送り火

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第壱話 漂う紫煙は夕焼けに染まり-Ⅰ

〈黒鷺:そうなんですよー!みんな口ばっかで動かないし〉


 自動更新され、画面には相手の言葉が表示される。彼女は文化祭の責任者だが、クラスのメンバーが働いてくれないらしい。

 何処にでもある――俺自身も経験したことのある――愚痴だ。が。

 彼女には悪いが、俺の視線はチャット・ルームを向いてはいなかった。

 画面右下。時刻表示。


 16:37


 そろそろか。

 そう思って俺はキーボードを叩く。中学の時に叩き込まれた御陰でタイピングはほぼ完璧だ。


〈陸奥:本当そう言う奴等って腹立つよな。俺も経験したから良く分かるよ〉


 取り敢えず此処まで打ってエンター・キー。

 そして間髪置かずに再び、


〈陸奥:おっと、もうこんな時間か。悪いけど落ちますわー〉


〈黒鷺:あ、用事かなんかですか?お疲れさまでしたー!〉


〈陸奥:まぁ似たようなもんかな。また準備の話とか、色々聞かせてくれな〉


〈黒鷺:そりゃもうぜひ!てかお願いですから聞いてください!〉


〈陸奥:楽しみにしてるぜ!じゃあまたなー〉


 そう言い残して俺は退室ボタンをクリックする。

 続けてパソコンの電源も落とし、ブラック・アウトした画面を見て一言。


「まぁ、用事と言うか……儀式みたいなモンなんだがな」


 時計の針は16時43分を指していた。




「あら、何処か行くの?」


 玄関でサンダルを履いていると、母親が訊ねて来た。

 居間と玄関は直結していると言って良い。気付かれずに外出するなど――俺の部屋と両親の寝室、台所兼居間しか無い――この安アパートでは少々難しい相談だ。


「あぁ、ちょっと散歩」


「散歩? 珍しいわね」


 喋りながらもサンダルを履き終えている。


「何と無くね」


 冗談めかして応えながらドアノブを捻る。


「気を付けなさいよ」


「おう。遅くはならんから」


 錆付いた蝶番が音を立てて作ったドアの隙間から、オレンジ色に染まった空気が見える。

 眩しさで思わず半眼になるが、そんなことに構う理由も無い。


「あ」


 何かを思い出したような母の声。――いや、実際に思い出したのだろう。

 其の言葉は続かなかった。

 俺は後ろ手でドアを閉め、黄昏の中を歩き出した。






 ――此のアパートに、安全性と言う言葉は存在しないらしい。


 三○五号室の隣に伸びる屋上への階段を目前にした俺は、冗談抜きでそう思い直す。

 階段は非常階段のように野晒しになった金属製のものでは無い。他と同様に両脇と天井を鉄筋コンクリートで囲まれた代物である。

 薄暗いので照明を点けたい所であるが、哀しい哉、右の壁にあるスイッチは数年前に蛍光灯――踊り場にある、唯一本の――を点けて以来は何の役にも立っていない。


 古いアパートの、しかも普段使われない階段特有の、ロック・クライミングのように急勾配な其れを一段ずつ登って行く。

 手摺でもあれば、まだ楽なんだがな。

 いや、手摺はあるのだ。だが赤錆で完全に覆われていて、少し触れれば手が鉄臭くなる。とてもじゃ無いが握れやしない。

 胸中で溜息を吐き、何とか頂上に登り詰める。




 其処は三畳ほどの小部屋になっていて、其の奥に無駄に重そうな扉が据え付けてある。

 扉と階段を結ぶ数歩の間には何も無いが、左の壁に沿うように掃除道具や謎の工具が散乱している。

 実を言えば、最初は踏み場無く散乱していたのだ。其れを俺が蹴飛ばして寄せたに過ぎない。

 此れらが誰の所有物かは知らないが、蹴飛ばされてから人間様の役に立っていないことは確かである。配置は蹴飛ばされた頃と変わっていない。


