいのだが時間はあるか」

 と誘った。

「時間はなくもないですが、ご遠慮申し上げます」

「そりゃあ、金を毟り取られた相手の酒は不味いだろうからな」

「いいえ。坂根を無事返して頂けるのであれば十億など、少しも惜しいものではあ

りません」

「ほう。この男はそれほど値打ちがあるのか」

 鬼庭が坂根に視線を送った。

「百億でも利きません」

「なんと、百億以上の男か」

「私の義弟同然ということもありますが、二十年後には経済界の寵児と成り得る男です」

「とはいえ、拉致などという理不尽な行為に、惜しげもなく十億も差し出す君もなかなか豪気なものだな」

 胸を張った森岡に、鬼庭は感心して見せた。張本人のくせして、白々しいとはこのことである。

「では、なぜ断るのだ」

 どこまでもぬけぬけとしている鬼庭に、森岡も少々腹立たしくなった。

「恐怖で私の身が持ちません」

 しらっとした顔で森岡が言った途端、先刻から沈黙を通していた横の男が、

「あははは……」

 といきなり高笑いをした。

「いや、失礼」

 男は詫びると、

「面白い冗談を聞いたものでな」

「どういうことですか」

 鬼庭が訊ねた。

「この男、お前に臆してなどいないということだ」

 そう言った男を、森岡はいったい何者だろうか、と推察していた。

 男は鬼庭をつかまえて『お前』呼ばわりした。東京での『お前』は、浜浦でのそれとは違う。明らかに鬼庭より格上の人物ということになる。

――まさか、この男が宗光賢治なのか。

 森岡は思わず声を上げそうになったが、かろうじて喉の奥に仕舞い込んだ。

「滅相もありません。どうにか平静を保っているのです」

 森岡があわてて否定した。素人が極道者を、しかも大組織の親分を畏怖していない構図など、面子を潰す以外の何物でもない。

「鬼庭、存外命拾いをしたのはお前の方かもしれんぞ」

 宗光と思われる男が真顔で言った。

「兄貴、それはどういう意味ですか」

「そのあたりは一杯やりながら話をしないか」

 苛立ちを隠せないた鬼庭に、そう応じた男は、

「どうだね」

 と、森岡にも誘いの言葉を掛けた。

「おっと、これはすまない。申し遅れたが、私は宗光という者だ」

――やはり、宗光賢治だったか。もしや、唐橋先生が連絡を入れてくれたのか。

 森岡はその思いを強くしながら、

「宗光様、あらためまして森岡洋介です。そうまでおっしゃるのでしたら」

 と軽く会釈した。

 鬼庭徹朗とは違い、宗光賢治には興味があったのである。


 三人は茶室を出て、二十畳もある広い和室に移った。既に酒宴の用意が整っていた。

 森岡の正面に座った鬼庭は、徐に懐から拳銃を取り出すと、銃口を森岡に向けてテーブルの上に置いた。

 初めて本物の拳銃を目の当たりにし、心臓が凍り付くような驚きを覚えた森岡だったが、その一方で、まさか宗光賢治が同席している場で、凶行に及ぶはずがないとの冷静な判断もしていた。

