第40回 本能寺の変
六月二日。
順慶は奈良の興福寺の僧房(そうぼう)の一室にいた。
明日には上洛の予定があった。
安土の夜より光秀と話しをする機会はなかった。
光秀は領地経営に忙しなく、順慶にもまた大和の領民と対する責務がある。
上洛の次は郡山(こおりやま)の軍と合流する。
光秀に中国地方への援軍の命が出、その麾下にある順慶に対しても軍令が出たのだ。
戦つづきで財政的には逼迫(ひっぱく)しているが、これも全国の安寧(あんねい)のためだと家臣たちには言い聞かせていた。
駆ける足音が聞こえた。
その足音は嫌な予感をはこんでくる。
敵襲を知らせてくる時、常にこの足音だったのだ。
かけつけてきた左近の形相に、順慶はただならぬ気配を覚えて身構える。
普段、ほとんど表情を変えない左近の顔には切迫した色があった。
「明智様が京の本能寺を襲撃したとのことにございます」
「本能寺……」
言葉をくりかえすのがやっとだった。
信長は侵攻が滞る中国地方にみずから出馬するため先月の二十九日に側近たちとともに安土城から本能寺へ入っているはずだ。
「信長様はっ」
「わかりません」
「なにかの間違いではないのか」
「詳しい事情はわかりませんが、襲ったのは確かでございます」
「すぐに、帰国する」
「馬の用意は調っております」
街道を駆け抜け、郡山へとって返した。
すでに早馬は届いていたようで、親族衆や重臣一同が広間に集まり、順慶を出迎えた。
信長の安否は分かっておらず、光秀が何を考えているのか定かでない今、どうするべきかなど対策の練りようがない。
とりあえず、兵にいつでも出陣できるよう臨戦態勢を整えておくことしかやることはなかった。
一方、集まった家臣たちをとりまく空気が重たいのは兵の鉾先を光秀に向けるのかと誰もが考えていたからにほかならない。
筒井家にとって光秀は恩人だ。光秀の便宜があればこそ筒井家の今があるといっても過言ではない。
順慶は私室に下がる。
くるべき時が来たとどこかで冷静な自分に気づく。
光秀の中で不穏な気配が膨れつつあるのを順慶はそばで感じながらどうすればいいのかわからず、結局、光秀に限ってそんなことはあるまいと順慶は自分をだまし続けてきた。
順慶は朝菊の部屋を尋ねた。そこにはちょうど多加もいた。
朝菊は侍女たちを下がらせる。部屋を出ようとする多加を順慶は引き留めた。
「詳しいことは聞いているか」
「簡単なことは……」
「戦になるのでございましょうか」
多加が言う。
その言葉には怯えの色はなく、ただの確認という風だった。
そこに京から来た姫、という印象はほとんどない。かといって騎乗を装っている風にも見えなかった。
「わからない」
順慶は二人の室の泰然自若としている様に圧倒される思いだった。
自分の不甲斐なさが恥ずかしかった。
領土内のことであれば尖る神経も、国の外のこととなるとどうにも鈍くなる。
自分はどこまでも田舎大名なのだと痛感させられた。
「私どもは順慶様にどこまでもついてまいります。ですから、順慶様はただ、己の正しいと思うことを。いつだって、そうしてこの地を守ってきたのですから」
「朝菊……」
「私も、朝菊様と同じでござります。武家の女として心は決めております。決して筒井の女として恥ずかしい真似はいたしません」
いつの間にかたくましくなった貴族の姫君を驚きをもって見る。
ここにやってきたのは多加の不安な気持ちを抑えるため、ということが頭にあった。
しかし実際、落ち着かない自分のためにきたのだと今さらながら思う。
四日。
光秀に同心した井戸の一党が周囲の制止を振り切るように山城国へ向かった。
その前日には、順慶は兵を辰市などに派兵し、防備を固めるよう指示した。
山城国、槇島城には井戸良弘(いどよしひろ)がいる。
良弘は辰市(たついち)城での奮戦が信長の目にとまり、槇島(まきしま)周辺に領地を与えられていた。
良弘そのものは織田の直臣という格好になったものの戦時には順慶の与力になるという形だ。
その息子は順慶に仕えていた。
今回、動いた井戸党はその息子の指揮だ。
井戸党の動きをみるかぎり、良弘は光秀に与したのだろう。
順慶そのものの意志が固まっていないのでは止めようがなかった。
青狗に問いただしても順慶の下に留まっている以上、状況は分からず、光秀からも特別なにかを言ってこないという。
