ダイバーシティ~100の多様性~
葦時一
はじまり
“はじまり”は何だっただろうか。
そう。あれは三年前の朝だった。とっておいた最後の牛乳を飲んだとか飲まないとかいうくっだらねえ言い合い。
妹はせいいっぱいのコワい顔をして待っていた。
「食べたでしょ」
「知らねえよ。冷蔵庫に残ってるから嫌いだと思ったんだ」
「好きなものは最後にとっておくって知ってるくせに! お兄ちゃんのバカ!」
「へえへえ。悪うございました」
「もう! ちゃんと謝ってよ! 許さないんだから!」
適当に耳を塞いでやりすごそうとしたが、うまくいかなかったらしい。
顔を真っ赤にしてぶんぶんと手を振り回す。幼い顔を縁取る髪が揺れていた。怒っていても全く怖くないのは、たれ目がちの瞳とか、泣きぼくろとか、そういった可愛らしい顔立ちのせいだろう。
「あーあー。うっせえなあ。いいだろうがよ、飲んだってちっとも成長しねえんだから」
「お兄ちゃん……アイロンと包丁、どっちがいい?」
にっこりと笑顔で問いかけてくる。
「殺す気かよ、――――」
目が、覚めた。
寝転んだまま見える天井が違う。実家じゃない。事務所だ。
(夢……か)
ガンガンという音がする。誰かがドアを叩く音だ。
ノックというよりは、物理的にドアを壊すくらいのつもりだろう。起きた原因はおそらくこの騒音だ。
妹の名前を呼ぼうとしたところでぶっつりと夢が切れてしまったのは、残念だったのかどうかわからない。あの妹は、もう、いないのだから。
整った顔立ちをしているが、鋭すぎる目つきのために狼のような印象を受ける。 伸ばしっぱなしでぼさぼさの黒髪は寝癖でひどいことになっていた。
寝間着がわりのシャツの下には、鍛え込まれ、絞られた身体がある。欠かさず鍛錬を続けてきた積み重ねだ。
仙四郎は寝起きで気怠く感じる身体を起こした。ソファの上だ。
見渡すとテーブルの上には昨日読みかけでやめた雑誌と食べ物が山のようになったままだった。ずぼらな仙四郎が主だからか、片付ける気が起きなくてそのままな事務所内はかなりの魔窟に見える。
「潜谷さぁん! いるんでしょう!? ここを開けてくださぁい!」
いまだドアを叩く音は止まらない。
ついでに若い男の声も聞こえてきた。情けない声。
仙四郎は舌打ちするとドアに歩み寄り、開錠するとドアを乱暴に開けた。
「聞こえてるってんだよ! このクソ刑事が!」
「やっぱりいるじゃないですか! どうしてすぐに出てきてくれないんですか!」
スーツ姿が似合わない若い男がそこに立っていた。
これで
「んで? 何なんだよ、人が気持ちよく寝てるところを起こしやがって」
「それがですね、潜谷さん。事件なんですよ」
守留は真剣な顔で告げた。その真剣さに反比例するように、仙四郎はやる気なくぼりぼりと頭を掻いた。
「俺はやんねえぞ。一人でやれ」
「そんなこと言わずぅ! 手伝ってくださいよぉ!」
「うざい! 離れろ! 抱き着くんじゃねえよ、このバカ!」
事務所の奥から、くすくすという女の子の声が聞こえてきた。守留の泣き声が止まる。顔を上げた先には、可愛らしい女の子がいた。中学生くらいの背丈。セミロングの黒髪。守留の身も蓋もない姿に、こらえきれないといったように笑いを押し殺していた。
「紗季ちゃん! おはよう!」
「はい、おはようございます。守留さん」
紗季は礼儀正しく挨拶した。その可愛さに守留の相好が崩れる。
紗季は仙四郎の隣に並ぶと、背の高い仙四郎の顔を見上げた。
「仙四郎さん、助けてあげたらどうですか?」
「そうです! 紗季ちゃんの言う通り!」
「黙ってろ、てめぇは。んで、何だよ。行けってのか?」
仙四郎は紗季の目を見た。そこには真剣な光が宿っている。
「そろそろ働かないと、お金がなくなって死んじゃいますよ」
「……わかったよ。いつも通りの報酬と、例の約束通りでいいな?」
「せ、仙四郎さぁん!」
「うるせえ! お前のためじゃねえよ! これでいいんだろ!」
にこにこと笑顔の紗季に、仙四郎は仏頂面を返した。
守留の首ねっこをひっつかむと、ずるずると事務所内に引きずり込む。乱暴にドアを閉めたのはせめてもの反抗だ。
放り投げるようにソファに座らせた守留も、
仙四郎は向かい側のソファに腰を下ろす。テーブルの上に載っていた物を、仙四郎は乱暴にどけた。
「しょうがねえ、話せよ。とっとと事件を解決してだらけた生活に戻るからな」
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