となりのシリアルキラー

桐崎

第1話

 加藤(かとう)優一(ゆういち)はその日、濃い血の匂いで目が覚める。

 もっともそれは優一にはよくある日常で、平和な一日の始まりに過ぎなかった。

 布の擦れる音、人の気配。

 「おはよう」


 起き上がってそう告げれば、それはベッドの下、床の上に背中を丸めてしゃがみ込んでいた。

 黒猫のような黒髪の小さい頭がくるりと優一の方を向く。

 不揃いの前髪の下からのぞく三白眼の目を細め、ねめつけるように優一を見ると少し小首を傾げて口を開いた。

 「コレっていつまで動いてると思う?」

 そんなことを挨拶もそこそこに聞いてくる。

 彼の手元には人間の拳ぐらいの大きさのボールのようなものが転がっていてさっきから仕切りに彼はそれを指先で突いているように見えた。

 彼の名前は隣(ちかし)今日(きょう)春(はる)。

 優一の家の隣に住む幼馴染だ。

 「遊び場からもってきたのか?」

 溜息混じりにそう聞く。

 部屋の電気は消えているから今日春は優一にはよく見えなかった。

 でも大体それがなんだか分かってしまう。

 (人の部屋に持ち込むなよ……)

 内心でそう思うが直ぐにそんなこと言ってもこの隣人には通用しないだろうと言葉を飲み込んだ。

 「――夜中はよく来る」

 そして、会話は噛み合わない。彼は今、優一との会話より目の前の物体に夢中なのだ。

 こちらの言葉など聞いていない。

 加えてこちらが今起きた所だとか、ここは優一の部屋であって彼にとっては他人の部屋で不法侵入だとか、そんなことは彼は気にしない。

 「頼むから、それここで潰す――」

 「あっ、止まった」

 「潰すなよ」と言う筈だった言葉は頬ついたぬめる生暖かいゴムのようなものの感触に遮られる。

 手に取ってよく見ればそれは赤い肉片で、震えるように微かに振動していた。

 「一応聞こう。これは何なの?」

 嫌な予感しかしない。

 と言うか、多分これは

 「心臓」

 今日春は今更何を聞くのかとでも言いたげにきょとんと目を丸くして答えた。

 それだけで、それが何のだなんて聞かなくても分かってしまう。

 人の心臓だ。

 そう、今日春は優一の隣人で幼馴染で殺人鬼だった。

 彼の殺人衝動はナチュラルボーン。

 生まれながらのシリアルキラーなのだ。

 殺人鬼にも色々タイプはいるだろう。

 虐待を受けて精神崩壊し善悪の判別が危ういもの、性的欲求と殺人衝動が結びついてしまったもの。

 愛する人を自分だけのものにしたくて殺した女はたしか映画にもなっていたか――。

 大体が悲痛な過去を持っていたり人を殺す理由があったりする。だが彼は別に虐待を受けて育ったわけでも、そういう性癖なわけでもない。

 もちろん殺害された相手に殺害される理由なんかもなく、まったくの無差別殺人だ。

 今日春は呼吸をするように、食事をするように、生き物の命を奪う。

 脳の何か、心のどこかが欠けてしまっている彼は当たり前のように人を殺してしまうのだ。

 それは生まれながらに盲目であったり聾であったりすることと変わらないと優一は思っている。

 室内は、むせ返りそうな血の匂で満ちていた。

 (またカーペット変えなきゃ)

 これで一体何度目なのだろうか?