光秀が京を支配下に置いたことは間違いないらしいということだけが順慶の耳に入ってきた。
信長の安否はどうしてもわからない。
順慶が左近を呼んだのはその晩だ。人を遠ざけたことで、左近の表情は硬い。
「……左近、俺は腹を切ろうと思う」
突然のことに左近は二の句が継げないように唖然とした。
「さすがに今のは意表をついたか」
「このような時に戯れなど何を考えておられるのですかっ」
「ただの戯れ言ではない。大真面目に言っている。俺が腹を切ったという流言を流せ。軍を出した時、背後を襲われてはかなわん」
「明智様に合力されるのですか」
「それはまだ考えていない。しかしこんな時だからこそ家臣どもの心を見定めなければばならないと思う。光秀につこうが、そうでなかろうがな。俺になにかがあったとすれば動きがあるだろう。朝菊や多加、他の室には事情を説明し、部屋に引きこもらせよ。悲しみ暮れているとでも言えば他の者も無理に話を聞くことはできないだろうから」
「しかし、家臣の意志を明らかにするにしては大きな芝居を打ちすぎでは。順慶様がこうだと決めれば、たとえ胸の内はどうであれ逆らおうとするものはおりますまい。そんな度胸があれば井戸の動きに同調しているはずでしょうし」
「俺はしばらく一人で色々と動こうと思っている。当主であれば今、軽々に城を空けるわけにはいかんだろうが、死人であれば話は別。そうだろ」
左近はじっと視線を注いでくる。
順慶が動じることなく視線を返すと、何かを諦めたように左近は吐息を漏らした。
「……分かりました。しかし、大胆なことでござりまするな」
「左近。俺はいい室をもったと思う。話しているだけで自分の尻が叩かれているような気がしてくる」
「腹を据えた時のおなごには誰も勝てませんからな」
「経験談か」
左近はにやりと笑う。順慶も笑った。
左近を下がらせ、部屋で一人待っていると。
気配を感じた。
いや、感じたというよりも教えられたといったほうがいいか。
「筒井様、いとまごいにまいりました」
庭先より声がした。青狗らしいが、夜闇に沈んだ。庭に出てもそれらしい姿はみえない。
「待っていたぞ」
「……は?」
闇が不意に立ち上がったという風に、青狗が姿を見せる。
「お前なら、いつまでもこんなところでじっとしていられるはずがないと思っていた。光秀の元にいくのか」
「はい」
「ならば俺を連れて行け」
かすかに間があく。口ごもるのが分かった。
「……主に同心していただけるのですか」
「そんな重要なことを軽々に決められるか。俺が決めれば大和の国人衆の大多数が従う。そのためには光秀と話しておかなくてはならない」
「分かりました。方法は任せていただけますか」
「任せる」
青狗の助けを借りて光秀の本陣へ行く。
忍びの技なのか順慶を背負いながらも、青狗は風のように駆けた。順慶は目をとじ、ただ風を肌身に感じ続けた。
おぶされながら、光秀とまともに話すことになるのは京都の馬揃え以来だと思った。
光秀が奉行を務め、きらびやかに着飾った諸将の一人として一団の中にあった。
あれから一年ほどしか経っていない。
やってきたのは洞ヶ峠である。河内の国境上にあり、京を遠望できる要衝だ。
青狗から渡された目だけがでている覆面をさせられ、しばらく待っていると、青狗が戻ってくる。
案内されたのは本陣で、すでに人払いがされているらしくいるのは光秀一人。
順慶は膝をつき、俯く。
「青狗。羽柴の手の者……たしかか」
順慶の覆面がはぎとられると、光秀の冷徹な表情が驚きの色に変わるのを前に、たまらずにやりとしてしまう。
「順慶……生きていたのか」
「なんだ、噂はもうここまで達していたか」
「お前が無責任に自刃するような男ではないと思っていたが」
「まあ、国人たちの動きを測るために流しただけのことだ」
すでに青狗の姿はどこにもない。
「それで、どうしてここへ」
光秀の口調は淡々としている。冷めているといってもいい。
こんな姿は見たことがない。
篝火かがりびをうけて顔を舐めるように影が動き、鬼気迫る雰囲気を醸かもし出す。
「最も天下に近い男に叛いた存念を聞きたい」
光秀は苦い笑みをみせる。
「信長様はこの国のことなどどうでもいいと言われた」
恐れていたことが的中したことに思わず拳を握った。
