童話の国のアンデルセン
夏島臙脂
旅の始まり
第1話 君の旅立ちに祝福を
とある世界に、丸くてそれなりに大きな国がありました
その国では、東西南北と真ん中に一人ずつ王様が住んでいます
しかし、この国のすべてをひとまとめにできる存在がありました
彼は人々から「アンデルセン」と呼ばれ、愛されています
この国を治めるのはアンデルセン
ずっと昔からそれは変わりません
その魂は死とともに次のアンデルセンへと受け継がれる
アンデルセンの死は、新たなアンデルセンの誕生
その子は国を旅し
たくさんの人々を救い
この国を治めるに足る器を得るのです
他の王たちは
その子が成長するまでの間の穴埋めといったところでしょうか
それ、見なさい
今まさに古きアンデルセンが眠りにつこうとしています。
それは遥かなる眠りです
途中で覚めることのない、邪魔されることのない、大いなる夢です
終わりなき旅の始まりです
この国の真ん中にある最も綺麗で大きな町の、
ゲルダの塔と呼ばれる塔の一番上の部屋で、
彼は静かに目を閉じました
すると
ああ、何ということでしょう
彼のまわりに、塔の上に、幾人もの天使が舞い降りました
彼の魂を次の命へと受け継がせるためです
塔の周りの人々は、しっかりと手を組み、祈ります
彼の死を悼むために
次の命を祝うために
そして、すべての天使が天へと帰ると
「新しき国の王、アンデルセン誕生に万歳!」
「アンデルセンに乾杯!」
「次、またゲルダの塔へいらっしゃることをお待ちしております!」
さあ、今日は葬儀であり祝祭です
我々も悼みましょう
祝いましょう
今まさに
この物語の幕は上がったのですから
さあ、よくあるお話しですが
これより
はじまりはじまり。
国の東の果てにある、小さな村に、小さな家がありました。
そこへ、一人の少年が向っています。
金色の髪を春の風になびかせ、碧い瞳を輝かせて、唇からは美しいボーイソプラノを鳴らしながら少年は駆けてゆきます。
ギィと鈍く音を立てて、ドアが開きました。
「父さん、もう春だよ。」
少年は嬉しそうに、手籠にたくさんの山菜をもって言いました。
「そうか。やっと春がきたか。」
ベッドの上で、父親は優しく笑います。
「うん。今年も忙しくなりそうだね。」
「畑、か。」
その微笑みが少しだけ曇りました。
彼の体を蝕む病魔は、もうすぐそばで、彼の眠りを待っていました。
「どうしたの、父さん。
あ、昨日もゴードン神父に頼んでお祈りをしてきたよ。
早く良くなるといいね。」
少年は、手籠を机に置いて父に笑いかけました。
「ハンス。」
彼は、息子の名を呼び、もう動くこともままならない手で手招きのようなものをしました。
「なに?」
「今から言うことを、よく聞きなさい。」
「……はい。」
「私が死んで、葬式を済ませたら、このベッドの下に今まで貯めた金が入っている袋があるから、それをもって中心の町へ行きなさい。
ちゃんと、旅の準備を忘れるなよ?
中心の町には私の兄の、ナルザがいる。彼のもとへ行きなさい。きっと助けてくれる。
お前ならきっとたどり着けるから。」
「父さん、お願いだよ。まだ……神様、どうか、どうか父さんまでも連れて行かないで……!連れて行かないでください!」
さあ、迎えが参りました。
黒い外套に身を包んだ老人が、彼のもとへと現れました。
「ああ、死神様。大したおもてなしもできないことをお許しいただきたい。
ですがどうか、安らかな眠りを、妻の……、アリシヤのもとまで……。」
「承った。さあ眠れ、お前は役目を終えたのだ。」
低く優しい声が彼を包みます。
少年は泣いていました。
声を抑えて、静かに、静かに泣いていました。
「そこの、まだ迎えの遠い子供よ。」
優しい声が、少年を呼びました。
「僕、ですか?」
「ああ、そうだ。名は何という?」
「ハンス、といいます。」
「年は?」
「昨日で、13になりました。」
少年は、ハンスはうつむきがちに答えました。
「そうか、お前が……。
ハンスよ、お前はいつまで下を向いている?
