精霊と薔薇の指輪

天海りく

精霊と薔薇の指輪

 水底の砂の中に一瞬きらりと光るものがあった。

 それを求めて動くのは気泡に似た半透明の少女だった。彼女は湖に住む精霊だ。

 亜麻色の髪や白いドレスの裾をたゆたわせながら、精霊は光に近づき細い指先でそれを拾い上げる。そうして彼女は満面の笑みを浮かべた。

 光っていたのは蔓草を模した銀の指輪だった。薄紅の水晶で作られた薔薇が一輪咲いていて精霊はそれがとても気に入った。

 これは人間が指にはめるもの。

 ぱん、と泡がはじけるようにそんな思考が脳裏に浮かんで精霊は自分の実体を伴わない中指に指輪をはめる。

 それと同時にふっと体が重くなって突然半ば解け合っていた水に異物として吐き出される。

 今度はとても苦しくなり重い手足をばたつかせて精霊は上へ上へと向かう。

 水面から顔を出して緑が濃く香る空気をめいっぱい吸い込み、空を見上げた精霊はつかの間苦しさを忘れた。

 真っ青な空にまばゆい太陽。水の中で見たものとはまるで違う色はどこか懐かしかった。

「君! そんなところにいると危ないぞ!」

 景色に惚けていると切羽詰まった声が聞こえて精霊はあたりを見回そうするがまた体が水の中に引っ張られた。

 口の中に水がたくさん入ってきて今度はいくらもがいて浮かび上がれない。

 視界が闇に呑まれる瞬間、水面へ向けて伸ばした自分の指に咲く小さな薔薇がやけに鮮明に意識に焼き付いた。


***


 唇にぬくもりが触れた。暖かな温度はそのまま喉をおりて肺を満たし精霊を眠りから醒ました。

 精霊はそろそろと瞼を持ち上げ、自分を見下ろす青年の姿を柳色の瞳でぼんやり見つめる。

 さっき見た空のようできれいだと思った。水を滴らせる髪は太陽の光を吸い取った金色で、じっと自分を見つめている瞳は空の紺碧。整った面立ちは精悍だがどこか優しい雰囲気がある。それに懐かしさも覚える安心感がある。

