第32話 第五巻 聖域の闇 遺言
翌早朝、野島真一と住倉哲平、そして南目輝の三人に対して、岡崎家での深夜の身請け話に始まった一連の状況を説明し、午後には来社した探偵の伊能剛史にも打ち明け、待機を要請した。最終手段として、警察庁内閣官房審議官の平木直正を通じ、警察の全面協力を仰ぐためである。
沈痛な空気が覆っていた。社長室は何人(なんぴと)も存在しないかのように深閑としていた。部屋に集った森岡、野島、住倉、南目、蒲生そして伊能の六人は、一言も言葉を発することなく息を呑むように押し黙っていた。
いつ果てるとも知れない静寂を打ち破ったのは、森岡の携帯電話の着信音だった。
着信番号を確認すると坂根からだった。
「坂根!」
森岡は叫ぶように呼んだ。
「社長、すみません」
小声だった。森岡には冷静というより、憔悴しているように聞こえた。
「大丈夫か」
「私は大丈夫です。ですが困った状況です」
と言った坂根の傍らに人の気配があった。
「誰かいるのか」
「ええ。社長と話がしたいそうです」
と、坂根が言い終えるや否や、
「お前が森岡か」
と冷たい声が届いた。
「そうですが、貴方は」
「青虎会の鮫島だ」
「青虎会の鮫島さん? いったい、どういうことでしょうか」
森岡は皆に知らせるため復唱した。すると、伊能が鋭敏に反応した。
『虎鉄組本家の若頭補佐』
メモに書いて森岡に見せた。
――やはり、最悪のシナリオだったか。
森岡が顔を歪める。
「お前の部下は俺が預かった」
「何か不始末を仕出かしましたか」
森岡はあくまでも下手に出た。
「不始末といえば不始末だな」
「申し訳ないことをしました。それで、どうすれば返して頂けますか」
「それは俺が考えることじゃない」
「と申されますと」
「話しは別の者がする。わかっていると思うが、それまで余計なことはするなよ。警察に知らせたら交渉は終りだ」
淡々とした声が、ただの脅しではないことを物語っていた。
「わかっています。そちらも坂根に手荒いことは止めて下さい」
「こいつが大人しくしていれば危害は加えない」
鮫島は請け負うと、
「次の連絡を待て」
と言い残し、一方的に携帯を切った。
「坂根は虎鉄組に監禁されているのですね」
野島が確認した。
「そういうことだ」
森岡は苦い顔で答えた。
「社長、浜浦の報復でしょうか」
「浜浦ってどういうことや」
緊張の面で訊いた蒲生に、住倉が問い質した。
「この夏のお盆に浜浦へ帰省された社長を虎鉄組が襲ったのです」
「なんやて!」
初めて明かした事実に、浜浦に同行していた南目が声を上げた。
野島、住倉、伊能の三人もその衝撃に言葉が見つからない。
「本隊らしき三人は、境港で神栄会に取り押さえられが、別働の一人に浜浦で急襲されたところを蒲生が救ってくれた」
森岡が経緯を話した。
「やはり、森岡さんにまで手を出して来ましたか」
「貴方に蒲生を紹介して貰っていて助かりました」
伊能に頭を下げた森岡は、
「この一件、神栄会は虎鉄組と五千万で話を付けたんや。せやから、その報復といえば報復やろうな」
と顔を歪めた。
「では、身代金を要求して来るのでしょうか」
「問題はそこや。金で済めば簡単なんやが」
と、住倉に応じた森岡に対し、
「他にどんな要求があるというんや」
苛ついた体の南目が毒づくように言って、言葉使いを間違えたことに気づいた。
「他にどのような要求が考えられますか」
とあわてて言葉をあらためた。
「虎鉄組単独の仕業であれば金で済むと思うが、そうでなかったら、少々ややこしいことになるような気がする」
「だったら、いや、でしたら峰松さんに相談したらどうでしょうか」
南目がしたり顔で進言した。
いや、と森岡が頭を横に振った。
「今度ばかりは神栄会の力は借りられん」
「なぜですか、福地社長のときは相談されたじゃないですか」
「お義父さんのときと今回は違うんや」
「社長、南目の肩を持つわけではありませんが、私にも何が違うのかわかりかねます」
咎めるように言った森岡に、いつもは心の内を見抜く野島も訝しげな顔で訊いた。
「お前にもわからんか」
「福地社長の件は神王組の組内の諍いでしたので神栄会の顔が利きましたが、今回は敵対する組織なので、そう簡単ではないということでしょうか」
切れ者の野島も言葉に窮する中、伊能が代わって言った。
「むろん、それもあります」
森岡は伊能に向かって肯くと、視線を南目に戻した。
「だがな、俺は神栄会が仲裁役を受ける受けない、あるいは法外な金が掛かるというようなことを言っているんやない。神栄会は使いたくないんや」
「ですから、どうしてですか」
南目は語気を強めた。
「ええか。福地のお義父さんの件も含め、これまでの依頼が金で片を付けられたのは、神栄会との共同事業がなかったからや」
そう言った森岡に、南目は反論を言い掛けたが、それを目で押さえ、
「霊園事業には神栄会の傘下組織を下請けに使っているが、これはうちが発注元やから立場は上や。せやけどな南目、今はブックメーカーという巨大事業を控えているんやで」
と因果を含めるように言った。
「社長は神栄会が口を挟んでくるとお思いなのですね」
野島が察したように言った。
