22 なぜ文京区は坂が多いのか?

 東京の地形は、西の多摩から東に向かって山地、洪積台地、沖積低地とだんだん低くなっていく。氷河時代に奥多摩から流れ出した氷河は山を削り、内陸部まで深く入り江になっていた海を埋めて今の23区東部が陸地となった。多摩川流域の内陸部にある昭島市の多摩川河畔では1961年(昭和36年)に約160万年前のものと推定されるくじらの化石が発見されている。

 洪積台地を武蔵野台地と呼ぶことは第18話で取り上げたが、この武蔵野台地の東縁は、台東区、文京区から港区、品川区にまで及ぶ。23区をよくご存じの方は感じることと思うが、文京区や港区は実に坂道の多い土地柄であるのは、このためである。


 坂の数え方については諸説あるが、坂出展年表(東京地縁社会史研究所 井手のり子)によると、文京区には126ヵ所の名前のついた坂がある。ちなみに港区が121ヵ所と僅差で続く。

 なぜ文京区に坂が多いのかは、前述の通りであるが、ここで簡単に文京区の概要から考察してみよう。

【位 置】

 東京23区の位置的な中心を千代田区とするならば、その北に位置し北側は北区と、東は上野のある台東区、荒川区と、西は豊島区、新宿区と接している。


【地 勢】

 東京西部から続く武蔵野台地の東縁部に位置し、東京湾に続く低地にいくつかの台地と谷により形成されている。

 武蔵野台地の東縁部は『豊島台地』と呼ばれているが、さらにその先を『本郷台地』、『白山台地』、『小石川台地』、『小日向台地』、『目白台地(関口台地)』と呼び、指を広げたように台地と谷を形成している。

 本郷台地の東側は、不忍池をはさんで『上野台地(上野のお山・・・西郷さんの銅像がある上野公園)』となる。

 第3話で取り上げた面影橋から上野駅までの約6kmの断面図をとると、


 面影橋⇒目白台地⇒江戸川橋⇒小日向台地⇒茗荷谷⇒小石川台地⇒嫁入り橋(千川通り)⇒本郷台地⇒不忍池⇒上野台地⇒上野


となり、台地と谷が連続している様子がお判りだろう。


 春日通りを本郷三丁目から西に向かうと右にカーブしながら下る『真砂坂(東富坂)』という坂があり、この周辺を歩いているうちに、「なぜ文京区には坂が多いのか」という問題にはまってしまった。

 この真砂坂は本郷台地の南西に位置するが、一口に『本郷台地』といってもどのように広がっているのか疑問に思い、まずは国土地理院発行の1/25000の地形図広げてみた。

 するとびっくり、地形図なのにビルなどの建物のマークばかりで等高線を追えないのである。

 そこでYahooの昭和レトロ地図(現在は公開されていない)に目をつけてみた。この地図は昭和30年代の地図をアップしたもので、さいわい等高線もはっきり見えている。

 余談であるが、地図中央を見ると、東京メトロ丸ノ内線が走っている。地図の記載は『帝都高速丸ノ内線』と記されている。2004年に民営化されて東京地下鉄株式会社(東京メトロは愛称)になる前までは、『帝都高速度交通営団』という名称の特殊法人であった。

 東京に在住の方々には『都営地下鉄』に対して、『営団地下鉄』という名前で親しまれていた。

 『営団』は、1941年に戦争遂行のため、国家による経済の統制管理を目的として設立された特殊法人で、早川徳次郎の作った『東京地下鉄道株式会社(浅草⇔新橋)』と、五島慶太の作った『東京高速鉄道株式会社(新橋⇔渋谷)』の地下鉄事業(現在の銀座線)の事業を引き継いで帝都高速度交通営団は設立された。

帝都高速度交通営団の他に、『食糧営団』、『住宅営団』などがある。

 戦後GHQの指示により帝都高速度交通営団以外の営団は、解散もしくは『公団』に改変された。『公団』と『営団』の違いは、民間からの出資を認めているか否かである。

 戦後、帝都高速度交通営団の出資は日本国有鉄道(現在のJR、国鉄が民営化後は政府が出資を引き継いでいる)が53.4%、東京都が46.6%となっている。

 東京都は約1/2の出資をしている東京メトロを持ちながら、なぜ独自で都営地下鉄を走らせているのか、舛添都知事の意見を聞いてみたいものだ。


 さて、話しを本題に戻して、早速この地図を標高20mにそって数十枚プリントしてつなぎ合わせて、標高20mに赤い線を引っ張ってみた。

 本郷台地の南は御茶ノ水の駅から神保町にかけて下って靖国通りにいたる。本郷台地は御茶ノ水で江戸城の外堀で南と北に分断されているが、この地形は明らかに人工的なものである。外堀を作ったときの事を調べてみると面白い逸話が出てきた。

 この御茶ノ水界隈の外堀は、別名『仙台堀』という。江戸城の外堀を開削するときに、この場所を徳川家康は、伊達政宗に下達した。

 伊達政宗は、なんと「江戸城を攻め落とすには、駿河台(御茶ノ水駅近辺)から大砲を打ち込めば、簡単だ!」と豪語していたのを徳川家康が聞きつけての下達であったと言われている。


【歴 史】

  享保15年の大火を機に、江戸町奉行であった大岡越前は、防災対策から家は塗屋、土蔵造りを奨励し、屋根は瓦で葺くことを許可して奨励した。

 日本橋を基点として中山道を下ると、かねやすのある本郷三丁目までは瓦葺の家並みが続き、かねやすを過ぎると茅葺屋根が続いたといわれている。「かねやすまでは江戸のうち」とは、第1話でお話ししたとおりである。

 現在の文京区は昭和22年に旧本郷区と旧小石川区が合併して誕生した。このとき、新区名を新聞で公募したが決まらなかった。

 そこで職員から募集したところ、旧小石川区の職員が応募した中に『文京』という案があり、「両区の特徴を端的に表していて、文字も書きやすく、“文教の府”というイメージにぴったりだ」ということで決定した。

 そもそも文京区に人が住み始めたのは、いつごろだろうか。

 18000年前の旧石器時代から人が住んでいたと考えられており、本郷台地からは数々の貝塚や縄文土器が発見されている。

 また向ヶ丘弥生町で発見された土器はその地名をとって『弥生式土器』と名づけられ、弥生時代の名の由来となったことは有名である。

 徳川家康が江戸城を開城すると、数多くの武家屋敷や、寺社が設けられた。また、江戸幕府の学問の府ともいえる『湯島聖堂』や『昌平坂学問所』が設けられた。

 明治維新後は昌平坂学問所が師範学校となり、広大な武家屋敷に様々な教育機関が集まり、『文教の地』としての地位を確立していった。


 色々わき道にそれてしまったが、文京区に坂の多い理由は、南に向けて指を広げたように張り出している台地と谷が入り組んでいることにより数多くの坂が誕生した。

 ただ坂が多いだけでなく、「名前のついた坂」が多いのは、そこに人々の暮らしがあり、多くの人々にこの地が愛されているからではないだろうか。

 文京区のもうひとつの特徴は、明治時代の文豪、歌人が数多く住んだことだ。文豪の話については、次に項を改めて述べたい。

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