「信長様は早く騒乱を片づけ、こんな息苦しい国を出、一刻も早く外の世界へ行きたいと仰られた。朝廷を押さえ、安土城を築いた。あとは組織さえつくれば天下は信長様なしでもなんとかなる、と。信じられなかった。これまで数多の屍の山をつくったのは民のためなのではなく、すべて自分の欲望のためだったのだからな」
光秀の声は微かに震えた。
「私は一人の男のつまらない欲望のために我が身を血に浸したわけではない」
「……これからどうするのだ」
織田家の重臣たちが静観していることはまずあえりない。
「京はただ押さえただけにすぎん。戦に勝つには味方が必要だ」
光秀がじっと視線をそそぐ。
話せば自分の選ぶべきものが見える。
そんな都合の良いことを考えていたが、それでも悩みは深まるばかりだった。
「順慶。私などに合力しようとは思うな」
思わぬ言葉に、順慶は目をみひらく。光秀の表情は静かなまま。
「俺がお前に助力を望むと思ったか。……信長様を害した直後の熱に浮かされた頭のままならばそう言っただろうな」
光秀は笑う。かすかな自嘲がみてとれた。
「熱に浮かされた?」
そんな言葉は光秀という人物の極北にあるようなものに思えた。
「坂本の城から京に向けて進む時、俺は信長様の背後に天下を見ていた。その時からだろう。俺の目は曇った。信長様を討つことで自分が天下の主にでもなるとな。自分の手に天下が転がりこんでくる。山中で馬を走らせながらな。その結果が、今だ。俺の中で、民は空虚なものだった。ただのお題目だった」
「今からでも……」
順慶は口にしながら、なんという愚かなことを口にしたのだと唇を噛みしめた。
「お前は生き残り、大和の民を守れ。それが筒井家の当主のすべきことだろう」
「松永殿と同じ道をいくのか。松永殿もまた自分を守るため死地と知りながらも叛いた」
光秀と久秀。自分よりも優れた資質をもっているはずなのに、理解のしがたいものに殉じゅんじる。
優れた資質ゆえに殉じるのか。
それは、うらやましくもあった。
大和に縛られているのだと順慶はそのたびに痛感する。
しかしそれが順慶の生きる原動力でもある。
人生はままならないものだと、強く思う。
「順慶。俺はこれまでどんなことも厭わなかった。叡山の焼き打ちも仕方のないことだと割り切った。信長様を討った時、はじめて悔やんだ。俺はみずからの手で自分の希望を打ち砕いたと気づいたのだ。俺は松永殿にももとる。私はすでに死んでいる。こんな死人につきあってくれるなということだ」
「なら、独りで逝け」
「順慶……」
「そんな心づもりであれば、独りで逝くべきではないのか」
「そうは、いかない」
「なぜだっ」
「俺が信長殿に希望を見出したように家臣たちもまたこんな死人に希望を見てくれている者がいてくれるのだ」
「そいつらのためにしてやることが戦だけなのか」
「私の気持ちはどうあれ、皆が天下を望んでくれるなら私は叛いた者の責務としてやりきらねばならない。私の時の失望を味あわせたくはない」
どうにかできないのか。光秀のために自分にできることは。
しかし自問は胸中で空虚にこだまするばかりだった。
「守るために戦ができるというのは今の時代では尊ばれるべき資質だ、順慶。……青狗、順慶殿をお送りせよ」
光秀は笑った。
はじめて会った時にみせた、人を惹きつける笑顔だ。
背後に気配がたちあがる。
順慶は目頭に熱を覚える。唇を噛みしめ、きびすを返した。
帰りは行きと同じように青狗におぶされた。景色が流れていく。
「……青狗。俺を殺すか。どうせ俺は今、死んでいるんだ」
誰かが意気地のない自分に代わって決断してくれることに期待しているのに気づく。
「主はそれを望んではいません」
「お前の気持ちを聞いている」
「私は主の言葉に従うのみでございます」
まるで疾風に巻き上げられるようにあっという間に郡山城へ到着すると、青狗は挨拶もなく姿を消す。
庭先に左近が降り立つ。
「どこにいらしたのですか」
「ここ最近、お前の驚く顔をよく見るな」
「どこに行くか、それだけでも教えてくださると思っていましたが」
「何事にも機がある。子どもではないんだぞ。いちいち言伝などしてはいられない」
まだなにか言いたそうな左近を振り切り、部屋に戻った。
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