第7話
砂の崩れる音がする。
じわじわと確実に。
覚悟はとうに出来ていた。
貴方が居なくなる事。貴方が私以外の誰かと生きていく事。全ての覚悟が出来ていた。そのつもりだった。
そして、その日は、思ったよりも来るのが遅かった。
「少し、外の世界を見て来ようかと思うんだ」
貴方が早口に言った時、嗚呼、遂にこの日が来たのか、と思った。
貴方が居なくなる日が。
でも、それは思っていたよりも遅かった。
それは、あの缶蹴りで遊んでいた小さな太郎君が、少年から青年へ変わりかけるぐらいの時だった。
人伝に、一条葵が結婚し、第一子の男の子を出産したと、聞いたぐらいの時だった。私が一条葵の予備としてもお払い箱になったぐらいの時だった。一条家に跡取り息子が生まれたのならば、例え葵が死んでも、私は要らないのだ。
いずれにしても、貴方と暮らせるのはもっと短いと思っていたから、思っていたより長かった事に少し感謝していた。
そして同時に、これは私の我が侭だけれども、とても残念に思った。
隆二にははっきりと言っていなかったけれども、私の心臓の調子は、その年の冬から、ずっと悪かった。本当に。いよいよいつか、止まってしまうのではないかと、毎日びくびくしていた。ただ起きている、それだけの事が、本当にしんどかった。
それと同時に、私は期待もしていたのだ。このままだと、隆二に看取ってもらうことが出来るのではないか、と。貴方を苦しめる、私の我が侭だけれども、そう思っていた。
そんな感情でごちゃ混ぜになった私を見て、何を思ったのか、貴方は言い訳のように続けた。
「ずっと此処に居たから。研究所とか、今どうなっているのか知らないし、状況把握っていうか。旅行っていうか」
早口の言葉。
そんなに取り繕ったって無駄なのに。貴方は嘘が下手なんだから。
「……そう」
もっと上手く、嘘をついてくれればいいのに。でもそんなの、隆二じゃないわね。
ずっと前から、貴方が居なくなることは覚悟していた。それでも、実際に言われると、心が揺さぶられて、痛んだ。
泣きそうになるのを、一つ息を吸う事で耐える。
「判った。……でも、ねえ、幾つか約束、してくれる?」
微笑みながら言うと、隆二は軽く頷いたものの、気まずいのか視線を逸らした。
嗚呼、本当、臆病なのだから。
「人は簡単に『物』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
貴方が生きていく道はきっと険しい。でも、人殺しにならないで。その時はそれで危険を回避出来ても、貴方はきっとそれに傷つくから。一度は平気でも、それを続けていくうちに、貴方の心はきっと壊れてしまうから。
貴方が死なないことは知っている。でも、あの死神は貴方に消滅を迫った。あの死神は、貴方をこの世界から消すことが出来る。それに、屈しないで。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなに滅茶苦茶でも、格好悪くても構わないから、生きていて」
生きていればきっと、貴方はまた温もりをくれる誰かに出会える筈だから。一人の時の貴方は、太郎君が言っていたみたいに駄目人間になるかも知れないけれど、誰かが居たらきっと持ち直すだろうから。
貴方の永遠は長いのだから、私以外と一緒に居る事、躊躇わないで。
我ながら、今生の別れのようなお願いだと思った。ような、ではない、事実なのだけれども。
でも私は今、貴方の本心を知らないフリをしなければならないのに。嗚呼、私も対外嘘が下手だ。
「それから、」
これが一番大事な約束だ。貴方と私との、私と私との約束。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから……」
いつまでも他所を見たままの、隆二の頬に手を伸ばす。両手でそっと包むと、無理矢理私の方を向かせた。体勢を崩した隆二が、片手を畳の上につく。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」
待っているから。私は。
隆二は何も言わない。嘘を吐く事も、止めてしまったの?
