夢椅子
菜美史郎
第1話
冷たく重い空気が幾層にもかさなり、山あ
いの街をおおっている。
その重さに押しつぶされたように、街は身
動きできず、静まりかえっていた。
杉山が揺れ動いた。
風が吹きだした。
街の姿を隠していた霧が、谷間へとすうっ
と引いていく。
鶏が鳴きはじめると、街は驚いたように震
えながら目覚める。
山の端に遠慮がちに太陽があらわれ、矢の
ような最初の光を街の上にはなつと、一本の
県道が浮き彫りになった。
朝陽が容赦なくふりそそいでいくと、浅い
谷間に点在する家々がひとつひとつ、あきら
めたようにその姿を見せはじめた。
その日の朝も、いつものように、鈴木茂は
店先に丸太を持ちだした。
直径が三十センチ、長さはその倍くらいあ
るようだ。
「このやろう、だんだん重くなってくるわ
い。若いころなら、こんなのなんでもなかっ
たがな」
周囲に誰もいないのに、彼はそう言いなが
ら、歩道わきの軒先まで、曲がりはじめた腰
をむりに伸ばした状態で、のろのろと両手で
かかえて行く。
以前その店はスーパーマーケットだった。
店わきに乗用車が五台とめられる駐車場が
あるだけだったが、店内はけっこう人であふ
れた。
「今日もおてんとさまが出ておいでになっ
たな。ありがたいことだ。日向ぼっこがなに
よりじゃわい」
彼は、また、聞く人もいないのにしゃべり、
床に張りつめられた大きめのタイルの上に、割
らないように気遣いながら、丸椅子をおく。
それから、よいしょと声をあげてすわった。
店は南向きに建てられ、県道沿いにある。
彼は陽をまぶしく感じたのか、そっと目を
細めた。
時計の針は、とっくに午前七時をまわって
いた。
隣町に向かう車がシャアシャアとタイヤの
音を立て、目の前を走っている。
年老いたせいか、肌寒い空気に触れたから
か、涙がじわりとわいてきたから、辺りに人
がいないのを確かめ、彼はジャンパーの右袖
でぬぐった。
食事をとったり、用を足す以外、彼はまる
一日そこにいる。
いいお天気の日は、午後四時くらいまで。
そのあとは急に肌寒くなるから、店の奥に
引っ込むことにしていた。
ようやく、厳しい冬が行き過ぎようとして
いた。
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