3代:ユルベンス帝紀

 3代皇帝となったユルベンスは、ひどく内省的な人物だった。

 おおむね、どの国の歴史でも、創業の初代と2代目は、行動的な人物が多いが、3代目からは明暗が分かれる。

 初代は自ら国を興し、2代目はそれを見、また自分もある程度関わって育つから、自然と身に付くものも多くなるが、3代目はたいてい、国家体制が完成し、安定してる中で大事にされて育つため、祖父や父ほどの人物になりにくいのである。

 この御多分にもれず、フン帝国の3代目も、祖父や父ほどの人物ではなかった。

 彼は、外には出たがらず、人と会うことも出来るだけ避ける傾向にあった。子供の頃から無口で、感情もあまり表さず、怒られても、褒められても、無反応だった。父親が政務に熱心で子供をあまり顧みなかったこともあるだろう。母親はそれなりに愛情を注いだが、ユルベンスがなついたのは、いつもそばにいた侍女のテリエだった。下級貴族ゾダ男爵の娘で、ユルベンスの13歳年上であった。

 そのテリエが、宮中を去ったのは、ユルベンスが15歳の時だ。特段失策があったわけではなく、単にテリエに結婚の話が来たのである。この年28歳になったテリエは、もう結婚などはないと思っていたが、2代皇帝ブレイスも、皇后リンダも、彼女を気に入っていて、むしろ今まで皇太子の面倒を見てきた苦労に報いてやろうと、わざわざ結婚相手を探してきたのだ。相手は名門キャラリス伯爵家の長男クドーで、テリエの2歳年下だった。家柄で言えばやや不釣り合いだったが、この縁談は本人の予想を超えて順調に進んだ。テリエは絶世の美女というわけではなかったが、どこか安心感を与える容貌をしており、皇太子を育てたという実績も、伯爵家に気に入られた。なにより、彼女と顔を合わせたクドーが一目惚れしてしまったのである。

 皇帝・皇后両陛下の斡旋の上に、見た目も悪くなく、実績も申し分なく、息子がその気になれば、キャラリス伯に何の異論があろうか。むしろ貴族仲間に自慢するほど乗り気であった。

 テリエもどちらかと言うと、相手に尽くし支えてあげたくなる性格で、精悍な軍人や、辣腕を振るう秀才官僚などよりも、どことなく頼りない年下の貴族のお坊ちゃんのほうが合っていたようだ。テリエの父ゾダ男爵などは、望外の出来事であり、「よいのであろうか、こんなこと、よいのであろうか」とうろたえて、娘に叱咤されたほどであった。

 こうして縁談がまとまり、テリエは宮中を去った。

 誰もが幸福な気持ちになった。

 たった一人、ユルベンスを除いて。

 年頃になりつつあったユルベンス少年がテリエをどう思っていたのか、それはわからない。しかし、彼女が去ったことは、大きなショックだったようだ。性格はますます暗くなり、他の侍女たちとも殆ど会話をしなくなった。

 父帝の後を継いで、皇帝に即位した後も、ユルベンスは静かに存在した。主がそうだから、宮中は驚くほどに静まりかえっていた。惑星ダス・オブラビアのカーワヤード地方総督となったブリビア男爵は、挨拶のため参内した際に、あまりの静けさに、自分は来るところを間違えたのかとうろたえ、音を立ててはいけないのだと思って緊張し過ぎた結果、皇帝の面前で脳溢血を起こして倒れ、そのまま総督を辞任する羽目になったと言われる。

 皇帝となったユルベンスは、その生涯の殆どを、大きな宮殿の中で過ごしたが、それを厭わなかった。父帝の教育方針もあって家庭教師には恵まれたことから、政治の良し悪しを理解する知能は持ち合わせていたものの、父と違い自ら臨んで政務を行うことはしなかった。また、新しく何かをやろうという気概もなかった。

 輔弼内閣からの政策案も書類で受け取り、サインをして返した。閣僚や専門家からの直接のレクチャーも、一切受けることはなかった。閣僚の中には、任命式の時以外、一度も皇帝と顔を合わせなかったものもいる。皇帝と何かしらの会話をしたことのある臣下は、それこそ数えるほどしかいなかった。

 幸いに、歴代の補弼内閣の首相や閣僚らも、皇帝と似たり寄ったりの、保守的で新しい政策を推し進めるような人物ではなかったため、おとなしいものだった。彼らはみな、今の体制が安定していれば良く、余計なことはしない、というのが、暗黙の了解事項だった。