 あるじさまは人間はとても醜いと言っていたが、どうやらそれは間違いだったらしい。

「大丈夫か?」

 怪訝そうに問いかけてくる青年に精霊は小さく首を縦に振った。

「どこの娘だ? この湖で何をしてたんだ」

 問われても精霊自身にも何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。

「指輪……」

 つぶやいて、精霊は指輪をつけた手を持ち上げる。指輪はまるで彼女のためにあつらえたかのように銀の蔦をほっそりした指に這わせ薄紅の薔薇を咲かせている。

「これを拾っていたのか。無茶なことを。危うく湖の主に喰われるところだったぞ」

 青年が呆れてつぶやくのに、精霊は人間というのは不思議なことを言うものだと思った。

 あるじさまはゆっくり時間をかけて緑の藻を食むのが大好きで、人間なんて食べない。

「立てるか?」

 青年に手を引かれ精霊は怖々と立ち上がる。ふるふると足が震えたけれど、どうにか立つことが出来た。足の裏に感じる感触は奇妙で懐かしい。

 初めて来たはずの地上はなんだか懐かしいものばかりだ。

「靴はなくしたか」

 苦笑する青年を見上げた精霊は思いの外彼が大きいことに驚く。頭一つと半ぐらいは自分と違う気がする。 

「どこかまだ具合の悪いところがあるのか?」

 あまりにも精霊がぼうっとしていたせいか、青年が訝しげに彼女の顔をのぞき込む。

「いいえ。大丈夫よ。ええっと、助けてくれてありがとう」

 自分が地上にいるのは青年が引っ張り上げてくれたからであると、今更ながら理解した精霊は礼を言う。

 青年はこれからは気をつけるんだぞ、と言いながら精霊から手を離した。

「私の名はリヒトだ。君は?」

 精霊は戸惑った。なぜなら自分には名前がないからだ。湖の生き物たちは『娘』、だとか『精霊』としか呼ばない。

 うつむいて組んだ自分の両手に視線を落とした精霊は、また指輪をはめたときのように頭の中で泡がはじける音を聞いた。

「……ローザ」

 そうして泡の中から出てきた言葉を口にすると、リヒトと名乗った青年がなるほどとうなずく。

「だからその指輪か。それでローザ、君はひとりなのか? 私の名前を聞いてもちっとも驚かないしこの国の人間じゃないのか?」

「……あなたは有名な人なの?」

 ローザが小首をかしげるとリヒトは苦笑した。

「有名、というより、この国に暮らすのならば世継ぎの王子の名前を知っているのは常識だな」

「まあ。では偉い人なのね、あなたは」

 感嘆の声を上げるとリヒトは面食らった顔をしたあと、自嘲の笑みを浮かべて偉い人か、と小さくつぶやいた。

 まるで太陽に薄雲がかかってしまったようなその様子に、ローザは思わず彼の頬に片手をのべていた。

「ごめんなさい、なにかいけないことを言ってしまったのかしら」

 困った顔のローザにリヒトが優しく微笑み、頬に添えられた手を取って外す。ただ彼女の手を下ろさせたあとも彼はその手を握ったままだった。

「いや、そんなことはないよ。……もう、森の外に出ようか。送っていくよ」

 繋がれた手のぬくもりをどこか名残惜しく思いながらローザはうつむく。

「あるじさまが迎えにくるからここで待っていないといけないの」

 別に約束しているわけではないが、元の精霊に戻れる方法をあるじさまなら知っているだろう。

「そうか。では私はもう行く……」

 そう言いながらリヒトがローザの手から丁寧に指をはがしていき、最後にのぞき込んでいた瞳からも視線を引きはがす。

 その行動ひとつひとつにローザの心は寂しさを覚えていく。

 リヒトの背が森の奥へ消えると、ローザは甘い香りのする息苦しさが残る胸に手を当ててため息をついた。

 とてもきれいで優しい人だった。もっとお喋りがしたかった。

 ローザがリヒトへそんな風に想いを馳せていると、背後の湖が大きく波打つ音がする。

 振り返れば湖から小屋ほどの大きさはあろうかという、苔生した大岩が浮かび上がっていた。

「あるじさま!」

 ローザが呼びかけると岩のそばから巨大な亀の顔が出てくる。つまるところ岩に見えたのはこの亀の甲羅である。

「はあ、やっと行ってくれたかい。精霊や、こっちへおいで」

 湖の主である亀が嗄れた老婆の声で語りかけてくるのにローザは従う。そして指輪をはめたとたん人間になってしまったことを頬を上気させて湖の主に語った。

 リヒトのこととなると潤んだ瞳を煌めかせるローザに湖の主がやれやれとため息をつく。

「人間なんてろくなものじゃないよ。王族というものはとくにね。ほら、水に入って指輪をお外し」

「……リヒトはとてもいい人間だったわ。あるじさまも会ってみればよかったのに」

 湖に飛び込んで渋々指輪を外すと、ほんの一瞬で体が水と混じり軽くなる。指輪は水底に投げ捨てることは出来ずに手に持ったままだ。

「本当はおまえがあの人間に引き上げられる前にあたしが助けてやりたかったんだけどね」

 どこか寂しげ言って湖の主はローザに首をすり寄せる。

「その指輪は捨てろとは言わないよ。地上に出たくなったなら好きに出て行くがいい。だけど、どうなるかわからないからこの湖から離れないよう気をつけるんだよ」

 優しく包むように湖の主は言う。リヒトのことを悪く言われ少し拗ねていたローザがはい、としおらしくうなずいた。

「……いやだねえ。あの泣き虫の声がちっとも聞こえないせいかなんだか昔を思い出しちまうね」

 水底の巣へと沈みながら湖の主がつぶやくのを聞いたローザは頭上を見る。

 そういえばこの頃水の粒が水面で踊る音を聞いていない。人間たちは空から水が降らないと困るというのはどこで聞いた話だっただろう。

 精霊は微睡みに任せ瞳を伏せる。

 流れる金の髪が閉じた視界で揺れる。

 リヒトと同じ髪の色だけど彼のものよりずっと長く少女だった。彼女は泣いている。

 どうか、泣かないでくださいと自分の声が頭の中で響いて、ごめんなさいとかすれた声が返ってくる。

 ローザは水の流れに任せてたゆたいながら目覚めたときには泡のように消えてしまう夢の中へと落ちていった。


***


「リヒト王子! まあどうされたの、ずぶ濡れだわ」

 リヒトが森を抜けるとひとりの波打つ漆黒の髪の女が駆け寄ってきた。大きく胸元の開いた黒いワンピースの上に、やはり黒いローブを羽織った黒ずくめの女は美しい。

「クレーエ殿こそこんなところで何を?」

「あら王子が湖に行ってしまったと聞いて心配で。まさか湖の主を退治しに行かれたのかと思って」

 言いながらクレーエと呼ばれた女は、リヒトに大きな胸を押しつけるようにしてすり寄る。それと同時に彼の服や髪は乾いていた。魔法である。

「……ありがとう」

 一応礼を言いながらもリヒトはクレーエから身をはがす。

 王宮の男たちが一瞬で虜になるほどこの魔女は美しいが、図々し過ぎるところが好きではない。

 魔女クレーエがこのトラオム王国に来たのはちょうど一週間前。雨の季節に一向に雨が降らないまま夏が訪れ、このままでは国が干上がってしまうかもしれないと憂えていたときに彼女は現れた。

「冷たいひとね。あたしはあなたの未来の花嫁なのに」

 クレーエがチェリーの色をした唇で蠱惑的に微笑んでリヒトの渋面を見上げる。

「……雨が降ったら、だ」

 雨を降らせたなら報償として次期王妃の座がほしいと、なんとも傲慢な願いをこの魔女は言ったのである。そしてリヒトの父である王はそれを了承した。

 国を潤すためならばこの愛せそうにない女を娶ることは厭わない。だが、ひとつ心を苛むものがあった。

「必ず降らせるわ。だからあなたの身代わりを見つけないと」

 言いながらクレーエが見えない扉を押すように腕を前に突き出す。彼女の指にはめられた大粒のルビーの指輪が淡く光り、景色が宮殿の中庭に変わる。

 この鮮やかに魔法を使ってみせるクレーエは、人喰いの湖の主が空腹で雨を降らすことができないのだと言った。

 本来ならば千人は捧げなければならないが、高貴な血を持つ王子であればひとりですぐにその腹は満ちて大地は潤うという。

 しかしリヒトは国王のひとり息子で生贄にするわけにはいかない。かといって千人は多すぎる。強い魔力を持ったクレーエならば、平民に湖の主が王子と錯覚する魔法をかけて最小限の犠牲で済ませられるということだ。