 今日春が人を殺してはその内臓やら部位やらを無断で優一の部屋に持ち込むからカーペットはいつも血のシミだらけになる。

 それでも一応、毎回落としてはいるのが今のでもうこのカーペットも限界だろう。

 何故自分の部屋に持ってくるのか分からない。

 猫がスズメの死体や鼠の死体を飼い主に持ってくる行動に似ているような気がするが、心理的には犬がお気に入りの靴を穴を掘って隠すとかそっちに似てる気がする。

 (俺の部屋は穴と同義かよ)

 少し落胆するが仕方ないと直ぐに諦める。

 だって彼は生まれながらの殺人鬼なのだから。

 常識なんか通用しない。

 ベッドの脇にある窓、青色のカーテンを少し捲って外を見れば外は夜と朝の間、深い青色に包まれている。

 時計を見れば早朝の4時。


 「あれ?まだ動く」


 拍子抜けしたような声が横から聞こえて目をやれば潰れた心臓だったものの中心には、彼が好んで使う武器が刺さっていた。

 元は猫手という暗器で高校入学のお祝いに両親からプレゼントされたそうだ。

 それぞれの指に爪のような鋭い鉄の爪が付いていて、ひっかいて相手に傷を負わすのがスタンダートだ。

 しかしその猫手は今日春が自分で改造し指にはそれぞれ刃渡り12センチの金属の爪が付いていて刺したり切ったりできるようになっている。

 (便利な時代だな)

 今日春の両親はそれをインタ―ネットで買ったと言っていた。

 改造するのに今日春もネットを使用して依頼したらしい。

 だから優一はそれを見る度に、ネットの便利さを痛感する。

 片田舎の山奥の閉鎖されたこの町――月白町(つきしろちょう)は知らない人間なんていないぐらい端から端まで目が行き渡る小さな町だ。

 『町』となっているが実際は村に近いかもしれない。

 人口は千八百人ほどしかいないのだから。

 田んぼと畑と、商店街に工場、電車にのるためには車で一時間走った隣町まで行かないと駅がない。

 近年回りの町が次々と合併していく中、特になんの旨味もないから合併さえしてもらえなかったほど本当に何もない。

 街頭が少なく、夜になれば真っ暗になり夏ならカエルの声、秋なら虫の声が聞こえる。典型的田舎で忘れ去られたような町。

 それが、優一達の住むこの町月白町だ。

 まるで世界から隔離されているようなそんなこの町でもちゃんと世界の一部なのだとこういうことで実感できるインターネットは本当に素晴らしいと思う。

 ぐちゃり。

 ぐちゃり。

 ぐちゃり。

 優一が関心してる最中も今日春は何度も心臓を刺す。

 ぐちゃり。

 ぐちゃり。

 ぐちゃり。

 その度に、肉片は飛び散り部屋の床に、優一の布団に、赤い沁みを作っていった。

 (後で大掃除だ……)

 朝から頭が痛いがきっと止めても無駄なので放っておくしかない。

 心臓がミンチになり、形がなくなった頃に今日春はその動きをようやく止める。

 ネコ科の獣のようなものだ。

 動くものを反射的に追い、その動きが止まれば飽きてじゃれる事をやめる。

 今日春はそういう生き物だった。

 彼は歴代のシリアルキラーの中でもあり得ないぐらいの愛情と優しさの中で育ちながらも、歴代のシリアルキラーがそうであるように、小さい頃から虫を殺し猫を殺し犬を殺して、人を殺すまでに至った。

 今日春は漫画や映画や小説の中の悪役みたいに簡単に人の命を奪う。

 生粋の殺人鬼。

 もしここが普通の町でみんなが普通の神経を持っているなら今日春は当の昔に病院か独房にでも入れられているだろう。

 しかし幸いにしてこの町の住人はいくら彼が人を殺そうとも気にしない。

 犬が転がったボールを反射的に追いかけるような、猫がねこじゃらしにじゃれつくような、そういう自然なものと彼の殺人を捉えているからだ。

 本能で仕方ないことだと、どこか微笑ましくさえ思って見ているのだと思う。

 それは、この町が森に囲まれて外部から閉鎖された場所であり、ここに近づく人間を今日春が殺してくれるからというのもあるのかもしれないというのはあくまでも優一の考えだが――。