 そのため貴族による専横すらもなかった。

 皇帝陛下が何も指示しないのであれば、それはそれで結構なこと。世は並べて平穏無事なり。

 ユルベンスの29年間の治世の間、帝国は、ほとんど大過なく過ごすことが出来た。皇帝が内向的だと自然もおとなしくなるのか、この間、大規模な災害はほとんどなく、経済も2代に渡る政策の恩恵によって安定しており、なんの問題も起きなかった。一方で、皇帝も、その輔弼内閣も、独創的な発想によって政策を行わなかったので、後世からは、せっかくの拡大の機会を逸したとして批判を受けることもある。

 常に指摘されることとして、戦争や災害などが相次ぐときは、人類は生存のために科学を発達させるが、そうでない穏やかで平和な時代には、科学も技術も経済も停滞する、というテーマがある。

 それが正しいかどうかは、この長い歴史を見ても明確には言えなかったが、ユルベンスの時代、科学に新しい発見や発明はなく、社会の大きな進歩もなく、経済も父帝時代までとは違い、低調になっていた。ブレイス時代は、初代の政策を踏襲しているとは言っても、その政策自体は、社会体制の大きな変革を伴っていたから、活気があった。

 それに対し、ユルベンスの時代になると、政治改革はほぼ終了し、新体制も安定してきた。その中で育ってきた貴族、官僚、学者、それに一般庶民までが、それに依存し、それを守ることをこそ大事だと考える。初代・2代の大改革を賞賛すればするほど、逆に保守的になり、それ以上の改革をしようとはしないのである。

 見方を変えると、こういう時代には、突出した人材は、単なる異端者として扱われることが多い。せっかくの才能も無駄だと思われ、果敢な行動力も余計なトラブルメーカーとみなされてしまう。そういう異彩を持つ人間にとって、ユルベンスの時代は不幸な時代であった。

 浮かばれない社会に失望し、国外へ移住していった者もいる。

 一例を上げると、

 ディヴィ子爵の当主レンヴダには、ゼイリーという一人息子がいて、後継者と目されていた。彼は大学でナノテクノロジーに関する研究を行っていた。彼は単分子炭素鋼や、触媒性ポリクラマーなどを発明し、それをもとに特定の環境では驚くほど弱いが、通常では強大なファンデルワールス力を持つ、「加工しやすくてかつ異常に丈夫な」新たな建材を開発した。彼は大学の建築学科の学生やデザイナーの友人らと、ビルや工場、都市の設計案を考えて発表した。どちらかと言うと芸術的な視野で見たプロジェクトだったが、建材自体は優秀なものだった。

 しかし、世間からは全く評価されなかった。

 そんな緊急性もないものに、なぜお金をかける必要があるのか。

 無駄である。

 そういう言葉が彼らに返って来た。彼らとしても、ここはこうすればいいという提案なら喜んで耳を傾けただろうが、ただ単に無駄と否定されてしまうとは思っても見なかった。それでも、その良さをアピールし続けてみたが、世の反応は変わらなかった。

 しまいには、貴族のご道楽、などと揶揄される始末。

 当初は評価してくれていた指導教授も、世間の反応の薄さを見ると、だんだん距離を置きはじめた。一緒にプロジェクトを立てた友人らも、徐々に熱意を失っていった。

 父親からも、いい加減馬鹿なことはやめて、次の子爵家の当主として、礼儀作法などを学べ、などと叱られた。

 これが単に貴族のお坊ちゃんなら、彼は唯々諾々として従っただろう。

 ところが彼は、これが帝国の現状、社会の停滞であることに気づいてしまった。頭が良いだけに、見えるところは見えてしまう。

 彼は思った。

「今の帝国に、自分の居場所はない」

 失望した彼は、研究をやめると、大学を中退。

 旅に出る、と残して、家を出てしまった。

 誰もが、根性のない貴族のバカ息子のわがままだと思った。国内をしばらく旅行すれば落ち着くだろう。

 ところが、彼が向かった先は、他国だった。

 数少ない国交のある国、アズデンヌ共和国へ行き、さらにそこから、フン帝国とは国交のない、クダシア公国を経て、さらにその宗主国であるディルボーン帝国へ移り、そこの国籍を取得して住み着いてしまったのである。