そうだ、と言った森岡は、
「ブックメーカー事業は、蜂矢六代目から好きなようにして良いとのお墨付きを貰ろうとるから、いかに近しい峰松さんでも俺に注文は付けられん。せやけど、武闘派の神栄会にとって、いや八代目を狙っている峰松さんにとって、ブックメーカー事業は喉から手が出るほど影響力を行使したい事業や。それを坂根救済など依頼してみいや、勿怪の幸いとばかり、我が意を通そうとすると思わんか」
と続けた。
「しかし、たった今蜂矢六代目からお墨付きを貰った、と言われたじゃないですか」
南目は不満顔で反駁した。
「せやから、上納金を別に出せといったような露骨な催促はない。しかも俺が陣頭指揮を執っている間もないやろう」
「私に引き継がれた後、影響力を行使すると?」
「俺が様々な事業を展開しようとしていることは峰松さんも承知や。いずれブックメーカーが軌道に乗れば、誰かに任せると推察しているやろう。せやから、峰松さんの強かな要求を受け止めるのは南目、お前やで。その際、いちいち俺に相談するつもりか」
と突き放すように言った。
「うっ」
言葉に詰まった南目に、
「輝、極道者を甘く見たらあかんで。ただ暴力を誇示しているだけやない。人の弱みに付け込むことに関しては天才的な能力を持つ人種や。今は下手に出ていても、常にこちらに向けて牙を研いでいる連中やで。せやから、彼らとの付き合いは隙、迷い、弱点を見せたらあかん。そして、作る借りは必ず金で返せる範囲でなきゃあかんのや」
と諭した。
南目は暫し黙していたが、やがて、
「兄貴は、本当にそれでええんか」
と兄弟付き合いの口調で言った。
その表情に、並々ならぬ決意を看て取った森岡はそれを許した。
「どういう意味や」
「前もって断っておくが、これは決して嫉妬やないで、兄貴」
南目が曰く有りげに言った。
「たいそうやな」
森岡が苦笑いすると、
「俺は大真面目やで」
南目は珍しくも森岡を咎めた。
「兄貴は俺らの中で、好之が一番可愛いんやろう」
「うん?」
意外な言葉に森岡は首を傾げた。南目には、それが誤魔化しのように映った。
「隠さんでええ。俺や野島副社長、住倉専務、中鉢常務より好之が可愛いことはわかっているんや」
「何を言い出すんや」
「せやから、隠さんでええって。俺は遺言書のことを知っているんや」
「遺言書って何や」
住倉が口を挟んだ。
「例の凶刃に遭って生死の境を彷徨ったとき、兄貴は好之に遺言書を渡しているんです」
「本当ですか、社長」
野島も初めて聞く話だった。
森岡は、そのことか、と思い定めた顔つきになった。
「本当だ。皆も知ってのとおり、俺は天涯孤独だっただろう。茜とのこともどうなるかわからんかったから、万が一のことを考えて遺産の処理をまとめておいたのだ」
「なるほど、社長の立場であれば至極当然ですね」
と理解を示した野島を南目が睨んだ。
「副社長、それで納得したらあきへんがな。問題はその中身ですわ」
「中身? 輝、お前内容を知ってるんか」
森岡は驚きの声で訊いた。
「とんでもないことになったと、好之から相談を受けたんや」
「相談やて?」
森岡は一層目を丸くした。病床で問うたとき、坂根は読んでいないと答えていたはずだ。
南目は森岡の心中がわかっていた。
「読んだんや、兄貴。遺言書を読んで、その内容に驚愕し、思い悩んだ好之はな、荷が重過ぎると言って俺に相談したんや」
「扱いに困り果て、俺には読んでいないと嘘を吐いたんやな」
「好之の身になって考えてやってや」
南目は、坂根を叱責するなと訴えた。
「わかっている」
森岡がそう言うと、住倉が、
「南目、荷が重いってどういうことや」
と訊いた。
「社長は、いずれ坂根にウイニットの経営を任せようと思っておられると言うのやろう」
野島が代わって答えた。
「いや、違うのです、副社長」
「違う?」
野島は困惑の面になった。
南目は森岡を見つめた。その眼は公表しても良いかと訴えていた。
森岡は黙って肯いた。
「ウイニットを任せるというのはそのとおりですが、兄貴は自身の持ち株の全てを好之に譲ると遺言されていたのです」
「なに!」
「本当か」
野島と住倉が驚きの声を上げた。だがそれは、森岡に対する不満という響きは無かった。
「兄貴、もう一度念を押すけど、俺は好之に嫉妬しているんやないで。それどころか、社会からドロップアウトしていた俺を引き上げてくれただけでなく、ブックメーカーという大事業を任せてくれるという。感謝以外に何もない。俺が言いたいのは、それだけ大切に思っている好之の命が掛かった正念場やろ。形振り構わず、全ての手を打たにゃならんのやないかということや」
「そういうことか」
南目の心中を理解した森岡の顔つきが変わった。
「輝、それはちょっと違うんや」
「何が違うというのや」
「お前らの眼にはどう映っているかしらんが、俺にとってお前ら五人は、かけがえのない家族やと思っている」
三人が肯いた。
「好之は中学から大学までの後輩で、秀樹との関係もある。輝は俺との交誼ということで言えば、五人の中では一番古いし、何といっても神村先生との縁絡みや。住倉、野島、中鉢は役職こそ違うが、菱芝電気以来、苦楽を共にして来た、言わば戦友や。この五人に甲乙を付けることなど俺にはできん」