 今日春の遊び場の一つに廃墟のホテルがある。さっき今日春が人を殺しただろう場所だ。

 そこはネットでも有名な心霊スポットだった。

 さっき今日春が「夜中はよく居る」と言っていたけれど、夜中肝試しにくる人間が多いと言う意味だろう。

 そもそもそのホテルは昔、この町の土地開発しようとしたどこかの成金が立てたホテルだ。

 ホテルは町の唯一の入り口である場所からしばらく歩いた場所にぽつんと立っている。

 この町の住人は新しいものを嫌う。

 新しい人間を嫌う。

 人が入ってくる。

 知らない人間だ。

 ホテルが出来ても終わりじゃない。

 これからもっと多くの人が入ってくる。

 町の人は大反対したが、そんなもの勿論聞き入れられる筈もなくホテルは完成してしまった。

 なんせこの町には何もなかった。

 特産物も、観光地も、産業も、何一つ抜きんでたものがない。

 月白町出身の有名人も政治家もいない。

 田んぼは多いが米の出荷量が多いとかそういう訳でもなく、畑は果実から野菜まで幅広くあるが別に特産物と言えるほど出荷もしていない。

 だから、町の出入り口にできたホテルは絶好の町おこしだと当時の町長は思ったらしい。

 それに伴い遊園地も作られ決して広いとは言えないが、大きな観覧者やメリーゴーランド、ジットコースターなどもあった。

 そうなると勿論、外部の人間は増えてくる。

 豊かな自然と温泉と子供も遊べる遊園地のある町、月白町は国内旅行にしてはリーズナブルだったようで観光地として有名になっていった。

 遊園地やホテル運営のために従業員が、楽しむための観光客が押し寄せる。

 知らない人間が入っては消えていった。

 産まれてからこの時まで町の中の人間は大体把握していたような小さな町の治安はホテル建設前よりも明らかに悪くなり、観光客による騒音やゴミの被害なども酷くなっていった。

 町長に抗議しても勿論通じない。町の人の意見なんて町長は聞いてくれなかったのだ。

 どうやらこの町長にホテル経営者から大量の金が流れていたらしい。

 きっと町おこしなんてのは大義名分で結局は金の力に屈したのだろう。

 そうして月白町の住人を置いてきぼりにした土地開発は進んでいった。

 ついには大きなショッピングモールを作る計画なんかも持ち上がりだした。

 誰もがもう慣れるしかないのかと諦めていた時、事件は起こったのだ。

 春のある夜のことホテルの客が従業員が一晩皆殺しされた。

 


