天啓の仔 其の三

 ──父の顔を真面に見れなくなっていたのはいつからだろうか。


 亜朱羅は眼前に立つ父、兌唎亜の姿を透し、昔日に想いを馳せていた。


 父と娘の久しぶりの対面である。


 だが、心を揺さぶる感情は一切なかった。



 ここは、蓬莱宮大極殿、玉座の間である。

 蓬莱皇帝凱逢が崩御してから三年の月日が経っており、今に至るまでその高御座に座るものはなかった。


 長らく惚けていた老皇帝に成り代り、既に兌唎亜が摂政を務めていたこともあって、皇帝亡き後も、その体制を維持することで何とか国政は機能していた。


 本来ならば、皇宮は亜朱羅の住むべき場所である。


 然し、現在、亜朱羅は元老導伽ドーガの屋敷にいる。

 というよりも皇宮で暮らした記憶が一切なく、物心がついたころには既に、母娘共々導伽の屋敷に居たのだ。


 母沙羅と父兌唎亜に何があったのか、母の口から詳しいことを、亜朱羅は知らされてはいない。


 だが、まだ幼かった亜朱羅が父のことを尋ねた時、母が泣きながら謝まっていたことだけは、明瞭と覚えている。

 亜朱羅にとって母の最古の記憶は、泣き腫らし、顔をくしゃくしゃに歪めた哀切極まりないものであった。


 それ以来、亜朱羅は父のことを聞くことはなかった──。


 時折、年に二度三度、年始の祝賀の時などに、こうして父と会うことがあったのだが、その時も父は亜朱羅に一瞥もくれることはなく、挨拶を交わしても無視をするか気のない返事を返すだけであった。

