72 鰻の旬と鰻坂
土用丑の日でもないのに、なぜ鰻?
実は鰻の旬は夏の終わりから冬にかけての8月~12月なのだ。夏前の鰻より、これから冬を迎えようとする時の鰻のほうが、脂がのっておいしいのである。
鰻は遠く万葉の時代から日本人の食卓を飾っていたようであるが、現在のような蒲焼ができたのは比較的新しく、江戸時代に入ってからである。
関東では、鰻は背開きで割いて一度蒸した後焼き上げる。(茹でるところもあるようだ)
一方関西では、腹開きで割いて蒸さずに焼き上げる。どちらが美味しいかは好みだろう。
関東では、腹開きは切腹につながるから嫌がられて背開きになったといわれているが、真偽のほどは定かではない。
土用丑の日に鰻を食べるようになったのは、江戸中頃のことである。本草学者、蘭学者、それとも医者、いや発明家の平賀源内が考えた『本日 土用の丑の日』という日本初のキャッチコピーが大ヒットして定着したと言われている。
さて、そんな鰻の名前を冠した坂が、新宿区にある。新宿区といえば、住居表示は未実施で、江戸時代の街の名前を踏襲している地域が多く、地図を見ていると、歴史を感じさせてくれる。
その新宿区の市谷砂土原町と払方町の間に細く東から西に下る坂があり、鰻坂と呼ばれている。坂の半ばには、鍵型に曲がりくねったクランクがある。
坂上には新宿区教育委員会が設置した標識があり、「坂が曲がりくねっており鰻のような坂だ」という意味から鰻坂と呼ばれたと説明している。
御府内備考の払方町文政丁亥書上に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲がり登り云々」と記されている。
江戸切り絵図を見ると、さして曲がりくねった印象は無いが、現代の地図を見ると、大きく鍵の字に曲がっている。特に鍵形のところが急な坂道になっていて、歩行者もさることながら、道の狭さもあいまって車ではかなり走りづらいだろう。場所柄だろう、道の両側は低層のマンションが軒を連ねている。
この鍵形の部分を下ると、正面に市谷にある防衛省の通信塔が見えてくる。
「市谷砂土原町」は「いちがやさどはらちょう」と読む。江戸時代にかつて本多佐渡守正信の別邸があったことから『佐渡原』と呼ばれたようだ。江戸時代には武家屋敷に地名は無く、その屋敷の主の名前を取って呼んだことから、佐渡守の屋敷跡だから『佐渡原』と呼ばれた。後にここ佐渡原の土砂を採取して市谷田町などの低い土地の盛り土に使われたことから、いつしか『佐渡原』から『砂土原(さどはら)』と呼ばれるようになったのだろう。
話しはそれるが『イチガヤ』の漢字表記は『市谷』、『市ヶ谷』、『市ケ谷』と使われているが、新宿区の地名に冠して使われるのが『市谷』で、『市ヶ谷』は都営新宿線の駅名、『市ケ谷』は、JR線と東京メトロの駅名に使われている。ちなみに『市谷』という地名は無い。
江戸時代はどうなっていたのかと切絵図を確認したところ、私の確認した切絵図には『市ヶ谷牛込絵図』と表題が記されていた。
「払方町」の由来は、1683年(天和3年)に御納戸役払方同心の拝領地となり、組屋敷があった。『御納戸役』とは将軍の出納を司るところで、その中の『払方』は、将軍の下賜品、下賜金を取り扱う役職だった。その払方が住んでいた町ということで、この名前が付いたようだ。
都心ではほとんどの古い町名が消えさってしまい、味気のない住居表示が林立しているが、いつまでも古い町名を残して欲しいものである。
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