 従業員一五六名全て宿泊客六十名、まるでテロでも受けたかのように全て殺されていたのだ。



 当時はテレビのニュースにもなり、それなりに騒がれた。大事件にならない方がおかしい。

 けれど、直ぐにテレビ取材も、警察の調査でさえ行われなくなった。

 レポーターが、雑誌記者が、調査にきた警察がみな次々と死体となってしまったからだ。

 犯人はもちろん捕まらない。

 目撃証言はまったくなかった。

 大量の証拠品と大量の死体が上がるのに、容疑者一人浮かび上がらない。

 ただ死体だけが次々と上がる。

 町に来て、一晩立つと死んでいるのだ。

 臭いモノには蓋をする国民性はどうやら警察やマスコミにも根付いてるようでそのうち報道も調査もされなくなり人々は事件のことを忘れていった。

 ホテルの運営ももちろん廃業。

 当時の町長は行方不明になり今も見つかっていない。

 誰もが今日春がやったのだと思っただろう。

 けれどそれを証言するものは誰もいなかった。

 その日確かに、今日春は全身血まみれで家に帰ってきた。

 それは犬や猫のなんかの非じゃない量で、犬や猫の比じゃない悪臭だった。

 今日春が十三歳の誕生日を迎えた次の日の出来事だ。

 その手には両親から誕生日プレゼントに貰ったと言う刃渡りの大きなナイフが握られていた。

 血まみれの今日春を見ながら優一は(ああ、ついに人を殺したのんだな)と思ったのを覚えている。

 ずっと人を殺ししてみたいと思っていたのは知っているしそれは必然的なことだった。

 結果的に彼はこの町をよく分からない「正体不明の恐怖」から救ったのだ。

 今ホテルと遊園地は立派な廃墟となり有名な心霊スポットの一つにネット上でひっそりと紹介されている。

 おおっぴらにならないのは、肝試しに来るものを今日春が殺してしまうから生きて帰って紹介するものがいないからだと思う。

 なんにしても今日春の殺意が外部に向いたのは町の物からしたら幸運なことだ。

 不思議なことに彼は町の住人にが手を出さない。怪我をさせることはあるがまだ殺してはいない。

 いや、もし行方不明の元町長が今日春の手により死んでいるなら彼は町の人を殺しているのかもしれないが――ともかく今の所まだ町の者を殺したと言う事実はない。

 それは彼が殺したいという周期にたまたま新しい人間がこの町に来るラッキーなのか、それとも多少の罪悪感が彼にあるのか。

 ――多分前者だろうと優一は思っている。

 なぜなら殺しはしないまでも怪我はさせるからだ。

 小さな頃から今日春を知ってる優一の身体には、もう数えきれない程の傷が刻まれている。

 仕方ない。

 だって、人は息をしないと生きていけない。

 今日春は殺さないと、誰かを傷つけないと生きていけない。

 人が肉を食べるのとそれは同じだ。

 人だって何かの命をいつも殺してい生きている。

 それが同類になっただけで、何もおかしいことではない。

 それはどうしようもなく『仕方ない』ことだった。

 病気みたいなものだと優一は思っている。決定的な何かが欠けてしまっている可哀想な生き物。

 それが『隣今日春』だ。

 そう思うと優一は彼に刻まれた傷跡の全てが愛しくさえ思えるのだ。

 今日春の存在は割れてしまったビー玉が綺麗と感じるによく似ている気がする。どうしよもなく切なくて、可哀相で、でもだからそこ綺麗だと感じるような――。

 だから、刻まれた傷を愛しいと思うことはあっても疎ましいと思ったことはない。

 いつか、もし、今日春がこの町全ての人を殺しつくしてしまったとしても仕方ないことだ。

 それは町の住人も分かっているんじゃないだろうか。

 分かっていて、みんな今日春を猫のように犬のように可愛がる。

 新しい何を考えてるか分からない人間よりも、子供の頃からいる殺人鬼を町の住人は選んだのだ。


 ――とは言っても、


 「優一、おさんぽしたい」


 散歩がしたいとまるで犬がリードを寄こすように今日春が優一によこしたのは白い拘束衣だった。

 ――そう、とは言っても今日春は本当に呼吸をするように人を傷つけてしまうから出歩く時は拘束具を付ける。

 もちろん拘束衣は独りでは装着できないため誰かが毎回手伝って着せてやる。

 ずっと手伝っていた優一にはそれは容易いことだった。