「犠牲はどうしても払わねばならないのか」

 花を咲かせられずに萎れかけた庭一面のピンクローズたちを見つめ、リヒトはため息をつく。

「ええ。仕方のないことだわ。でも王子の身代わりなって国を救う英雄になれるんだもの。けして悪い話じゃないわ」

 そう思えないから思い悩んでいるのだ。

 リヒトはつくづくクレーエを煩わしく思いながらひとりにしてほしいと告げる。彼女はそれに鷹揚に笑ってひらりと身を翻し姿を消した。

 ひとりになったリヒトは身をかがめてピンクローズの蕾をなでる。

 二代前にこの国の女王であった曾祖母が大切に育てていたこの薔薇たちが朽ちる頃には、麦はすべて枯れてしまうだろう。時間の猶予はもうないのだ。

 しかし城下街の外れにある森の奥の湖の穏やかで美しい湖面を見る限りでは、この凶事が湖の主によるものだとは信じられない。

 それに、あの少女。

 十六、七ほどだろうこの薔薇たちを思い出す可憐な容姿の彼女は湖に潜っていて無事だった。

 溺れていたときは湖の主に引っ張り込まれたのかと思ったが、湖に飛び込んでもなにもおらず、好物のはずの自分が縄張りに入り込んだというのに気配すらみせなかった。

 もう一度湖に行ってみようとリヒトは考え、そうして苦笑する。

 またあのローザという少女に会えるだろうかという願望がふと浮かんだのだ。

 澄んだ水に似た透明な雰囲気をもった彼女はその瞳を見つめているだけで疲弊した心を癒してくれた。あのまま連れ帰りたいと思ったほどだ。

 こんなときに見ず知らずの少女に懸想するなんてどうかしている。

 そう思いながらも薔薇を愛でるリヒトの口は知らずうちにローザと熱のこもった声を紡いでいた。


***


 なんだかとても暖かい夢を見ていた気がする。羽毛のたっぷりつまった羽布団にくるまっているような優しい夢。

 ローザは指輪をはめながら自分の思考に首をかしげる。羽布団なんていったいいつ触れたことがあったのだろう。

 まあいい。今は無性に土が恋しい。緑の香る空気もめいっぱい吸い込みたい。

 人間の姿を得たローザは陸に上がり、草の絨毯に仰向けに寝転ぶ。昨日と同じで今日もきれいな青空だ。

 でもここ数日毎日やってくるリヒトはいなくて少し物足りない。

 今日は来ないのだろうかと、胸をちくりと刺す痛みを紛らわすためにローザは起き上がり湖の周りを歩き始める。ただ歩くという行為がとても楽しかった。ぐるりと一周したとき、足音が聞こえて期待する。

「……ローザ」

 森の中から現れたのはリヒトで、ローザは満面の笑みを浮かべて駆け寄る。

「不思議ね。あなたに会いたいと思ったら本当に会えたわ!」

「私もだよ。君は今日もずぶ濡れだね。ほんとうに毎日水遊びしてるんだな」

 柔らかく微笑んでリヒトがローザの濡れた亜麻色の髪をなで、湖に視線を向ける。

「この国に雨が降らないのは、人喰いの湖の主が飢えているせいだときいたんだがな。本当に飢えているなら君はとっくに食べられていないとおかしいんだ」

「そうなの? 全然平気よ、だってね」

 リヒトと並んで水辺に腰を下ろしたローザはこの湖の主は藻しか食べないことや、雨を降らす泣き虫うさぎのことをリヒトに話す。

 本来ならばあまり人間に教えてはいけないことだろうが、優しい湖の主が悪者になるのは辛すぎる。

「……君はどこでその話を聞いたんだ」

 至極真剣に話を聞いていたリヒトに聞き返されてローザは少しうろたえた。

「え、えっと、あるじさまに! あるじさまは何でも知っているのよ。でもひとつ知らないことがあったわ」

 人間でも特に王族は醜くていやな人ばかりと言っていたけれど、と湖の主に聞こえないように声を潜めてローザはリヒトの耳元に花びらの唇を近づける。

「あなたはとても綺麗ですてきないいひとだわ」

 そう耳打ちしたローザが透明なまなざしでリヒトを見つめはにかむ。

 たった五日ほどだけれど、彼はたくさん自分の事を話してくれた。

 甘い物が好きで、雨上がりの土の臭いが好きだけれど蛙は少し苦手だとか、いつまでたっても出会ったばかりの恋人同士のように睦まじい両親のこととか。ちょっと口うるさい教育係の老人の髭は見事なものだから一度見る価値があること。それから冬に料理長の林檎のパイを一緒に食べたいとか。

