第2話
彼に出会ったのは、季節が秋に片足を踏み込んだ頃。夕暮れ時。
私は、先生の所に向かうために、いつもと同じ道を歩いていた。そう、彼が倒れていた、土手沿いを。
彼を初めて見たとき、私は心臓が止まるかと思った。
だってそうでしょう? いつもと同じ道を、いつもと同じように歩いていたのに。そんな日常の中に、血まみれで倒れている人が居て、私、悲鳴をあげなかった自分を褒めてあげたいぐらい。
現実を認識するまでに少しの間を置いて、私は慌てて声をかけた。
「大丈夫ですか?」
彼は閉じていた目を、ひどく億劫そうに開けて、目玉だけを動かして、こちらを見てきた。
「あの、大丈夫ですか?」
顔を覗き込むようにして、もう一度尋ねる。
私、血は苦手なの、ものすごく。本当は、私の方が倒れてしまいそうだったの。
ねぇ、知っていた?
「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」
彼は、腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に問い返してきた。額から、止め処なく流れる血なんて、眩暈がしそう。私は大きく顔を歪めた。
あとで彼は、まるで私の方が怪我をしたみたいだった、と言った。当たり前でしょうに。目の前であんな血をどくどく流している人が居て、普通でいられるわけがないじゃない。
それにね? 彼、……貴方は人の怪我や体調には大騒ぎするくせに、自分のことには無頓着過ぎる。だから、これでいいの。貴方が自分のことを放っておく分、私が貴方の心配をするから。
「そ、そうですよね。……でも良かった、喋られるならば見た目よりも酷くないみたいですね」
私は本当に安心して、そう呟いた。だって、大怪我しているように見えたのだもの。話が出来ることに安心するのは普通でしょ?
彼はひとつ、息を吐いた。
私は持っていた日傘を傍らに置くと、彼の隣にしゃがみこんだ。そのまま、自分のハンカチで彼の額を押さえる。傷口を押さえて、血を止める。子供達の誰かが怪我をした時に、先生がおっしゃっていたのを思い出しながら。
ハンカチが血を吸い込んで赤く染まっていく。
「うわっ、あんた何やってるんだ!?」
彼は私の行動に、ひどく驚いたようで悲鳴に近い声でそう言った。
「え、一応止血を……」
何を聞いているのだ、この人は。そう思った私のこと、一体、誰が責められる? 人として、当たり前の行為だと思わない?
「別に、そんなのいいって……」
なのに彼は何故かそう言って、痛み以外の何かで顔を歪めると、私の手を振り払おうと右手を動かす。私は、慌ててその手を掴んだ。
普段出す以上の力で、けれどもゆっくりと、その手を下におろさせる。
「大人しくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」
冷静を装っていたけど、本当は私、泣きそうだった。これ以上傷口が開いたら、きっとこの人は死んでしまう。そう思ったから。
彼は、観念したのか何も言わなかった。
「……この近所に」
ぽつりと呟くと、彼の顔がこちらに向く。
「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう」
そこまで言ってから、彼の様子を確認する。
「……あ、でも、その怪我じゃ動かない方がいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」
必要以上に念を押して、私は立ち上がった。ハンカチはそのままで。
必要以上に念を押したのは、放っておいたら、この人は居なくなってしまうんじゃないかと思ったからだ。動けない怪我だろうとは思っていても、消えてしまいそうだった。
「おい、あんた」
呼び止められて、立ち上がったまま、彼の顔を見て、微笑む。
「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」
訳有りなのかなぁと、思っていた。普通ならば、こんな怪我をしたら、どうにかして助けを呼ぶ筈。動けないにしても、声を出せるのだから、助けを呼ぶことは出来るだろう。
それをしなかったのは、何か訳有りなのかと思ったのだ。
私と同じように。
「……そこじゃない」
彼は何故か、苦虫を噛み潰したような顔をしてから、
「名前」
「え?」
「あんた、名前は」
この場の流れにそぐわない質問に、私は一寸驚いた。けれども、人に名乗るときはいつもそうしているように、出来るだけの笑顔を浮かべて、それに答えた。
「茜。一条茜です」
彼は何故だか、眩しそうに目を細めた。
「茜」
土手から彼をなんとか移した、先生の診療所で、先生が渋い顔をして呟いた。
「拾うのは頼むから猫だけにしておいてくれ」
「俺は猫以下かよ」
先生の言葉に返事をしたのは、診療台の上、包帯でぐるぐる巻きにされている彼だった。