「じゃあ……」
「なんで、好之に全株式を譲るのかって言うのやろう」
森岡が南目の言葉の続きを奪った。
「まあ、そういうことやが……せやけど、決して嫉妬や不満やないで、兄貴」
南目はもう一度念を押した。
「お前がそないなケツの穴の小さい男やないのはわかっとる」
森岡は優しい笑みを投げ掛けると、
「坂根には違う役目を引き受けて欲しかったんや」
「違う役目って、もっとわかるように言ってくれ」
南目は苛立つように催促した。
「俺の後を継いで欲しいということや」
「せやから、野島副社長の次の社長にするんやろう」
「そっちやない。灘屋の方や」
「ああ、灘屋……」
南目は、目から鱗を落としたように呟いた。
「俺は大学進学で大阪に来るとき、船や網、会社の株式、山林田畑を売却し、祖母が亡くなった後には灘屋の屋敷までも売り払った。そのときは、二度と浜浦に戻ることはないと思っていたからや。だが年を取るにつれて、故郷を懐かしむ自分に気づいた。と同時に、灘屋を俺の代で終わらせてしまって良いのだろうかと葛藤し始めたんや」
森岡は、一旦言葉を切って皆を見回した。
南目、野島、住倉の三人にしても、初めて聞く森岡の心境の変化であった。伊能と蒲生もまた、彼の心底を知る好機と神妙に耳を傾けていた。
森岡は話を続けた。
「といっても、奈津美とは死別したし、子供もおらんから、もしものときのためには、誰かに森岡家の戸籍に入って継いでもらうしかないやろ。そうなるとや、野島と住倉は長男やし、中鉢は一人っ子や。輝、彩華堂は弟の悠斗君が継ぐとしても、南目家は地元の名士やで。外聞を考えれば、長男の養子縁組など親御さんにとっては迷惑千万な話やろうな」
南目には返す言葉が無かった。
「残る好之だけが次男なんや。長男の秀樹は障害者になったが、幸いというか、秀樹には男の子がおる」
「五人の中では、好之だけが可能性があるということか」
「しかも、好之の実家は浜浦の隣村や。終の住処として環境的にも違和感がないと思ってな」
「条件が整っているということやな」
「本人の意思は確認しておらんが、秀樹からは好之の心次第という返事を貰っていてな、俺にもしものことがあったら、秀樹から話をしてもらう段取りになっていたんや」
「兄貴が好之を厚遇する理由にはそれも含まれていたんか」
「俺の我儘を聞いてもらうわけやから、それなりの処遇はせにゃならんやろ」
と言った森岡が辛そうな顔をした。
「依怙贔屓かな」
「いえ、そうは思いません。後継者ということでいえば、坂根は非常に有能な男です」
野島が言うと、
「実家を再興したいという社長の気持ちも十分理解できます」
住倉も納得の表情で言った。
「輝、好之と同様、お前もかけがえのない義弟なんや。せやから、伊能さんが言われたように、百パーセント無事解決できるという保証があれば考えるが、そうでないのであれば、ブックメーカー事業に重大な支障が出るかもしれない危険を冒してまで峰松さんを頼るわけにはいかんのや」
「兄貴……」
森岡の深い心情に触れた南目は、黙ってうな垂れた。
「社長の真意は良くわかりました。しかし、虎鉄組相手にどのように交渉されるおつもりなのですか」
野島が皆の心中を代弁した。森岡のことである、何か妙案があるに違いないという期待があった。
「そこや。彼らの目的は金かそれとも……」
「それとも?」
「それもこれも、彼らの要求を待つしかない」
森岡は話を一旦打ち切るように言うと、
「とりあえず、野島と住倉は仕事に戻れ」
と命じた。
「しかし……」
不服そうな二人に、
「何かあったら必ず知らせる。業務に戻れ」
と有無を言わせぬ邸で重ねて命じた。
二人は不承不承部屋を出て行った。
「さて、森岡さんは虎鉄組以外の関与をお考えのようですね」
野島と住倉が退出したのを見計らって伊能が口を開いた。
「坂根は、立国会の勅使河原が絡んだ一件を探っていました。常識的に考えて彼が関わっていると見るのが妥当でしょう。その一方で、貴方を襲ったのも虎鉄組だった事実で言えば瑞真寺も捨て切れません」
森岡が本音を漏らすと、伊能が核心を突く言葉を吐いた。
「もしかしたら、三者は同じ穴の狢かもしれません」
「うーん」
森岡は腕組みをして沈思した。
瑞真寺と立国会の繋がりは疑っていた。勅使河原公彦が自分のことを知っていたのは、瑞真寺からの情報なのだろうとの確信にも至っていた。
だが森岡は、
「前言を翻すようですが、私には瑞真寺が虎鉄組と直接与しているとは思えないのです。仮にも天真宗の本山格のお寺です。いや、宗祖家の寺院ですから」
と虎鉄組との深い関係は庇い立てした。
いや庇うというのとは、少し違っているのかもしれない。森岡は菊池龍峰の件で当時仇敵だった総務清堂を頼ったように、元来は人を信用する性質だった。
少年期の不幸もあってか、誰彼と無く盲目的に信用するわけではないが、政界であろうと経済界、宗教界であろうと、あるいは極道社会であってもさえも、それなりの地位にいる人物は仁義を弁え、理非に聡いと信じていた。そうでなければ人の上に立てるはずがない、というのが彼の哲学であり、信念なのである。
