臨界期
千里温男
第1話
言語や絶対音感などについて、ある時期を過ぎてしまうと、それらを獲得できなくなるという説がある。
そのある時期のことを臨界期というそうだ。
もし女性が好意を見せてくれたら、一定期間内にその好意に応えなければならない。
そうでないと、その女性の好意を永久に失う。
そして、一定期間はそう長くない。
そんな気がする。
私はK高校に進学し電車通学することになった。
電車通学の最初の日、
駅のホームで電車を待っていると、私の倍もあるかと思うような背の高い女性がこちらに歩いて来た。
その人は私に少し微笑むようにして斜めに首をかしげた。
『あ、すっちゃんだ』と思った。
小学1年の1学期まで、毎日のように、すっちゃんと一緒に遊んだ。
お互いの家が近かったし、近所には同じ年頃の子供が他にいなかったからである。
すっちゃんの家には物置き小屋があって、古い家具や小物類が詰め込まれていた。
私たちは、乱雑に置かれた古い家具の中を覗いたり、空っぽの家具の引き出しの中に宝物を隠したりして遊んだ。
どちらから言い出したことか覚えていないけれど、そこでお医者さんごっこをしたことがある。
自分とは違うすっちゃんの体の部分が珍しく、そして不思議だった。
すっちゃんも、きっと、そうだったに違いない。
よく確かめたくて、お互いに触りっこした。
「ふふふ」とすっちゃんが笑ったのを覚えている。
窓から離れた薄暗い家具の陰だった。
子ども心にもうしろめたさを感じていたのだろうか。
それから間もなく、すっちゃんは家族とともにどこかへ引っ越して行った。
あれから8年くらい立っている。
そんなに経っているのに、あんなに背が高くなっているのに、すぐすっちゃんだとわかったのが不思議だった。
すっちゃんは私の横をすり抜けるようにして先頭車輌が止まる位置の方へ歩いて行った。
学校から帰ると、私はすぐ母に8年ぶりにすっちゃんと遭ったこと、びっくりするくらい背が高くなっていたことを話した。
婦人会の副会長をしている母はすっちゃんは、ほんとうは鈴子という名前で、桐華学園という私立の和洋裁学校に通っていると教えてくれた。
たぶん町内で一番背が高いのではないかとも言った。
けれど、いつから背が高くなったかは知らないようだった。
すっちゃんは同じ町内の500メートルくらいしか離れていない所に引っ越したのだそうだ。
今なら500メートルしか離れていないと思うけれど、当時の私たちにはきっと遠い遠い距離だったのだろう。
同じ町内に住んでいたのだから、小学校も中学校も同じだったはずなのに、
一度も遭わなかったばかりか、見かけた記憶さえ無い。
そもそも、あんなに背のたかい人は、小学校でも中学校でも見たことがない。
先生や他の大人たちの中にも見かけたことがない。
それは、母に比べて、私の世界が小さ過ぎたせいかも知れない。
交際範囲が狭すぎたせいかもしれない。
私とすっちゃんは、毎朝、駅のホームでお互いを見かけた。
けれども、私は線路を見ているふりをしたり、英語のポケット辞書を見ているふりをしたりして、すっちゃんと視線を合わせるのを避けていた。
私はいつも3輌目に乗ることにしていた。
すっちゃんは先頭車両に乗ることにしていたらしい。
すっちゃんはお互いのカバンが触れ合うくらいすぐそばを、私を巻き込もうとしているのではないかと思うような風を起しながら通り過ぎて行くのだった。
降りる駅も同じK駅だったけれど、帰りは時間がずれていたのか、その駅で同じ電車に乗ることはなかった。
K高校はK駅から徒歩で30分くらいの所にあった。
そして桐華学園はその中間くらいの小高い丘の上にあった。
木立に囲まれた古風な二階建ての別荘風の建物で、看板さえなくて、とても学校とは見えない優雅なたたずまいだった。
あそこですっちゃんが和洋裁の勉強をしているのかと思いながら、学校の行き帰りの道路から窓を見上げたものだった。