「そんなこと言われても……。放っておけないじゃないですか」
「いや、確かに人助けは英断で、尊いことだが、しかし……」
先生が語尾を濁す。彼は何故かはん、と鼻で笑った。
「人助け、ね」
「何が面白いんだ、お前は」
「いや、別に。すごいな、あんた」
先生を相手にそんな乱暴な口をきける人は、この村には居なくて。私ははらはらしながらそのやり取りを見守っていた。
「おい、」
先生は、患者にするには到底思えない手つきで、彼の胸倉をつかむ。
「先生!」
悲鳴に近い声をあげた私には視線もくれず、先生は吐き出すように低く呟いた。
「お前は、一体、何なんだ?」
彼はにやり、と笑った。
「俺が一番知りたいね」
先生は顔を歪めると、彼を診察台に叩き付けるようにして、手を離す。
「先生! 怪我人に対してそれは……」
見ていられなくなって、私は先生と彼の間に割り込む。
「ぴーぴー騒いでんじゃねえよ」
助けに入ったつもりだったのに、何故か私には彼から乱暴な言葉が届く。
「放っておけばこんな怪我治る」
「治るわけないでしょう!」
自分の怪我なのに、あまりにあっさりした物言いに、私は思わず怒鳴っていた。
「耳元で騒ぐな、餓鬼が」
彼は五月蝿そうに右手を振ると、
「一度しか言わないからちゃんと聞けよ? 俺は人間じゃない。因って死なない。怪我しても放っておけば治る」
彼は当然のように、早口で言い放った。
私は言われている言葉が理解できずに、動きを止める。
間抜けな顔をしている私に、彼は唇を歪めてみせた。
「もう少し端的に言うならば、物の怪ということだ」
後ろで先生が舌打ちするのが聞こえた。
「とんだ拾いものだな、茜」
先生が小さく呟いた。
私は理解できずに、莫迦みたいに口をあけて、彼を凝視する。
彼は溜息をつくと、右手に巻かれていた包帯を外した。赤く染まったガーゼがひらりと床に落ちる。その下にある筈の、さっきまで血を流していた傷口は、何故か無くなっていた。
「判ったろう?」
彼は体を起こし、私の目を覗き込むと、聞き分けのない子どもに聞かせるような口調で呟いた。
「放っておけば、治るんだ」
「普通の」
先生が口を開くから、私は慌てて後ろを、先生の方を向いた。
「普通の人間だったら、死んでいてもおかしくない傷で、出血量だった」
先生がぼそりと呟く。
「そりゃぁ、驚くよな、先生。前に見つかった医者は、悲鳴をあげて卒倒したぜ?」
けらけらと彼は笑う。然し、急にぴたりと笑うのをやめると、真顔で私の顔を覗き込む。
「驚いたろ、嬢ちゃん。悪いな。先生も」
言いながら、足の包帯を外す。その包帯も、既に用をなしてなかった。
「先生が怖がらずに、適切に処置してくれたおかげで治りが早い。感謝する。二、三日は動けないと思っていたが、これならば明日にはなんとかなるだろう」
そこで私たちに向かって頭を下げた。
「一晩でいい、泊めてほしい」
そして、ゆっくりと顔を上げると、肩を竦めて唇を歪めた。
「勿論、こんな化け物にいつまで居いられては困るというならば、追い出してくれて構わないが」
沈黙。
先生が一歩踏み出してきた。私の頭を撫でるようにして、少し後ろに押す。かばってくれようとしているのだ、と思った。
「この子に聞いてくれ。あんたを助けたのはこの子だ」
そう言いながらも先生はもう一歩、私と彼の間に体をさしこんだ。
彼は私を見つめる。
「そうだな、嬢ちゃんに聞いてみないとな」
そう言って唇の片端だけをあげる。
「……茜」
私は少し躊躇して、小さく呟いた。
「私の名前は、嬢ちゃんではなく、茜、です」
彼は驚いたように少しだけ目を大きくして、すぐに小さく笑んだ。
「ああ、そうだな。さっき俺が聞いたんだった。茜色の、茜だな」
「あなたのお名前は?」
さりげなく、先生の手を横にどかす。先生は一度私の頭を軽く撫でて、悟ったかのように横にずれた。
「……。神山隆二」
彼は何か思案するように一度私から視線をそらせ、しかし、すぐにこちらを向いて答えた。
「神山さん、ですね」
私は出来るだけ、にっこりと笑んでみせる。
「此処をでて、どこか行く処が在るんですか?」
「居場所なんてどこにだって……」
「もし、無いのでしたら」
私は最後まで言わせずに、神山さんの言葉尻に早口で言葉をかぶせた。
「しばらくうちで暮らしませんか? 部屋なら余っていますから」
「……はい?」
先ほどまでの怖い顔を崩して、神山さんは間抜けに口をあけて呟いた。
先生が小さく、
「茜」
と呟いたが、それは嗜めるというよりも、諦めに似た感じだった。
「あんた、俺が怖くないのか?」
神山さんは眉間に皺を寄せると、怪訝そうに呟いた。
私はただ、笑んで見せた。
隆二。貴方は私が怖がらなかったことを不思議がったわ。
本当はとても怖かったのよ。本当に物の怪だったら勿論のこと、そうじゃなくても少し頭がおかしいのではないかと思った私の事、一体誰が責められる?
