言無人夢

1

 目を覚まして、起き上がる。

 たったそれだけの動作に私は自我が揺さぶられるほどの衝撃を覚える。そうか、私は目を覚まし起き上がることが出来るのか。

 そして言葉で思考した。

『目を覚まして、起き上がる』

 見渡してみれば暗室。コンクリートの無骨な打ちっぱなし。がらんとした寒気のする広々とした空間。

 地下室。

 そんな言葉が頭に浮かぶ。しかしそのことは逆に私の疑念を呼ぶ。どうしてこんなに簡単に地下室という単語が思い浮かぶのか。そもそも地下室という空間の特徴情報を私は持っていたのだろうか。具体的な根拠を上げてこの空間が地下室であることを証明することは出来るだろうか。出来た所でそこに誤りがひとつもないと断言して良いのだろうか。

 結論。ここは地下室かもしれない。

 そんな曖昧な言葉でお茶を濁してる間にも自然と、私の視覚は情報を摂取し続ける。

 革張りの椅子。紙のない書き物机。大工道具にあふれた道具棚。食料の山。窓のない壁。

 目を閉じた。

 わかる。何が何であるか。わかる。なるほど。

 自分の呼吸音。

 たぶん私は記憶喪失だ。

 改めて論理的な説明をこの現状に当てはめようとする。

 寝ていた場所は革張りの椅子。二つ向かい合っているうちの片方。どうしてこの場所で記憶を失いうるだろう。頭を打ちそうな何かを探すが、見当たらない。薬か電流かと思ってみても、私の身体に痛みの残滓は感じられない。

 いや、そもそもだ。

 私はもっと奇妙なことに気付いた。

 どうやって私はこの部屋に入れたのだろう。ドアがない。窓がない。排気口排水口の類もなさそうだ。いやさすがにそれは不味い。慌てて、壁の四隅まで調べあげるも、それらはなかった。

 いやいやいや。おかしい。

 私はどこか別の場所で記憶を失わされ、そして運び込まれ、壁を埋め立てられた。そして室内の空気が尽き次第、私は死ぬ運命にある。

 そう記述することで、私は今のこの状況に一応の説明を付けられる。

 しかしあぁ、決定的な事実に気付いてしまった。

 この部屋には光源がない。

 私はどうやってこの部屋を認識しているのだろう。


   ※


 いくらか落ち着いてきた所で、そもそもこの状況において自分が取り乱すということ自体が奇異だと思われた。繰り返すようだが私は記憶が無い。

 しかし私には記憶が無いなりに、記憶があるのだ。すなわち言葉、常識、物事の奇異。それらは私の物語状の連綿とした歴史ではなくその前提条件、物理法則のように私の記憶の基底に染み付いているようだ。

 されどその常識はたった今裏切られた。最初、『目を覚まして、起き上がる』際に、この現状は常識と符号を見せたにも関わらず、光源なくして見えるという事態は私を再び混沌へと突き落とす。

 こうなってくると様々なことが疑わしい。例えば記憶が無いことにしても、記憶が無いと繰り返すことで記憶をその度に失っている(つまり記憶が無いと記述する時点以外の時点には私の記憶はあり、記述と同時に認識の外に記憶が抜けてしまって、結果私は私によって記憶が無いと記述される)のかとも考えられる。

 あるいは腹が減るということもないのかもしれない。食料は確かにある。しかしこの部屋にはトイレらしき場所がない。

 ひとまずこれを仮説として検討してみる。

 疑うことは一歩目だ。次はそれを確信してみる。

『私は腹が減らない』

 確信し、心で記述する。

 果たしてこうすることで腹は減らないのか。どうかと自身に問うてみるけどよくわからない。それはそうだ。自分の頭の悪さに辟易する。

 仮説を変えてみる。

『私の背後の椅子は存在しない』

 さて、これならすぐに結果が目に見える。そして振り返ろうとするが。

 またもや自分の情けなさに嘆息する。

 これでは何の根本的解決にもなっていない。

 例えば私が椅子を見ている間だけ椅子を認識できないとしても、私はそれを証明できないし、椅子が消えたと確証を持って言えるわけではない。

 椅子は消えていた。

 ため息を吐きながら残った椅子にかける。

 しかし考え方を変えてみるのも悪くないだろう。

 少なくとも私の知る限りにおいてこの世界では認識が簡単に歪むということはまずありえない。何らかの精神的疾患や先天的障害をおいておけば、人間はないと思った程度で何かを消すことも出来ない。見たくないものは目に入るし、聞きたくないものも聞こえる。

 となれば、これも光源の件と同様に、異常なのだ。そして、その異常にしても、それが正しいのか正しくないのかを図る術はない。原因は同じ。この部屋に私以外の他人がいないためだ。

 他人が存在しない。これはつまり私には自他の区別をつける拠り所がなく、私は世界ごと私と認識することが可能である。簡単にいえば全知全能。私の知らないことは文字通り存在せず、私に出来ないことも文字通り存在しない。

 唯一の『他』らしき面影は記憶に残らない常識。しかしその獲得過程の記憶が無い以上、それは想像を絶するものでもなくあるいは私がさっきの一瞬の間に思いついた妄想であるとも考えられるのだ。

 天井が吹き飛び壁が取り払われた。

 世界。

 白い空間が頭上に広がりどの果てにも何もない私が存在した。

 歴史無く親無く物語無き私は今、ここに何をも自由にできる力を有していた。どんな贅沢も結構。好きな物語を紡ぐがいい。冒険情愛殺人幸福何でもござれ。まさに主人公と呼ぶに相応しい私よ。

 あぁ、だけど。

 読者がいない。

 わかっていた。わかっていたさ。私はしゃがみ込みすべてから目を閉ざす。他人無きここに私は私であることをやめる。意味が無いからだ。何も残らないここは文字列。記述されることなく記憶されること無く終わるのみ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言無人夢 @nidosina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