 今日春は素直に拘束衣に腕を通す。

 優一は数ある金属の留め具をしっかりと上から巡に装着し長い袖を背中まで回してそれぞれ苦しくない程度に占めて最後に腹の前で両腕を吊るように固定した。

 これで今日春の上半身の自由は無くなる。

 朝の散歩には早すぎるかもしれないが、拘束衣を着せ簡単に部屋の掃除をしたら外にはもう日が昇っていた。

 優一はハンガーに掛けていた黒のジャケットを羽織り自分の部屋から玄関のある一階へと降りていく。

 一人ずつしか降りられない家の狭い階段は今日春から先に下させる。

 もし万が一自分から降りたら、確実に背中から押されて優一は大怪我をするだろう。

 彼は天然のシリアルキラーなのだ――。

 人を傷つけることを無意識にしてしまう。

 階段でそこに背中があったら押すし、拘束衣がなかったら後ろから刺してくるに違いない。

 今日春と優一はゆっくりと階段を下りていく。


 キシリ。

 キシリ。

 キシリ。


 木造の階段が軋んだ音を立てた。

 しぃんと静まり返った一階の廊下、青い闇の中には人の気配が少ない。

 一階では父と母が就寝しているがどうやらまだ眠っているようだ。

 拘束衣を着てのろのろと歩く今日春の後ろを歩く。

 玄関には今日春の靴が丁寧に並べられていていた。

 そう言えば、今日春は当たり前のように優一の家に勝手に上り込み優一の部屋に来るがその道すがら父や母が刺されたことが一度も無かった。

 夜、鍵を閉めずに眠るのは田舎の家ではよくあることで優一の家も例外ではない。

 生まれてから今まで、知らない人のいないこの町で唯一危険だろう殺人鬼は殺人を容認されているし、殺すのは部外者だ。

 だからこの町は防犯意識が低く就寝時も鍵は閉めないのだが、そう言えばそんな状態にも関わらず今日春が眠っている誰かを殺したことはなかった。

 それは動いているものしか彼が反応しないからなのか、それともやはり少しでも罪悪感などがあるのか――どちらにしてもこの町の住人は酷く運がいいのだろう。

 今日春は玄関先に座り足を優一に差し出してくる。

 子供に靴を履かせるように優一は片方ずつ丁寧に靴を履かせてやった。

 それから自分は玄関先にあったサンダルを履いて、扉を開ける。

 優一の家の扉は日本家屋によくあるような茶色い金属でできた引き戸で、開けるとからからと音がした。

 ゆっくりとその扉を開け、まだ眠っている父と母のためにゆっくりとなるべく音がしないように閉る。

 外に出るとまだ黄色身がかった朝日が空を徐々に明るく染め上げている途中だった。

 冷たさが残るような微かに湿った朝の空気は新鮮な気がした。

 緑と土のむせ返るような匂い。

 この匂いが優一は嫌いではなかったし、きっと今日春も好きなのだろう。

 駆け出すように歩き出すと変わる空の色や草に付いた露を珍しそうに見回して道を歩き始めた。

 散歩コースは決まっていない。

 いつも今日春の好きなように歩かせる。

 どんなに歩き回ったところで、しょせん小さな町だからどうすれば家に帰れるのか分かる。

 最初に今日春が訪れたのはあのホテルのすぐ真横に創られた遊園地だった。

 『つきしろ遊園地にようこそ』という可愛らしいクマとうさぎの書かれた看板は錆ついていて、ペンキが所々剥げてしまっている。

 なるほどホラーだとその看板を見て優一は思った。

 夜中にコレを見たらさぞ怖いことだろう。ここが心霊スポットと騒がれる理由もなんとなく分かる気がする。

 妙に納得しながら遊園地の入り口の方へと歩いていく。

 遊園地の門には頑丈なチェーンと南京錠がかかっていて遊園地を囲むようにぐるりと2メートルぐらいの柵に囲まれていた。

 とても入れそうもない。

 「入れないぞ」

 一応、数回鉄格子のような門を押したり引いたり揺さぶって見るが勿論びくともしない。

 「こっち」

 今日春はそんなこと分かっていたらしく短くそれだけ言うと遊園地の外周を歩き出す。

 そして門から少し歩いたところ、アルミニウム合金製のはしごがかかっているのを見つけた。

 梯子は二つ折りの脚立にもなるものだ。

 それが柵に立てかけられていて登れば中に入ることができるようになっていた。

 みんなここが今日春の『遊び場』だと知っているから町の人はこの場所にはあまり近づかない。