「私を襲撃した件はどういうことでしょうか」
「瑞真寺と勅使河原が与していれば、門主から相談を受けた勅使河原が独断で虎鉄組を使ったとも考えられます」
森岡は神村の知らぬところで、神王組との関係を深める自分自身に照らし合わせて答えた。
「なるほど」
伊能は肯いた後、
「しかし、少なくとも勅使河原と虎鉄組が与しているのは間違いがないようですね」
と念を押した。
「私もそう思いますが、ただ坂根は何をしていて虎鉄組に捕まったのかがわからないのです」
「とおしゃいますと」
「坂根は、小梅という芸者の身請け話の裏を探っていました。探っていた相手は勅使河原でしたが、坂根を拉致する理由が思い当たりません。また、虎鉄組の報復であれば、まず狙うのは私でしょう」
「お言葉を返すようですが、貴方を拘束してしまうと、金を動かす人間がいないでしょう」
「金銭だけが目的であればそのとおりでしょうが、何かもう一つすっきりしません」
「では、このように考えたらどうでしょう」
森岡と伊能の会話を聞いていた蒲生が口を挟んだ。
「小梅という芸者の身請け話は社長を陥れる罠で、坂根さんが妙な動きをしたため、ともかく彼を拘束した」
「目的はなんだ」
森岡が訊いた。
「おそらく、当初の目的は単純に社長のスキャンダルだったのではないでしょうか」
「森岡さんは独身ですから、一般女性であれば何も問題ありませんが、芸者の身請けとなると話は違います。マスコミにとって、時代の寵児の下ネタは格好の材料でしょうからね」
伊能が蒲生に同調した。
「しかし、それやったら社長が断ったら意味がないじゃないですか」
南目が疑問を投げた。
「意味がなくても別に損をするわけではありませんし、勅使河原に小梅の身体という目的もあったら、全くの無駄骨にはなりません」
との蒲生の言葉に、
「ところが、坂根が目に余る行動を取ったため、急遽計画を変更したということか」
森岡が続いた。
「蒲生、お前は浜浦での暴漢は命を取るのが目的ではない、と言ったな」
蒲生は小さく肯いた。
「ナイフの切先は腹より下に向いていました。おそらく大腿部を狙ったのでしょう」
「となると、スキャンダルの罠から、坂根の拉致によって勅使河原の再警告に変わり、もし金の要求があれば虎鉄組の報復も加わるということか」
「目的が見えてきましたね」
伊能が言った。
「そのようですね」
と、一応同意した森岡だったが、大きな疑念は残っていた。
そもそも、いったい何のための警告なのかということである。勅使河原個人の意志なのか、それとも瑞真寺の意向を受けてのものなのか。
そして、勅使河原の目的は警告だけなのだろうかという点も気に掛った。もし彼が、須之内高邦の野望を打ち砕いた人物が自分だと知っていれば、勅使河原もまた多額の金銭を要求するような気がしていた。
森岡の携帯が再び鳴った。知らない番号だった。
「はい。森岡です」
森岡は平静を装った。
「わしは青沼という者だが、鮫島から連絡は受けたな」
「青沼様。たしかに受けました」
森岡は今度も復唱した。伊能はさっとメモに走り書きをした。
『虎鉄組の若頭』
とあった。
黙って肯いた森岡は、
「坂根を返して頂くにはどうすれば良いでしょうか」
と訊いた。
「まず、現金で十億円を用意してもらう」
「十億!」
森岡は、冷静な顔をして大きく叫んだ。
「ほう。さすがにお前でも十億はきついか。だが、一円たりとも負けることはできんぞ」
「承知しました。いつまでに用意すれば良いですか」
「明日だ」
「明日? いくらなんでも今日の明日では、銀行と話しが付けられません」
森岡は悲痛な声で言った。決してできない相談ではないと思っていたが、時間稼ぎをしたかった。
しばらく沈黙があって、
「ならば、明後日にしてやる」
「有難うございます。それで、どこへ」
「一億ずつ段ボール箱に詰めて、お前一人で本部に持って来い」
「虎鉄会の本部に私一人で、ですか」
森岡の目顔に伊能が激しく首を振った。
「十億を私一人では無理です」
「無理は承知だ」
「ですか、私は車を運転できません。少なくとも運転手は必要です」
咄嗟の機転で嘘を吐いた。もっとも、起業してから滅多に運転はしていないし、東京の地理や道路事情に不案内であることには違いなかった。
青沼は再び沈思した後、
「運転手は許可する」
「刻限は?」
「明後日の夕方の五時に持って来い」
「念のため、住所を教えて頂けますか」
「足立区千住曙町××―××だ」
「承知しました。一つだけ、坂根に手洗いことはしないで下さい」
森岡が請うと、
「できるだけ、そうしよう」
と答え、青沼は携帯を切った。
「十億だなんて、二十倍やないか」
憤りを露にした南目に、
「南目さん。この際金のことより、社長の身の上を心配しなくては……」
と、蒲生が諌めた。
「そ、そうやそうや。社長、運転手役は私がします」
南目が意気込んで申し出た。
「それはあかん」
「どうしてですか」
「向こうで何があるかわからん。もしお前まで拘束されたら、ブックメーカー事業の準備が滞ってしまうやないか」
「しかし……」
南目は尚も食い下がった。
