クレゾール1783

めきし粉

クレゾール1783

 小さな瓶に詰めにされた真っ赤なクレゾール1783を持っていた3人のシゲタカが、横町脇の第三陸橋付近で警官隊に囲まれたのは、その日も夜半のことであった。


 この話を語る私は、最も現場の近くにいたとも言えるし、また全くの蚊帳の外にいたとも言えるのだが、おそらく私にしか語れない事であろうから、私は果敢にもこの話を書き留めようと思う。


 そもそも最初の出来事は、路上を歩いていたシゲタカらしい集団をちょうど商工会の会合から帰宅途中の東町商店街の靴店の店主山村茂雄さんが発見し、直ちに最寄りの交番に駆けつけたことに始まる。通報を受けた東山駅前派出所の横井巡査部長は、すぐさま現場を確認に向かい現場から無線で所轄の村山警察署に連絡を入れ、連絡を受けた村山警察署は県警本部の指示を仰いだ。情報を受け取った県警は直ちに対策本部を設置するとともに警察庁に応援を要請。警察庁はこの件を迅速に処理しすべく部長級以上の幹部を臨時招集。検討の結果、隣接する三県にも応援要員の派遣を指示。隣県からの応援の機動隊員を含めた約368名の警官が現場に急行。一団が横町脇の第三陸橋付近に到着し、シゲタカから半径10メートルの距離に円陣の配置を形成するまでするまでに要した時間は、わずか34万1200時間であった。市民の協力と迅速な警察機構の対応の勝利だ。


 警官が現場に到着するその間に、東町商店街の靴店の店主山村茂雄はバブル景気に乗って株式不動産投資。おりからの土地価格上昇に伴って巨万の富を得て、台場の埋め立て地に数百坪の御殿を建設するまでになるが、そこでバブル崩壊。大量の負債を抱えて親子三代続いた店を潰し、一家は路頭に迷い残された道もない。涙ながらに御殿に火をつけ一家心中。しかし嫁と息子と娘は丸焦げになったモノの村山茂雄は生き残った。この村山茂雄は実は世にも奇妙な耐火人であったのだ。約940度の炎が彼の体をなめ尽くしたモノの、彼の体は脛の産毛を少し焦がしただけであった。一面の焼け野原に素っ裸で仁王立ちする村山茂雄の勇姿に消防局員は、ヘルメット越しに涙して、消火剤の祝砲を宙に放った。「人々は再び神の誕生を目撃した」とは当時、送水担当の消防隊員として現場で祖業に従事していた村田正勝(当時27歳)の回顧録による。村田さんはその後消防局を辞めて、新教の神父となった。


 村山茂雄は消防士の一団を引き連れて、嗚咽とも喚起の歌声ともつかぬ音声を発しながら、真知田の歓楽街に繰り出した。夜の蝶の誰かが差し出した腰箕を身に纏った村山茂雄はその激しい腰つきで官憲を挑発した。この腰箕のを差し出したのは、当時、多磨屋という飲食店に勤務していたニューハーフのジェニーとも、セクシー・ランジェリー・パブに勤めていた年齢不詳のユイコとも言われているが定かではない。争乱の状況を察知したテレビ局のカメラは巧みな構図とコンピューターによる画像処理ではみ出た部分を「無かったこと」にしつつ中継を開始し、茶の間のテレビに陣取る有閑マダムの視線はその一点に釘付けになる。瞬間最大視聴率は97.6%を記録。その状態は3日3晩変わらず、各小売業の収益を大幅にダウンさせた。特に生鮮食料品の売り上げは直撃を受けた。

 その状況の中、西の安売り王と呼ばれるスーパー「マルトミ」の敏腕経営者、徳永三之助(当時67歳)は近畿一円に広がる87店の各店舗の生鮮食料品売り場内にテレビを配置した。殺到する主婦連。これにより、消費は「マルトミ」に一点集中し、この期にスーパー「マルトミ」は一気に全国展開。まさに「札が舞う」状態であったと徳永三之助の息子の嫁の従兄弟であった北上純一郎の回顧録にはある。

 さて世にも奇妙な耐火人間となった村山茂雄は、腰箕のを振りつつその容姿を全国にテレビ中継させながら、帝都東京をめざし進軍を開始したわけであるが、彼がどうしてこうなってしまったのかというと、諸君らも知っているとおり、やはり3人のシゲタカとの遭遇の影響によるものであると考えるのが、妥当であろう。一部の業界では、こういったシゲタカの影響を「いらんもんに火をつけた」と言う。