 その度に、幼い亜朱羅は父の態度に傷付き、戸惑うしかなかった。


 そして、母沙羅が肺病を患い病死した時に、決定的な出来事が起こる。



 亜朱羅十二歳の頃、沙羅の葬儀の後のことである。


 祭壇に安置された棺の前で縋り泣く亜朱羅の前に、兌唎亜は近付いてきた。

 そして、娘を案じる父のように亜朱羅の肩に手を掛けると、誰にも聞かれないような小声でこう言い放ったのだ。


「お前は、この女と他所の男の間に出来た子だ。私の娘ではない。」と。


 酷い言葉を浴びせられ、亜朱羅は反射的に父兌唎亜を睨めあげた。


 自分のことではない──。


 母を“この女”と呼んだことに怒りを覚えたからだ。


 その時の父の顔を、亜朱羅は忘れることはなかった。

 蛇蝎でも見るかのように見下ろす、その醜く歪んだ顔を──。



 その父に呼ばれ、亜朱羅は今、皇宮に居る。


 ──明日、摩尼の難儀挑むというこの時に、どういう風の吹き回しなのだ。


 亜朱羅は、あの日以来父を許しておらず、本来ならば顔を見るのも嫌であった。

 あの日、父の話した言葉の真実を、庇護者である導伽に問い質し、亜朱羅は母の悲恋を知った。

 居た堪れなくなった母が幼い自分と共に皇宮から出て、導伽の屋敷に移った理由も解った。


 どうやら自分がこの男の娘であることだけは紛れもない事実であるということも──。



 その父にはある噂があった。


 それは──王権を狙っているというものである。


 祖父凱逢や母沙羅が存命中より、皇位継承者は亜朱羅であることは確認されていたのだが、元老院や皇宮の中で只一人、それに反対したのが実の父兌唎亜であったらしい。


 理由は、閻浮東州に建国して以来一人として女帝がいないから、そして、命を落としかねない難儀に娘を挑ませたくないから、という尤もらしいものだった。


 だが、それは偶々今まで居なかったというだけで、女帝を禁じていた訳ではない。

 難儀に挑んだ皇女が居なかっただけである。

 要は亜朱羅が難儀を乗り越えられればいいだけの話なのだ。


 結局、兌唎亜の意見は水に流された。


 亜朱羅は皇女としてではなく、男子の皇位継承者と同じように、帝王学を叩き込まれて育てられることになる。


 然し、老皇帝が世を去って以降、兌唎亜の言動に変化が現れる。


 再び、亜朱羅の皇位継承に公然と意を唱え始めたからだ。

 表向きは目立った動きは無かったものの、難儀に合わせて何かを仕掛けてくる可能性があるというのが、元老院の考えであった。


 この日、皇宮に赴くということは、ある意味虎穴に入るようなものである。

 難儀を終えた後に、堂々と皇宮に還ればいいのだが、他ならぬ亜朱羅自身が、皇宮に行くことを由としたのだった。


 ──難儀に挑む前に父と会っておく必要がある。


 ある種の決意を持って、亜朱羅は此処に来たのであった──。




 久しぶりの父との対面。

 忘れ時の苦汁を想起し、思わず表情に出そうになるのを堪えながら、亜朱羅自ら口火を切った。



「父上。本日は如何様な理由でお呼びしたのでしょうか?」


 兌唎亜は、昔から変わらぬ冷徹な眼差しで、口元だけに笑みを浮かべて答えた。


「フハハ、面白いことをいいよる。親が娘の顔を見るのに理由など必要あるまい──。それとも、お前は父に会うのに理由がいるのか?」


 ──よくも抜け抜けと。


 亜朱羅が、わざとらしい言葉に答えずにいると、兌唎亜が続けた。


「まぁ、そう急くな。久しぶりの親娘の対面ではないか。私は、明日いよいよ難儀挑むお前を労いたかったのだ」


 ──相変わらず軽薄な男だ。


 亜朱羅は父の言葉には答えず、ぐるりと周囲を見渡した。

 今、この場には亜朱羅以外に、後見人の元老導伽、その配下であり元老院付きの近衛侍士である武靁、左右相を始めとする文官が十人。


 そして、兌唎亜とその傍には女が一人居る。


「その通りですよ、亜朱羅さん。お父上は貴方が心配なのです。」


 兌唎亜の隣の女が話しかけてきた。


 この玉座の間に入ってきた瞬間から感じていた不快感の正体である。


 ──白蓮夫人ビャクレンブニン


 兌唎亜の再婚相手で、昔は愛妾だったとかいう女だ。

 亜朱羅は一度遠目に目にしたことがある程度で、こうして対面するのは初めてだった。


 その身形は独特で、貴族の妻というには余りにも不敬な出で立ちである。

 金襴の髑髏をあしらった真っ黒な袿袴をだらしなく着込こなし、胸元や太腿が露わに。

 肩からは虎の襟巻き、その手には艶やかな孔雀扇が握られている。

 薔薇の簪を挿した垂髪は腰まで伸び、その面は赤土で目尻を強調し、紫紺の紅で唇を彩っていた。



 ──何故、皇宮の最も重要な場所に、この品位の欠片もない女がいるのか。


 ──何故、それがのうのうと許されているのか。


 今、この場に居る者で、明らかに白蓮だけが場違いである。

 逆に言えば、それが今の皇宮の乱れを端的に表しているとも言えた。


 亜朱羅は物怖じせずに言った。


「何故、貴女が此処に居られるのだ?此処は神事と政を司る神聖な場所。貴女が居ていい処ではない。」


 後ろに控えていた導伽が続ける。


「──摂政殿。これは一体どういうことなのか?流石に少々度が過ぎますぞ。」


 導伽は周囲の文官達を見渡し、

「其処許らは一体何をしておった。」と厳しい口調で一括した。


 兌唎亜は全く悪びれた様子もなく、不敵な笑みを浮かべる白蓮の肩に手を回し、

「堅苦しいことを仰られるな。何、娘を労うついでに、新しい母を紹介したかったまでのこと。普段から此処への出入りを許してはおりませぬ故、此度は私の顔に免じ許して下され。」


「新しい──母!?」


 察した導伽が亜朱羅を制す。


「摂政殿。先代のお許しを得たとのことですが、我々元老は白蓮殿のことを認めた訳ではありませんぞ。そもそも御身は、沙羅様と婚姻し王族に入られた立場。それを弁えているのか。一度王族になったからには、我々の諮問を受けることなく、勝手気儘に振る舞うことが許されていないことは先刻承知の筈。御身は元老院を軽んじて居られるのか?」


「またその話ですか。それはもう済んだことではありませんか。前にも言った通り、私は王族に入りはしましたが、血族ではありませんからなぁ。古い慣習に凝り固まった元老院のお小言はうんざりですよ。何より、これは先代がお認めになられたこと。貴方方こそ陛下のお言葉を軽んじて居られるのではありませぬか?」