 哀れな道具達を尻目に扉を開ける。――まぁ、蹴飛ばしたのは俺なのだが。

 矢張り蝶番の錆付いたドアは、ぎぃ、と啼きながら、其れでも其の任を果たした。

 陽射しが舞う埃を金色に輝かせる。眩しいが、部屋を出た時よりは目も慣れている。

 歩を外へと進めながら、俺は思わず微笑んでいた。




 月並みな表現だが、いつ来ても此処は世界が違う。

 アパート自体は三階建てで、御世辞にも日当たりが良いとは言えない。

 しかし此処まで来れば話は別だった。

 傾く太陽の色に染まる空。雲。家。道。車。人。

 全ての喧騒が輝かしいものに思える。

 其れは、若しかすると虚構かも知れない。だとしても、俺は此の場所が好きだった。




 階段は屋上の端にある。俺は其処から反対側まで歩いて行き、フェンスに凭れ掛かった。

 何故か知らないが此処のフェンスだけはステンレス製で、錆も無い。

 四辺を囲む銀色の檻が、金色の光を反射していた。

 ふと携帯電話で時間を確認する。サブ・ディスプレイには16:58の数字。


「ん、丁度だな」


 呟いて、左のポケットから煙草の箱を取り出す。

 ビニールのフィルムを丁寧に破り、ポケットに突っ込む。其の代わりに使い捨てライターを中で掴む。

 俺は箱から出した一本を咥えて再びフェンスに寄り掛かる。両手をフェンスの向こうに遣り、頬を左の肩に置く。

 彼方に霞む空を眺める。

 何処までもオレンジ色なのに、何処までも見通すことは出来なかった。






 右手を持ち上げて、煙草に火を灯す。

 先端が赤く燃えたかと思うと紫煙が立ち昇る。


 ――すると、其れに重ねるように、遠くから濁った鐘の音が聞こえて来た。




 何処から鳴らしているのかは知らない。

 だが十七時を告げる此の鐘は、十七時になると鳴り響く。

 其れも良く晴れた――そう、今日のように綺麗な夕焼けの日にだけ、此処まで届くのだ。

 時計のように時刻の数字分だけ鳴る訳では無い。時間になると鳴り始め、気が付くと止まっている。そんな鐘だ。




 其の侭の姿勢でライターを胸ポケットに仕舞うと、右手の人差し指と中指の間で煙草を挟む。口から離して、吸った煙を大きく吐き出す。

 フェンスから身体を起こし、空を仰ぐ。もう一度、吸う。吐く。

 煙草を手にした侭で、俺はフェンスに背を預けた。太陽に正対する。




 眩しさが俺を襲う。容赦の無いオレンジ。突き放すかのような光の槍。

 鈍い音が俺を揺する。容赦の無い追憶。突き放すかのような孤独の音。




「変わらんね……」


 腹に溜まる――行き所の無い――怒りと虚しさを、言葉に乗せて吐き出す。


「お前たちだけは、」


 フェンスと重力に任せて、ずるずると身体を下ろす。足を投げ出して完全に座ってしまう。


「いつだって」


 両手も、だらりと力無く床に寝そべっている。


「同じだ」


 俺は自分が何を考えているのか。そもそも何かを考えているのかさえ、分からなかった。

 唯々空気と共にオレンジに染まり、唯々空気と共に揺れていた。




「くそ……」


 分からない。だが口を吐いて出るのは常に悪態だった。


「……畜生」


 いつまでも変わらないものがあると言うのに、何故こうも全てが変わって行く?

 いっそ全てが変わるのならば。いっそ全てが無くなるのならば。

 右手から昇って行く煙が視界の端に見える。




 煙草を持った侭の手の甲で、塞いだ目を押さえる。もう耐えられなかった。


「もみじ……」


 俺は混沌の中から、一人の名前を口にした。

 いつまでも変わらない、一人の名前を。




 ――鐘は、いつしか、鳴り止んでいた。






第壱話

 漂う紫煙は夕焼けに染まり-Ⅰ ―完―

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