 そして最後に彼は言うのだ。素敵なものや大好きなものがたくさんあるこの国を統治者として立派に治め民を幸せにしたいと。

 彼にはきらきらしたものいっぱいつまっていて側にいるだけで幸せになれる。

「それは、君の方だよ。君ほど私の心を清らかに洗い流してくれるひとはいないんだ。一度、城に来ないか? 君のあるじさまにもいろいろ聞きたい」

 ローザの主人がいろいろな国を旅する商人の老婦人だと勘違いしている、リヒトの真剣な瞳にローザは表情をこわばらせる。

 彼は自分の事をたくさん語ったのに、自分は嘘しか言っていない。

 真実など告げられるはずがないから仕方ないことだけれど、それでも心苦しい。

「……すまない。困らせてしまったみたいだね」

 リヒトが苦笑してローザの頬を指の背で撫でる。その優しい仕草にうつむいていたローザは顔を上げた。

「いいえ、ごめんなさい。あるじさまは王族が嫌いだから……あなたに会ったらきっと変わると思うけど」

「そうだといいな」

 つぶやいてリヒトが立ち上がる。

「もう、帰ってしまうの?」

 やはり彼の機嫌を損ねてしまったのだろうかと、ローザは寂しさと申し訳なさで表情を曇らせる。

「ああ、城に帰って父上と話し合わねばならないからな」

 それに、と付け加えてリヒトはローザの手を取り恭しくその手の甲へ口づけを落とす。

「あまり一緒にいると君を無理に連れ去ってしまいたくなる」

 顔を上げて微笑むリヒトにローザは頬を真っ赤に染めた。

 心臓が壊れてしまうんじゃないかと思うぐらい激しく跳ねて、口づけられた手の甲も熱い。

 最初にあったとき、溺れた自分を助けるために彼が唇を重ね吐息を分けてくれたことまで思い出してしまいローザは恥ずかしさに窮してしまう。

「ご、ごめんなさい。なんだかすごく、私、変だわ」

「君は本当に可愛いな」

 たどたどしく言うとリヒトが楽しげに笑った。

 そのすぐ後、明るく和やかな空気を吹き飛ばすように乾いた風が吹きすさんだ。

「このごろひとりで出かけていると思ったらそういうことなのね」

 風とともに現れた黒衣の女の纏う魔力のおどろおどろしさに、ローザは身をすくめてリヒトにあれは誰、とすがりつく。

「クレーエという私に湖の主が人喰いだと教えた魔女だ」

 ローザを護るようにしっかりと抱き寄せてリヒトがクレーエを睨む。

「……湖の主は腹を空かせているのではないのか? 私も彼女もこの湖に入ったがなにも起こらなかった」

 リヒトの詰問にクレーエが肩をふるわせて笑う。

「それはそうよ。だってその娘は人間じゃないもの。百年前に王女さまの代わりに捧げられた子でしょう。自分を身代わりにした王家を呪ってあなたを水底に引きずりこむ気よ。さあ、危ないからその子から離れて」

 この人はいったい何を言っているのだろう。

 リヒトに戸惑いの視線を向けられたローザは首を横に振る。

 だが頭の中ではいくつもの泡が浮かび上がっては弾けて、いくつもの像や声がぐるぐると回る。

 寂しがりやの王女様。いやよ、と何度も首を横に振ってそのたびに真珠のような涙をたくさんこぼしていた。

「あ……」

 ローザはリヒトから離れよろめく。

 百年? あれからそんなに経っているの。ああ、でも。

「よかった。あなたは王女様にそっくりだわ。ちゃんと王家は続いてるのね」

 水底に沈むときに願った思いはちゃんと叶っている。それなら魔女の言った雨のことは嘘でもそれでもいい。

「ローザ……」

 湖の縁に佇んで幸せそうに微笑むローザを呆然と王子が呼ぶ。

「だまされないで! その子の言うことは全部嘘よ!」

 クレーエが言葉とともに、さっとルビーの指輪がはまっている手を振り上げてカラスを出現させローザにけしかける。

 しかしそのくちばしが彼女の柔肌を突く前にリヒトが再びその体を抱き寄せて庇う。

「私はローザを信じる。悪しき魔女め、王妃の座欲しさに雨を奪ったのはおまえか」

 リヒトの言葉にローザの胸がつまった。

 自分の身の上のことは嘘を重ねていたのに信じてくれているリヒトの優しさが嬉しい。

「思慮深いのも考え物ね。まあいいわ、こっちにだってまだ手はあるんだから。さあ、王子、こっちへいらっしゃい」

 艶然とクレーエが笑み、周りの木々がざわめき漆黒に変わる。無数のカラスだ。いくつもの黒い目がリヒトとローザを狙う。

 カラスたちが羽ばたいてリヒトがローザを護らんと体を離した瞬間のことだった。

「ローザ!」

 ふいに激しい水音ともにローザは湖に引っ張り込まれる。

 リヒトが伸ばした指先が彼女に届くことなかった。


***


――いやよ。ローザがいなくなるなんていや。血は繋がってなくてもローザはわたくしの姉様なのよ。

 乳姉妹である王女はローザが身代わりの生贄に選ばれたとき、駄々をこねる子供のように泣き続けていた。

――姫様、両親も兄弟もない私をそう思ってくださる優しいあなたのためだから死ぬのは怖くありません。だからどうか泣かないで。あなたはいつまでも幸せで微笑んで国を照らしていてください。