「おのれ、無礼な。」


 今まで片膝を付き従っていた武靁が、その言葉に反応し立ち上がった。


 場に一気に緊張感が増していく。


 すると、兌唎亜は、今までの尊大な顔から表情を一変させ、

「黙れ下郎。私を誰だと心得る。蓬莱皇国摂政兌唎亜なるぞ。その構えは何だ?その腰のもので私をどうする気だ?」と激しい怒りで恫喝した。


 その余りの怒気に圧倒され、武靁も思わず萎縮している。


 導伽は、右腕を広げ背後の武靁を諌めると、手をクイックイッと動かし、もう下がってよいと合図をした。


「──ですが。」と難色を示した武靁だったが、「大丈夫だ、下がっておれ。」と導伽に言われると、不承不承玉座の間から退いた。


 兌唎亜は、武靁が下がったのを見届けると、再び不遜な作り笑みを浮かべて、

「──とはいえ、私も口が過ぎたようです。どうも、昔から失言を繰り返すのが私の悪い癖でしてなぁ。決して悪意はなかったのですよ。」と他人事のような口調で喋った。


 そして、再び娘亜朱羅に視線を戻し、

「まぁ、元老院のお歴々がお認めにならないであろうことは分かっていましたよ。ですが、娘の意思を確認していませんでしたからな。──それで、今日、此処に来てもらったのです。なにせ貴方方が、縛り付けている故、私は満足に娘に会うことも叶わない。」と言ってのけた。


 すると、今までニヤニヤと佇んでいた白蓮が、亜朱羅の前に歩み寄り手を差し伸べた。

「フフフ。亜朱羅さん、お父上もこう仰られているのです。血は繋がらなくとも母娘になるのですよ。どうぞ私と仲良くして戴けませんか?」


 亜朱羅は白蓮の物言いに、内心怒りの炎が渦巻いているのが分かった。

 あの時と同じく、母を愚弄されたような気がしたからだ。


 だが、今の亜朱羅は、あの時、父兌唎亜を睨めあげた小娘とは違う。


 あの時、亜朱羅は深く心に誓ったのだ。


 ──必ず、皇位を継ぐ、と。


 その強い意思は不壊の金剛のようなものである。


 それは、まだ小さく心許ないが、決して壊れることがないものだ。



 亜朱羅は、白蓮を真っ直ぐに見据える。


 亜朱羅の心にその時浮かんでいたのは、亡き母の面影である。


 ──望まない結婚で望まない子を産んだ母。


 ──だが、母はそんなことをおくびにも出さず、私を全力で愛してくれた。


 ──病床の時でさえ、自分の身より私の行く末を案じていたような女性だ。


 ──私は、母の愛に報いなければならない。



 亜朱羅は、落ち着き払った静かな口調で明瞭と言った。


「嫌です。私は第三十五代皇帝凱逢の娘、沙羅の子です。私の母は只一人。貴女とは仲良くなれません。」


 そして、兌唎亜の方へと向き直ると語気を強めて断言した。

「実は、今日は私の方にも用があったのです。──貴方は昔、お前は娘ではないと私に言いましたね。あの時、言えなかったことを今日は言いに来たのです。──貴方は私の父ではない。父とは思いたくない、と。」



 きっぱりと拒絶され、白蓮と兌唎亜は唖然としたようであった。

 たかが小娘と侮っていた亜朱羅に、まさかこれ程の胆力があるとは思っていなかったからだ。


 ことの成り行きを見守っていた周りの者達も、亜朱羅の言葉に水をうった様に静まり返っている。


「──ゥフフフフッ……ホーッホッホッホ。」


 突如白蓮は高笑いをした。


「あらあら、嫌われちゃったわぁ。ンフフ、亜朱羅さん貴女面白い子ねぇ。さぁて、貴方どうしましょうかしら?」


 兌唎亜に視線を送った。


 兌唎亜は、最初押し黙っていたのだが、搾り出すような声でポツリと呟いた。


「──流石は母娘というところか。」


 亜朱羅の方へとおもむろに近寄ると、あの日のように顔を醜く歪めて言い放った。


「つくづく癪に障る娘よ。いいだろう、それならこちらにも考えがあるまで──。せいぜい難儀で命を落とさぬことだな。」


 亜朱羅は、汚れなき眸で答えた。


「望むところだ。」

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