 優一も実は園内に入ったのは今日が初めてだったりする。

 だからこれは外からきた誰かが置いていったものだろう。

 その誰かが置いてそのままにしていったのか、その置いた人間はもしかしたら今日春の手によって殺害されてしまっているかは分からないけれど。

 今日春は拘束衣を着たまま器用に二本の足だけでその梯子を上ると、てっぺんまでいって身軽にジャンプして遊園地の敷地内に着地した。

 「優一、はやくはやく」

 それから、タンタンと足踏みをしてそう優一を急かす。

 「まてよ……俺はお前ほど運動神経がいいわけじゃないんだ」

 梯子を上りながら答える。

 別に優一は運動神経が悪いわけでない。いや、自分で言うのもなんだが多分普通にいい方だと思う。

 幼稚園の頃から足は速いほうだったし、運動会では学年対抗のリレーでアンカーをした。

 今日春の面倒をみなくてはいけないから部活はやったことはないが、運動部から何度もスカウトされたし体育の成績もいいと思う。

 そんな優一でも今日春の身体能力にはついていけない。

 筋肉があるわけでもない。

 むしろ彼は痩せすぎなぐらいの骨と皮だけの身体をしている。

 筋肉なん付いていそうもないのに一体どこにそんなものがあるんだと思うぐらい今日春の身体はしなやかなバネみたいによく伸びる。

 飛んだり跳ねたりを身軽にこなす。

 ようやく優一も遊園地内に入ると、途端に今日春は走り出す。

 両手を拘束されているからさほど早いわけではないが、その状態でくるりと中返りしたりしているから やっぱり今日春の身体能力はおかしい。

 今日春はメリーゴーランドの前まで行くと柵の前でじぃっと木馬を見つめる。

 「のりたい」

 優一が追いつくとそう言う。

 流石の今日春でも梯子があるわけでもないから拘束着を着たままでは腰ほどまでしかない柵でも跨ぐことができないようだ。

 「あぶないから駄目だよ」

 メリーゴーランドの馬は風雨に晒されペンキが剥げ、金属部分は錆ついている。

 今日春は身長からして普通の高校生男子にしては小さいし身体も細く体重も少ないだろうが、それでもあのボロボロの馬に乗せるのには不安があった。

 今日春しばらくじぃっと目の前の馬を眺めていたが諦めたように深く息を一回吐き出し再びとことこと歩き出す。

 それから今度は観覧者の下までいく。少し強めの風が吹くとゴンドラは小さく軋んだ音を立てながら揺れていた。

 ふと、優一は自分も子供の頃観覧車に乗りたいと言った事があったことを思い出す。

 今になって見ると、何故この乗り物にそれ程憧れたのか分からないけれど、この遊園地ができる前の本当に優一も今日春も小さい子供の頃に、カラフルな観覧車の写真がとてもキラキラした素敵なものに見えていた時期が優一にもあった。

 この乗り物にのったら宇宙までいけるんじゃないか――とか、きっと天辺から見る風景は幻想的に綺麗なものなのだろう――とか、根拠なく思い描いていたのだ。

 なんでそんな夢を見ていたのか、今となっては分からない。むしろ今は高い所は苦手な方なのに。

 「なぁ、やっぱり危ないから」

 タタッ――と地面を蹴る軽い音がした。

 まるで逃げるようにその姿はどんどんと小さくなっていく。

 「おいっ!まてよ!」

 自由の利く両足だけでそれは軽やかに優一から離れて、離れて、離れていく。

 (なんか、嫌な感じ)

 優一は思わず奥歯を噛み締めた。

 腹の底に深いなどろりと流れこんでいるようだ。

 「ちっ」

 一つ舌打ちをし、それから思い切り地面を蹴り飛ばす。

 (追いつけ、追いつけ、追いつけ、追いつけ!)

 それだけを考えて、小さくなっていく背中を追う。

 なんでこんなに不安になっているのか、心がぐらぐらしているのか分からない。

 分からなくて、余計にイライラする。

 きっと放っておいたって今日春は自分の家に帰っていくだろう。

 見失ってもきっと、また明日になったらはた迷惑な起こし方で優一の睡眠を邪魔してくれるだろう。

 そんなことは分かっている。

 ここではぐれてしまったところで、別に大事ないのだ。

 ここはもう廃墟と化した遊園地で、二人は迷子になるほど子供でもない。

 なのに、


 (どうして?)