 王女が胸に顔を埋めてくっるとローザは柔らかい金の髪をなでてあやす。王女の母親である王妃が亡くなってすぐに乳母をしていたローザの母も没した。

 まだお互い七つ、八つほどで幼く寂しさを埋めるようにいつも一緒にいてそれが当然だった。

 お互い十六の誕生日が近づき、どんな素敵な相手に巡り会えるかなどと恋を夢見てささやき合ったのはほんの二月前だというのにひどくその頃の思い出が遠く思えた。

――本当は誕生日にあげるつもりだったのよ。

 湖に沈められる当日、泣きはらした目をして王女はローザの中指に水晶の薔薇の咲く指輪をはめた。

「百年なんて嘘みたいだわ」

 湖に落ちたときに意識を手放し過去へと彷徨っていたローザは目覚めると同時にそうつぶやいた。

 精霊になってから時間の感覚がなくなったせいか、人間だった頃の最後の記憶はつい昨日のことのように思えた。

「…………あたしは人間なんて大嫌いで水底にずっといてね、地上の騒ぎになんて気づきやしなかった。でも魔法をかけられたお前が落っこちてきたときはびっくりしたよ」

 クレーエから護るべくローザを湖に引きずりこんだ湖の主が彼女に寄り添い囁きかける。

「もう心臓も止まってしまっていて面倒だと思ったけど、人間にしちゃお前の魂はきれいだったから珍しく同情しちまったんだ」」

 湖の主はそれから指輪にローザの体を閉じ込め、魂は精霊へと変えたと語った。

 百年の歳月で魔力の馴染んだ魂と肉体は再び引き合い、ローザは人間に戻れるようになったということだ。

「私が指輪をはめたのは偶然ではなかったのね」

 手に握った指輪にローザは王女の泣き顔を思い出し、それが昨日見たリヒトの陰った表情がよぎる。

 彼はどうなっただろう。魔女の望みが王妃の座であるかぎり無事ではあるだろうが、はたしてこの先どうなるのか。

 震えるローザの胸に呼応するかのように遙か頭上の水面が振動する。水滴がタップを踏んでいるのだ。

 それはつまり、雨。

「どうして……」

 ローザは頭上を振り仰ぎながら不安げにつぶやく。

 リヒトがクレーエを説得したのか。いや、あの恐ろしいほど魔力の高い魔女がそれほど簡単に諦めるはずがない。

 魔女が望みを叶えてしまうことを考えると胸が痛くて苦しくて、最後にはたまらなく寂しくなる。

 ローザが肩をふるわすと、湖の主が目を細める。

「……辛いだろうね。魔女に利用されたあげくにとうの王族はお前がここに沈められたことさえ覚えてないなんて」

「違うの。そのことはもういいの。ただ、リヒトがあの魔女の思い通りになってしまうのが苦しいの」

 そう思いを吐き出すと湖の主がため息を吐いてごぼりと水を泡立たせる。

「仕方のない子だねえ。そんなにあの人間が気に入ったのかい」

 ローザはこくりとうなずく。

「あの人を助けたいの。あるじさま、なにが起こったのかわかる?」

 湖の主はやれやれと甲羅の中に顔を引っ込める。そしてまた顔を出したかと思うと何かきらめくものを口にくわえていた。

 ローザはそれを渡される。光る円盤状のものを見ると自分の顔が写りこんでそれが鏡だと知れた。

「ほら、あの王子のことを考えてごらん」

 言われたとおりにリヒトの事を思い出す。

 光をたっぷり吸い込んだ金色の髪、宝石みたいなな青い瞳。心を優しくなぜる声。それから温かい手。

 じんわりと手元の鏡が熱を持って、表面が揺らぎ城のバルコニーに立つリヒトが写る。彼の側ではクレーエが寄り添っていてローザの胸が締め付けられた。

 鏡の向こうから音が聞こえてくる。

 湖の主を倒した勇敢な王子。それを助けた美しい魔女。王と王妃は喜びふたりの結婚を国民に宣言する。

 王宮の広場に集まった国民らはずぶ濡れになりながら、雨と王子がよき伴侶を迎えたことに歓声を上げる。

「なんだい、丸く収まってるじゃないか。あの王子も実に嬉しそうだ……でも、変な魔力が絡みついてるね。それに、あの泣き虫はたぶんまだ城にいる」

 鏡を覗き込んだ湖の主がそうつぶやく。

 魔力のことはローザにはよく分からないが、リヒトの笑顔はどこか不自然だった。

「どうすれば……」

 救いを求めてローザは湖の主を見る。

「お前ならあの泣き虫の声も聞こえるだろう。でもね、ここから離れるのは危険だよ。今度こそ消えてしまうかもしれない。よくお考え。あの王族にまたお前が命をかける価値があるのかい?」

 優しい声だった。

 ばかばかしいと突き放すのではなく、心底心配して引き留めてくれていることが痛いぐらいよく分かる。それでも心は決まっていた。

「あるじさま、ごめんなさい。私、行きます」

 ローザは決意を秘めた柳色の瞳で湖の主を見据える。

「……仕方のない子だね。いいかい、日暮れまでだよ。あたしの力は太陽の加護を受けていて、夜になるとどうなるか分からないからね、っと」

 湖の主はいいながら自分の側にある大岩を、さらにそれより二回り大きい自分の巨体で押しのける。そこには子供がやっとくくぐり抜けられそうな穴が空いていた。

「ここからお行き。たぶん城のどこかにはたどり着けるはずだよ。ああ、その鏡も持ってお行き。鏡越しでも王子にかけられた魔法を解くことぐらいはできるだろうから」

「ありがとう! 必ず戻ってくるわ」

 ローザは湖の主の頬に口づけて穴へと体を滑り込ます。

「出来れば、帰ってくるようなことがないといいんだけれどね。あの王子次第か」

 その姿を見送った湖の主は寂しげにそうつぶやいたのだった。


***


「少し、疲れたわ。部屋に戻ってもいいかしら」

 祝福の歓声を浴びながらバルコニーから部屋の中に戻ったクレーエが微苦笑すると、隣にいるリヒトは恋人を見守る目を優しく細めてそうするといいよと答えた。

 彼の様子に記憶封じは上手くいっているようだとクレーエはほくそ笑む。

 祖母の日記を見つけたのが事の始まりだった。魔女としての才覚を有り余らせていた祖母は、気まぐれに雨を降らせる精霊を捕まえて、当時のこの国の王相手に嘘を並べ立て多額の報償を得たことを実に細部にわたって書き残していた。