「神王組には、来年の春から営業すると伝えてあるんやで。万が一遅れることにでもなったら、それこそ立場が無くなる」
「では私が……」
蒲生が申し出たが、
「元警察官もあかん」
と、森岡はにべも無く断った。
「では、誰を?」
伊能が訊いた。
「東京という土地柄、また私個人の金とはいえ、十億円は東京の銀行から引き出すことになりますので、銀行と面識のある中鉢に頼もうと思います」
と、森岡は答え、
「私の身に何か起こったときは、これを使って警察を動かして下さい」
鮫島、青沼との会話の内容を録音したカセットテープを渡した。
「録音は彼らも想定しているでしょうから、手荒なことはしないでしょう」
伊能が期待を込めた口調で言った。
その日の夜、箕面にある森岡の自宅マンションには南目、蒲生、伊能の三人が泊まることになった。明日の東京入りの打ち合わせと、事態の急変に備えてのものだった。連絡を受けた茜もロンドをちいママに任せ、午後十時には姿を現した。
南目から詳細を説明された茜は、しばらく思案顔を見せていたが、誰もが坂根の身を案じているのだろうとしか思わなかった。
「食事は済ませたの」
「コンビニ弁当で適当に済ませた」
茜の気遣いに森岡が答えた。
「じゃあ、コーヒーでも入れましょうか」
「すまん、頼むわ」
茜がキッチンへと向かったところで、南目が、
「しかし、他に何か打つ手がありませんかね」
ともどかしそうに言った。
「相手の要求は金のようですし、余計なことはしない方が良いんじゃないでしょうか」
蒲生が自重を促したのに対し、伊能は、
「監禁、恐喝の証拠が丸残りだから、よもやということはないと思うが、南目君の言うとおり、万が一の保険があるに越したことはない」
と、南目に同調した。
彼には腹案があった。
「平木さんに相談したらどうでしょう」
平木も警察の人間だが、捜査という意味ではなく人脈を当てにしての発言である。
警察庁最高幹部の平木であれば、表社会の人間だけでなく、裏社会に大物の知人がいても不思議ではない。言うまでもないが、癒着という意味ではない。
「私も頭に浮かびましたが、虎鉄組の真意がわからない以上、やはり警察の人間に頼るのは止めましょう」
「といって、神村先生はじめ偉いお坊さんらも畑違いだし、松尾会長にも頼らないのでしょう」
南目が森岡を覗き込むようにして訊いた。
ああ、と応じた森岡は、
「政治家も俺が直接知り会った人物はおらんし、今度ばかりは人を頼るわけにはいかん」
「じゃあ、このまま手を拱いているしかないのか」
南目が落胆の声を発したとき、森岡の語調が変わった。
「一つだけ手立てがないこともないが……」
と口籠もったのである。彼にしては珍しいことだった。
「もしかして、あれですか」
「茜さん、あれって何ですか」
コーヒーを運んできた茜に、南目が飛び付くように訊いた。
「私の口からは言えません」
茜の目は、森岡に問えと訴えている。
「社長、何かあるのですか」
「有るような無いような」
森岡は、らしくもない曖昧な言葉を繰り返した。
「果断が信条の、森岡さんのこのように煮え切らない態度を私は初めて見ました。余程のことなのでしょうね」
「いや、この事態を打開するのに有効な手段なのかどうかがわからないのです」
伊能に応じた森岡に、
「もう少しわかるように説明してもらえませんか」
と、南目が懇請した。
森岡は一瞬間を置いた後、
「実は、灘屋には代々の家宝があるのやが、父の遺言として、俺の身体が窮まったときに用いよ、とあったんや」
と園方寺での経緯を述べた。
「家宝……」
「そういう話ですか」
当てが外れたような声を出した伊能と蒲生に対し、南目が口を尖らせた。
「社長の生家灘屋はあの界隈一の権力者でしたから、相当なものだと思います」
「南目君、誤解しないで下さい。私は家宝の値打ちを見縊ったのではないのです。ただ、今の森岡さんは金ならどうにでもなるわけですから」
と取り繕った伊能に対し、
「伊能さんこそ誤解しています。私も家宝の金銭的値打ちのことを言っているのではありません。当時の灘屋は、地元の政財界とも深い繋がりを有していましたので、どこにどのような人脈が拡がっているとも限らない、ということが言いたかったのです」
南目は伊能に真意を告げると、森岡に視線を移し、
「今回社長は、神村先生や松尾会長などを介した仲介を避けておられます。それは、その後の悪影響を懸念されてのことでしょう。しかし灘屋の人脈であれば、誰に憚ることなく頼ることができるのではないでしょうか」
家宝を確かめよと催促した。
「洋介さん、今度の相手は暴力団、しかも霊園地買収で神栄会と対峙したときとは状況がまるっきり違います。私もここはお父様や御先祖様のおっしゃる正念場だと思うわ。ここは南目さんの言葉に従ってみてはどうですか」
茜も優しく背中を押した。
森岡は大きく息を吸い込み、
「よっしゃ、御先祖様と対面するか」
と宣言するように言って、神棚のある部屋に入った。
森岡はまず両手を合わせて神前に拝礼すると、四方を拝み始めた。これは『四方拝(しほうはい)』といって、元旦の早朝、今上天皇が四方の諸神を拝されるのに倣ったもので、神村から教わっていた。
