伐折羅地獄変
@nukogamike
天啓の仔 其の一
仰ぎ見た大空の、その深淵な青さに目眩がしそうな夏の日の午後。
少女はいつものように、お気に入りのこの場所で、当たり前のように大の字になり、見るとは無しに群青の空を見上げていた。
見晴るかす宙には雲一つすらもなく、何処までも何処までも澄み渡っている。
夏の陽射しを遮る、新緑の桜の下。
小高い丘の上にある、青々と萌える芝の上で、気持ち良さそうに四肢を伸ばした少女。
──涼しい風が優しく黒髪を撫でる。
年の頃の娘にしては髪は短めで、少年のようである。
秀麗な眉に、高くもなく低くもない、少しそばかすがかった鼻、薄紅色の花弁のような唇に、とりわけ目を惹く、長い睫毛の二つの大きな眸。
意思の強さや聡明さが窺い知れる、品の良さそうな面立ちは、少女故の面映ゆさと、これから女になっていく色香の萌芽が備わっていた。
育ちの解る高貴そうな身形の中にも、凛とした慎ましさが感じられ、それが彼女の性格の一端を物語っている。
そして、その傍には一振りの太刀。
それも、うら若き乙女には似つかわしくない、 形だけ取り繕ったお飾りではなく、命を奪う為に打たれた実戦の武器が。
然も、鞘や鍔、鐺から頭に至るまで全て極上の仕事が施され、抜かずとも一目で最上級の大業物であると知れる至高の莫耶だ。
剣と少女──。
彼女の素性や生い立ちなど、その奇異な組合せを見た者ならば、些かでも興味をそそられるであろう。
彼女の名は、
東の雄、蓬莱皇国の皇女にして、唯一の皇位継承者である。
亜朱羅が今、此処にいるのは故人を偲んでのことだった。
亡き母との想い出の詰まったこの場所──。
母の愛した蓬莱桜の大樹──。
此処は亜朱羅にとっても又、特別な場所なのである。
──此処に来れば何時でも母に逢える。
そんな気になれる場所なのであった。
亜朱羅は、寝そべったままの姿勢で剣を手に取ると、右手を突き出すように天に翳した。
「……いよいよだよ、母上。明日、いよいよ難儀に臨むんだ。私、やり遂げてみせるよ。絶対に負けないから。母上との約束を守るから……だから……私のことを見てて。」
亜朱羅は蒼穹に決意を示すと、掲げた剣を引き寄せ、そっと鞘に唇を合わせた。
「桜輪……明日は、よろしくね。」
まるで、愛する人にでも語りかけるかのように、優しく囁くのであった。
ピュー、ピュー。
頭上で鳶がくるりと旋回り、大きく鳴いた。
亜朱羅はゆっくりと腰を上げると、大樹に背中を預けるように、その場に座り直した。
眼下に広がるのは、繁栄を極めた蓬莱の城下街。
遥か対面には、街を見下ろすように聳える、白亜の蓬莱宮が鎮座するのが見える。
一身に陽光を浴びた皇宮は、その威光を誇示せんが如く、この場所からでも綺羅綺羅と輝いている。
亜朱羅は皇宮を真っ直ぐに見据えたまま微動だにしない。
思わず、ぐっと奥歯に力がはいる。
──漸くこの日が来た。
──全てが終われば彼処に還れる。
明日は、亜朱羅にとって人生の岐路とも言うべき特別な日であった。
摩尼の難儀──。
皇位継承権保持者が戴冠に用いる王冠の宝珠を、自らの力で取って来るという通過儀礼だ。
都から丑寅の方角に坐す霊山不二に登り、其処で採れる良質な金剛石を持ち帰らなければ、皇位に就くことは適わず、又、その艱難辛苦故に、命を落とす可能性も充分あり得るという。
この難儀を全うして初めて認められるのである。
正式な蓬莱皇国皇位継承者として──。
亜朱羅が娘だてらに剣を握るのには、このような理由があった。
心身共に秀でた者でなければ王とは認められない──。
八百年近く続く、蓬莱皇国の王家に伝わる伝統であり、単に王家の血筋の者ではなく、連綿と連なる王者の血脈が流れる亜朱羅にのみ、難儀に挑む資格があるのだ。
亜朱羅は、今一度己の運命と血の重さを実感し、身内が震えるのであった。
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