 手を伸ばし、指先に触れた布を思い切り掴んだ。

 掴んで引き寄せて、視界が反転する。反動で思い切り倒れたのだ。

 白っぽい朝の空を見ながら掴んだ布が今日春の拘束衣の端だったと気が付いた。

 優一は地面へ今日春は優一の身体の上へ二人は仰向けでその場に転がった。

 倒れた瞬間に思い切り背中を打ち付けたみたいで、地面に触れている場所がじんじんと響くように痛かった。

 「なにやってんの」

 腹の上で今日春がぼそりと言った。

 「さぁ、俺にも」


 何故そんな行動に出たのか優一自身もよく分からない。


 ――それから、遊園地を後にする。

 出口は錆びて鉄が腐食したのか人一人がようやく通れるぐらいの穴が柵に開いていたのでそこから出た。

 「俺、もうここ来たくない」

 遊園地から出た瞬間、今日春はぽつりとそう言った。

 入り方も出方も知ってる程度に今日春はこのここに来たことがあるはずで、あのホテルと同じぐらいお気に入りの場所なのだと思っていたけれど。

 「そうか」

 優一はそう相槌だけうった。

 今日春の考えていることなんてそもそも最初から理解なんてできないことの方が多い。

 一体何を思い、何を考えそういう結論になったのか――彼はおそらく説明なんてしないだろうしきっとされたとしても自分には理解できないことだろう。

 「なんか、ボロボロで危ないしな」

 忘れがちだが、彼だって一応人間で上から重たいものが落ちてきたならきっと死ぬなり怪我をするなりすることだってあるだろう。

 そういう点から言っても、今回の今日春の心代わりは良いことなのかもしれない。

 「あの観覧車のゴンドラとかギシギシいってたし……危ないからもう行くなよ」

 風で揺れては軋んだ音をたててる大きな観覧者を思い出しそう今日春に言えば小さな頭は珍しく素直に縦に頷くように動く。

 「いかない」

 珍しいこともあるものだとその様子を眺めながら、再びのんびりと歩みを進めていった。

 朝の空の色が白から徐々に青へと変わっていた。

 黄色い朝日に背を向けるように歩いていくと商店街へとたどり着く。

 『つきしろ商店街』食材から生活雑貨までだいたいこの商店街で手に入れることができた。

店はまだ軒並み閉まっている。

 当たり前だ、こんな時間に開く店なんて――……。

 その時、ガラガラとシャッターの上がる音がした。

 音のする方を見れば斉藤精肉店のシャッターが開いていた。

 「おー!はやいなぁーきょうちゃんにゆーちゃん」

 肉屋の店主、斉藤のおじさんは優一達を見つけると朝から張りのある元気な声でそう話しかけてくる。

 「おはよう。おじさんこそ早起きだね」

 「今日はちょっと用事があって」

 浅黒い肌に対照的なぐらい白い歯を見せて笑顔を浮かべながらおじさんが言う。目の横には笑い皺ができていて短く刈り上げた髪は白髪交じりだ。

 おじさんは白いエプロン姿で、そのエプロンには鮮やかな鮮血が飛び散っていた。

 それは人を殺してきた時の今日春に少し似ている感じがする。

 「新鮮なお肉作ってた?」

 今日春はじぃっとおじさんを見つめながら小首を傾げてそう聞く。

 「いや、ここだけの話、実はね内臓の処理を頼まれてそれをさっきまでしてたんだよ」

 商店街の人は普通の人よりは多少、外との繋がりがある。

 おじさんが処理を頼まれたと言うのはきっと外からの依頼だろう。

 「お菓子にね。隠し味に入れるんだとさ。肝臓なんだけど、綺麗に洗って砂糖漬けにしたものを出荷するんだよ。外の有名なケーキには対外みんな入っているって話だぞ」