森岡は、神村を神とも仏とも敬う一方で、神仏自体への信心は薄いように見えるが、実際は祖母ウメの影響で、神仏に対する畏敬の念は深かった。事実、彼は物心が付くと、誰に言われたのでもなく、朝夕には仏壇と屋敷内に祭ってある地蔵菩薩に線香を手向けるようになった。
森岡は神棚に置いていた書箱を手に取ると、風呂敷の紐を解き、ゆるりと蓋を開けた。中には封筒が入っており、その下に袱紗包みが見えた。袱紗に包まれていたのは家紋入りの小刀だった。
森岡は、封筒の中の手紙を取り出して開いた。
洋介、お前は今何歳なのだろうか。
父は熟慮の末、この書箱を園方寺の道恵方丈様に託し、二十歳になったら渡して貰えるよう依頼したが、お前は成人したのだろうか。
洋介、父はまずもってお前に詫びなければならない。母のことは申し訳なかった。お前から母を奪ったのはこの父で、母には何の罪科はない。父は心が弱かった。私の父、お前にとっての祖父の名が重荷だった。あまりに偉大過ぎる祖父の業績が重石となって父の心を悩ませた。
父はその鬱積の捌け口として酒を頼り、諌める母に暴力を振るった。全ては父が悪いのだ。もしお前が母に対し屈託があるのなら、それは全て父のせいである。お前も大人になっているだろうから、母を許してやって欲しい。
また十一歳のお前を残し、先立ってしまうことも許して欲しい。母が去り、祖父が亡くなり、そしてまた父が消え行く悲しみを背負わせてしまった。お前の悲しみはいかばかりかと、想像するだけで心が痛む。
灘屋にしても祖父、父と相次いで亡くなったからには、これまでの威光は嘘のように凋落したことだろう。本来であれば、父が護りお前に引き渡すべき灘屋の財産も大きく目減りしたことだろう。むろん、金銭や土地のことを言っているのではない。お前に引き継ぐべき人脈はその多くが途絶えているに違いない。これもまた許して欲しい。
さて、このような不甲斐ない父とは関わりなく、灘屋には一つだけお前に渡すべく宝が残っている。それが袱紗に包んである小刀だ。この小刀はお前から八代前の当主が、松江藩の国家老・奈良岡真広様から拝領したものだ。拝領の理由は、灘屋の七代前の当主が奈良岡様の実子であることを証明するためだ。
当時、釣り好きの奈良岡様は、度々浜浦を訪れ、灘屋の当主と連れ立って磯釣りや船釣りを楽しまれたということだ。その際の宿泊先も灘屋だったのだが、あるとき奈良岡様は当主の娘に手を付けられた。やがて、男子が生まれたのだが、ある事情からその男子が七代前の当主になった。つまり、灘屋と奈良岡家は縁戚筋ということなのだ。
お前にすると、そんなことかと思うかもしれないが、実はこの奈良岡家は偉大な人物を輩出しているのだ。その方々を含め灘屋の人脈を別紙に記しておく。ただ、昭和四十八年現在のものであるから、お前がこれを読んだときには、亡くなられたり隠居されたりしているかもしれない。それでも、お前がここぞというとき、頼りになる人物が残って居られると思う。頼ればきっと力になって下さるに違いない。
最後に、この事実は灘屋の後継にのみ引き継がれる秘事である。後年、お前が嫡子に譲るとき、その旨をもって引き渡して欲しい。言うまでもないが、その真意は他者に頼り過ぎることがないようにするためだ。出来ることならばお前もそのように生きて欲しい。
洋介、人生は長いようで短い。精一杯、お前の思うように生きろ。
父より
父の手紙を読み終えた森岡は、同封してあった別紙を開いた。
そこには十三名の名が記載してあった。
奈良岡真篤 (奈良岡本家・陽明学者)
奈良岡正種 (奈良岡分家・帝都大学大学長)
奈良岡正憲 (奈良岡分家・松江市長)
堀部 真快 (真言宗・大阿闍梨)
服部 忠之 (三友銀行・頭取)
宮永 秀人 (菱芝商事・社長)
西条慶治朗 (山村証券・社長)
安宅 一 (住川不動産・会長)
篠崎 哲弥 (大日本製鉄・社長)
長倉 壮 (東亜電気・社長)
竹山 中 (国会議員)
唐橋 大紀 (島根県会議員)
設楽幸右衛門基法 (山陰興行グループ総帥)
奈良岡真篤氏は稀代の大学者である。このお方に関して詳細に記すことは避ける。自分調べてみなさい。この奈良岡真篤氏と堀部真快大阿闍梨は実の兄弟である。真快大阿闍梨は、いずれ座主に上られるほどの高僧であり、まさに昭和日本の精神的支柱であられた御兄弟であろう。
服部、宮永、桐生、安宅、篠崎、長倉各氏は、それぞれ日本を代表する企業のトップであるが、皆様は奈良岡真篤氏を師と仰がれている方々だ。直接お会いすることは出来ないかもしれないが、奈良岡氏にお願いすれば、助力願えるだろうと思う。
竹山、唐橋、設楽の三氏は灘屋と直接の交誼があった方々である。遠慮なく相談すると良い。
ああー、と森岡は大きな溜息を吐いた。
十三名の中で唯一面識のあった奈良岡真篤は、すでにこの世になかった。奈良岡の生前、神村に同道して何度も飲食を共にし、何かあれば相談に来いとの言葉を貰っていたが、今となっては空手形に終わった。
財界のお歴々も、四名が逝去しており、存命と思われる西条と長倉も高齢により現役から身を引いていた。