 これは威嚇というより、

『お前を信用した訳ではない』

 という鬼庭の意志表示だと理解した。

 鬼庭が宗光、宗光が森岡、森岡が鬼庭の杯にそれぞれ酒を注ぎ、杯を持った手を軽く上げた。

「兄貴、先刻の言葉はどういう意味だ」 

 鬼庭が満を持したように口を開いた。

 宗光はテーブルの拳銃を指さしながら、

「お前、場合によっては、この男を殺(や)るつもりだったのだろう」

 と訊き返す。

「正直に言えば、考えなくもなかった」

 躊躇いがちに告白した鬼庭を、

「もし、そうしたらお前の命も無かったということだ」

 と、宗光が咎めた。

「まさか、それこそ冗談だろう」

「いや、冗談ではない」

「いくら神栄会の峰松と昵懇といっても、この男の命(たま)ぐらいで、虎鉄組(うち)と戦争をおっぱじめるとは思えない」

 鬼庭は鼻を鳴らした。

「徹朗、この男が昵懇なのは峰松だけではないぞ」

「寺島とて同じだ。蜂矢が首を立てに振るはずがない」

「本当にそう思うか」

 顔の前で手を振り、 いっこうに取り合わない鬼庭に、宗光は不気味な笑みを返した。その瞬間、鬼庭の背に悪寒が奔った。

「まさか、六代目も?」

 二の句が継げない鬼庭が口を半開きにしたまま目を向けたが、森岡は素知らぬ顔を通した。

「俺の耳に入った情報では、蜂矢はこの森岡君にぞっこんのようだ。その証拠にな、ブック何とかという事業の仕切りをこの男に任せたということだ」

「ブック? ブックメーカーか」

 目を見張った鬼庭に対し、森岡は怪しい雲行きになった、と困惑しながら黙って肯いた。

「一度失敗して大量の逮捕者を出した神王組としては、同じ轍を踏むことは許されない。それがどういう意味かわかるな、徹朗」

「それほど、この男が信頼されているということか」

「蜂矢にとってこの森岡君は最後の切り札。そのような男を万が一でも殺ってやってみろ。如何なる事になるか」

「それほどの男なのか」

 唸るように言った鬼庭に、宗光がとんでもないことを言い出した。

「お前も一枚噛ませてもらったらどうだ」

「そ、それは……」

 森岡の口から思わず洩れた。無理もないことである。抗争はしていないが、神王組と虎鉄組は対立している暴力団組織なのだ。

「徹朗、十億は返して彼の力を借りたらどうだ」

 鬼庭は暫し沈思した後、

「そうしたら、考えてくれるか」

 と真顔で訊いた。

「申し訳ありませんが、十億を収めて頂きたいと思います」

「ははは……冗談だ、冗談」

 蒼白面の森岡を見て、宗光は笑い飛ばした。だが、森岡は冗談ではないだろうと思った。隙を見て無理やり捻じ込んで来ると推測した。

「ブックメーカーの話は別としても、今度のことはどう見てもお前の無茶だ。俺の顔に免じて金は返せ」

「しかし、兄貴。それでは俺の面子が立たない」

 鬼庭はいかにも不服げな顔をした。境港と浜浦での失態で、鬼庭は神栄会に五千万円の詫び金を渡し、手打ちをしていた。

「詫び金はいくらだった」

「五千万だ」

「では、その五千万を取って残りを返したらどうだ。それなら文句はないだろう」

「いや、それでも……」

 鬼庭はまだ何か言いたげだったが、宗光の有無を言わせぬ眼つきを見て、

「兄貴がそこまで言うのであれば仕方がない」

 と不承不承応じた。

「いえ。十億は受け取って下さい」

 森岡は声を強めて言った。

 拉致をしておいて身代金を要求するのは、卑劣な犯罪行為であり、理不尽な話である。また、減額の提案を断るというのも首を捻る話ではあるが、宗光の冗談話が気に掛かった森岡は、ここで借りを作った形だけにはしたくなかったのである。

「君も面白い男だな」

 宗光は苦笑すると、

「君の立場は承知しているから、先刻の話は気にしないで良い」

 と諭すように言った。

「では、半分の五億ということでどうでしょうか」

 それでも森岡は増額を申し出た。坂根の拉致は、鬼庭と勅使河原の共同謀議であり、十億を折半する予定ではなかったか、と推測したからである。鬼庭にさらなる金の持ち出しをさせ、後腐れ残すことを嫌ったのだった。

「徹朗、そういうことだそうだ。どうするな」

「兄貴がそれで良いのであれば」

 鬼庭はそう言って頷くと、銃口を自身に向け直した。森岡を信用するという意思表示なのだろう。

 宗光がにやりと笑い、

「よし、これで話は決まった。では手打ちの盃を交わすか」

 と張り切ったように言ったが、

「手打ち? ですか」

 大胆にも森岡が疑義を挟む声を上げた。

「不満か? まあ、何の落ち度もないのに五億も毟り取られたのだからな」

「いえ。金のことではありません」

 森岡はきっぱりと否定した。

「金のことではないだと」

 宗光が不審の顔を向ける。

「今回の拉致、私への襲撃、さらには探偵の伊能さんを襲撃したのも、僭越ながら勅使河原への義理立てではないですか」

 森岡は今回の件に勅使河原公彦が関与していると睨んでいた。南目が憤った通り、神栄会の峰松に分捕られた五千万円の報復にしては十億円は多額過ぎた。通常、この手の談合金は三倍の一億五千万円から、どんなに多くても十倍の五億円までである。森岡は、勅使河原が絡んでいる分だけ高額になったと読んでいたのである。