 そして身代わりにした娘のことを気にかけて塞ぎ込む王女の記憶封じで、さらに報酬を上乗せして貰ったことも。

 これを使わない手立てはないと思った。

 祖母ほどの魔力は持ち合わせていないが、精霊を捕まえることには成功した。後は報酬をと思ったが、一度でもらえる宝石と金貨には限りがある。

 昔は王女だったが、今は王子。一生贅沢して暮らそうとおもうなら王妃になればいいのだ。

 そして計画を遂行としようとしたのだが、まさか身代わりの娘が精霊となっているなんて思いもしなかった。

 おかげで計画が台無しだ。

 あの王子は魔法に耐性があるようなので記憶封じはそう長く持たないだろう。さっさと結婚式を挙げて少しの間王妃の立場を楽しんだら、適当に金貨や宝石をくすねて逃げるしかない。

「ほんと、最悪」

 ひとりになったクレーエは自分に与えられた部屋に向かう途中の廊下で毒づく。

 そのとき、使い魔であるカラスが窓の外で騒がしく鳴いているのが聞こえた。

「ふうん。無茶をする子ねえ……」

 耳を澄ませてみればどうやらあの精霊が城に潜り込んだらしい。

 クレーエは唇を舐めて部屋に入るのをやめ、城の東にある塔へと足を向けた。


***


 ローザは指輪をはめて、雨の波紋が広がる水面から顔を出す。

「お城の東の池、ね」

 芝草の敷かれた場所に上がってローザは懐かしい景色に目を細める。王宮のそれぞれ高さの異なる三角の屋根が西側にいくつか連なっていて、東側には円筒状の高い塔が見える。

 何もかもが記憶のままだ。

 思い出に少しばかり浸っていたローザは、雨音に紛れる泣き声を聞いてはっと顔を上げる。

 よく注意しなければ聞こえないほどだが、確かに聞こえる。

 目を閉じて耳を澄ませば東側のどこかから声がしている。暗闇の中の紺色の糸をたぐるようにして声を追うが、途中わめき立てるカラスの声に邪魔をされた。

「あの魔女のカラスだわ」

 ローザはつぶやいて身をすくませる。

 きっとあのカラスたちは自分たちの主人に侵入者のことを告げているに違いない。

 急がないと、と走ろうとするとまだ歩くことに慣れきっていないせいか、足がもつれて転んだ。

 手に持っていた鏡が無事でローザは安堵しながらか細い泣き声を追いかける。

「上、かしら」

 雨が降り注いでいるせいで上から聞こえているだけなのかもしれない。

 ローザは迷いに足を止めるが、すぐに考えている暇はないと歩き出す。古びた木の扉をひらくと錆びた蝶番が不気味な悲鳴を上げる。

 おそるおそる中へ入り、石の螺旋階段を転がり落ちてくる泣き声にそのまま上へと進んだ。息を切らせて頂上の部屋にたどりつくとその真ん中に両手で一抱えほどの鳥籠があった。

