第41回 決意
それから数日間、様子をみつづけた。
その間に、順慶自刃(じじん)の噂が奈良に達したらしく、興福寺より確認を求める使者がやってきた。
応対は左近らに任せた。
順慶はただ、自分の足下の動きだけに目を配った。
手のものをはしらせ、上から下にいるまであらゆるものの動きを見張らせた。
人の動き、ものの流れ、誰と誰が会ったか、自分の死の噂がどれほどの影響を出しているのか。
しかしこれだというものは終始、あらわれなかった。
戦火があがる類いの混乱しかないことを喜ぶべきだが一方で、あらわれて欲しいと心のどこかで思っていた。
それは祈りにも似た気持ちだった。
自分で決めたくはなかった。
抗いようのない大きなものにまきこまれ、仕方がなかったのだと自分に弁明できるような状況が欲しかった。
しかしついにそんなことは起きなかった。
失望した。怒りもした。
光秀につくか否か、それは自分たちの今後につながる分水嶺ではないのか。
誰かが先頭にたち、引き入らなければ再び大和は複数の陣営に分かれかねない。
これまで多くの犠牲をだしながらようやく一所に落ち着いたにもかかわらず、どうして誰もそれを理解しないのか。
いや、理解しているのか。しかしそれでも行動にうつせなければなんの意味もない。
情けない。
大和がどうなるか順慶が死んだのであれば独善であれなんであれ自分が率いるという気概をみせてほしかった。
いや、みせねばならないだろう。
「俺に決めろというのか」一人ごちる。
順慶のいない家中では定次を一応たててはいるが実際は親戚筋や重臣たちによる合議という形で話が進んだが結論は容易にでない。城内に米や塩、味噌の備蓄がおこなわれた。
誰もが迷いつづけている。
思えば、目の前に敵がいて、攻めてこようとする。
これまでの、久秀との戦の単純さは楽だった。野戦か籠城、当たるのか引くのか。
細かな判断は必要だったが、戦をするという結論は揺るがない。
しかし今はその戦をすべきか、もっとするなら自分の立ち位置をどこにおくのか、心が騒ぎ続ける。
もっとなにかが欲しい。
切なくなるほどの欲求を感じた順慶は単身馬をはしらせ、信貴山の麓(ふもと)の村へ向かった。
その時には久秀は村を出ており、山中に小さな畑をもち庵に移り住んでいるという。
庵を目指した。むせかえるような緑のにおいのたちこめる山道を歩く。
どうしてそこまでして久秀に会おうと思ったのか。
いや、すでに久秀はなく、ただの老人として生きることを決めた者を訪ねようというのか。
今の自分の胸中をはき出せる相手は久秀をおいてほかにないという漠然とした思いがあるのは確かだった。
馴れない山道に疲れ、谷川のそばで休んでいると見知った声に顔をあげた。
「ほっほ。なんだかんだと、爺じじが好きなようじゃのう」
久秀は農夫という出で立ちで姿を見せる。
顔や腕、露わになっている部分は火傷のせいで皮が引き攣り、肌全体がほのかに桃色がかっている。
頭は剃られたのか、つるりとして綺麗だった。
「まあ、人に会う生活ではないからのう」
村でも世話をしていた男がつき、久秀を手伝っているという。男はまず、麓の村人として一日一度、ここに顔を出すらしかった。
「……ご無沙汰しております」
「殊勝すぎて気味が悪いくらいじゃ」
庵に招かれる。人一人が寝転がって、少し余裕がある程度の一間。
部屋の隅すみに文机ふづくえがあり、そこに経がおかれている。
毎日、あれを詠み、自分の代わりに死んだ人々の魂を弔っているという。
「まあ、大したものはないが」
大根を漬けたもの、猪肉いのししにくの燻製くんせいと、酒が出された。
猪は久秀が獲ったらしい。
「秋ごろにきてくればもっとうまい猪を食わせてやれる」
「来られれば、と思いますが」
「ふん、そうじゃのう。今が筒井の踏ん張りどころ、か」
目が冴えた光を帯びる。隠棲したとはいえ戦国の世を乗り切りつづけた男はは死んではいない。
「ご存じでしたか」
「世間話程度じゃが、耳は遠くない。光秀を討つか、それとも同心するか。それによって再び大和の帰趨がかかっている。京に近いが故の因果ぢゃのう」
「光秀と話しました」
「それでも決められないのか。それともしようとせんのか」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味じゃよ。迷いは恐れから生まれる。人は弱いが、同時に狡賢くある。恐れていないと虚勢をはり、迷いという言葉で誤魔化そうとする。それが枷になり、身動きがとれなくなる」
「……そうかもしれません」
「なにを恐れるか」
「私は」
光秀を、友を失うことなのか。それとも、自分の判断にのっかる重責を恐れるのか。
小さい頃から戦しか知らなかったといってよかった。理由はどうあれ戦を続けた。
信長に属してからも、その天下統一のために東奔西走をつづけた。
他国を攻め続けながら順慶は守ったのだ。攻めることが守ることに通じるからだった。
「人とはただ、別れることはない。言葉がある。別れることで、すべてがなくなってしまうことなどないのじゃよ。儂はそれをこの庵の日々で知った。儂はすべてを失ったと思ったがな、なくしたのは、つまらん自尊心くらいなものじゃった。今になってそう思える。ほっほ。こんな死に損ないにでも生きる限り、学べることがある」
久秀は漬け物を口に放り、酒で流しこんだ。
もし久秀ならどうするか。自分がつまらないことを聞こうとしていたことを羞じた。
「明智殿は言われるべきことは言ったのであろう」
「そうですね」
語るべきことは語りつくしただろう。
「さて、儂はは畑を見てこようと思うが一緒にいかがかな」
「いえ。私はこれで」
ただの老人となろうしている男の平穏を乱してしまった。
苦さと、一方で何かを吹っ切ったという思いがあった。
順慶は庵を辞すると夜通し駆けて郡山へ帰城する。心に恐れはありつづける。
この恐れはたとえどんな判断をしようと消えてなくなりはしないのだ。
一国の主として民のことを考える以上、この恐れは取り払ってはならないし、取り払うこともできない。
毛利と対峙していた羽柴軍が京へ急行しているという噂が井戸党から入ったのは、久秀の庵を訪ねてから数日後の六月十日のこと。
家臣を広間へ集めさせ、前に姿をみせた。
方々から驚きの声があがるのを制する。順慶は家臣たちの動きを見るための偽りであったと謝したから。
「我らは明智光秀に合力はしない」
そう己の意志を示す。
その場の誰もが表情を強張らせながらもなにも言わなかった。むしろ、何人かの家臣の表情には明らかな安堵の色が見てとれた。
「殿、しかしながら、明智殿は」
「黙れ、そう言うのならどうして動かなかった。動いたのは井戸党だけだ」
声をあげた臣下は押し黙る。
この中の誰がほんとうに迷ったか。家臣たちの顔をひとつひとつみながら思った。もちろん、みずからの家の今後については迷っただろうが、大和に思いを巡らしただろうか。 誰もが、誰かが大きな声で指針してくれることを望んでいたのではないか。それが結局、国人の限界というものなのだろうか。
「これより皆の血判をもらおう」
順慶の声に、近侍たちがその準備をいそいそと進めた。
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