でも、それよりも、貴方がまるで置き去りにされた迷子のような顔をするから、私は放って置けなかったの。
沈黙が続く中、私は出来るだけ微笑んで、本当は怖くて怖くて仕方がなかったけれども微笑んでいた。
先生が斜め後ろで、右足を少し前にして神山さんを睨んでいる。神山さんは、眉根を寄せたまま、私を見ていた。
ふぅ、
誰かが息を吐く音が、やけに大きく響いた。
「……あんた、莫迦か?」
それを合図に、神山さんが半ば吐き棄てるように言った。
「俺の話を聞いていたか? 俺は人間じゃなくて、化け物だ。こんな大怪我を負っても生きている。そんな人間を傍に置いておく事が、どんな事か判っているのか?」
畳み掛けるような言葉を、私は一呼吸おいて受け止める。
化け物、化け物、化け物、ね。くすりと少しだけ、自分にだけわかるように嗤う。
「貴方がもしも悪い人なのでしたら、私も先生も殺しているんじゃありませんか? ほら、正体がばれちゃ生かしておけねぇ! ってやつです」
「あんた、顔に似合わず、えぐいな」
先ほどとは違う意味合いで、神山さんは渋い顔をした。
「よく言われます」
私は嗤う。
はぁ、と神山さんが溜息をついた。
「確かに、正体がばれたら困るんだよ。迫害されるならまだしも、見世物小屋を呼ばれた日にはどうしたらいいものかと」
神山さんは首を横に振った。見世物小屋、呼ばれたことあるのかしら?
「だけど、まぁ、あんたたちはそんなことしないだろうし。別に、されてもいいけど」
肩をすくめる。
「正体がばれたからって、ほいほい殺してたらまずいんだよ。変死体が見つかったり、行方不明者がでたりしたら、そっちの方が彼奴らに見つかるかもしれない」
「彼奴ら?」
苦々しく吐き出された言葉の、判らない部分について小さく問い返す。
神山さんは一瞬目を細めて、次に舌打ちして、
「関係ない」
それだけ吐き棄てた。どうやら、失言だったらしい。
手の内を明かさないのは、お互い様?
「そんなこと言って、怪我が治るまで油断させてるだけじゃないか?」
後ろで先生が呟いた。その解釈もありえるが、私は思わず振り返って先生を睨んだ。
「そう思うなら、俺を放り出せばいいだろう? わざわざ戻ってきてまで殺すような、酔狂な人間じゃないさ」
神山さんは先生を睨むようにして見つめ、言った。それから、ふっと顔を緩ませると、
「ああ、人間じゃないけど」
嗤った。
自分で言うのも躊躇われるけれども、彼のその嗤い方は、ひどく、私に似ていた。
「神山さんは、」
私は嫌なことに気づいてしまったと、内心で自分を罵りながら、表面上はにこやかに尋ねる。
「どうして、怪我をなさったのですか?」
言った瞬間、神山さんの動きが止まった。
先ほどまで浮かべていた嘲笑を消し去って、ただただ、目を見開いてこちらを凝視する。
「痛いところをつかれた、って顔だな。人でも殺したか?」
先生が言う。
「先生」
流石にそろそろ放って置けなくて、私は先生を睨みながら、嗜めるように告げる。
「私に全権を委任してくださったのではないのですか?」
先生は驚いたような顔をして、それから渋々と、
「まぁ、そうだが」
それだけ言う。納得していないのがありありと伝わってくる。私のことを心配してくださるのは嬉しいが、それとこれとは話が別だろう。
「どうなさったんですか?」
私は神山さんに向き直ると微笑む。
神山さんは、ひどく不愉快そうな顔をした。不服そうに細められた目で、こちらを見ると、
「笑うなよ」
と、一言前置きをした。
私は小首を傾げる。
「車に轢かれそうになった餓鬼を助けるつもりが、失敗した」
「……はい?」
全く、想定していなかった答えに、私は傾げいてた首を、更に傾けた。
言ってから、私も心の何処かではこの人が人でも殺したのではないかと、疑ってかかっていたことに気づき、胸中で自分をはたいておいた。愚かな私。
神山さんは、憮然とした顔でこちらを見る。
視界の端で、先生が私と同じような顔をしているのに気づき、少し自分を取り戻す。
「貴方は」
傾げていた首を、ようやく元に戻し、私は本当に、心から笑んだ。
「優しい方ですね」
神山さんは、不愉快そうな表情をますます強くした。
「格好悪いだろう」
「何がです? 人助けは立派な……」