 中にはおおきな毛玉が入っていてローザはきょとんとした。

「うさぎさん……?」

 声をかけると毛玉からぴょこんと耳が飛び出た。薄暗い中よくよく目をこらしてみればつぶらな瞳があって、そこの周りの毛だけぐっしょりぬれている。

「なんてことでしょう。かわいいお嬢さんこんな暗いところに泥まみれでずぶぬれなんてかわいそうに……」

 紳士の声でそう言いながら毛玉のようなうさぎの姿をした雨の精霊はめそめそと泣く。

「大丈夫よ。服はすぐに綺麗になるわ。ずぶ濡れなのは私が湖の精霊だからよ。それよりあなたを助けに来たの。ここから出ましょう」

「まあ、なんて親切なお嬢さんなんでしょうか。でも危ないですよ。魔女が居るのです。私の巣穴を見つけて引きずり出したあげくこんなところに閉じ込めた恐ろしい魔女が!」

 毛をさわさわと震わせてうさぎが戦く。

「わかっているわ。魔女が来る前に行きましょう」

 ローザは籠を開けようとするが鍵がかかっていた。彼女は鏡に向かってあるじさま、と声をかける。

 すると薄暗い鏡の向こうに湖の主が現れる。

「ああ、鍵かい。雨を降らすのに緩めてあるのは分かるんだけどこれは直接じゃないとむずかしいね」

「うさぎさん、もう少しこのままでいい? あ、水の中は平気?」

「少しぐらいは我慢できます。水は平気ですよ精霊ですから」

 それなら問題はないだろう。魔女に見つかる前に早く池に飛び込んでしまわないと、と下まで降りたローザは扉を勢いよく開ける。

「そんな……」

 そして目の前に広がる光景にそうつぶやいた。

 塔の外には槍の穂先を自分に向ける城の衛兵達がいたのだ。彼らは一分の隙もなく池への道を塞いでしまっている。

 鈍く光る切っ先に少しやんでいた雨がまた強まる。

「さあ、大人しくそれを返しなさい」

 兵達が道を空け、そこから漆黒の魔女が現れ艶やかな笑みを浮かべる。

「あなたのものじゃないわ。鍵を開けて巣に帰してあげて」

 素直に見逃してくれないと分かっていながらもローザは籠をぎゅっと抱きしめてクレーエに懇願する。

「駄目よ。湖の主の魔力を閉じ込めたそのうさぎが居ないと雨がまた降らなくなってしまうもの」

 クレーエはさも真実のように嘘を並べ立てた。周囲の兵士達は無言で穂先と同じ鋭い視線でローザを見ている。

 逃げるすべはない。

「彼女はあれを返してくれるつもりはないのか」

 退路を断たれたローザの耳に届いた声は愛しい人のものだった。

「ええ。そうみたい。困ったわ」

 再び兵が道を空けた先からやってきたリヒトに、クレーエが甘える仕草で寄りかかる。

 そのふたりの姿にローザの胸はきりきりと締めつけられた。

「リヒト、お願い目を覚まして! その魔女の言うことは全部嘘よ」

 必死に訴えかけるローザからリヒトが目をそらす。

 ローザは悲しげに眉を寄せてちいさな声で湖の主を呼んだ。しかし返事はなく、真っ暗闇に突き落とされた気分になる。

 ここは自分でどうにかしないとと思うが、魔女に近づこうとすれば槍は容赦なく自分を突き刺すだろう。

「もう、おしまいよ」

 クレーエが歩み出る。

 彼女から近づいてきてくれればどうにかなるかもしれないとローザが考えていると籠のうさぎが小さく指輪、とつぶやいた。

 そしてローザの視線は魔女の指にはまっているルビーの指輪に向く。

 魔法を人間が使うときはなにかしらの媒体を必要とする。多くの魔法使いは伝統によって杖を用いるが、若い魔女は指輪を杖代わりにすることが多い。

 あれさえ奪えばどうにかなるかもしれない。

「クレーエ、危ないから私が行くよ」

 だが、リヒトがクレーエの手を握りその歩みを止めてささやかな希望は打ち砕かれた。

 ローザは籠を強く抱きしめて後ずさりする。

 こんなところで終わりにしたくはない。でもなす術はもうない。

「そうね。お願いするわ」

 勝利を確信した瞳でクレーエがリヒトに微笑み返す。しかしすぐにクレーエの表情が訝しげなものに変わる。

 そしてリヒトがローザに視線を向けて微笑んだ。

「捕らえろ!」

 次の瞬間リヒトは表情を厳しいものに変え、研ぎ澄ました声を雨音を裂き辺りに響き渡させる。

 それと同時に一斉に兵達は槍をつきつけた。

 リヒトに突き飛ばされ、地面へ倒れたクレーエへと。

「ローザ、おいで」

 一連の様子を目を丸くして見ていたローザは、優しいリヒトの声に我に返る。

 雨の中でも笑顔は太陽のようで、間違いなく彼だった。

「どうして……」

 兵達に腕を後ろ手に縛られてその場に座り込むクレーエが悔しげにつぶやく。

「君は、確かに強い魔女のようだけど私にかけた記憶を封じる魔法は完璧ではなかったんだよ。最初記憶が少し混乱したが、すぐに何もかも思い出していたんだ。記憶が戻った時に君を捕らえてもよかったんだが、雨を降らすうさぎを見つけて」