 なにはともあれ、当時内閣総理大臣であった、畠山修三は指揮権を行使して、自衛隊の東部方面隊に緊急出動を命じ、多摩川に防衛ラインが張られたわけである。右手に並んだ戦車、自走砲の砲列。土嚢を積み上げ作られた機関砲陣地。東宝映画株式会社が特許を持つメーサー光線砲。大戦中から密かに研究が続けられていた必殺光線諸々が並ぶ。そして、その前には有刺鉄線。これに10万ボルトという高圧電流を流し、進出してくる耐火人間、村山茂雄を一瞬にして撃退しようと言う寸法である。

 当初の計画では村山茂雄が多摩川に入水したと同時に河川に電流を流し、魚、イタチ、ヌートリア、タニシ、亀、ザリガニ、ボウフラ、ミジンコ、ゾウリムシ諸々とともに一気にカタをつけようと運用計画を立案したが、環境庁のもう反対に遭い作戦中止。変わりに対岸に有刺鉄線を張り巡らしたのだ。

 自衛隊の配置が完了して、約4時間と25分後、上空を舞う取材ヘリ、放送中継車を従えた腰箕の姿の村山茂雄が現れた。背後には踊り狂う無数の群衆。当初の予定どおり砲撃その他の攻撃は中止。村山茂雄が有刺鉄線に触れるのを待つ。双眼鏡を覗き固唾をのむのは師団長の佐久間一郎。村山茂雄が有刺鉄線に触れる。パチリという意外にも大きな音とともに白煙が辺り一面に立ちこめる。任務完了撤収準備と叫ぼうとした師団長の佐久間は双眼鏡の視界の中、白煙の中に荘厳と立つ村山茂雄を見た。

 村山茂雄は白煙をかきのけて進みよってくる。後退する戦車。逃げ出す隊員。なんと村山茂雄は耐火人間であると言うだけではなく耐電気人間でもあったのだ。「我々は神と戦っているのかもしれぬ」佐久間の最後の言葉である。佐久間はこの後、最後の突貫命令とともに自らも白煙の中に突入し、その後の消息を知るものは居ない。


 自衛隊の電撃により、村山茂雄の腰箕のは焼けこげさらに短くなった。世界三大ネットワークはつぶさに中継。全世界で20億人が中継画面に釘つげとなる。世界経済は混乱し、南北格差も解消に向かいつつも、なぜ人々は村山茂雄の腰箕のにそこまで心を奪われるのか科学的な説明をしようとする研究グループが、どうやら村山茂雄のフレキシブルな腰の動きは、人間の大脳に生理的に作用するのだという中間発表があり、大部分の人々はになんのことやらサッパリであったが、とりあえずは、よく分かったような顔をして納得したフリをした。

 そうこうしている間にも村山茂雄の行軍は休まるところを知らず、後を追う群衆の数も日増しにエスカレートしていき、さながら平成の「ええじゃないか」の様相を呈していた。ちょうど、そんな昼下がり。念仏を唱え踊り狂う群衆の中にフラフラと空から一枚の紙切れが舞い降りた。お伊勢様の御札であった。見ると村山茂雄の足の動きが止まっている。いや、足だけではない。顔には苦悶の表情を浮かべながらも、体がピクリとも動かない様子。ざわめく群衆。何が起こったのかいや、終わってしまったのか。人々の心が空白になった瞬間。空から雨のようにして無数の紙切れが人々めがけて降り注いだ。すべて伊勢神宮の御札であった。人々は宙に舞う御札の中、涅槃を見た。


 この事件の顛末を語るには、もう一人の男、最初3人のシゲタカの発見の通報を受けた東山駅前派出所勤務の横井巡査部長の話をしなくてはならない。

 彼はシゲタカ発見の通報の後、現場の状況を知らせるべく県警本部へと向かったが、その途中のパトカーを数十人に及ぶシゲタカ派の学生達に襲われた。横井巡査部長は全身を鉄パイプで殴打され日本刀で斬りつけられた。横井巡査部長の片足はちぎれ片手は無くなり、鼓膜は破れ、片目は潰れ、心臓は破裂し脳の一部は溢れ、肺にはに穴があいていた。即死である。一説には警察無線が傍受されていたらしい。いや内通者がいたのかもしれぬという者もいる。いずれにしろ、この事は警察史上最大の怪である。


