忘れてな草の紅茶
百貨店の片隅に、緑色の電話がある。
公衆電話か。最近見なくなったよな、と中年の男が思った時、覚えのない映像が頭の中に流れてきた。
誰かに電話をかける若い男。多分若い頃の自分だ。
友人と思われる男の家に行き、花札で遊んでいる。
相手の顔は思い出せない。ただ、楽しそうな雰囲気は伝わってくる。
ちょっとした賭け事の真似をして、勝ち負けに千円札が行きかう。
負けが込んできた相手が怒りだす。
自分も言い返す。
男が立ち上がった。
そこで、映像が途切れた。まるでプツンと電源を切った再生機のように。
なんだ今のは。
思い出そうとしてもまるで続きが出てこない。
相手の顔も思い出せないのにもやもやする。
男は首をひねりながら、用を済ませて自宅に戻った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
まずい。思い出しそうだ。
男の妹は、彼からの電話に慌てた。
こんな映像を思い浮かんだというか思い出したのだけれど、心当たりはないかと問われて、兄の記憶が戻りつつあることに驚愕する。
彼女は慌てて兄の家を訪れて、改めて話を聞きながら「とりあえず紅茶でも飲んで落ち着いたら」と持参した紅茶を淹れた。
ティーポットに茶葉を入れ、ポットのお湯を注ぐとフレーバーティーの香りがふわりと部屋に漂う。
「いい香りだな」
「特別なお茶なんだからね。兄さん変な幻覚なんか見て疲れちゃってるのよ。これ飲んで落ち着くといいわ」
「幻覚なんかじゃないと思うんだけど」
「だって相手の顔もその場所も覚えがないんでしょ?」
「だからおまえにも覚えがないか尋ねてるんじゃないか」
「ないわよ、そんなの」
「うーむ」
兄はしきりに首をかしげているが、彼女が淹れた紅茶を一口飲むとほっと表情を和らげる。
「うまいな、これ」
「でしょ」
兄は無言で紅茶を半分ほど飲んだ後にふと尋ねてくる。
「……ところで、おまえ、なんでうちに来たんだ? 何か用事か?」
「何もないよ。元気にしてるかなって思って」
「そっか」
それからは何事もなかったかのように兄妹はティータイムを楽しんだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
紅茶専門店「勿忘草」に、慌ただしくお客様が入ってくる。
「こんにちはっ。あの茶葉、なくなりそうなんですっ」
慌てた様子でやってきたのは常連の中年女性だ。
「おや、もうですか? 最近よく飲みますね」
店員の若者はにこりと笑って接客を開始する。
が。
「ダメダメ。ちゃんとアノ言葉を言ってくれないと」
現れた店長が人差し指を立てて軽く振っている。
「えー、彼女、常連さんですし、今は他にお客さんもいないですよ」
店員の男があきれ顔になるが、店長は許さない。
「いらっしゃいませ。今日は何をお求めですか?」
真面目くさった顔になった店長が女性に尋ねる。
「えっと、忘れてな草の紅茶を」
「それを言うなら勿忘草でしょう?」
「そうでした。今の失敗、忘れてな」
「はい、了解」
また言わせてるよ、と肩をすくめる店員の隣でいつものやり取りが済まされた。
「お待たせしました。ご注文の紅茶です」
店長が持ってきたのは、女性が兄に飲ませていた紅茶だ。
「いつもありがとうございます」
「こちらこそ、毎度ありがとうございます」
代金を受け取ると、お客様は深々とお辞儀をして帰っていった。
「飲んでるの、賭け花札で喧嘩になって、お友達を殺してしまったお兄さんだっけ?」
「初めていらした時、そうおっしゃってましたね」
「完璧に記憶が消せればいいんだけど、どうしてもきっかけになるものを見たらぼんやりと思い出しちゃうからなぁ」
まだまだ魔法の修行が足りないな、と店長は苦笑している。
「それでも、店長の紅茶を飲めば夢のように嫌な記憶が消えてしまうんだからすごいですよ。それより、あの合言葉、変えません? 聞いているこちらが恥ずかしくなるんですが」
「変えないよ」
きっぱりと断られてしまった。
そんなところにこだわらなくてもいいだろうに、と思いつつも、まぁいいかと店員が思ってしまうのは、店長の人柄なのか、それともまだ店に残る「忘れてな草の紅茶」の残り香の影響だろうか。
(了)
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タグ:#リプで来たキーワードを使って小説を書く(2020年1月5日)
お題:夢 薬缶(あるいはポット) 信念 残り香 公衆電話 花札
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