人の死は永遠の別れではない。
新たな旅立ちだ。
たとえ国の王アンデルセンでなくとも、その魂は、受け継がれるのだ。」
「では……、父さんはいったいどこへ……!?」
「それはほれ、お前のここにいる。」
すらりと長い指が、ハンスの胸を指さしました。
「お前が父を忘れぬ限り、お前の父はお前の心にいるのだ。」
「僕の、心?」
「ああ。
さあ、立ち上がれ。お前には使命が待っている。
お前の行く旅路は、人生は、困難に満ちている。
いつまでもこの家にいるわけにはいくまい。
生きる限り、永遠の孤独を味わうことはそうそうありはしないのだ。」
そういうと、黒い外套が静かに揺れて、父の魂を連れていきました。
一人きりになったハンスは、暫く呆然として立ち尽くしていました。
しかし、いつまでも父を弔わないわけにはいかないので、大急ぎでゴードン神父の教会へと向かうのでした。
事情を聴いた神父は、心底残念そうに肩を落としました。
「そうか、トーマスにも迎えがいらっしゃったのか。」
「はい。僕は、父の遺言で葬儀を済ませたら中心の町へと向かわなければなりません。
ゴードン神父、どうか父さんの墓に僕の分も花を手向けてもらえませんか?」
「もちろんだとも。ハンス。」
ハンスの父、トーマスは大変医療に優れていましたから、村では医者として重宝されてきました。
また、ちょくちょく教会で子供たちに読み書きを教えていたのもあり、彼への信頼はとても厚いものでした。
息子のハンスもまた、生まれたときは皆が大喜びしました。
母親であるアリシヤがすぐに死んでしまったことや、ハンス自身の性格の純粋さもあり、ハンスは村の人々からまるで自分の子、孫、兄弟のように親しまれていたのです。
葬式は厳かに、しかし大勢によって行われました。
たくさんの人々が涙を流す中、ハンスはただ一人、涙が出ることはありませんでした。
自分でもすこし驚いたのでしょう。
ただ、今にもそこらへんの木の陰から、ひょっこり顔を出して
「おや、みなさんおそろいで。どなたか亡くなられたのですか?」
などと言いそうで、どこかでそれを期待している自分がいるようで、涙がうまく流れません。
「ハンス……、きっとトーマスさんの死が受け入れきれないんだねぇ。かわいそうに。」
「あんなに呆けた顔のハンスを、わしゃあ初めて見たぞ……。」
「いつも気丈なあの子が……。」
「母さん……、ハンスは本当に旅に行ってしまうの?」
「ええ。大丈夫かしら……。」
口々に囁かれる言葉は、ハンスの耳には届きませんでした。
朝露が名残惜しそうに髪を濡らしました。
朝靄が旅立ちを祝うように少しずつ晴れてゆきます。
背の荷物の半分は、父が残してくれたお金です。
心が揺れぬよう、村人たちは静かに家の中で少年を見送ります。
いつもは起きているはずのない小さな男の子ですらも、彼の小さな背中を見つめます。
ほら、太陽が大地を照らし始めましたよ。
ああ、朝焼けの光によって金色の髪のなんと美しいことか。
「ハンス!!」
村中に響くほど大きな声で、誰かが彼を呼びました。
ハッと振り向けば、その正体はゴードン神父でした。
教会の鐘つき場から顔を出して手を振っています。
「君の旅立ちに祝福を!!
神の御加護があらんことを!!!」
そう言うと、神父はさあ行けと言わんばかりに鐘を打ち鳴らしました。
晴れやかに笑ったハンスは、
「今まで、ありがとう!!!!」
神父に負けないほど大きな声で叫びました。
そして、くるりと前を向いて長く続く道を駆けていきました。
「まさか本当にアンデルセンの旅立ちに立ち会う日がくるとはなぁ。」
鐘を突き終えた神父は、去りゆく小さな背中を見つめながらぽつりと呟きました。
「アリシヤの腹に天使が舞い降りたときは心底驚きましたわ。」
シスターの一人、マイヤが階段をのぼりながら答えます。
「さあ、今日は村の宴だ。騒がしくなるぞ。」
「そうですね、あの子が無事に、立派なアンデルセンとなれますように。」
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