 ともかく。横井巡査長は殉職である。2階級特進。遺体は生前からの本人の意思もあり警察病院へ献体された。この遺体は医学実習生の解剖実習に使われたりする。誠に立派である。遺体は警察病院で死亡が確認されると直ぐに移植部の森本義之主任の手に渡り、早速移植実習に使われることになった。本番の移植に備えて、生きのいい遺体を素早く処理する練習である。

 この実習が近年の移植医療の成功率を高めたと言っても過言ではない。早速森本義之主任のグループは移植実習に取りかかった。このグループの中に森田守とい学生が混じっていた。森田守は、かねがね森本義之主任に活動を停止した脳に電気刺激を与える、言ってみれば脳の電気ショックを実習してみたいと提案していた。これは脳死状態直後の治療である。事故などで脳がショック状態となり一時的に脳波が停止した場合などは、速やかな回復が重要になる。そういう事を考えると救急治療には有効であると思える。森本義之主任は、今度の移植実習の時に同時に脳への電気ショックの実習も兼ねる事を了解した。

 さて移植実習に取りかかった森本義之主任のグループであるが、本番さながらの緊急招集であったため、眠い目をこする者あくびをする者諸々である。森本義之主任は「本番でも君らはそんな態度で望むのか」と彼らを一喝した。一同はみを引き締め移植実習に取りかかった。

 が森本義之主任が一喝する前の話。半ば寝ぼけた一人がうっかり移植用の臓器を取り違えてしまった。どう取り違えたのかというと、実習用にと死体から取り出した「死んでいる」臓器と、脳死の人からいましがた取り出したばかりの臓器移植用の「生きている」臓器とである。いざ移植実習の段になって、実習室に運ばれた臓器を見た全員はいやに臓器の鮮度が良いことに気がついたが、グループの半分はきっと死体に合わせて、新鮮な臓器が手に入ったのだと考え、もう半分は「おっ。今日の臓器は新鮮だねぇ」という軽口を言おうとしたが、先ほど森本義之主任に一喝されたばかりなので、口をつぐんだ。

 臓器移植実習班と同時に森田守男は脳に電気ショックを与える準備をしていた。もう読者はお気付きかもしれないが、この森田守こそ若き日の実写版ブラック・ジヤックと謳われるその人であった。しかし彼はまだ若かった。当然脳に突き刺した電極には、遺体は反応せず、移植の実習ももそれが新鮮であったというだけで、別段いつもの臓器移植実習と変わるところ無く肺と心臓の移植もつつがなく行われ、縫合もされたのを確認しストップウォッチを構えた森本義之主任が終了の合図を出すまでには、10時間近くかかった。この結果にはグループの全員が満足であった。

 全てが終わり、森田守は脳に突き刺した電極の片づけをし始めようと取りかかり、森本義之主任が「この出来ならば今回の移植は成功と言っていいだろう」とお墨付きを出した瞬間、一瞬電気が消え、森田守が手にしていた電極がスパークした。落雷である。実習室は本物の手術台が置かれていて照明その他も本物であるが、ただ一点、生命を預かる病棟とは電気系統が違っていた。要するに経費削減の為に非常用電源や落雷による電圧の変動に対する防御装置は付いていなかったのだ。

 結果、瞬間想像を絶する高圧電流が電気系統を伝い瞬時にその放出場所を求め、森田守が手にしている、まだ半分献体の脳に突き刺さったままになっていた電極に行き着いたのである。大量の電圧を受けた死体はビクンと仰け反った。グループの全員が息をのむ。静寂の中、形だけ取り付けていたはずの脈拍計が音を鳴らした。全員が脈拍計をのぞき込む。脈は定期的に打ち始め、先ほどまで気温と同じであった体温が上昇が見る見る上昇する。森本義之主任はとっさに「人工呼吸器」と叫び、「これより我々は延命治療を行う」と宣言をした。医学の常識では考えられぬ出来事が起こったわけだが、現在では医学界はもとより各界は、この現象をシゲタカ効果として広く認知している。


 警察庁の一部には、死んだ警官がよみがえったという話を聞いて、ある事を思い出した人物が居た。彼の名前は明らかには出来ないが、かれが思い浮かべたのは映画の「ロボコップ」である。あるいは「刑事ニコ」である。あるいは「8トマン」。そう彼は、蘇った警官を秘密警察官にしようと考えたのだ。彼の子供のころからの夢である。だれが彼を責めることが出来ようか。

