23 文京区に所縁のある文豪、歌人
文京区は江戸時代には昌平坂学問所がおかれ、多くの文人が居を構えて暮らした。
古くは松尾芭蕉が1677年から3年間、椿山荘近くの関口2丁目に暮らした。
滝沢馬琴は、文京区をはじめその周辺の飯田町、神田明神近くに暮らし、墓は茗荷谷駅から徒歩数分歩いた小日向4丁目の深光寺にある。
明治に入ると坪内逍遥にはじまり、森鴎外、夏目漱石、石川啄木、樋口一葉、宮沢賢治と枚挙に暇がない。
文京区は文教の地にふさわしく、旧所、名跡の跡には立派な案内板が立っている。また、『本郷文学散歩』という散歩道があり、数ヶ所に案内板も出ている。この散歩道は、神田小川町から菊坂下まで2.9kmを、旧跡を訪ねながら歩くことができるようになっている。
数多い文豪の中から、本郷台地に縁のある文豪をピックアップしてみよう。
本郷三丁目交差点から春日通りを後楽園方面に西進すると、真砂坂上から北に入った炭団坂の上り口付近に坪内逍遥の旧居跡がある。その前まで歩いて行くと、文京区教育委員会が設置した『坪内逍遥旧居・常磐会跡』と記されたステンレス製の案内板が立っている。そこには坪内逍遥の略歴が記されている。
その先の炭団坂を下り菊坂裏通りに入ると、人がすれ違うのもためらうような路地があちこちにあり、未だに明治、大正、昭和の板壁の木造家屋が多く残っている。懐かしい雰囲気が漂う中一つの路地を入ると、樋口一葉の旧居跡がある。現在は手押しポンプの付いた井戸があるのみで、樋口一葉が住んでいたという記しは何も無い。この井戸は災害用として現役である。この井戸の水を樋口一葉も飲んだのだろか?
菊坂裏通りから菊坂通りに出て西に下ると、樋口一葉が通ったといわれる旧伊勢屋質店がある。伊勢屋質店は1860年(万延元年)に創業し、1982年(昭和57年)まで営業していた。菊坂通りに面して白塗りの蔵と木造の店舗が建っている。文京区教育委員会の設置した標識には「木造の店舗部分1907年(明治40年)に改築された」とあることから、樋口一葉の目に移った店舗と大きな違いはないのだろう。
昨年売却・解体が取りざたされたが、跡見学園女子大学が買い取り、現在では一般公開されている。菊坂通りを下りきると白山通りへ出るが、右に曲がって少し歩いた都営地下鉄三田線春日駅の北には、樋口一葉終焉の地がある。
そこには、立派な石製の『樋口一葉終焉の地』と記された記念碑が建っている。樋口一葉の葬儀の記録を見ると、伊勢屋質店から香典が届いたことが記されているという。
再び春日通の真砂坂上に戻ると、通りの南側に何の変哲もない床屋がある。私も小学生の頃通った床屋であるが、石川啄木が下宿していたのはこの床屋の二階である。
残念ながら、石川啄木が下宿した家は春日通り拡張の際に改築された後、取り壊され明治村に移築された。現在では鉄筋コンクリート造りの4階建ての建物となっている。その建物の脇に文京区教育委員会の設置したステンレス製の標識が掲出されている。それによると、「朝日新聞社の校正係として定食を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久しぶりに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。」とある。
また、近くの旅館『太栄館』の前にはこのような「石川啄木由縁の宿」と記された記念碑が立っている。石川啄木は「東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて蟹とたわむる」と、ここ大栄館(当時は蓋平館といった)で詠ったといわれている。
この石碑に刻まれている「東海の小島の磯の白砂に 我れ泣き濡れて蟹とたわむる」は、小説を新聞社に売り込みに行って失敗し、挫折感に打ちのめされて宿の三畳間で詠んだという逸話が残っている。
再び菊坂に戻ると、菊坂の中ほどから菊坂裏通りに下る階段の先に宮沢賢治が下宿してい場所がある。現在は3階建てのアパートが建っている。
少し離れて本郷三丁目交差点に戻り、本郷通りを北上して東京大学を過ぎたところを東に入っていくと、夏目漱石旧居跡がある。ここは漱石が下宿する前は、森鴎外が住んでいたことでもしられている。森鴎外は、観潮楼を建てると移っていった。
夏目漱石は、イギリス留学を終えて帰国した際、ここに居を構え、第一高等学校、東京帝国大学の講師を務める傍ら、『吾輩は猫である』をはじめ数々の物語を著した。
ここで『吾輩は猫である』を著したことから、『猫の家』とも呼ばれていた。隣地との境にあるコンクリート製の塀の上には、抜き足差し足で歩いている猫・・・石製・・・がいる。路の脇に御影石製の立派な『夏目漱石旧居跡』と記された立派な石碑が立っているが、この石碑の題字は川端康成によるものである。
観潮楼は団子坂の中ほどにあり、鴎外の父親が息子と一緒に住むために建てたという。現在はビルが林立し遠望かなわないが、明治の頃は、東京湾から遠く房総の山々が見えたことだろう。
観潮楼は、鴎外の没後しばらくは家族が暮らし、その後は借家となった。1937年(昭和12年)に借家人の失火により母屋の大部分が焼失。さらに1945年(昭和20年)には戦災により、胸像、銀杏の木、門の敷石、三人冗語の石以外はすべて焼失してしまった(文京区立森鴎外記念館による)。
この時代の文人、歌人達は様々な親交があったようだ。国文学者である金田一京助は、私財を売り払って石川啄木を支援したり、与謝野鉄幹に連れられて石川啄木は森鴎外の観潮楼歌会に出席している。ちなみに金田一京助旧居跡は、坪内逍遥旧居跡のすぐ近くにある。
また、石川啄木は入院中の夏目漱石を見舞ったり、夏目漱石が石川啄木の葬儀の世話をしたりしている。
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