「何が言いたい」

 鬼庭が問い質した。

「一連の件には、勅使河原が一枚噛んでいるのでしょう」

「だとしたら、どうだというのだ」

 図星を刺された鬼庭は、開き直ったように言った。

 その動揺ぶりに、やはりと確信した森岡は、

「勅使河原の意向を無視して、私と手打ちをして良いのですか」

 と当然の疑問を口にした。

 うっ、と返答に詰まった鬼庭に代わり、宗光が助け舟を出した。

「森岡君、虎鉄組は勅使河原の手下ではない」

 と暗に金を介在した関係なのだと示唆したのだ。

「しかしお言葉を返すようですが、そうであれば、再度依頼されれば同じ事を繰り返すということになります」

「なんだと!」

 と怒りを面に滾らせた鬼庭を宗光が目顔で抑えた。

「理屈ではそうなるが、ここで手打ちをするという意味は、今後君が敵対しない限り、こちらも牙を向けないという意味を持つのだ、森岡君」

 因果を含めるような物言いだった。

 これ以上の問答は宗光を不快にさせると思った森岡は、

「身の程知らずなことを申し上げました。お詫びします」

 頭を深く下げてから、杯を口にした。


 一時間後、森岡からの連絡を受け、迎えの車が到着した。

 恐縮する森岡を、宗光賢治がわざわざ玄関まで見送った。

 そして森岡が靴を履こうとした、そのとき、

「さすがに先生の血は争えないな」

 と耳打ちした。

「えっ?」

 森岡は思わず仰け反るように宗光を見詰めた。

「何のことだ、と思っているな」

 宗光は、森岡の動揺を弄ぶかのように笑う。

「は、はい」

「君の頭に浮かんだ人物だよ」

「誰だかおわかりに?」

 宗光はうむ、と顎を引くと、

「稀代の大学者だな」

 畏敬の念の籠った口調で言った。

「し、しかし……」

 驚嘆した森岡は言葉に詰まる。

「右翼人の因だよ、森岡君」

「因、ですか」

「私には、政治家のような公権力も、財界人のような金力も、極道者のような暴力もない。生きて行く拠り所は情報だけだ」

――それにしても……。

 と、森岡は訝った。

 自分でさえ灘屋と奈良岡家の関係を知ったのは一昨日である。どのようなルートで宗光は知り得たというのか。

 他では園方寺の可能性が浮上するが、先代も当代も信頼できる人物である。祖父、あるいは父が他者に漏らしたというのかであろうか。

 森岡は、もう一方の当事者に目を向けてみた。

――奈良岡家からか……。

 と思ってみるが、知る限り奈良岡家と宗光の間に交誼があったとは思えなかった。仮にあったとしても、奈良岡家と灘屋の曰くが話題に上るはずがない。

『どのようにして知ったのですか』

 と、森岡は問い質したかったが、わざわざ因とまで言った情報源を宗光が明かすとは思えなかった。

 その代わりに、

「宗光様はどうしてここへ来られたのですか」

 と訊いた。

 これもまた、本来であれば、

『唐橋先生からの依頼を受けてのことでしょうか』

 と訊きたかったが、迂闊に政権与党の要人の名を口にするのは憚られた。間違っていれば、どういう波紋が唐橋に届くかわからないのである。

「それも秘密だ。硬く口止めされているからの」

 と、宗光は口にチャックをする仕種をした。

――口止め? 唐橋ではないのか。

 森岡はますます混乱した。政治家の唐橋が骨を折っておいて口止めするはずがない。政治家はそのような奇特な生き物ではないのである。

――いったい誰が。

 戸惑う森岡に、

「いずれまた会おう」

 と、宗光が肩を叩いた。

「そ、その折は本日のお礼を致します」

 我に返ったように森岡は頭を下げた。

「いや、それは堅く遠慮する」

 宗光は手を左右に振った。

「しかし……」

 尚も森岡が言い掛けるのを、

「義理を欠いては、この先顔を上げて生きて行けなくなるのでな」

 宗光が真剣な目で制した。

「次回は楽しい話で飲もう」

 はい、と肯いた森岡は、

「では、失礼します」

 とわだかまりを残しながらも、中鉢が運転する車に乗り込んだ。車のトランクと後部座席にダンボールが五個積んであった。


 部屋に戻って来た宗光に、鬼庭は恨めしそうな顔を向けた。

「いきなりやって来たかと思いきや、一服点てろと催促し、挙句に金のことまで口出しするとは……どうして兄貴はそこまであの男の肩を持つのだ」

「徹朗、さっきは本人がいたから、神王組を持ち出したが、お前の命、いや虎鉄組そのものが危うくなる本当の理由は他にある」