「人の何十倍もの身体能力を持っているくせに、車なんぞに轢かれて」
ひどく不満そうに歪められた唇に、私は笑う。くすり、と。
「笑うなと言っただろうが」
神山さんが舌打ちした。だから言いたくなかったんだ、という呟きが聞こえた。
「ふ、」
何か、空気が漏れるような音がして、私は音の主を見る。
「あはははは」
一拍置いて、先生が豪快に笑い出した。
「……てめぇもかよ」
神山さんはついに、余所を向いてしまい、呟いた。
「おま、それ、」
「先生、何が言いたいのか解りかねます」
私は呆れている風を装って、告げる。本当は、先生の大笑いしたい気持ちも良く判った。
先生は言葉にするのを諦めたらしく、一頻り大笑いしてから、はぁっと深呼吸も含めた呼吸をする。
「気に入った」
息を整え、開口一番にそう言う。ぽん、っ膝を叩いた。
「実はな、さっき小僧が来たんだよ。車に轢かれそうになった、ってな」
他所を向いていた神山さんの視線が、再びこちらに向く。
「怪我はないのか? と尋ねたら、僕は無いという。だが、知らない男の人が大怪我していた、と」
神山さんは片膝を立て、そこに頬杖をついた。
「頭から血をだらだら流しながら、涼しい顔で大丈夫か? なんて聞いてきたとか言うから、半信半疑でな。丁度、その子の親が通りかかったらその子を返して、でもとりあえず、どうにかしなくてはな、と思ったときに、茜がやって来た」
「一寸待って、それじゃぁ、先生」
私は一歩、先生に詰め寄る。
「先生、最初から知っていらっしゃったのですか?」
「この小僧が」
「いや、爺さんよりは長生きしてるぜ、俺」
どうでもよさそうに、神山さんが茶々をいれる。
「その割には人間が出来ていない、青二才じゃないか」
先生が楽しそうに笑う。青二才呼ばわりされて、神山さんが舌打ちするのが聞こえた。
「この、神山隆二と名乗るやつが、もしかしたら小僧が言った、助けてくれた男なのかもしれない、とは思ったな」
「でしたら、なんで」
なんで、あんな侮辱するようなことを!
「だがな」
言いかけた私を遮るように、先生は続ける。
「治療しようとして、生き物として何かがおかしいことはわかった。何を考えているかわからない。助けたのとは別の男かもしれない。助けたのには何か策略があったのかもしれない。疑いだしたらきりがない。とりあえず、かまをかけてみた」
そういって豪快に笑う。
「呆れた……」
私は心底そう思って呟いた。これだけ私の肝を冷やさせて、先生はすべてお見通しだったなんて。なんて、なんて、ずるい人。
でも、そんな先生だから私は信頼しているのだ。そうも思って、何か悔しくて私は少しだけ唇を尖らせた。
「とんだ狸爺だな、あんた」
神山さんも、なんだか不満そうにいった。
結局、私たちは先生の手の上で踊らされていたのではないか、そんな気がした。
先生は何も言わずに、一度にかっと笑った。
「まぁ、面白そうだし、茜に害を加えないのならば」
「だから、加えないって」
「今日だけといわず、暫くいていいぞ。面白そうだから」
「一言余計だな」
神山さんが溜息をつく。
私は知っているけれど、先生のこの物言いは許可ではなく、命令だ。逆らえる人は、少なくともこの村には居ない。
「まぁ、あれだな。俺が助けた餓鬼が少しでも俺のことを気にしていてくれたのは、少しばかり有難いな。助けたのに礼儀のなっていない餓鬼だと思ったから」
ぼそり、と呟く。
頭から血を流した人に、涼しい顔で大丈夫か? なんていわれたら、少し怖いと思うけれども……。
「こんな小さな村に車が走っていること自体、俺には不思議だがな」
少し、思い当たることがあって、私はうつむく。
先生がちらりと此方を見た。
「あの」
意を決して、私は顔をあげる。神山さんが、私を見た。
「その、車は、真っ黒なものでしたか?」
「ん? ああ、洒落た服着た爺さんが運転してた」
嗚呼、やはり。あたった予感に私は嘆息する。
「神山さん、それ、私の身内です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
深々と頭を下げると、神山さんが少しだけたじろいだ。
「いや、別にいいんだが……」
まったくあの人たちは、まだ人に迷惑をかけないといられないのだろうか?
