第21回 雌伏
兵が身をひそめて草原を移動する。順慶もまた徒と共に這いつくばり身をよじりながら近づく。
湿り気を帯びた地面からは濃密な土のにおいがした。
四月も半ばを迎えた空気はまだ冷たい。
「殿。くれぐれも深追いは自重してくだされ」
隣にいる左近がもう何度目かになることをくりかえす。
順慶はうんざりしながら「しつこいぞ」と唇をとがらせた。
「心配してすぎるということはござりませぬからな」
「俺は子どもではない」
今、二人は足軽と同じ軽装だ。
左近は夜襲に順慶が参加することに猛反対したが、しりぞけた。
久秀に筒井城より逐われて一年以上の時が経とうとしていた。
久秀は順慶に従う国人たちを徹底的に従えようと兵を派している。これから攻撃するのも城攻めをしている松永方の兵だ。
順慶は安穏とはしていられない。
大和のいち国人としてやるべきことをやらなければと思うがゆえに心は逸る。
順慶が兵と共に戦えばこそ民は筒井家を支えてくれる。
当主として、一人の大和に生を受けた人間として、やらねばならない。
陣中での喧噪が聞こえてくる。
戦況は優位に運んでいるらしく陣全体の士気は低くはないが、肌のひりつくような緊張感はまったくない。
「いけっ」
順慶が叫ぶ。兵たちは素早く起き上がると敵陣めがけとびこんだ。順慶もまた兵に紛れ、白刃を抜く。
ゆるんだ兵の顔が一変する。
篝火を蹴り倒し、無防備に座っている兵、車座になっている兵、なにが起きたのか理解していない兵を蹴り倒し、斬った。
別のところから叫びが聞こえた。ふりかえると、四頭の馬が気が狂ったように嘶き、前足をもちあげていた。その動きは発作を起こしたようでなだめようとする兵を突き飛ばし、暴れ回っていた。
馬を昂奮させ、暴れさせることに成功したようだ。
そしてこれが退却の合図だ。
しがみついてこようとする兵を蹴り倒した順慶は混乱の気配を背中に強く感じつつ、闇に沈んだ草原を駆け抜ける。
兵が何人かが遅れ、その中には左近がいる。
襲撃した敵陣から一つ二つと松明の光が増え、それが近づいてくる。
順慶たち先行した部隊は森にとびこんだ。松明の光が草原を横切り、左近たちを追いかける。左近たちは何度も振り返り、へっぴり腰で逃げる。
追いかける敵の雑兵は勢いをもって怒号をあげて追いかける。
左近たちが森にとびこみ、敵方が二十人ばかり続いた。
「かかれえッ」
順慶の叫びと共に、森に伏せていた兵たちがわっと現れる。そして左近たちもまた回れ右をし、果敢に斬りかかった。
松明が地面に落ち、屍を照らす。
「退け」
森の中に隠していた馬にとびのる。
「多少じゃ助けになればいいのだが」
井戸城を攻める松永方の後方を脅かすことはもう何度もおこなっていた。
今日のように直接的な襲撃は少なく、物資の強奪が信長様だ。その時に助けを求めるのが地元の猟師や農民だ。間違った道を教えさせ、襲撃する。
国人と共に生きるた筒井家だからこそできることだ。
決定的な打撃はあたえらてはいないが疑心暗鬼が城攻めに遅滞を生じさせていることは間違いない。
馬腹を蹴った。
救援した井戸城から、身を寄せている福住城までは一里半といったところで百人ほどの一団で駆ければ半刻ほどで行き着く。
「順慶殿、よう戻った」
帰還した順慶を男が迎えた。
福住(ふくずみ)城の城主、福住順弘(ふくずみ じゅんこう)だ。彼は順慶の父、順昭の弟で、福住家に養子に入っていた。
福住城は筒井城より東に二里いったところにある平山城だ。
久秀は順慶に従う国人たちを徹底的に従えようと兵を派している。
順慶は城で構えているわけにはいかない。
井戸城を攻める松永方の後方を脅かすことはもう何度もおこなっていた。
今日のように直接的な襲撃は少なく、物資の強奪が主だ。
その時に助けを求めるのが地元の猟師や農民だ。
間違った道を教えさせ、襲撃する。
国人と共に生きる筒井家だからこそできることだ。
決定的な打撃はあたえらてはいないが疑心暗鬼が城攻めに遅滞を生じさせている。
