13.

バーへ行ってから数日後、本番を控え、あと二週間になった。僕は再び先輩に呼び出され、いつもの喫茶店にいた。

公演への確認を終え、残りは当日のホールスタッフに段取りを聞くだけとなった。

「無事に成功するといいな」先輩はブレンドを美味しそうに飲んでいる。

「ありがとう。先輩のおかげだ」

「感謝は終わってからにしてくれ」

会社の仕事もあるだろうに会場やポスターの手筈はすべて先輩がしてくれた。感謝してもしきれない。

「そういえば、崎川静子が亡くなったそうだな。お前知っていたか?」

「え? 声楽家の?」

「ああ。今朝のニュースで言っていた。服毒自殺らしい」

 信じられなかった。この間まで元気にしている姿を観た。すぐにでも湖へ行き、彼女の行方を捜したかった。しかし、そんなことは無駄だ。先輩の言うことが本当ならいることはないだろう。僕は自分の気持ちを抑えつけた。

「惜しいよな。まだ若いのに」

 すると、先輩のコーヒーソーサラーの横にあった先輩の携帯から着信音がなった。ピアノの音が小さなスピーカーから流れてくる。リストの死の舞踏の一部分だ。とんでもない曲を着信にしていると思ったが中盤からの華やかさは先輩に似合っているかもしれない。

「はい。もしもし」

 今は崎川静子が亡くなったことは考えないようにしよう。僕が気にしたってしょうがない。

「今ちょっと手が離せないんだ。また、後にしてくれないかな」そう言うと先輩は電話を切り、ポケットの中にしまった。

「わるい」

「新しい彼女?」

「いや……違う」僕の言葉を聞くと先輩はこの間のようにバツの悪い表情をした。女性関係で何かまずいことでもあったのだろうか。先輩にアドバイス出来るようなことは何もないが、相談だけなら僕でも聞くことはできる。

 壁に掛けられた時計は昼の一時半を回ったところだった。今まで気にしたことはなかったが、先輩の会社の昼休みは何時までなのだろう。店内は昼のピークを過ぎたせいか、落ち着いてきていた。

「お前さ、栞ちゃんのことどう思っている?」

先輩の脈絡のない話題には慣れていたつもりだったが、今回はあまりの変化球に僕は驚いてしまった。この間の様子では、先輩は栞さんの話題を避けていたように見えた。あの時は困っているのか嫌がっているのか、よく分からない表情をしていた。頭がこんがらがってくる。

「どうしたの?」

「お前、彼女いないだろ。ちょうどいいじゃないか。チェリストと伴奏のピアニスト。すばらしい組み合わせだ。お似合いだと思う」

「本当に思っている?」

「ああ」

「受付の女の子たちに栞さんと僕が付き合っているって噂を流したの、先輩でしょ」

「お前のことを思ってだよ」

「どうだか」僕は面白半分と、ナンパの口実だと分かっている。

「栞ちゃんな、お前の卒業公演を聴いて感動したそうだ」

「卒業公演って、大学の?」

「そうだ」

驚いた。じゃあ、栞さんは以前から僕のことを知っていたのか。それなら、僕の公演の伴奏者に立候補してくれた理由もわかる。

「大学も同じだ。お前とは入れ違いだけどな。入学することが決まって、俺の妹と一緒に学校見学ということで卒業公演を聴きに行ったらしい。それでお前の演奏に感動したそうだ」

 僕の卒業した学校は、四年次の課題として実技試験があるのだが、その時に優秀だった学生は二か月後の一般客を招いた卒業公演に出演することになる。各楽器専攻から一名ずつ選ばれ、偶然僕が選ばれた。本来ならば違う男子学生が出演するはずだったのだが、その学生が出演発表の翌日に暴力事件を起こしそのまま退学になり、順上がりで急遽僕が選ばれてしまった。

「大した演奏じゃなかったと思うけど」

「妹も褒めていたぜ。チェロの人すごく上手かったって。俺の知り合いだって自慢しといた」

「それは嬉しいけど」

「その一件で栞ちゃんはお前に興味を持ったらしい」

「たかが学生の卒業公演だ」

「そんなこと本人に聞かなきゃ分からないさ。俺は知らない。お前、あの時何を演奏したんだっけ?」

「……ドボコンの第二楽章」ドヴォルザークのチェロコンチェルト。卒業公演の出演者は皆、コンチェルトを演奏することがルールになっている。学校がプロオーケストラに依頼し、それをバックに演奏ができる。一曲丸々を演奏するとなると膨大な時間がかかってしまうため、一つの楽章のみであるが。

「そうだ、そうだ。ぴったりじゃないか。お前見かけ以上に自信家だよな」

「悪かったね」

「ドボコンか……。俺も大好きだな。哀愁があって、音楽の普遍性を感じられるメロディー。ドヴォルザークの曲はどれも秋を連想するよな。家路みたいに。お前の感性が存分に発揮できたんだろう」

「それは僕が秋っぽいということ?」

「自分でも思わないか?あの演奏なら、栞ちゃんが興味を持つほどの演奏が出来ても何ら不思議じゃない」

 たしかに公演終了後、ロビーで挨拶をしていると、たくさんの人に賞賛の声をもらった。「素晴らしい演奏だった」「また是非あなたの演奏が聴きたい」とか。今までにないほど褒められた。中でも印象に残っているのが「あなたのような演奏が出来るようになりたい」と目を輝かせて語りかけてくれた女の子だった。

「俺はお前の演奏が好きなんだ」先輩は椅子の背にもたれかけ、気恥ずかしそうに言った。「お前には俺なんかには出せない味わいがある。自分では気づいてないかもしれないけどな。だから、俺はお前の公演の手伝いをしたかったんだ。大勢にお前の演奏を知ってほしくて。別に恩を着せようとしている訳じゃない。そして、お前に気づいてほしかった」

 先輩は手の中に収まっているカップを口に近づけ、いつものように大切そうに飲んだ。

「……うまいな」

「そうだね」

「ああ」

「あれ? 今日はミルクを入れてるんだ」

「試しにな」

「どう?」

「うまいよ」先輩はコクリとコーヒーを飲み干す。「でも……これで終わりかな」先輩は小さく呟いた。あまりに小さな呟きだったため聞き違えているかもしれないが、おそらくそう言った。

「コーヒー? おかわり頼もうか」僕はウェイターを呼ぼうと辺りを見回した。けれど、手の空いているウェイターは周りにいなかった。

「お前、パガニーニの伝説は知ってるよな?」

「え?」

「人間っていうのは慢性的な欲求不満の塊なんだ。俺はそうじゃないと生きていけないんだと思っていた」

「何の話?」

「……じゃあな」僕の疑問に答えることなく、先輩は席を立った。乱暴にマフラーを巻いて、コートを乱れさせながら。

 

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