 おじさんの表情は信じられないとでも言いたげで、きっとその内臓は牛でも豚でも鳥でもないのだろうと言うことだけは分かった。

 「ああ!ここの商店街の菓子は松島さんちの和菓子も中島さんちのケーキもそう言う隠し味は入ってないからね」

 おじさんは慌てたようにそう言うと「内緒だよ」と口の前で指一本立てて見せた。

 それから口止め料だと揚げたてのコロッケを一つ貰い、今日春と二人で半分づつ食べてから商店街を後にする。

 そんなものを貰わなくても言うつもりは無いし、言ったところでおじさんはきっと町の誰からも非難されうことはないだろう。

 非難の的はいつだって外にある。

 もしおじさんの仕事が誰かに知られても、きっとみんなそんなものを美味しいと食べる外の人間を軽蔑するだけでおじさんにはきっと被害がない。

 そもそも、斉藤のおじさん自体がそれほど口が堅い方ではないから知ってる人は知っていることなのだろう。

 人望は厚い人なのだ。

 だからこそ、おじさんは今、行方不明になった町長の代わりに町長をやっている。

 町の祭も斉藤のおじさんになってからずいぶん派手なものになったしもしかしたらああやって外から依頼された仕事を町のお金に回しているのかもしれない。

 特産物も特にないこの町の、もしかしたらそれが唯一の特産物だったりするのだろうか。

だとしても、

 「もし、外に出ることがあっても絶対にお菓子は食べないでおこう」

 優一はそう固く決意する。

 だって、


 「人間の内臓入りケーキなんて想像しただけで気持ち悪い」




 商店街を抜けてしばらくそのまま真っ直ぐ歩いていくと小鳥坂に出た。

 小鳥坂は並木道だ。

 春には道の両側に一定間隔でソメイヨシノが植えられている。

 春にはこれが満開になり、みんなこぞってこの下で花見をするのだ。

 二月下旬の今はまだ、花こそ咲いてはいないが。

 「もうすぐ春だ」

 ふっくらと蕾を大きくした桜の木を仰ぎ見ながら優一は思った。

 もうすぐ春が来る。

 今日春の生まれた春だ。

 あの桜が咲く頃、丁度今日春の誕生日が来る。

 「おぉ、きょうちゃんとゆーちゃんじゃないか早いねぇ…お散歩かい?」

 優しい柔らかな声でそう自分達に声を掛けてきたのは林のおばあさんだった。

 林のおばあさんは誰に言われたわけでもないのにこの桜並木の面倒を見ている人だ。

 少し曲がった腰と白髪交じりの髪の毛を頭の後ろでお団子にし、白い手ぬぐいをかぶっている。

 しわくちゃな顔をもっとしわくちゃにして林のおばあさんはにこにこと笑っていた。

 「きょうちゃんが良い肥料持ってきてくれるから、今年も桜もきっと綺麗だよ」

 そう林のおばぁちゃんはニコニコしながら少し曲がった腰を精一杯伸ばして桜の木を見上げた。

 林のおばあちゃんの片手にはスコップが握られていて桜の木の根元、掘られた穴には胸から血を流した女の死体があった。

 ニコニコと笑いながらおばあちゃんは死体を埋めた。

 狂っているのだろう。

 こんな日常は、間違っているのだろう、こんな日々は――けれどそれは優一にとって平和で平凡な日常風景だった。

 「ああ……きっと、今年も綺麗な花が咲くよ」

 穏やかな風が吹く。

 土にまみれた死体はもう土の匂いが強くて死臭はさほどしなかった。

 桜の花はきっとこの死体を養分に、見事な花を咲かせるだろう。

 薄紅色の桜の花はその花弁に微かに血の色を滲ませて鮮やかに咲き誇るのだ。

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