 彼がディルボーンに移住したのは、そこの社会的風潮として、努力を重んじる気風があったことだろう。ディルボーン帝国はフン帝国に比べると歴史が浅く、経済的にもそれほど豊かとはいえなかったが、国民は前向きなものが多かった。フン帝国からは殆ど無かったが、周辺諸国からの移住者は多く、移民を受け入れやすい土壌があったことも選んだ理由である。

 ゼイリーは、自分の持つ技術から、比較的実現しやすいものを選んで、企業や大学を回り売り込んだ。反応は上々で、資金を借りることができると、会社を起こした。従業員を雇い、生産設備を借り、事業に乗り出した。

 結論から言えば、ゼイリーの会社は、成功したわけではない。はじめはそこそこうまく行ったものの、競争の激しい社会では、真似をするライバルもすぐ出てくる。法制度も追いついていないから、特許などもあっさり盗まれ利用されてしまう。そうして追い抜き、追い越されを繰り返していくうちに、資金繰りに悪化した挙句、会社が他人の手に渡ってしまった。それでも彼はめげず、何度も会社を起こしては取られるを繰り返した。

 30年の月日が流れ、彼は経営者としての身を引き、中小企業に技術者として拾われ、その数年後に生涯を終えた。技術者、発明家としては優秀だが、経営者としての才覚は乏しかったようだ。独身で結婚もしなかったが、晩年になって、場末の飲み屋で働く30代の女と恋仲になった。その女が彼の子供を産んだ。まもなく彼が、一人住まいの社宅の一室で亡くなっているのを同僚が発見し、会社がお金を出して共同墓地に埋葬した。持病があったようだが、誰も詳細は知らなかった。まだ50代後半という年齢は、死ぬのには早すぎた。だが、彼は自分の寿命がもう残り少ないことを知っていたようだった。彼は遺産として、自分の発明した幾つかの特許権を会社に譲渡し、その代償として息子の養育費用の一部を会社に出させる契約を結んでいた。彼を拾った会社の初老の経営者も知っていたらしく、契約を了承し、残される妻子の面倒も引き受けた。

 恒星間帝国の貴族の息子としてみれば、それは不遇な人生だっただろう。しかし、彼自身は自分の人生に満足していたらしい。成功はせずとも、生きる充実感を十分味わえたのかもしれない。

 ディルボーンに移住後、ゼイリーからは、実家に連絡が来たが、それは家を継がない、というものだった。父親は怒り、悲しみ、失望して、気力を失った。息子の努力や行動力を評価しようとはしなかった。父親には父親の価値観があり、たとえ親子でも、通じないことはいっぱいあった。

 ディヴィ一族は協議して、子爵家の跡継ぎには、ディヴィの妹イリーナに婿をとって継がせることにした。イリーナには身分相応の恋人がいたが、親族の要請に押し切られて、伯爵家の次男との政略結婚を受け入れた。彼女は、自分勝手な兄を恨む言葉も残しているが、同時に兄の気持ちを理解していたから、自分を犠牲にすることも受け入れたと言われる。イリーナの結婚生活が幸せだったかはわからない。しかし、彼女の決断で、ディヴィ子爵家は廃絶されずに残った。

 ゼイリー・ディヴィの場合は、かなり特殊な展開だったろう。だが、才能が生かされず、不遇に終わった人は他にも大勢いた。まさに「浮かばれない時代」であった。逆に、こういう時代には、才能は平凡でも、要領よく立ち回れる人間は出世する。要領もまた才能といえるかもしれないが、新しく何かを生み出す類のものではなかった。

 自給率ほぼ100%であるということは、言い換えれば努力しなくても、生存できる物資は手に入るということであり、人はそのことで頭を悩ませないから、駆使することもない。貴族体制が強く、それゆえに完全な自由経済ではないことも、激しい変化のないままゆるやかに低調になっていく要因となった。

 ところで、先代の2代皇帝ブレイスには、皇后とのことで色々エピソードがあったが、実は3代ユルベンスにも逸話があった。

 ユルベンスは女性関係も地味だった。

 記録上でも、明らかに関係のあった女性は、父親によって決められた貴族出身の皇后だけで、皇后が2人の息子を産んだことで、側室をもうける必要もなかった。もっとも本人は余り性的な欲求が強くなかったらしく、2つ年上の皇后がうまく皇帝の気持ちを導かなければ、果たして子供も生まれただろうか、そう疑念を持つ歴史学者もいる。男色だったのではないか、という説も当時からあった。あるいは皇后が他の側室を設けないよう、皇帝の内向的な性格を盾にして女性に合わせず、奥向きのことを一手に支配していたのかもしれない。もっとも、そういう秘事は表立って論じるようなものでもないから、学者の間でも、酒席で語られるような類の憶測でしかない。

