70 4羽村山口軽便鉄道と数奇な運命を遂げた隧道

 今回はいよいよ山間部へと入り、トンネルが続く区間となる。1947年(昭和22年)米軍が撮影した航空写真を見ると、トンネル区間が多いため、写真を見ただけでは、廃線跡がどこにあるのかよくわからない。地図と合わせて確認すると、砕石上から1号隧道まで、さらには燃料庫跡や、1号隧道『横田トンネル』から現在立入が制限されている5号隧道まで、隧道と隧道の間の区間が白い線となって浮かんでくる。5号隧道を抜けるとその先は東京都の水道用地となっていて、村山貯水池西端に出るが、現在はフェンスにはばまれて、その先には進めない。


 武蔵村山市歴史民族資料館に再現されて展示されている軽便鉄道の線路を見ると、その線路幅は2フィート(約609.5mm)しかなく、線路の断面はとても小さい。脱線が多かったという記録があるが、なるほどうなずける。

 羽村から残堀砕石場までは、畑と住宅街の間を縫うように走ってきたが、残堀砕石場から横田トンネル入り口までは雑木林や住宅街の間を進んでいく。

 横田トンネルの手前には、平成になるまで石造りの燃料庫が建っていたが、廃屋となって数十年、倒壊の恐れが出てきたため、残念ながら取り壊され、現在は公園となっている。

 羽村取水堰から取り入れられた多摩川の水は、玉川上水第三水門から導かれて地下の導水管(東京水道)を流れている。

 その導水管の上を走ってきた軽便鉄道であるが、この先も隧道の路盤の下を、導水管が通っていて、その上を軽便鉄道が走る。現在公開されている各隧道の出入口にはシャッターがついていて、夜間は通行止めとなる。

 今に伝わる隧道の完成当時の記念写真を見ると、隧道の入り口に機関車を置き、その周りを関係者が取り囲んでポーズをとっている。機関車や人の対比から、大きい隧道のように感じるが、今その場に建つと、意外と小さいことに驚かされる。完成当時のトンネルの上は工事のために伐採されたのだろうか、丸坊主の山だったのが、数十年の歳月を経て立派な雑木林へと変わっている。

 1号隧道の横田トンネルを抜けると、住宅街の軒先を掠めてすぐに2号隧道の『赤堀トンネル』へと続く。

 赤堀トンネルは直線ではなく、トンネルの中で、緩やかに右にカーブするため、出口のアーチ状の明かりが半分しか見えない。赤堀トンネルを抜けて振り返ってみると、トンネルの上はさほど高さは無く、トンネルを掘るよりも掘割にしたほうが楽だったのではないかと思わせるような地形だ。

 赤堀トンネルを抜けると、すぐに廃線跡は左にカーブをきって3号隧道『御岳トンネル』へと進入する。ここまでの隧道と隧道の間の少し開けた空間には、両側に普通の木造住宅が建っている。

 いずれの隧道内部のコンクリートも、色褪せた感は全くなくしっかりとしていて、数十年を経た歳月を全く感じさせない。トンネルの天井部分がところどころ黒っぽくなっているのは、蒸気機関車の排煙によるものなのだろうか?

 御岳トンネルを抜けると、廃線跡は大きく弧を描いて右にカーブしながら緩やかに下る。両側はそれまでの住宅街から打って変わって雑木林となっている。数百メートル開口部を走ると、再び住宅が点在し、その先には4号隧道『赤坂トンネル』が見えてくる。

 赤坂トンネルを抜けると、ここまで走ってきたサイクリング道路は、廃線跡に別れを告げて右に曲がっていき、この先の廃線跡は舗装もされていない。通る人はなく、落ち葉がクッションのように積もっている。

 落ち葉を踏み分けながら進むと、廃線跡は左にカーブし左右が高くなり始めて掘割状となり、その先に6本ある隧道で一番長い5号隧道があらわれる。残念ながら5号隧道には名前は無く、入口はフェンスで塞がれていて、中に立ち入ることはできない。


 羽村山口軽便鉄道は、 1921年(大正12年)に、建設中の村山貯水池(1922年完成の村山上貯水池、1927年完成の村山下貯水池からなる)に多摩川の水を送水する導水管(羽村村山線)の建設のために、導水管沿いに敷設されたのが最初である。このときの名称を『羽村山口導水管敷設工事軌道』といった。

 当初導水管工事が終わると軌道も撤去されたが、急激な東京の人口増加に対応するため、村山貯水池の北側に山口貯水池が計画され、1928年(昭和3年)には工事が始まった。この工事に伴って再び軽便鉄道が復活したのである。山口貯水池が完成すると、軽便鉄道はその任を終えた。しかし鉄道としての歴史はここで終わらない。その後三度復活を果たすのである。


 太平洋戦争が始まると、首都防衛の観点から貯水池の防御は喫緊の課題となり、村山貯水池の堰堤を玉石とコンクリートで爆撃にも耐えられるように耐弾層が設けられることとなった。山口貯水池完成後、役目を終えた軽便鉄道の資機材は、小河内ダム建設のために奥多摩に転出していた。小河内ダム建設は戦時ということから建設が中止され、再び資機材を羽村山口軽便鉄道に呼び戻すと、1943年(昭和18年)に耐弾層工事は始まり、再び多摩川の石材を輸送することとなった。そして工事は1944年(昭和19年)11月に竣工し、三度目の鉄道としての役目を終える。


 ところが隧道の歴史はここでは終わらなかった。4度目に本来の目的とはかけ離れて復活を遂げるのである。

 一番長い5号隧道とその手前にある5号隧道に次いで長い4号隧道は、太平洋戦争も押し詰まった昭和20年6月、当時の大和村(現東大和市)にあった日立航空機の疎開工場として、工作機械等の搬入が開始された。しかしすぐに終戦となり稼働することはなかったと言われている。


 そして現在、横田基地東側から5号隧道手前までは『野山北公園自転車道』として整備され、5度目の復活を果たした隧道は、地元の方や、多くのハイカーが訪れてハイキングを楽しんでいる。東京の発展を静かに見守ってきた隧道は、これから先もしばらくは見守ってくれることだろう。



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