 一度言葉をそこで切ったリヒトは握っていた掌を広げ、そこにあるルビーの指輪をクレーエに見せる。

「これをどうにか奪おうと思ったんだ。君は魔法の杖の代わりに指輪を使っていたようだからね」

 リヒトの考えが分かってローザはほっとする。

「よかった。あなたは魔女の魔法に打ち勝ったのね」

「ああ。そうだよ。でも驚いた。まさか君が来てくれるなんて思ってもみなかったよ。この国はまた君に救われたんだな」

 髪を撫でるリヒトの手はとても優しくてローザは、胸にわく温かい気持ちに口元を綻ばせる。

「……あの、大変恐縮ですがおふたりとも早く私をここから出してもらえないでしょうか」

 見つめあうふたりの間にいたうさぎがおずおずとそう告げた。

「そうだわ。ごめんなさい。急ぎましょう」

 泣き止んだうさぎのおかげで頭上の空にかかる雲は千切れ千切れになって、隙間から紫がかった赤い色が見えている。もうすぐそれは深い藍色に変わるだろう。

「ローザ、今度は私に会いに来てくれるかな?」

 リヒトがそう告げるのに、ローザはうつむく。

 出来ることなら毎日会いたい。でも、彼は人間で自分は精霊。生きる時間が違う。

「……ごめんなさい。これが最後よ。私は湖の底に戻らないといけないの。あなたに会えてよかった。ずっと忘れないわ」

 さようなら、と精一杯微笑んでローザは身を翻えしてリヒトの呼び止める声をふりきり、池へと駈け出す。

「ローザ!」

 リヒトの声に振り向くことはできなかった。

 だから、ローザは背後にカラスが迫っているのに気づくのが遅れた。

 カラスがローザの手をつつき籠と鏡から手が離れると同時に指から薔薇の指輪をかすめ取る。そしてそのままどこかへと飛び去ってしまう。

 ローザがその行く先を見ることはなかった。

 彼女はその場に倒れ、呼吸を止めていた。


***


「ローザ!」

 リヒトは倒れたローザに駆けよってその体を抱き上げる。

 雨に打たれるその体は冷たく、肌は色が抜けおち透き通るように白い。なにより青紫色をした唇が濃密に死を語っている

「指輪がなくても、使い魔ぐらいはどうにかなるのよ!」

 捕らわれた状態のままのクレーエが不快な哄笑をあげる。兵士達が彼女を塔へと押し込めるあいだもその笑い声は続いた。

 残されたリヒトはローザを抱きしめて唇を噛む。

 彼女が駈け出す前に抱きしめて腕に閉じ込めておけばよかった。そうすればこんな事にはならなかっただろうに。

「人間や」

 不意にローザのすぐ側に落ちている鏡から声が聞こえた。

 リヒトがそれを覗き込むと亀の顔があった。きっとこれが湖の主なのだ。

「すまない。私は、ローザを救えなかった。二度も救われたのに、王家は二度も彼女を死なせてしまった」

「……愚かだね。本当に愚かだよ。お前達王族も、そんな王族のために二度も命をかけるその娘も」

 湖の主の言葉は厳しいが、声には悲しみがあふれていた。

「湖の主よ。また彼女を精霊にして生かしてやることは出来ないのか?」

 一度出来たならもう一度出来るかもしれないとリヒトは湖の主にすがる。

「お前はその娘にまた永遠の生を与えて水にたゆたわすことを望むのかい?」

 湖の主の問いにリヒトはローザと出会った日のことを思い起こす。

 その日のうちに無邪気な彼女に恋をした。逢瀬を重ね彼女の美しさを、愛らしさに触れるたびに想いは膨らんでいった。

「……出来るのなら彼女と共に生きたい」

 閉じたローザの瞳を見つめながら願いをこぼす。

 彼女の柳色の澄んだ瞳を永遠に自分のものに出来たならとどれだけ幸福なことだろう。

 だがそれはあまりにも欲深い望みであることはわかっている。だからせめて彼女が幸せに湖で暮らせるのならそうしたい。

「お前になら出来るかもしれないよ。一度その娘を助けただろう。そのときあたしの魔力をすこし取り込んだせいであの魔女の魔法が効きづらかったんだ。まだ、あたしの魔力はお前の中に残っている。……人の想いは強い魔法にもなりうる。お前が本当にその娘を愛しているならばあたしの魔力を増幅させてその娘はまた人として生きていけるはずだ。さあ、最初の時のように口づけをしておあげ」

 湖の主の声は柔らかく透明だった。

 過去の王家の罪を許されたのだと、リヒトは感謝の意を持って鏡に映る湖の主に深く頭を垂れた。そしてローザの顎を持ち上げる。

 自分の胸にある想いは誰にも揺るがせない真実だ。奇跡は必ず起こる。

「愛しているよ、ローザ」

 リヒトは初めて出会ったころのように、その瞳が開かれると信じて冷たい唇にそっと熱を分け与えた。


***


 雨上がりの王宮の中庭は水晶の粒を散りばめたように光り輝いている。

 中でももっとも美しくあるのは満開のピンクローズだった。その花によく似た水晶の薔薇が飾られた指輪を薬指にはめた小さな手が花弁を慈しむ。

「今年も綺麗に咲いたわね、リヒト」

 薄青のドレスに身を包んだローザは背後に立つリヒトに微笑みかける。

 あれから一年になる。

 王女から貰った指輪は消えてしまった。カラスがどこへ持ち去ったかは分からないが、ローザの肉体が元に戻ったことで、指輪は役目を終えて消えてしまったのだろうということだった。

 代わりにリヒトは新しく薔薇の指輪を作り、求婚の言葉と共に薬指にはめてくれた。そしてリヒトと結婚してめまぐるしい幸せの中で時はあっという間に過ぎた。

 うさぎも湖の主によって檻から解放され、あの魔女も遠い異国の魔法使いが引き取り二度と魔法が使えないようにしてもらえることになった。

 自分たちの幸せを脅かすものはもうなにもない。

「ひいおばあさまに君のこの姿を見せてあげたいな」

 傍らで優しく目を細めるリヒトは、魔女に記憶を封じられても心のどこかにローザの存在を覚えていてこの薔薇を植えたのかもしれないと少し前に言った。

 あの王女ならきっとそういうことなのだろうと思いながら、ローザはゆっくりと立ち上がり、リヒトがその肩を抱く。

 そのまま寄り添ってローザはそのぬくもりに口元を緩める。

 湖の主はもとからリヒトにあまり魔法が効いていないのを分かっていたらしい。鏡を持たせたのは自分が人間になれるようにするためだった。

 自分は湖の主の優しさとリヒトの真実の愛によって、再び人として生きられることになった。

――幸せにおなり。

 最後にそう言って湖の主は水底へと帰っていった。

 水底の巣での穏やかに暮らせるように湖に人が近づくことを禁じ、その理由と共に後世へと伝えて欲しいとリヒトに湖の主は望んだ。

 湖の主と会うことはもう二度とないだろう。

――あるじさま、私とっても幸せよ。

 ローザは心の内で心優しい湖の主へとそう語りかける。

 きっとこの先もずっと幸せだろう。

 愛する人が側に居るのだから。そしてまた宝物が出来たのだから。

 ローザは新しい命を宿しわずかに膨らみ始めた自分のおなかを指輪をはめた手で撫でる。そしてその手を重ねるリヒトと見つめ合い、幸福に満ちた口づけを交わした。


 

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精霊と薔薇の指輪 天海りく @kari

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