 宗光のあらたまった口調に、

「神王組より手強い敵だと? そんな奴がこの日本のどこにいる」

 と不満の声で嘯いた。

「彼はな、奈良岡先生の縁者なのだ」

「奈良岡? 事ある毎に兄貴の口から出る奈良岡真篤先生か」

「そうだ」

「孫なのか」

「直系ではないが、血脈者であることに間違いはない」

「先生はもうすでに亡くなられている。直系でないなら、たいしたことはなかろう」

 いかにも軽んずるような口調だった。

「それが甘いというのだ。あれほどの大学者だぞ。日本の歴史上でも他に類を見ない傑物であられた。現在でも先生を師と仰ぐ人間が各界にどれだけいるか考えてもみろ」

「……」

 返答のできない鬼庭に向かって、

「かく言う俺もその一人なのだぞ」

 と、宗光は引導を渡すかのように言った。

 宗光賢治の右翼思想の師は、戦前の大物思想家・南一誠(みなみいっせい)であった。南は、一時奈良岡真篤に師事していたことがあり、若き日の宗光も酒宴に同席していたことがあった。つまり、宗光にとって奈良岡真篤は大師匠ということになった。

「それにだ。奈良岡先生の縁者ということは、高野山の堀部真快大阿闍梨の縁者にもなるということだ」

「高野山の大阿闍梨?」

「日本仏教界の首領だ。こちらも敵に回すと面倒になる」

「坊主が、か?」

 鬼庭はまたも懐疑的な声で言った。

「お前は馬鹿か。これまで、どれほどこの国の権力者が、その坊主に頼ってきたと思っている」

 宗光は怒声を浴びせた。

 日本は多神教の国である。つまり絶対神を持っていない。そのため確固たる思想哲学の無い各界の指導者は、難事に直面したとき心の弱さを高僧の法力に頼ってきた歴史がある。

 古くは奈良時代の法相宗道鏡、徳川家康の側近で幕府草創期の朝廷政策や宗教政策に強い影響力を行使した天台僧天海が有名だが、現在でも歴代首相の多くが重要な決断を高僧に頼っている現実がある。

 さしずめ、久田帝玄や神村正遠もそうである。ましてや、日本仏教界の第一人者であれば、言わずもがなであろう。

「これまで、あの男が奈良岡先生や大阿闍梨の縁者であることなど誰も知らなかったであろう。にも拘らず、彼の許には有為な人材が集まっている。今後、彼の素性が公になれば、支援しようとする人物が我も我もと手を上げるだろう」

「日本中を敵に回すということか」

「日本中というのは大袈裟だが、あの男が巨大な力を手にすることは間違いない」

 ふう、と鬼庭は息を吐いた。

「勅使河原は金は持っているが人物ではない。五億は全て勅使河原に渡し、腐れ縁を残すな」

「しかし兄貴。それでは二千万ほど足が出たままになる」

 鬼庭は不満げな面を向けた。

 宗光の表情が一変した。

「いつまでも下らないことを言ってんじゃねえ。森岡とつるんでりゃあ、一億や二億なんざ鼻糞みてえなものだということがわかんねえのか!」

 とうとう伝法な口調で一喝した。

 宗光賢治がいかに兄貴分とはいえ、仮にも神戸神王組、東京稲田連合に次ぐ広域暴力団虎鉄組の組長に横柄な口が利けるのには理由があった。

 鬼庭徹朗は、先代鬼庭徹太郎の実子だった。

 神王組の田原政道同様、虎鉄組勢力拡大の大功労者である徹太郎もまた、組内では神格化されていた。だが、その伝説の極道でさえ人の親ということなのだろう。後継に息子の徹朗を望んだ。

 弱小組織ならいざしらず、傘下組員が一万八千名を超える大組織を、ただ実子というだけで後継させる危うさを徹太郎はわかっていた。そこで、周囲を納得させるため、後継者教育係として、右翼の世界にその人有りと謳われていた宗光賢治に白羽の矢を立てたのである。

 したがって、鬼庭徹朗にとって宗光賢治はただの兄貴分ではなく、親または師に当たった。徹朗が十代目を襲名した折、外聞上あらためて兄弟盃を交わしたのである。いずれにせよ、鬼庭徹朗にとって生涯頭の上がらない存在であった。

 また彼が二千万円に拘ったのは、金額の多寡というより、侠客としての面子の方が大きい。極道世界に生きる彼にとって、たとえ一円であっても、敵対する神栄会に詫び金を差し出したことは、屈辱以外の何物でもないのである。

 言わずもがな、神栄会から取り戻すのが本筋であるが、そのためには神栄会と諍いが起こり、尚且つ神栄会側に瑕疵が無ければならない。そのような好機は滅多に訪れるはずもなく、そこで神栄会と昵懇の森岡から回収し、少しでも留飲を下げようとしたのである。