「……約束ぐらい、しなさいよ」
呆れて言った声が、思っていたよりも掠れていた。嗚呼、泣きそうになっているのだな、とどこか他人事のように思った。
覚悟、していたはずなのに。
「……ああ」
隆二が、小さく呟いた。根負けしたように。
俯いたまま、畳みを見つめる隆二の額に、そっと唇で触れた。
「約束、だからね」
そのまま、貴方の頭をそっと抱え込む。抵抗はされなかった。
「……ああ」
「帰って来なさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、判っているの?」
「……判っては、いる」
余りに素直な貴方の言葉に、思わず苦笑する。約束は出来ないけれども、判ってはいる。どれだけ素直で、嘘がつけないのだ、貴方は。
そんな風に優しい癖にどこか捻曲がっている処や、不器用な処が好きなのだ。どうしようもなく愛しくなって、涙が零れ落ちそうになった。慌てて呼吸を整えてから、
「……ずっとずっと、待っているからね。ねぇ」
そっと、名前を呼んだ。
「草太」
貴方の本当の名前。
隆二の肩が、ぴくりと震えた。
初めて貴方の名前を聞いて以来、呼んだ事は無かった。貴方との最後に、呼ぼうとずっと決めていたのだ。
「待っているから……」
それは、私と貴方との、私と私との約束だから。
貴方が出て行った家は、思っていたとおり、私には広過ぎた。
この家で、長い期間一人で過ごしていた事があるなんて、我ながら信じられない。
縁側に腰掛け、一人でぼーっと空を見ていると、
「茜?」
垣根の向こうから、先生の声がした。
「邪魔するぞ」
門からひょいっと、先生が入ってくる。
「……先生、どうなさったんですか?」
「いや、蜜柑を知り合いからもらってな。沢山あるから、二人にもあげようと思って」
なんでもないように言われた、二人、という言葉に、自然と涙が零れ落ちた。
「茜?」
先生が慌てたように近寄ると、私の隣に座る。
「すみません」
慌てて目元を押さえるものの、涙は止まらない。
覚悟していたけれども、こうなることは判っていたけれども、だからって、悲しくない訳ないのだ。
耐え切れず、両手で顔を覆う。先生は私の背中を撫でてくれながら、
「……彼奴は、出て行ったか?」
「……はい」
頷くと、また涙が溢れる。
「そうか……。ひとまず今は、泣いておけ」
優しい言葉に、一つ頷く。
先生の温かい手を背中に感じる。貴方のあの、冷たい手に触れる事はもう無いのだ。そう思うと、喉の奥がきゅっと詰まった。
しばらく先生の言葉に甘えて、泣かせてもらった。
少し落ち着くと、深呼吸する。
「大丈夫か?」
「……はい」
なんとか微笑む。
「あの人ってば、先生に挨拶もせずに出て行ったんですね。本当、駄目なひとなんだから」
軽口を叩いてみせる。
「彼奴に社会常識なんぞ、期待してないよ」
先生も、それにあわせくださった。
「私、あの人に約束したんです。ずっと待っているって」
それを聞いて、先生は渋い顔をなさった。
「判っています。私が、そんなに長い間待って居られない、って事ぐらい」
今こうしていられるのだって、奇跡だと思っている。
「それでも、私は、あの人が帰ってくるのを待っています」
「……帰ってくると、思うのか?」
「いつになるかは判りませんが、あの人は絶対に帰ってきます」
微笑む。それだけは確信があった。本当に、いつになるか、何年後が、何十年後か、もしかしたら何百年後かもしれないけれども。
「あの人は、優しいから別れた私のこと、きっとずっと気にしてくれます。そんな必要全然ないのに、負い目に感じるかもしれない。でも、あの人は臆病だから、一人じゃきっと、帰ってくることが出来ないとも思います」
「それじゃあ、意味がないじゃないか」
「でも、あの人が永遠をずっと一人で居る訳ないですから」
優しいから。きっとまた、何か面倒に巻き込まれて、誰かと生活を供にすることがあるだろう。永遠は長いのだ。あと一回ぐらい、そういう事があっても、おかしくない。もしかしたら、あの人自身が、すすんで誰かとの生活を望むかもしれない。
「その時、あの人は絶対に帰って来てくれます」
先生はなんだか痛ましげな顔をした。私が無理難題を言っていると思われたのだろう。
それでも構わない。
他人がどう思っても構わない。相手が例え、先生であっても。
私さえ、理解していればいい。
「私はそれまで、あの人を待ち続けます」
それが、私と私との約束だから。
貴方が居なくなって、三日後、私の心臓は本当に動くのを止めた。
誰も居ない部屋の中、不穏当な動きをして、その役目を手放さそうとする私の欠陥品の心臓。本当に、今まで良く保ったと思う。
薄れ行く意識の中、貴方が居る間は保ってくれて良かったな、と思う。
きっと、ぎりぎり頑張ってくれていたのだろう。貴方が居る間は、無理をしても動かすぞ、と。何度も何度も言い聞かせてきたから、心臓も頑張ってくれたのだろう。
その事だけは、貴方が居る間は動き続けたことは、褒めてあげたいと思う。欠陥品だった、私の心臓のこと。
そうして、一条茜の生涯は幕を閉じた。
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