第五章二節後半
「お迎えにあがりました」
世界を白い霧がおおうなか、あの大臣の声が響いた。少しして姿があらわれる。ついでに、あのゼムってボディガードと、それから魔法使い風の女。静流の家にお邪魔したとき、黙って立っていたお付きの奴である。不良相手のときと同様、俺は静流をかばうように立った。
「なんか用か?」
「貴様などに用はない。私は静流姫様を迎えにきたのだ」
「いいから帰りな」
「静流姫様、昨日のTVはご覧になったかと思います」
俺の言葉を無視して大臣が言いだした。
「こちらでは、もう静流姫様の素性を知らぬものはないかと思われます。おそらく、もう行き場はないかと」
「誰がそんなことをやったと思ってるんだ」
「我が国に戻っていただければ、これ以上、このような下賤な人間どもに怯えることもありません。是非とも、戻っていただきたく」
「静流は行かないってよ」
無視するのを無視して俺は言ってやった。大臣がうるさそうな顔で俺をにらみつける。
「しつこい部外者だな」
「秀人くんの言うとおりよ。私、行かないわ」
俺の背後で静流が言う。大臣が意外そうな顔をした。
「なぜでございます? このような国に、これ以上なんの未練があるのです? 下賤な人間のとる態度が恐ろしいとは思わなかったのですか?」
「なるほどね。おまえの国に普通の人間が行くと、そういうことになるわけか」
俺は大臣に言ってやった。
「海の王国に地上の人間が行くと、差別と偏見でひどい目にあうわけだ。いやな国だぜ。で、自分たちがそういう態度をとるから、相手もそうだろうと思いこんで、静流たちの素性を公表した。この国にいられなくなった静流たちは王国に戻ってくるしかない。強制的に連行するよりは、王族に対する敬意を払った作戦だったな」
「な――」
驚く大臣の顔を俺は見すえた。――人間、相手にいやがらせをするときは、無意識に、自分がやられたらいやなことをやる。相手を殴るのは、自分が殴られたらおもしろくないからだ。大臣もそれをやった。あいにくと目論見ははずれたわけだが。
「日本てのは、おまえが思ってるほど不人情なところでもないんだよ。静流は学校で珍しがられたけど、それだけだ。むしろアイドルみたいで人気になったぜ。静流の小父さんは、仕事場で素性を知られても、特にどうってことはなかったそうだ。日本てのは平和ボケした国だってよく言うけど、おかげで助かったよ」
「そういうことか。これは予想外だった」
大臣が俺をにらみつけた。
「貴様が、普通の人間ではないことも予想外だったがな。どうやら、これは話し合いでは片がつかんと考えるべきか」
「はじめから話し合いなんかしてないだろうが」
俺は静流から手を離した。大臣たちが視界の端に見えるようにしながら、軽く静流に目をむける。
「後ろに下がっててくれ。これから喧嘩する」
「え、あ、うん」
静流がうなずいた。あわてた感じで俺から離れる。俺はカバンを足元に置いた。
「さて、はじめるか」
俺は目一杯に息を吸った。大きく吐きだす。全身の筋肉に走る力の種類が変わりはじめていた。同時に大臣が横に移動する。背後からでてきたのはゼムだった。
「昨日の今日で再戦とはな」
言いながら周囲を見まわした。
「ここには、おまえの父親も勇賢者強利もいないようだが」
「親父は泊まりこみの仕事でいないぜ。強利様は大学だろうな」
「それは運が悪かったな」
「ま、できるだけやってみるさ」
俺が言うと同時に、ゼムの両腕がかすんだ。袖に隠していたのか、一瞬でとりだしたイセエビの触角を俺にむかって投擲する。同時に俺は目をかばった。腕と胸に触角が突き刺さり、全身から鮮血が噴きあがった。
昨日なら、そうなっていたはずである。俺は腕を降ろした。ゼムが眉をひそめている。そのゼムと俺の間には、触角がばらまかれていた。あれの身体にあたって、突き刺さることもできずに跳ね返されて地面に落下したのである。