堀部真快大阿闍梨が存命なのかどうかはわからないが、いずれにせよ宗門に助力を仰ぐ気はなく、残る灘屋人脈のうち、竹山中と設楽幸右衛門基法は死去していた。
わずかに可能性があるのは唐橋大紀であった。
唐橋大蔵の実子である大紀は、県会議員から衆議院議員に転身し、今は政権与党の大幹部になっていた。大紀は、祖父洋吾郎の葬儀に出席していた記憶があったが、同時に竹山中との因縁も父洋一から聞かされていた。
もし、父大蔵に対する洋吾郎の仕打ちにわだかまりを持っていれば、会ってさえくれないと想像できた。
何にせよ、洋一が遺言したのは洋介が十一歳、四半世紀も昔のことである。あまりに長き歳月が経っていた。
森岡は、神棚のある部屋を出てリビングへと戻った。
固唾を呑んで待っていた一同は、森岡の様子に、成果なしとの思いを抱いたが、それでも南目が、
「家宝とはどのようなものでしたか」
と訊ねた。
「灘屋の人脈が記載された書類があった」
「その中に目ぼしい人物はいませんでしたか」
伊能も一縷の望みを抱いて訊いた。
「残念ながら、父が残したのは二十五年も前のことです」
森岡の言葉の意味を皆が理解した。
「一応、見せて頂けませんか」
伊能の催促に応じ、森岡は人名の記載された書類のみをテーブルの上に置いた。
茜も含めた四人は食い入るように見詰めた。
「奈良岡真篤って、あの?」
と、まずは伊能が驚嘆の声を上げた。
森岡は奈良岡家と灘屋の因縁は秘匿し、自身も神村を通じて面識があったことを告げた。
「奈良岡真篤って、そんなに凄い人だったんですか」
南目が曰く有り気に訊いた。
「森岡さんを差し置いて私が説明するのも憚れますが、まず日本の歴史上でも五指に数えられる大学者でしょう。また、語弊がありますが、時の権力者に影響力があったという点では道鏡や天海と比較しても遜色がないと思います」
道鏡は奈良時代の法相宗の高僧、天海は徳川家康の側近で、共に時の政権に大きな影響力を及ぼしたと言われている。
伊能の力説を肯きながら聞いていた南目は、
「神村先生は、そんな凄い人の信頼を得ていたのでしょう」
と、森岡に水を向けた。
「信頼どころか、後継者として認められていた」
「ということは、神村先生は奈良岡真篤氏の人脈を引き継いでおられるわけですね」
南目の口調に、その意図を見抜いた森岡は、
「だから、先生には迷惑を掛けられないんや」
と語気を強めた。
「せやけど、兄貴の、いや好之の正念場やないか」
南目が憤然と言った。彼にとっても坂根は可愛い弟分なのである。
まあまあ、と南目を宥めた伊能の視線が、先刻から一人思案顔の蒲生亮太に定まった。
「どうかしたのか」
「はあ、いえ」
蒲生は曖昧に返した。
「何かあるのなら、この際だ、遠慮しない方が良い」
そう言って伊能は、同調を促すため森岡を見た。
蒲生は森岡が頷いたのを見て、
「差し出がましいようですが、唐橋大紀に会うことはできませんか」
と遠慮がちに言った。
「唐橋か……」
森岡は眉を顰めた。祖父洋五郎と唐橋大蔵との関係を知っているからである。
「何か策があるのだな」
意を含んだ物言いに伊能が先を促した。
蒲生が小さく肯く。
「八年前の金塊事件を覚えていらっしゃいますか」
「当時の阿久津首相が、ある政商から十億円相当の金塊を受け取ったとして、右翼団体が連日街宣活動をして話題なった事件だな」
伊能が訳知り顔で言った。彼は元公安警察官である。外事担当で右翼や暴力団は畑違いだったが、それなりの情報は耳にしていた。
「執拗な抗議行動に、阿久津首相もずいぶん頭を痛めていたな」
「辞意を固めたと聞いています」
「確か、裏で右翼の街宣活動を指示していたのは、宗光賢治(むねみつけんじ)だったな」
「宗光って、右翼の首領と言われているあの宗光ですか」
「その宗光です」
南目に答えた伊能は、
「それがどうかしたのか」
と急かした。
「いっこうに収まる気配のなかった街宣活動がピタッと止まったのは、唐橋大紀の功績かもしれません」
「本当か」
「私がSPに配属されてまもない頃、先輩から聞かされました。先輩は当時、阿久津首相の警護に当っていたのですが、あるとき官邸に唐橋大紀が呼ばれ、何事が密談したそうです。官邸を出た後の唐橋の行動はわかりませんが、翌日から街宣活動がピタリと止んだのです」
「それだけでは確証とは言えないだろう」
「いいえ、その先輩は阿久津首相が『唐橋は案外頼りになる」と言って破願したのを目の当たりにしています」
蒲生は自信有り気に言うと、
「何よりも、その後の唐橋の出世ぶりは異常とは思いませんか」
と言い放った。
唐橋大紀は父大蔵の地盤を継いだものの、なにせ島根の首領である設楽幸右衛門基法の後ろ盾を持つ竹山中と地盤が重なっており、到底太刀打ちできなかった。他の地盤を狙おうにも、政権与党の重鎮ばかりが揃う島根では付け入る隙がなかった。
そのため、一旦県会議員に身を置き、時節到来を待つ方針に変えた。
その彼が衆議院議員に初当選したのは、大蔵が政界を引退してから二十年後、竹山中の急逝に伴う補欠選挙であった。このとき唐橋は五十七歳、国会議員としては実に遅咲きである。
ところが、である。