「わかった。だが、ブックメーカー事業は期待できないのだろう」

 鬼庭は諦め口調で訊いた。

「そうでもない。まあ、俺に任せておけ」

 宗光は自信有り気な顔で言うと、

「徹朗、今日のことは他言無用だぞ。鮫島らにも徹底しておけ」

「言われるまでもない。どうして堅気を拉致監禁して身代金を分捕ったなどと言えるか」

 鬼庭は憤慨した。

「呆れた奴だな。そのことではない」

「では、ブックメーカーのことか」

「それもあるが、森岡君が奈良岡先生や堀田真快大阿闍梨と血縁関係にあるということだ」

 鬼庭は首を捻った。

「どうしてそれを秘匿する必要があるのだ」

 ああ……と宗光は嘆いた。

「俺は泉下で徹太郎親分にお目に掛かったら、何とお詫びをしたらよいのか」

 宗光は親指と中指を両目の瞼に当てて頭を垂れた。

「そこまで言わなくてもいいだろう」

 自身に対する皮肉だとわかった鬼庭は口を尖らせた。

「いいか、ブックメーカーの話も、森岡君の出生の秘密も今後、金になるかもしれない希少価値のある情報だということがわからないのか」

「……」

「ブックメーカー事業は神王組が極秘裏に進めている大事業だ。仮にこの先、神王組との間にトラブルが発生したとき、この情報がまだ世間に知れ渡っていなければ、取引材料になるかもしれないだろうが。それをわざわざ自分から捨てる馬鹿がどこにいる」