「驚いたな。なぜ刺さらん?」
「サンチンや硬気功の真似だよ。全身の筋肉を硬直させてみた。ぶっつけ本番だけど、なるほどできるもんだぜ」
昨日の親父の台詞を俺は思いだしていた。親父に可能なことなら、俺にだって真似ごとくらいはできるだろう。俺は全身の筋肉を緩めてゼムまで近づいた。あらためてゼムが触角を抜きだした瞬間、全身の筋肉を硬直させる。ふたたび飛んできた触角は、それで残らず跳ね返せた。こりゃ楽でええわい。あわてた調子でゼムが触角を抜きだすより早く、俺はゼムの前まで駆けた。力まかせに殴り飛ばしてやる。気に入らない不良どもへの奴あたりもこめておいた。ゼムが五メートル近くも跳ね飛び、何度か地面にバウンドしてから顔をあげる。相変わらず骨を砕いた感触はないな。やっぱり、普通の暴力で蹴りをつけるのは無理か。それでも、触角に対する防御を身につけただけましとしよう。もうゼムは怖くない。あとは触角が尽きるまで好きにやらせて、それから大臣でも人質にとって、無理矢理にでもおとなしくさせれば――
そう思ったときだった。
「動くのをやめなさい!」
澄んだ女の声が飛んだ。同時に、俺の身体の動きががくんと停止する。なんだ!? わけがわからないまま、俺は声のした方向へ顔をむけようとした。それすらもできない! 俺の前でゼムが立ちあがった。次の瞬間に飛んだのは無数の触角である。動けない以上、俺には筋肉の硬直も不可能だった。無数の触角が突き刺さり、俺は鮮血をまきちらしながらたおれこんだ。
「秀人くん!」
静流の声が背後からした。それでも俺は動けない。なんだこれは――
「さすがは五獣王の息子と言うべきか。まさか、ゼムの吸血針を防ぐとは」
これは大臣の声だった。同時にゼムが近づいてくる。
「だが、ゼムから話を聞いたとき、その程度のことはするだろうと、こちらも予測していたのでな」
「これでようございましたか?」
べつの声が飛んだ。さっきの女の声である。
「セーニャよ、よくやった」
大臣が言う。女の名前はセーニャというらしい。さすがに目が動くようになり、俺は視線を変えた。ゼムと並んで立っていたのは、あの魔法使い風の格好をした女である。そのローブの端から、魚の尻尾みたいなのがちらっと見えた。
そういうことか。そういえば、静流も、声で人をあやつることができたっけ。ゼムがタコの化物だったから、こっちはイカ娘かと思ってたんだが、見誤ったな。
「秀人くん! 返事をして!」
「静流姫様、この男、このまま殺されてはこまるでしょう?」
悲鳴に近い声をあげる静流に、大臣が笑いながら言った。
「そこで、提案がございます。静流姫様が、おとなしく我が国に戻るというのなら、我らは姫様と一緒にこの場を去ります。この男は放っておきますが、死ぬことはありますまい」
「なんですって――」
「もちろん、断るというのなら、話はべつになります、この男にはとどめを刺さなければなりません」
俺は立ちあがろうとした。しかし、身体が言うことを聞かない。痛みがどうとかではなかった。人魚の歌声の束縛とは、これほどのものだったのか。
「静流姫様、どうなさいます?」
どれほどの沈黙だっただろうか。
「わかりました。私は戻ります」
泣きそうな静流の返事が聞こえた。大臣の愉快そうな笑い声が響く。
「それでこそ姫様でございます。では、参りましょうか」
そうはさせねェ。俺は顔をあげた。大臣が目の前にいる。その大臣が俺を見て眉をひそめた。
「これは驚いたな。もう動けるのか。おい、延髄にも何本か打ちこんでおけ」
「そんな! 話が違うじゃない!!」
「ご安心ください。殺しはいたしません。ただ、動けなくするだけで」
大臣が説明すると同時に、俺の首筋に妙な衝撃が立った。見ている世界が黒く濁って行く。
静流の泣き声だけが、ひどく脳裏に残っていた。
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