それから五年後、当選回数が幅を利かす世界にあって、三回当選の唐橋大紀が閣僚に抜擢されるや、あれよあれよという間に最大派閥の幹部に駆け上がり、今や領袖の後継候補として名が上がるまでになったのである。
国会議員になって僅か十年しか経っていないのにも拘わらずである。いかに、党の大幹部だった父を持つとはいえ、異例中の異例であった。
蒲生は言外に、彼の後ろ盾が阿久津元首相ではないかと訴えているのである。
「なるほど、興味深い話だな」
蒲生に頷いた伊能は、
「宗光賢治は虎鉄組の鬼庭組長の兄貴分です。この筋は使えませんか」
と、森岡に水を向けた。
「お話自体は信憑性があります。ですが、唐橋は私に力を貸すどころか、門前払いを食らわすでしょう」
森岡は否定的に応じた。
「それはまた、なぜ?」
「唐橋大紀の国政進出が遅れたのは、私の祖父が原因なのです」
森岡は祖父と唐橋大蔵、そして設楽幸右衛門基法、竹山中との因縁を明かした。
「唐橋大紀は灘屋を恨んでいるということですか」
蒲生があからさまに肩を落とす。
「そのように考えるのが常識的でしょうね」
森岡がそう言ったとき、
「馬鹿を言うんじゃないわよ」
背後から茜の苛ついた声が浴びせられた。
「馬鹿って、茜……」
と振り返った森岡は、彼女の憤怒の目に思わずたじろいだ。
菊池龍峰の捨て身の策に瀬戸際へと追い込まれながら、総務藤井清堂との面談を逡巡したときと同じ轍を踏むのか、と糾弾しているのだ。
ごくりと生唾を飲み込んだ森岡は、
「連絡を取るだけ取ってみましょう」
と携帯を手に取り、叔父の森岡忠洋に掛けた。
――さすがの兄貴も茜さんには適わないのか。
南目は森岡の耳に届かないように呟いた。
彼の嘆息はこの世の真理であろう。
古今東西、いかな偉人、傑物であろうと、男は女に頭が上がらないようにできている。いかなる英傑をもってしても、越すに越されぬ関所が美女、つまり妻女や恋人だという通説もあるほどだ。すべからく女の股の間から生まれ出ている男が、いかに偉そうにしたところで、手のひらの上で踊らされているに過ぎないのだ。
むしろ大成する男は、その真理をわかっていて、自ら積極的に踊るような度量の持ち主なのだとも言える。また逆説的に言えば、男をそのような気持ちにさせる器量の女と出会わなければ、出世は覚束ないということであろう。
松江市役所勤めの森岡忠洋ならば、少なくとも唐橋大紀の地元事務所の連絡先は知っているのではないかと期待してのものだったが、はたして彼は唐橋の携帯電話の番号まで知っていた。
竹山中が急逝してしまったため、陣営には後継者が育っていなかった。唐橋大紀はその間隙を突いて、地盤奪回を画策した。その結果、島根半島界隈の大半を取り戻すことに成功していたのだが、それに尽力したのが叔父の森岡忠洋だというのだ。
むろん、忠洋は地方公務員であるから、表立って行動することは憚れたが、彼の意を受けた門脇修二が表で、足立万吉、万亀男父子が裏で精力的に取り纏めたというのである。
森岡は森岡忠洋に事前の連絡を入れてもらい、首尾よく唐橋大紀との面会を取り付けた。
その日の深夜二時頃、けたたましい警察車両のサイレンが箕面の高台に鳴り響いた。この突然の異変に、森岡が住むマンションを窺っていた二人の男は動揺した。
サイレンの音は男たちの耳に大きくなっていった。どうやら、自分たちのいる場所に向かって来るらしいと察した男たちは、一旦持ち場を離れ、警察車両との遭遇を避けた。
数分後、警察車両は森岡の住むマンション前に到着した。中から顔を出したのは、伊能剛史と交流のある大阪府府警捜査一課、第三係係長の佐古である。佐古は部下に付近の警邏を命じた。
この騒動の間隙を縫って、二台の車が箕面の高台を離れた。佐古はしばらくその車両を追尾していたが、名神高速に入る手前で引き返した。
覆面パトカーに代わって一台の車が、森岡らとの車間を詰めた。九頭目ら神栄会の影警護車である。森岡は事前に、隠密裏に東京へ向かうと告げていた。
「今頃、馬鹿共はマンションを見張っているのでしょうね」
南目が嫌味をたっぷり込めて言った。
「東京で撒くのは難しいやろうからな。佐古さんには面倒を掛けた。帰ったら礼をせにゃならんな」
茜が持たせてくれた熱いコーヒーを一口飲みながら森岡が答えた。
元公安警察官だった伊能と元要人警護をしていた蒲生は、森岡の行動を見張っている男たちに気づいていた。何気に、近所のコンビニへ行く振りをして周囲を探り、東京ナンバーの車の存在を認めていたのである。
虎鉄組との交渉だけであれば気に留めることもなかったが、唐橋大紀との会談は極秘にしておく必要があった。虎鉄組に手の内を知られないためである。
そこで、伊能は佐古に協力を仰ぐことにした。事情を聞いた佐古は自宅から府警本部に出勤し、重要なタレコミがあったとして、部下を引き連れ箕面に出向いたのである。ちなみに、いわゆるガセネタは頻繁にあることで、佐古は取捨を選択する立場にあった。
一方、皆を見送り一人マンションに残った茜は、すぐさま携帯を手にした。
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