「なるほど。それで、森岡の出生の秘密の方は」

「森岡君は今誰と対立しているのだ」

「さしずめ、勅使河原と瑞真寺の御門主といったところか」

「そうであれば、勅使河原には奈良岡先生との関係を、門主には堀田真快大阿闍梨との関係を教えてやれば、感謝されるとは思わないか」

「そうか、下手に森岡に手を出せば火傷をするという警告になる」

「そういうことだ。金は取れなくても大きな貸しにはなる」

「さすがは兄貴だ」

 感心顔で唸った鬼庭に、

――先が思いやられる。

 と、宗光は暗い気持ちになった。


 車が門を出たところで、坂根が何か言おうとしたのを森岡が目で制止した。そして、追尾車両がないことを確認すると、携帯にメモを打ち込み坂根に見せた。

『盗聴は大丈夫か』

 坂根は身体やバッグを調べ、

『大丈夫です』

 と首を縦に振った。

「じゃあ、詳しい話はホテルに戻ってからや」

 森岡はそう言うと、付近に待機させていた南目に電話をして、後に続くよう指示した。

 その後、どこかで待機しているであろう九頭目にも連絡した。

 帝都ホテルの部屋に戻った森岡らは、ようやく安堵の表情になった。

「まずもって、お二人が無事に戻られて何よりです」

 伊能の言葉に、一同が肯き合った後、

「いったい何があったんや」

 と、南目が坂根に詰め寄った。

「待て、輝。その話は飯を食いながらにしよう」

「社長も食べてないのですか」

「輝、なんぼ俺でも、虎鉄組の本部じゃ食い物が喉を通るわけがないやろ」

 と、森岡がおどけて見せたので、皆に笑顔が戻った。

 数刻後、運ばれて来たルームサービスを口にしながら、森岡が虎鉄組でのやり取りを縷々説明した。

「手打ちをしたということは、今後虎鉄組は敵対しないということですね」

「おそらくそうでしょう」

 森岡は伊能に応じ、

「その代償として、必ずブックメーカー事業に口出ししよるで」

 と、南目に忠告した。

「まさか、そんなことを許したら神王組が黙っていないでしょう」

「頭の痛い問題になるわな」

「申し訳有りません」

 坂根が力なく頭を垂れた。

「お前のせいやない」

「しかし、私が判断を誤ったために、社長に迷惑を掛けてしまいました」

「判断?」

「単独行動をしてしまいました」

「俺も最初はそう思ったが、結果的には統万が一緒でも同じことだったな。むしろ身代金は倍になったかもしれん」

「しかし、私が大人しく拘束されたため、五億円の損害を出してしまいました」

「どういうことや」

「あのとき、相手は二人でしたから、叩きのめすことはできたと思います」

「だがお前は、拘束された方が真相に近づくと思ったんやろ」

「はい」

「なら、それでええがな」

「でも、多大な迷惑をお掛けしました」

 森岡がブックメーカー事業の運転資金確保のために、東奔西走したことを知って

いた坂根してみれば、単独行動を取った軽率さに忸怩たる想いだったのである。

「それなら確認するけどな、相手が極道者だとわかったか」

「はい」

「だが、暴力に訴えようという気配はなかったんやな」

「殺気は感じませんでした」

「空手の修練を積んだお前が感じなかったのであれば、そういうことやろ。だった

ら、抵抗しなかったのは正解やで」

「しかし、そのせいで……」

 森岡は途中でその先を制した。坂根が、尚も金に拘っていたからである。

「俺は五億を失ったことより、今のお前に失望するな」

「えっ」

 坂根の顔から色が失せた。

「皆もよう聞いてくれ。たしかに五億は大金やが、その多寡に囚われてはあかん。金は所詮金や。そんなものはまた働いて儲ければいい。肝心なことは、金額に拘わらずその多寡に見合うものが得られるかどうか、また失うことが無いかを判断することや」

 森岡は皆の顔を見回した。

「もし二人が坂根に危害を加えようとしたのであれば、一も二もなく戦うことが正解や。命が危ないわけやからな。だが、そうでないのなら、暴力団には逆らったらあかん。坂根が二人を叩きのめした後のことを考えてみろ。暴力団というのは面子を第一に考える集団や。一般人に恥を掻かされて黙っていると思うか」

「報復行動に出るというのですね」

 南目が答えた。

「間違いなくな」

「ですが、社長には神栄会の護衛が付いています」

「的が俺とは限らんだろうが」

「では、私たちにも危害が」

「さしずめ、坂根が真っ先に的に掛けられる」

「では、私たちにも護衛を付けてもらうよう神栄会に依頼してはどうですか」

 南目の言葉に、

「期間はどうしますか」

 蒲生が言い、

「それは意味がありません」

 と、伊能が続けた。

「さすがに二人とも元優秀な警察官やな」

 森岡はにやりと笑った。

「輝、蒲生が言いたいのは一生護衛を頼むつもりなのか、ということや」

 うっ、と南目は言葉に詰まった。

 蒲生と森岡の言わんとする意味がわかったのである。暴力団の報復が終了するのは、誰かが被害を蒙ったときである。もし護衛を付けて命を永らえば、それだけ金が掛かるということなのだ。

「それに伊能さんが言いたいのは、的に掛けられるのは何も俺たちとは限らないということや。ウイニットの社員、いや社員ならまだ関係性があるが、その家族まで魔の手が及んだらどうするんや。俺は、その警告を受けただけでも心が折れるやろうな」

「では、どうすれば……」

 南目は苦渋の顔で訊いた。

「早々に謝罪するいかないでしょうね」

「そのとおりです」

 森岡は伊能の答えに同調した。

「それがもっとも金が掛からない方法やが、それでも今回の倍は掛かるだろうな」

「そんなに……」

 思わず坂根が呟いた。

「彼らにとって、お前は全く非の無い人間やで。そのお前がおとなしく拘束されたのにも拘わらず、理不尽にも十億を要求してきたんや。もし組員二人に怪我をさせたうえでの謝罪なら、二十億は要求してくるだろうな」

「……」

 もはや坂根に返す言葉はなかった。

「だから、無抵抗は正解だったと言ったんや」

「そもそもが、私は枕木山に入るべきではなかったということですね」

 坂根が肩を落として言う。

「あほなことを言うな。お前が枕木山に入ったのは、俺の命に忠実やったからやないか」

「……」

 坂根の口がまた重くなった。

「事の発端は、俺がウイニットをほったらかして、神村先生の支援に精を出しているからや。でなければ、小梅の身請け話など舞い込んで来んかった。せやから今度のことは、お前には済まんことしたと思っている」