 貴族らは当初、側室に自分の娘を入れよう入れようとしたが、皇帝が興味を示さないので、結局あきらめざるを得なかったという事情がある。宮中の園遊会すら殆ど行われなかったので、娘を皇帝の目に留めさせることも至難の業であった。

 そんな中、アゾバード侯爵は、自分の次女エマリアを輿入れさせようと散々に画策した。

 侯爵は美男というほどではないが、比較的整った顔立ちをしており、妻も似たり寄ったりであったが、なぜかエマリアはお世辞にも美人ではなく、先祖返りでもしたのか、などと陰で揶揄された。貴族界の子弟の間では、彼女を嫁にもらうのを避ける傾向にあり、お鉢が回ってこぬよう、急いで他の娘と婚姻を進める動きが出るほどだった。エマリア自身は、自分のことをどう思っていたのかわからない。手先が器用で、貴族の娘にしては、家事全般をこなし、料理なども得意であり、結構、お嫁さん向きだったかもしれない。

 まだ適齢期ではあったのに、早くも売れ残りの予感がした父親は、彼女を皇帝の側室にできないか、と考えるようになった。首相や、宮内大臣にそれとなく話を持ちかけ、皇族らにもアピールするようになった。娘には持参金もたっぷりつけるので、などと、かなり露骨なことも言っていたらしい。

 ただでさえ評判のあまり良くない娘に、ただでさえ人見知りの激しい皇帝が、手を出すとは誰も思わず、侯爵の婚活運動は貴族社会ではある種の嘲笑を伴って知れ渡っていた。

 なかなか皇帝に目通りさせることも難しい中、珍しく開かれた園遊会で、アゾバード侯爵は娘を皇帝に引き合わせることが出来た。他にも貴族の子女が多数集まっており、親はおろか、本人たちも競いあう始末だったが、誰もエマリアを警戒してはいなかった。

 ところが、皇帝は彼女を見ると、伴っていた皇后を振り返り、この者をそなたの侍女として後宮に入れよ、と命じた。

 おそらく貴族らにとって、この一言は、ユルベンス時代最大の衝撃だったに違いない。

 皇后もそのように致します、と応え、その場でエマリアは宮中に留め置かれることになった。

 一番このことに驚き、疑ったのは、アゾバード侯爵本人だっただろう。「信じられぬ」「このようなことが起こるとは」などと、彼は当日の日記に記している。いったい自分の娘をどう見ていたのか。

 あの皇帝陛下のことだ、よほど変わったお趣味なのだろう、と半ば憤懣をぶちまけるように、貴族らはこの一件をささやき合った。

 もっとも、様々な記録を見る限り、エマリアに皇帝のお手が付いたというような様子は見られない。当然、侯爵家も権力を握る事にはならなかった。

 皇帝が貴族子女に興味を示さないので、皇帝の性癖を皆疑い、後世にまでそれはささやかれることになったが、実はそこに1つ見落とされている事実があった。というのは、そもそも親によって決められたとはいえ、皇后自身が当世第一の美女とうたわれた女性だったのである。性格的にも穏やかでかつ意志をしっかり持った人物であった。案外、皇帝が側室を持とうとしなかったのも、最も美人で気立ての良い姉さん女房に惚れていたからかもしれないのである。内向的な皇帝にとっては、相性のいい皇后であった。

 皇后が奥向きのことを自ら差配していたのは記録にあるため、その手間を少しでもやわらげるため、皇帝が気を利かして、エマリアを「雇った」という風にも考えられる。あるいはそうすることで、小うるさい貴族共に心理的一撃を食らわそうとしたのかもしれない。

 そう考えると、ユルベンスは、その内向きの精神世界では、至極まともな知能を持つ人間だったと見ることも出来る。皇帝というのはその立場上、その内面世界、その思考が奈辺にあるのかわかりにくく、しかも影で噂されるものだった。真実はわからない。

 エマリアについては、記録はそう多くはない。彼女は子をもうけることもなく、皇帝が代替わりしても宮中に残り、後宮女官長としてその生涯を終えた。晩年は4代カスペル皇帝の側室教育係のようなこともしていたようで、側室らの日記には厳格なエマリアに対する批判の文字が踊っている。果たしてエマリアは幸せだったのか。これも誰にもわからない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る