2 三分坂と報土寺 里帰りした梵鐘その1

 三分坂は、赤坂TBSの南側に位置し、青山通りから薬研坂を下って上った先にある。坂の途中で90度右に曲がって一気に下る急坂だ。

 江戸時代の切り絵図と現代の地図と重ね合わせると、ほとんど道筋が一致している。


 三分坂は港区の設置した標識によると、

「急坂のため、通る車賃が銀三分(さんぷん)増したためという。坂下の渡し賃一分に対して言ったとの説もある。」とある。

 ここで、「???」と思われた方は、江戸時代の通だ。

 江戸時代、1両は4分であるから、3分は3/4両ということになる。江戸時代の貨幣価値が、現代と比較してどの程度になるのかというのは、現代と同じ商品やサービスがあったとしても、世の中の仕組みや人々の暮らし向きが違うため、単純に比較できない。

 江戸中期の一両を現代に通じるものでの比較をすると

  米 価・・・1両=4万円

  賃 金・・・1両=30~40万円 (大工の手間賃)

  そば代・・・1両=12~13万円

 また、米価から換算した1両の価値は、江戸時代の各時期により差が見られる。

  江戸初期・・・1両=10万円

  江戸中期~後期・・・1両=3~5万円

  幕末期・・・1両・・・3~4千円

  (日本銀行金融研究所貨幣博物館のホームページより)

 仮に幕末の米価換算の貨幣価値でみたとしても、3/4両というのは、1000円強ということになり、この坂を通る通行料としては、法外な値段となる。

 港区の設置した標識に『車』を人力車と解すると、坂下に小遣い銭稼ぎの子供達がいて、坂を登る人力車の後棒を担ぎ・・・後押しして、駄賃をもらっていたのではないだろうか。


 そういう風景が見えてくると、『三分』というのは、『三割り増し』と考えられる。その割増料金の中から、車夫が後押しの子供に駄賃をあげたと考えると、すっきりするのではないだろうか。

 実は、港区の設置した標識は2008年(平成20年)、14年ぶりに立て替えられているが、立て替えられた際、「さんぶでは四分の三両になるので誤り」と書き加えられた。


 明治の軍人乃木希典大将は、現在の乃木神社のある自宅を人力車で出発し、乃木坂を下って、ここ三分坂を登り、この先の近衛歩兵第三連隊へ通った記録が残っている。その際、子供好きな乃木大将は、後押ししてくれた少年の頭をなでてあげたという。


 三分坂をほぼ下りきる手前に、築地塀が見えてくる。瓦と瓦の間に土を挟んで何層にも積み重ねた築地塀は、離れて見ると細かい縞模様が立体的に描かれているようで、素晴らしい。加えて、ここ三分坂の築地塀は坂に沿って弓なりに反っていることから、背景に見える水平に建った建物との対照が、まるでトリックアートの世界のようでもある。


 報土寺の山号は咲柳山といい、1614年(慶長19年)に赤坂2丁目に創建され、1780年(安永9年)にここ三分坂に移転してきた。

 寺の前には、東京都教育委員会の設置した標識が立っている。その標識には、次のように記されている。


【港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)】

報土寺は、慶長十九年(一六一四)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永九年(一七八○)に三分坂下の現在地に移転してきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。

 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿って造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。


 少し離れて坂と築地塀を見ると、少し違和感を感じる。

 よく見ると、坂に設置されたガードレールは、練塀の角度に比べてやや緩やかなのである。

 築地塀もガードレールも、もともと坂に沿って造られたものであり、現代の坂よりも江戸時代の坂の方が、急であったことがうかがえる。

 1959年(昭和34年)に撮影された坂と報土寺の写真をみると、車1台が通れるくらいの道幅で築地塀にそって坂が伸びていた。

 その後報土寺と反対側の丘が削られて道が拡幅されたときに、坂の勾配が修正されたのだろう。


 報土寺にある有名なものは、この練塀だけではない。寺の境内に入ると、またまた次のような標識が立っている。


【雷電為右衛門の墓】

 雷電為右衛門は、1767年(明和四年)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。資料によると身長は197cm、体重は170kgと現代の体格と比較してもかなりの大男だったようだ。


 1784年(天明4年)に浦風林右衛門に弟子入りし、1790年(寛政2年)の初土俵から、1811年(文化8年)の引退までの二十二年間のうち、大関(当時の最高位)の地位を保つこと三十三場所にのぼり、250勝10敗(生涯勝率9割6分2厘)の大業績を残した。引退後は、雲州(島根県)松江の松平侯に召し抱えられ相撲頭に任ぜられている。 

 これだけの実績を上げながら、横綱免許皆伝を受けなかったのは、大相撲七不思議のひとつである。

 富岡八幡宮の横綱力士碑には、「無類力士」として顕彰されており、横綱と同格に扱われている。


 1814年(文化11年)、ここ報土寺に鐘を寄附したが、その形が異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令に触れたとして取りこわさせられた。その鐘には「天下無双雷電」と記されていたことから、幕府の怒りを買い、壊されてしまったという説もある。

 1825年(文政8年)に江戸で没した。

 

 その後しばらく梵鐘の無い時代はつづいたが、1908年(明治41年)に復元され、第18代横綱大砲万右ェ門が一番鐘をついている。

 その後1943年(昭和18年)に戦時下の金属回収に供出された。当時の住職は最後の鐘を涙を流しながら突いたという。

 時は下り1988年(昭和63年)、たまたま港区史跡めぐりの一行が、東京都あきる野市戸倉にある普光寺を訪れた際、同寺にあった鐘に「東京市赤坂咲柳山報土寺」と記された鐘があるのを発見する。

 ここ普光寺も1944年(昭和19年)に鐘を供出したが、戦後つぶされなかった鐘を、供出した寺に関係なく抽選で配られたものだった。その後両寺の話し合いにより、1989年(平成元年)12月に、46年ぶりに報土寺に戻り、その一番鐘を第58代横綱千代の富士貢が突いた。

 残念ながら、46年前に鐘を涙で送り出した住職は亡くなり、その子息に代は変わっていた。


 実は、涙で鐘を送り出した先代住職は子供好きで、毎年夏には、あきる野市の普光寺近くの戸倉キャンプ場で「子供キャンプ村」を開いていたという。

その際、普光寺から伝わってくる鐘の音を聞いて、「なんと素晴らしい鐘の音か。」と、いつも手を合わせて聞き入っていたという。

先代住職と鐘は心で結びついていたのだろう。

坂は、人の歩む人生の山谷であり、橋は人と人を結びつける絆である。

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