 そう言って森岡は坂根に頭を下げた。

「やめて下さい、社長」

 坂根はあわてて止めた。

「結局、このまま泣き寝入りか」

 と悔しげに言った南目に、森岡が鋭い目を向けた。

「輝、俺が五億も毟り取られて、そのまま黙っている男だと思っているのか」

「報復するのですか」

「当り前やがな」

「しかし、たった今暴力団に逆らったら駄目だと言われたではないですか」

「それに虎鉄組とは手打ちをしています」

 南目の言葉に、蒲生が付け加えた。

「せやから、虎鉄組には手を出さん。宗光賢治という右翼の首領とも知己を得たことで損は取り返した」

「相手は立国会の勅使河原ですね」

 沈黙を通していた中鉢博己が初めて口を開いた。

 森岡は決意の籠った顔つきで肯いた。

「五億のうち少なくとも半分は彼の手に渡るはずや。いずれ奴から何十倍、何百倍に

もして取り戻す」

「何か考えがあるのですか」

「ああ。まだ大枠の段階だがな」

 森岡は曖昧に濁すと、顔を中鉢から坂根に向け、

「そんなことより、お前は何をしにもう一度枕木山に入ったんや」

 と核心部分に切り込んだ。

「はっきりとはわからないのですが」

 と、坂根は首を捻りながら話し始めた。

 坂根と足立は、総本山真興寺の門前町に店を構える今福屋に立ち寄り、主人の野津に会った。野津に話を持ち込んだ男は音信不通だったが、材木の伐採権の話は真実だった。そこで、坂根と足立は野津と共にその樹木の確認のため、宗務院の許可を得て山に入った。総本山の西に位置する枕木山であった。

 たしかに良質の檜である。素人の坂根にも一目でわかるほどに太い幹が天に向かって真っ直ぐに伸びていた。

 検分を終えた三人が山を降りようとしたときだった。坂根が異様な空間があることに気づいた。あたりは良木が一定の間隔を置いて群立していたが、谷間近くの一角だけ、更地の立ち入り禁止区域があったのだ。

 十メートル四方うちの三方を石塔で囲み、残る一方は斜面なのだが、その斜面の

前に錆びれた石碑が立っていた。碑文は苔が生していて文字が読めない状態だった。

一見したところ、歴史的価値のある敷地にも見えなくはないが、枯れ草はそのまま、雑草も生え放題で手入れがされている様子が無かった。

 坂根は、その石碑の背後の斜面に不自然さを感じたが、野津に促されてそのまま

山を後にしたのである。

 岡崎家に戻った坂根だったが、そのことが頭にこびりついて離れなかった。そこで、

翌日一人で山に入ったところを待ち構えていた何者かに拉致されたということだった。

「それが虎鉄組だったというわけやな」

「そうです」

「その更地はどんな風やった」

「石碑の後方の斜面に何か細工が施されているような感じでした」

「斜面に細工? そうか……」

 森岡に閃きが起こった。

「もしかしたら、お前は神隠しと関係があるのではないか、と思ったんやな」

 はい、と坂根は肯いた。

「神隠しって、何ですか」

 南目が二人の会話に割り込んだ。

 森岡は枕木山で起こった三度の失踪事件を話して聞かせ、

「お前らが枕木山に入ることを知っているのは誰や」

 と、坂根に訊ねた。

「統万と野津さん以外では宗務院しかいないと思います」

「野津さんが勅使川原と謀っている可能性も棄て切れんが、宗務院の方が怪しいな」

――やはり、岡崎家での総務清堂上人との密会も宗務院から漏れたのだろう。しかし、岡崎家の宿泊名簿は偽名を使用した。岡崎家が本名を漏らしたか、あるいは自分を見知った者が見張っていたのか……ま、まさか、これも筧か?

 森岡は、かつて伊能から筧が総本山をうろついていたとの報告を受けていた。そのときは総務清堂との関係を疑っていたが、立国会と瑞真寺の関係が明らかになった今であれば、筧の目的地は瑞真寺だったとも推量できる。

 森岡の険しい顔つきに、伊能が不安の目を向けた。

「どうかされましたか」

「いや、何でもありません。それより、明日もう一度枕木山へ行ってみるか」

「それは危なくないですか」

 と忠告した南目に、

「虎鉄組とは手打ちをしたから、大丈夫やろ。それに明日は、中鉢を除いてここにいる皆と行くんやから心配ない」

 森岡は何かを思い定めたように言うと、腕時計を見て、がらりと表情を崩した。

「これから皆で銀座に繰り出すか」

「今からですか」

 足立統万が驚いたように訊いた。

「坂根が無事戻った祝いをやろう。お前にも苦労掛けたしな」

「私は何もお役に立てていません」

「しかし、いくらなんでも……」

 足立が悔し気に言い、坂根は恐縮そうな顔を向ける。

「さっき、ものは考えようやと言ったばかりやろ。十億が五億で済んだということは五億儲けたのも同じや。験直しにぱーっとやろう、ぱーっと」

 森岡はそう言って足立統万にクラブへの予約とタクシーの手配をさせた。

 

 翌日の午前、森岡らは今福屋の野津に同道を願って枕木山に入った。野津を伴ったのは、彼が枕木山の地理に詳しいからである。宗務院を疑っている森岡は、妙顕山側からではなく、反対側のルートを使った。