すっちゃんは相変わらず駅のホームで私のすぐそばを風を起しながら通り過ぎて行った。
私も相変わらずすっちゃんと視線を合わさないようにしていた。
こっそり盗み見すると、すっちゃんはやっぱり私に向かってちょっとうなづくような仕種おしていた。
知らないふりをしているのが苦しかった。
私は決してすっちゃんが嫌いなわけではなかった。
でも、もし並んで立ったら、私の頭がすっちゃんの肩に届いたかどうか…
それに、背中まである長い髪とよく似合う洗練された服装におとなの女性を感じて、気おくれしていたのも確かだ。
夏休みが近い頃だった。
朝は晴れていたのに、下校する頃になって、空模様が怪しくなって来た。
私は暗くなった空を見上げながら、一人で駅に向かおうか、傘を持っている誰かと一緒に帰ろうかと迷った。
しかし、実は、私にはまだ親しい友人はできていなかったのである。
仕方がないので速足で歩き始めた。
そういう時に限って雨が降るものらしい。
心配していたとおり、雨がポツリポツリと降り始めた。
桐華学園の前を通り過ぎる頃には、かなりの降りになった。
走り出したい気持ちを抑えて、それでもますます速足で歩いた。
突然、頭の上でバラバラと雨音がして、雨粒が頭にあたらなくなった。
振り向くと、すっちゃんが私に傘をさしかけていた。
助かったという気持ち、嬉しいという気持ち、ありがとうという気持ち…
けれども、私は照れくささに、怒ったような顔をして黙って速足で歩いた。
すっちゃんも私が傘からはみ出ないように速足で歩いてくれた。
駅に着くと、私はお礼も言わずに、すっちゃんから離れて待合室の隅のベンチに腰掛けた。
ところが、驚いたことに、すっちゃんも私のすぐ横に腰掛けた。
「わたしが誰か知ってる?」
「すっちゃんでしょ」
「知ってるくせに愛想ないわね」
お礼を言う、また友だちになってもらう絶好のチャンスだったのに、私は何も言わなかった。
それこそ、性に目覚めていて、変に意識しすぎていたのかも知れない。
居間から思えば、幼稚でバカなくらい気取り屋だった。
電車が近づいたというアナウンスを聞いて、私はすっちゃんを置き去りにするようにしてベンチから立ち上がった。
すっちゃんから逃れるようにして別な車輌に乗り込んだ。
頭の中では、ずっと、これでいいのだろうかと思っていた。
翌日、すっちゃんは駅のホームで私のすぐそばを通る時、脇腹ををツンと突いた。
私はすっちゃんが昨日のことを怒っていないらしいことに安心した。
そして、幼なじみなのだ、お医者さんごっこもした仲なのだという自惚れが頭の中で膨らんで来た。
そうなると、なかなか率直になれなかった。
そのくせ、心の中では、以前のように仲良しになりたいと思っていた。
すっちゃんに会えないかと思って、夏休みにもかかわらず、学校へ行ったりした。
駅のホームに行けば、すっちゃんに会えるような気がしたのである。
二学期になり、やがて文化祭がやって来た。
文化祭の時は、生徒の父兄だけでなく、招待状があれば一般の人たちも校内に立ち入ることができる。
私はすっちゃんを文化祭に誘うことを思いついた。
文化祭の招待状と案内のチラシを持って、失神しそうなくらい胸をドキドキさせながら駅のホームに立っていた。
向こうから歩いて来るすっちゃんと視線を合わせた。
顔がいくらか赤くなっていたかも知れない。
いや、もしかしたら、緊張で青ざめていたかもしれない。
すっちゃんは昨日まで私のすぐそばを通り抜けて行ったのに、
いつもと違う私の様子を怪しんだのだろうか、そっぽを向きながら、ずっと離れた所を通り過ぎて行った。
私を避けて時間をずらしたのか、それっきり、すっちゃんの姿を見かけることはなかった。
(おわり)
*2017年2月20日、改題、加筆修正しました。
臨界期 千里温男 @itsme
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