 とにかく上層部にいた彼は、その蘇った警官をスーパー警察官にするべくあらゆる手を尽くせと指示した。たちまちのうちに、超高性能人工頭脳、超高性能人工網膜、超高性能人工鼓膜、超高性能人工嗅覚、超高性能人工義手、超高性能人工義足、超高性能ピストル、超高性能虫眼鏡、超高性能鉛筆、超高性能警察手帳などなど、各地の警察内部の一部の人間が密かに開発していた超高性能部品が続々と集まった。そう。その一部の人たちはこういう日が来るのを夢見て、密かに開発進めていたのだ。それらがスーパー警官を作るために惜しげもなく投入された。そして、あらゆるリハビリを受けた横井巡査部長が、名実ともにスーパー警官として現場に復帰したのは翌年の12月のことであった。

 横井巡査部長はたちまちのうちに、引ったくり、強盗、空き巣、スリ、痴漢を逮捕。さらに身につけた超高性能器機を最大限に活用し、難事件を次々と解決。超高性能人工頭脳、でもって翌年には警部補に昇進。さらに上層部の期待もあり、次々と発生する難事件を任され、ことごとく解決。3年後には警部に昇進。ますますの活躍をみせる。

 そして、丁度耐火人間としての村山茂雄が現れたときには、彼は警視になっていた。一応上層部は彼を警視にすることで、与えられるだけの指揮権を最大限与え、最も効率の良い運用を企んでいたのだが、そこは警察組織の恐ろしいところ、幾ら能力があったとしてもノンキャリアである彼は警視止まり。つまり地方公務員の一番上で飼い殺し。これが上層部の暗黙の了解であった。

 が、彼は一度死んだ人間であった。それは正式な死亡診断書も発行されているとおりのことであり、誰もが認めていることであった。そして、それが殉職によるものであったから話はややこしくなる。つまり、彼は2階級特進をしているのだ。後になって、このことに気がついた人事課長は大慌て。ある日部下の雑談の中で気がついたわけであるが、すでに警視昇進の辞令は出してしまっている。大慌てで上層部にお伺いを立てると、上層部もみんな忘れていたわけで、これは困ったと延々会議。結局誰も気がつかないのならば、そのままで行こうという官僚的決着。つまり「無かったこと」で押し通そうとの事。

 しかしスーパー警察官の存在は、マスコミを通して大々的に報じられ、いわば警察の広告塔になっていたわけだから、それに興味を持ち調べ上げるのがマスコミの仕事。というわけで、調べた人がいるわけで、ある記者がその辺りの事実関係を上層部のある人物に直接尋ねた。その人物は上層部の秘密会議に計り、裏金から捻出した札束を記者に渡し「無かったこと」にしてもらおうとした。が、記者はなかなか記者根性のある人で「無かったこと」にはならなくて、逆に「無かったことにしようとした事」が公になってしまった。 これが人々の間で長年燻っていた警察批判に火をつけて、上層部は軒並み詰め腹を切らされて、代わりに立てられた上層部は、世論の突き上げには逆らえず、仕方なく警視になっていたスーパー警官をさらに2階級特進させた。つまり横井警視は警視正を飛び越えて、ようやく横井警視長にまで昇進したことになる。

 しかし、警察組織の皮肉なところ、まさか警視長に現場に出てもらい警察犬の代わりに走り回らせるわけにもいかない。かといって上層部は指揮系統の一翼を担わせるわけでもない。結局、与えられた超高性能機能は軒並み活用できず、横井警視長は結局は飼い殺しのようなモノ。

 この時に耐火、耐電気人間の村山茂雄が無数の民衆を従えて多摩川を越えたのである。自衛隊お手上げ。警察はとうの昔に足まで挙げている。

 警察の上層部は考えた。ここで横井警視長に帝都の治安を守らせるべく現場の指揮を執らせて見よう。自衛隊まで大勢の死傷者を出している相手である。失敗して大切な部下の2人や3人や5人や10人や100人ぐらい殉職させてくれたならば、責任を取ってもらって辞職、いや降格。そうだ彼をスーパー警官にするために莫大な金がかかっているのだ。こんなところで辞めてもらっては困る。現場で死ぬまヒイヒイ働いてもらわなくては。というのが上層部の大まかな総意であった。上層部の誰もが玩具は玩具のままにしておくことを望んでいたわけで、また決して手放すつもりも無かったのである。