「さすがは福住殿の兵です。よく鍛えられており、大いに敵を打ち破ることができました」
「そう言ってもらえて光栄だ。それにしても順慶がじきじきにとは。たくましくなったものだ。順昭殿にもひけをとらん」
「父にはまだ届きません。上の者として当然のこと。特に現状では一人安穏と過ごしているわけにはいきませんから」
「頭が下がる」
「頭など下げることなどござりませぬぞ、順弘殿。戦に勝ったはようござりましたが、その間、私は生きた心地がしませんでしたから」
左近がわざとらしく言う。
「左近、まだ言うのか。もういいだろ。なにごともなかったのだ」
「今日は、でござりまするぞ。次は分かりません」
「分かったわかった。とりあえず今日はもう勘弁しろ」
「なかなかの主従だな」
順弘は順慶信長様従のやりとりに笑い声をあげた。
順慶は照れ隠しに頭をなで上げ、男たちの背後でたたずんでいる朝菊の前に立つ。
「……今帰った」
「ご苦労様でござります」
城内に戻った順慶は鎧を脱ぎ、湯浴みをする。
寝衣に替えると城内にあてがわれた私室へ戻る。
そこにはすでに布団が敷かれていたがまだ戦の昂奮が冷めやらない。
「お酒をおもちいたしました」
朝菊がしずしずと入ってくる。
「すまんな。ちょうど眠れないところだったのだ」
「そう思いました」
朝菊はすっかり順慶のことを心得ている。
「俺はそんな戦のあとに酒を飲んでいたか」
「違います。順慶様の目が爛々と輝いておりましたので、なかなか寝つけられないと思ったしだいにござります」
注がれた酒をなめる。口の中がほのかな甘さと熱で痺れた。
「朝菊、お前も飲め。ひとりでは味気ない」
「いただきます」
朝菊は順慶の注いだ酒で唇を濡らす。
「ここでの暮らしはどうだ」
「このあたりでは花が採れますから、前の城よりはよいかもしれません」
部屋の片隅では紫色の花弁の小さな花が生けられている。
「お前は花さえあればどこでもいいのか」
「そんなことはありません。順慶様も一緒でなければ」
「……そうか」
順慶はどう反応していいのかわからず、酒を呷った。
「もう間もなく一年……か」
順慶はぽつりと呟く。
「各地ではみなが戦っている」
順慶が落ちた翌日、筒井城は落ちた。
それでも粘った三日間は無駄ではない。
流した血はたしかに国人たちの心を揺り動かした。
久秀は早急に大和を平定しようと画策したが、それは今も成ってはいない。
筒井城より落ちた際、匿ってくれた布施家をはじめとして多くの国人たちが順慶が再び反撃の狼煙を上げる日を待ってくれている。
その中には順慶に娘を側室にと言ってくる者もいた。
順慶は受け入れた。政略ではあるが、国人同士の絆はこうして強くなっていく。
目には見えないが、そこには血が通う。
父が築いた絆が今の順慶を救っている。
このことを朝菊に話した時、「本当に愛している女はお前だけだ」と軽はずみなことを言ったがためにはじめて怒らせてしまったのだった。
「お相手の女性に対してそのようなことは決して口になさらないでください。私に接してくれた時と同じように誠心誠意、慈しんでくださりませ。殿方はそれでよろしいのです。
筒井方に属することを掲げ、守りを固めている者のほかにも、松永方に降しながらも裏で筒井家ともよしみを通じている者もいる。
傍から見れば久秀が有利かもしれないが、なにかのきっかけでその優位性は崩れてしまうように不安定な情勢でもあった。
そのきっかけを起こすことこそ、多くの家臣の死の上に立つ自分に与えられた役目だと順慶は信じている。
今はじっと待つ時だ。
杯に口をつけるが、流れてくる甘いかおりはない。
知らぬ間に飲み干していたらしい。
それに気づくと、とろとろした眠気に身体の半ばひたっているのを自覚する。
「順慶様……」
朝菊の手が肩に添えられた。
されるがままに朝菊の膝に頭をのせる。目蓋が自然と下りた。
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