 坂根の案内で問題の場所に訪れた。

「なるほど、立ち入り禁止区域か。これがミソだったのだろうな」

 森岡が薄笑いをした。

「ミソって、どういうことですか」

 野津が訝しげに訊いた。

「過去の神隠し騒ぎのとき、この石碑が捜索の目を遠ざけたのでしょう」

「では、この敷地には何か細工があるのですか」

「おそらく」

 森岡は野津に向かって答えると、

「南目、ちょっと石碑の背後の斜面を探ってみろ」

「良いのですか」

 南目が畏怖するように言った。さすがの彼も古い史跡を荒すことには抵抗があったのだろう。

「お前でも祟りが怖いか」

 森岡はからかうように言い、

「気が進まんのなら俺が調べよう」

 と自ら斜面を調べ始め、洞窟らしき入り口を発見したところで、元通りに整えて下山した。

 森岡は、伐採権を担保に六千万円を融資すると野津に伝えた。

 伐採権の売買には厳しい条件が就き付けられていた。伐採権を取得できる者は、宗務院の選定した業者、または同じく宗務院が認定した天真宗縁者に限られていた。したがって森岡といえども、おいそれと伐採権を買取ることはできなかったのである。

 天真宗の御山の樹木である。いかがわしい業者に転売されるのを懸念して当然といえた。

 森岡は岡崎家に宿泊し、鈴邑の女将と小梅を部屋に呼んで問い質した。この一件で部下の坂根が拉致されたことを聞かされ、酷く驚いた二人は懺悔するように裏話を告白した。

 勅使川原から最初に身請け話が持ち掛けられたのは二ヶ月ほど前だったが、実は森岡に相談する前日にも岡崎家に姿を見せたのだという。

 言うまでもなく、宴席には小梅が呼ばれた。部屋は鳳凰の間である。

 勅使河原の返事の催促にも、小梅が承諾を渋ったため、此度こそ話を決めたかった勅使河原は、岡崎家の女将に連泊を願い出たのだという。

 話が岡崎家の女将にも及んだため、森岡は一旦話を中断し、女将を部屋に呼んで確認した。

 岡崎家の女将は丁重に断った。翌日は森岡によって予約済みだったからである。

 信用が第一の客商売である。当初女将は森岡の名を秘匿していたが、勅使河原の執拗な翌日の予約客の、つまりは森岡の予約部屋の変更要求に、堪らず名前を告げてしまったと丁重に頭を下げた。

 森岡の名を聞いた勅使河原は、しばらく沈思していたが、やがてにやりと薄笑いをしながら連泊の要求を取り下げると、さらに小梅に対しても、この身請け話が嫌なら、明日宿泊する予定のその森岡という男に相談してみたら良いと言い出した。自分は森岡という男をよく知っているが、実に好青年で世話好きだから、必ずや力になってくれるだろうと力説した。

 しかも、通常の借金より身請け話の方が通り易いだろうまでと助言し、最後に今後の彼との関係に差し障りがあるとも限らないので、自分からの身請け話はしても良いが、森岡に進言したことは秘匿するようにと言い含められた。

 むろん、女将も小梅も胸に訝しいものを感じた。これまでの執着が嘘のような掌返しに、邪悪な裏事情を憶測した。憶測はしたが、そこは小梅を救ってやりたい女将も、勅使河原の身請け話から逃れたい一心の小梅も、胸に秘めて彼の意に従ったのだと詫びた。

 さて、置屋鈴邑の女将は森岡が信頼できる人物だと承知していた。十五年も前から、神村ばかりでなく、現栄薩法主や名門宿坊である滝の坊の中原是遠と親交のある者として信用できた。

 小梅にしても、一男性として勅使川原よりは断然気が向いた。そこで駄目で元々と相談したというのが真実だった。とはいえ、自身にも実家にも担保は無いし、森岡が伐採権などに興味を持つはずもないであろうから、勅使河原に言われるまでもなく、身請けを願うつもりだったと付言した。

 ただ、鈴邑の女将も小梅も、立国会の勅使川原ではなく、あくまでもカワハラなる実業家として認識していたと抗弁した。

 二人の話を聞き終えた森岡には疑問が残った。

 仮に、小梅の身請け話を即諾していたら、スキャンダルとして攻撃材料に用いたのだろうと推察できたが、坂根の拉致監禁は辻褄が合わなかった。彼は、枕木山に入ったからこそ、災難に遭ったのであり、計画に一貫性が見られないのである。

 目的にしても、虎鉄組の意趣返しの金銭奪取というのは理解できたが、勅使川原の目的は依然として不明だった。味一番の件に絡んだ金銭奪取が目的であれば、彼にとって五億円はあまりに少額であるし、警告であれば何のためなのか見当が付かなかったのである。










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