「ひょっとして、あんたいいとこのお嬢様ってやつか?」
神山さんの言葉にぴくり、とこめかみが引きつるのがわかる。
いいところのお嬢さん? 誰が。
「茜です」
ぴしゃり、と言ってのけると、彼は押し黙った。
先生が何か言いたそうな顔で、それでも黙ってこちらをみていた。
「私は、ただのこの村に住む娘です。それだけ、です」
「……ふーん」
納得しかねるな、と彼は呟いた。
「お互い様でしょうに。貴方も」
「隆二」
言葉を言い切る前に言われた。にやり、と神山さんが笑う。
「人には名前を訂正させておいて、自分は違うんだな、茜」
厭に順応力に長けている人だ。笑う。
「隆二も、全てを話したわけではないでしょう? 手の内を明かすのならば、お先にどうぞ?」
小首を傾げる。はん、と隆二が鼻で笑った。先生が唇を歪める。
嗚呼、なんて歪んだ関係。お互いがお互いの秘密を暴き合おうとして、牽制し合っているなんて。少し笑う。私にはお似合いだ。
「これからよろしく、茜」
隆二が、挑むようにして笑うので、
「ええ、こちらこそ、隆二」
同じような顔をして私も笑った。
「……お前ら一寸おかしいだろ」
先生が小さくぼやいた。
そう、これが貴方とあった最初。私の人生を変えた、劇的な出来事の一幕目。
嗚呼、出来るなら、ここからやり直したい。
一人で歩けると言い張る隆二を連れて、私は自宅へと戻った。一人で歩けると言いながらも、自分は化け物だと言いながらも、隆二の足取りは重かった。
ゆっくりと歩いていたので、家に辿り着く頃には、だいぶ辺りは暗くなっていた。
「ここ、どうぞ」
小さいながらも、私一人が住むには広過ぎるこの家。田の字に襖で区切られた一番奥、普段使っていない、何もない一室に案内する。
隆二は首だけで小さく頷いた。
「お食事は普通に摂られますか?」
「食べなくても死なないから気にしなくていい」
「……食べることは出来るわけですよね?」
「それはまあ」
「そう」
私は一瞬視線をさまよわせてから、隆二に戻すと小さく微笑んだ。
「じゃあ、作るんで一緒に食べましょう。大した物は、出来ないけれども」
「……なんでその結論になるかねぇ」
心底不可解そうに言われる。その質問が、私には不可解だ。
「一人の食事は寂しいから」
そんなこと、当たり前ではないの?
待っていて、と付け足すと、夕食の準備のため、部屋をあとにした。
ご飯とお味噌汁と漬け物に、お魚。お魚は一人分しか買っていなかったから、半分こ。
「……俺要らないから、ちゃんと喰えよ」
したのに、嫌そうな顔をして隆二が魚を返してきた。
「でも」
「喰わなくても死なない俺より、普通の人間のあんたが喰え」
ほらっと、目の前に魚のお皿を置かれる。しばらく悩んでから、素直に受け取った。明日からはちゃんと、二人前用意しなくっちゃ。
私が用意したご飯を、美味しいとも不味いとも言わず、隆二は食べていく。でも、要らないとごねたりせず、きちんと食卓についてくれたことが嬉しい。
貴方は最後まで美味しいとか言ったことはなかったけれども、それでも貴方とご飯を食べること、私、楽しみにしていたのよ。
だって、一人の食事は寂しいでしょう?
「……ご馳走様」
小さな声で呟かれた。
それに思わず、頬が緩む。
あらいやだ、可愛いらしい。
「はい。お口にあったのなら、よかったです」
動物の餌付けに成功した。そんな、気分だった。
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