第4話 心と体と

・1・


 あたりはすっかり暗くなっていた。

 あのまま家には帰らず、夕方まで桜子とデートをして過ごした。彼女のご立腹を鎮めるにはそれしかなかったのだ。

 その帰り道、春哉は桜子に半ば引っ張られる形で歩いていた。

「ちょっと、桜子さん引っ張らないで」

(朝子くんには悪いことしたな……明日、謝らないと)

 正直に言うと、彼女の好意には気付いていた。自分はそこまで鈍感ではない。

 ただ春哉は彼女に上手く向かい合えなかった。あの純粋な瞳は、春哉には眩しすぎる。いや、正確には憧れに近い。

(もっと早く言っておくべきだったな)


「ム―」

 気付くと視界の端で桜子が可愛く頬を膨らませている。

「どうしたんですか?」

「私以外の女の子のこと考えてるでしょ?」

「……」

 目線が下を向いた。その好機を桜子は見逃さなかった。

 ほぼ反射的に体が動き、ポケットから折り畳み式のペーパーナイフを春哉に突き立てる。


 ガシッ!


「ッ!!」

「桜子さん。ふざけるのは止めましょう」

 春哉は桜子の右腕を両手でガッシリ握っていた。掴まれたその腕は、彼女の意思に反して全く動かない。強い力で握られているせいか、痛いくらいの強さが、彼の愛だと思えて桜子はつい嬉しくなる。

「アハハ。春哉くん、だーい好き」

「……」

 彼女のその光のない瞳を見るのは何回目だろう。

 彼女の心は光の中にない。だとするならば、春哉は深い深い闇の道を進まなくてはならない。

 そこまで堕ちなければ本当の意味で彼女に触れられない。そんな気がした。

 春哉は左手をゆっくり離して、取って付けたような彼女の笑みに触れてみる。

 笑顔の仮面。

 その奥にあるものを見る覚悟を自分は持っているだろうか?


「ガハハ! 相変わらず仲良くやっとるようじゃのう。我が孫よ」


「お爺様。あなたほどの豪傑でもついに歳が来たようですね」

 春哉はどこからか聞こえてきた声にそう答えた。声の主を探す必要はない。春哉にはすぐに誰だかわかった。

「ふむ。儂には仲睦ましいカップルにしか見えんが?」

 闇の奥から、一人の大柄な老人が現れる。

「げッ……」

 桜子は思わず春哉の後ろに隠れる。小動物のようにプルプルと震えている。

 相変わらず苦手なようだ。桜子は本能的にこの老人を危険視している。まぁそれは正しいのだが。

 その体は老体ながらに未だ瑞々しく、鍛え抜かれた体からは若者すら軽く凌駕する圧倒的な覇気が漂っている。


 式美竜厳しきみりゅうげん


 式美流の創始者にして、今年で齢百歳になる化け物だ。

 彼の伝説はそれこそ星の数ほど存在し、その全てが信じられないものばかりだ。子供の頃聞かされた話の一つには、戦地で飛んでくるミサイルを鷲掴みにしたとか……。

 冗談みたいな話だが、この老人に限って言えば本当にやりかねない。彼のことをよく知っているからこそ、春哉はそう断言できる。

 知る人ぞ知る生ける伝説だ。

 竜厳は二人を交互に見て言う。

「ふむ。春哉も桜子も元気そうで何より。儂は安心したぞ」




「……で、なんでここに?」

「ん? おかしなことを聞くのぉ。かわいい孫とその彼女を見に来て何が悪い?」

 竜厳は盛大に笑う。公園のベンチに座り二人は話をしている。桜子は竜厳に近寄りたくないのか向かい側のブランコで一人で遊んでいた。

「して春哉、調子はどうだ?」

「お爺様が彼女を僕に引き合わせてから、僕は毎日殺されかけてますよ」

「ハハハ! これも修行よ。毎日が刺激的でよいではないか! 儂なんて婆さんに何度半殺しにされたことか」

(この超人をどうやったら半殺しにできるんだ……)

 お婆様は春哉が生まれる前にはもう亡くなっていた。だから写真でしかその顔を見たことがない。しかし優しそうな顔はよく覚えている。

 春哉が初めて桜子を見たのは竜厳の屋敷でだった。


 あの日、二人は庭にそびえ立つ大きな桜の木の下で出会った。


 その姿が小さな蝋燭の炎のように、風が吹けば消し飛びそうなほど弱弱しかったのを今でも覚えている。当時桜子は両親を亡くし、道場を開いていた竜厳の元に一時的に預けられていた。