 さて、現場の一切の指揮を任された横井警視長は、極秘作戦を展開する事にした。上層部はどうせ失敗するモノとたかをくくり、文句は言わなかった。横井警視長がその超高性能人工知能を駆使して立案した作戦により、まず高速な印刷機を用意した。そして強力な鳥もちも準備させた。凶器を持った凶悪犯の動きを封じる為に開発された強力な粘着剤である。そして、警視庁のヘリコプターをはじめ、自衛隊の航空機も総動員させた。横井警視長の超高性能人工知能がはじき出した結論はこうだ。問題は耐火、耐電気人間の村山茂雄の後を追う群衆である。村山茂雄一人が歩いて東京に入ったからといって何がどうなるというわけでもない。数万、いや10万を超える群衆が踊りながら迫ってくるのが問題なのである。さらに、この群衆が居るために迂闊な攻撃は出来ない。群衆を止めるためには村山茂雄を止めればよい。それには鳥もちが有効であろう。しかし残された群衆はどうなる。彼らにカタルシスを与えなくてはならない。そうしなければ全くのつかみ所がない暴徒となる可能性がある。現在、村山茂雄がいるために、かろうじて取れている統制がはずれてしまうのである。これは非常に危険である。横井警視長は伊勢神宮に飛んだ。

 空から舞ってきた伊勢神宮の御札の正体は、警察内部ではよく知られた話であるが、決して一般に公になることはなかった。これは、その方が神秘性が増すという理由の他に、警察上層部がこれ以上の横井警視長の活躍を表に出すのを嫌ったためである。

 結局、横井警視長の降格はなく、かといってその後は目立った事件の指揮を執ることもなく、彼は定年まで地方のとある県警本部の窓際で飼い殺された。定年1年後。横井元警視長の移植された心臓と肺と義手と義足と人工脳と人工網膜と、人工鼓膜他はほぼ同時に壊れた。



 さて、それから十数年たった。横町脇の第三陸橋付近を完全防護服に身を包んだ機動隊員が取り囲んでいた。真ん中には、全ての狂詩曲の元凶であるクレゾール1783を持っていた3人のシゲタカいる。隊員は直接シゲタカを見ないようにと防護マスクの上から偏光ゴーグルを着用させられている。

 シゲタカ達は別に何をする出もなくただ寝ころんでいた。動物に例えるとナマケモノに例えるのが一番近い気がする。しかし迂闊にシゲタカに関わると、とんでもないことが起こるという事は、ここまで読んだ諸氏には理解できていると思われる。だからこそ、慎重に慎重を重ねて、警官隊はジリジリとシゲタカを取り囲んでいるのである。真ん中のシゲタカが手にしているクレゾール1783も気になる物質であった。何か未知の細菌かもしれない。いや案外なんでもないものかもしれない。シゲタカがやりそうなことだ。しかし上からの指示でクレゾール1783の確認報告は6時間に1回行われている。

 射殺許可は出ているが誰も志願して引き金を引こうとするモノはいない。強制も出来ない。シゲタカに関わるとろくな事がないということは誰もが知っているのだ。射殺できないとなると、焼き払うか。確かに、シゲタカというと中世では火やぶりと相場が決まっていたが、最新の研究によると灰になったシゲタカは空気中に四散して、町中を狂気で満たしてしまうという事例が報告されている。つまりシゲタカは焼き払うのもためらわれるやっかいな存在なのだ。

 どうしたモノか。ジリジリと機動隊の包囲網は狭まっている。10年で100メートルのスピード。1年で10メートル。防護服を着込んだ完全武装の機動隊員はナメクジが這うように進んでいく。いや、ナメクジよりずっと遅い。警察に入って退職までずっとシゲタカの包囲に従事してきた警官が昨日退職を迎えた。さて明日、この物語の書き手である私も退職の日を迎える。思えば私もまた警察に入って以来、ずっとこの盾を持ってシゲタカと対峙してきた。雨の日も風の日も雪の日も。結婚式の次の日も。息子が生まれた日も。私はずっとシゲタカを取り囲んできた。そしてジリジリと歩み寄ってきたのだ。私は結局警察で犯人を逮捕することも若者を補導することも、交通整理をすることも無かったが、この仕事には誇りを持っている。だから、他の人が退職前に有給を使い休暇にはいる一方で、私は最後まで現場に立たせてくれと要求した。