「親を亡くしたあやつの心と体は傷つき、完全にズレてしまった。お前と一緒にいさせればあるいは徐々にその傷を癒してくれると思っていたが……」

「むしろ変な感じに拗れてる気が……」

 竜厳は遠くの桜子を眺める。視線に気づいた桜子がベーっと下瞼を引き下げ舌を出す。

「あやつの両親は子供に毎日のように暴力を振るっていた。あやつに非があったのか……理由は知らぬが、結局は両親の自殺もその延長上じゃ。それをずっと見てきたあやつにとって、暴力こそが愛情と等価なのかもしれん」

 骨を折られれば愛を感じ、殴られれば心配されている実感を持てる。つまり死を与えるという行為は彼女にとって最上の愛と言える行為なのだ。

「……そんなのは」

「間違っておるか? 今の若い世代は個性を尊重すると豪語しておるではないか? ちょっと周りの流れと違うからと言って、果たして全てを否定していいものかのう」


 人を殺すことは悪だ。春哉ももちろんそう思う。

 だがそうじゃない。

 そんな上っ面な言葉で春哉は桜子を糾弾しない。できない。

 胸にあるのはもっと根源的な理由。


「そんなのは悲しすぎる」


 そうすることでしか自己を表せないのなら。

 そうすることでしか愛を感じれないのなら。

 桜子はもう『人間』ではないのだろう。

 

「だったら僕のやるべきことは決まってる」


 彼女をこっち側へ引きずり込む。人間の世界へ。

 たとえ彼女の価値観を、世界を破壊してでも。

 彼女に嫌われることになったとしても。

 そうしてやることが春哉にとって唯一できることだから。

 これはもう春哉のエゴでしかない。


 竜厳は孫の言葉からでたその言葉を満足そうに聞き、言った。


「さて、熊に育てられた人は熊に化けるかのう? それとも――」


・2・


 翌日。

 小日向朝子は川辺で体育座りして、朝日が反射して煌く小川を見つめていた。

「……私の初めての恋は儚く散りました。フ、フフフ……」

 不意に笑いが込み上げてくる。

「アーハッハッハッハッ!!」

 突然の笑い声に周囲がギョッとする。

「こんなことで挫ける朝子ちゃんではないのです!! 私は小日向朝子! いずれは警視総監になる女! そう、いわば犯罪者は私の恋人!! ボールは友達の精神ですよ!!」

 何だかわけのわからない理論を口走り始めた彼女を見て危険に思ったのか、皆そそくさとその場を去ろうとする。

 そんな中、一人だけその場に残った者がいた。

「……先輩」

「やぁ、朝子くん」


 春哉は朝子の隣に座った。朝子は額から滝のような汗を流している。

「……あの……見てました?」

「ん? あぁ特等席でしっかりと。さすがに犯罪者を恋人にするのはどうかと……」

「はう……」

 朝子は恥ずかしくて小さくなる。

 しばらく二人は何も話さなかった。二人して小川を見つめている。その沈黙を一番に破ったのはやはり朝子だった。

「先輩、桜子さんとは、その……仲がよろしいんですか?」

「うーん。どうかな。毎日大変だけどね」

 春哉は楽しそうに彼女を語る。

「朝起きれば確実に全裸で目のやり場に困るし、隙があれば抱き着いてくるし、料理はさせられないし。あぁ。何より自分よりも僕のことを優先するのもたまに困るな」

 朝子はその言葉を聞いて、一瞬言葉に詰まる。だけど意を決して言った。


「私が初めてあの人に会ったとき、あの人は私が今まで見てきた犯罪者と同じ目をしていました。いや、そのどれよりももっと、純粋で……黒い……」


 春哉はびっくりした顔で朝子を見ていた。

「……驚いた。さすがは警察一家の娘、というべきなのかな?」

「いえ、そんな……」

 でも春哉は朝子の言葉に怒ることもなく、


「確かに掴んだ手を離したら、そのままどこまでも落ちていきそうだよね。でも……それでもあの人と一緒にいたいと思えるんだ。そういう意味ではやっぱり僕は桜子さんのことが好きなんだと思うよ」


 それは決定的な言葉だった。春哉にとっても、朝子にとっても。

 もうこれ以上言葉は必要ない。これ以上はお互いの心を摩耗するだけだ。

「……」

 春哉は表情を見せない朝子の頭を軽く撫で、一度だけ彼女の心を優しく傷つける。


「また明日」


 その日、恋敗れた少女は日が落ちるまで泣いた。

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