 私の盾からシゲタカまでの距離は10メートルを切っている。もう1年いればゴールが見れたのだろうか。ふとそんな事を考えた。いや、きっと途中で包囲を狭める手を緩めるのだろう。警察とはそんなところだ。偏向ゴーグル越しに見るシゲタカは動かない。奴らは何も食べないらしい。ひょっとしたらもう死んでいるのかもしれない。手に持っているクレゾール1783とはなんだろうか。我々現場の人間には何も知らされていない。たぶん毒物なのだろう。偏光グラスのせいで、それが正しい色なのか分からないが、やけに真っ赤な色をしている。明日定年する私にとって今日が最後の現場である。ふと、防護服の偏光グラスを外したくなった。あの瓶詰めされた赤いクレゾール1783の赤色を直に見たくなったのだ。横に立っている隊員に目配せすると、左にいるまだ独身の若い隊員があくびをしている。右の隊員は何か約束でもあるのだろうか、分からないようにしてチラチラと腕時計を頻繁に見ている。今だと思った私は、防護服の上から額をかくフリをして、防護服の上からかけている偏光グラスのゴーグルを僅かにずらした。僅かな隙間だが防護服のマスクに付いている素のアクリル板だけの空間が出来た。

 その僅かな隙間から初めて見たクレゾール1783は、思っていたよりも薄い赤色だった。私はもっと近くでみたいと思った。ほんの少し、足の親指の分だけ、そっと右の足を出した。数日分の移動距離だ。幸い誰も気がついていないようだ。1時間ほどして、左足も右足に合わせた。ほんの数センチだけ近づいただけだが、シゲタカが手にしているクレゾール1783の赤色がいやに鮮明になったように思えた。

 ひょっとして、シゲタカ達はもう死んでいるのではないか。私が知る限りでも、もう何年も動いていないはずだ。生きているはずがない。だとすれば、我々は何を恐れてこうやって防御服を着てシゲタカを取り囲んでいるのだろうか。過去の亡霊か。それともただ単に配分された予算を消化するためにか。

 どうしてシゲタカはあの赤いクレゾール1783を持っているのだろうか。シゲタカは隔離しなくてはならない。シゲタカに近寄ってはならない。それは小学生でも知っている理屈だ。しかしあの赤いクレゾール1783を持っているのは何故だろう。このシゲタカがたまたま持っているのだろうか。しかし特別事項として存在するクレゾール1783には何か意味があると、警察組織は思っているらしい。

 私は、不意に体の力が抜けるのを感じた。手にしていた盾が倒れた。周囲の隊員が「どうしたんですか」と声をかけるが、私の足は前へと進んでおり、彼らには私の後を追う事が出来ずにいるらしい。私は偏光グラスのゴーグルと防護服のマスクを取り払った。ようやく直接クレゾール1783が目に入った。やはり美しい赤色をしている。シゲタカまであと数メートルだ。後ろから隊員達が私に声をかけているが、どこか遠いところの音のような気がする。

 気がつけば、私はシゲタカ達の前に立っていた。3人のシゲタカは動かない。やはり死んでいるようだ。私は手を伸ばし、真ん中のシゲタカが握っているクレゾール1783を奪おうとした。小瓶に手をかけて奪い取ろうとすると、不意にシゲタカが「チューリップがいっぱいだねぇ」と言った。突然のことに驚いた私は、掴んだ小瓶を落としてした。手から零れたクレゾール1783の小瓶はアスファルトの上に落ちぱりんと割れた。ガラスの破片とともに飛び散った赤い赤いクレゾール1783は、ピンク色の蒸気を出して私を含めた辺り一面をピンクに染めていった。


 何か、たがが外れたのだろうか、368人の警官隊は「チューリップがいっぱいだねぇ」と繰り返す3人のシゲタカ達にクレゾール1783のピンク色に染まりながらも殺到し、もみくちゃになりながら被疑者であるシゲタカは確保された。

 一面に広がったピンク色は、円が広がるように辺りのモノの色を変えてゆき、その後もとどまることを知らず、半年の後には地球の半分がピンク色になった。

 私はその後の半年の間に、とにかくいろいろな出来事に巻き込まれ、半年の後には何故だか宇宙船に乗せられて、衛星軌道上から半分ピンクになった地球を眺め、全世界に生中継されている放送マイクに向かって「地球は青くはなくなった」と言った。たぶんこれもみんなみんなシゲタカのせいだ。   


   了

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