第17回 閨

深更。順慶はまんじりともできなずにいた。

 奈良の興福寺の自陣に戻っていた。

 信貴山城には三好の兵が詰めている。すでに一週間あまりが過ぎようというのに頭がまるでたっぷりと眠ったあとのように冴え渡っている。ここのところ眠りも浅いが、そうかといって疲労感を覚えるわけではない。

 それでも左近には「よくお眠りください」と言われた。眠れないと言うと、それでも身体を横たえ目を閉じるだけでも違うと言われたが、生返事で聞き流した。

 三好には当然、この勢いをかってがむしゃらに攻めるべきだと主張したが、急ぐべきではないとたしなめてくる始末。信貴山城では数に劣るとはいえ、あの山城で松永の主力を引き受けさせてしまった手前、それ以上、執拗にも言えなかった。

 信貴山城を落とした。

 そのことばかりを思い浮かべる。

 ようやくまともに久秀を追い詰められた昂奮が燠火のように芯を熱っぽくしている。

 書状をしたためる気や重臣たちからの報告書、他の暇を潰すための本などを読む気にはならなかった。

 なにもする気にはなれないのにただ目は、意識は、冴えつづける。

 初陣の時もそうだった気がする。子ども心に戦のあとは妙に眠れなかった。

 その時は、乳母が沿ってくれたのだ。乳を出し、しゃぶらせてくれた。かなり強く噛んでしまい、血がにじんでしまったが、乳母はなにもいわず、されるがままになっていた。

 それでようやく眠れたのだ。

 宿直に酒でももってくるように申しつけようかと考えたが、すぐに打ち消す。

 そういう気持ちでもない。

 まるで自分の身体で生き物がうねってわめいているようだった。馬をはしらせたいとも思ったが、現状、そんなことが許されないことは当然だ。

 その時、「順慶様」と声がかかった。

 ぎょっとした。この時刻には聞こえぬはずの声だったのだ。

「朝菊か」

「……入ってもよろしいでしょうか」

「あ、ああ」

 戸惑いつつも返事をする。

 朝菊は白い着物をまとっている。見るだけでそれがかなり上等な品だと分かった。

 順慶は咄嗟には言葉をつづけられない。

 朝菊は部屋に入ったものの平伏したままなかなか顔をあげようとはしなかった。

 いつもの快活さは影をひそめ、心なしそのたたずまいには緊張をみてとることができた。

「なぜお前がここに。家に帰ったのではないか」

「はい」

 答えになっていない。

「その格好は、なんだ」

 聞きつつ、生綱をのんでしまう。

「これは……」

 朝菊の声はかすれ、途中で口をつぐんだようだった。

「左近に言われたのか」

 朝菊は答えなかった。その姿が急に儚く思え、順慶は冷静さを取り戻す。

「朝菊、なにをするのか分かっているのか」

「わ、私は」

「顔をあげろ、朝菊」

 朝菊の眼差しは艶やかに潤み、頬はほんのりと染まっていた。

 その顔を見ると、順慶は一端収まった波がもう一度やってきたように拍動が大きく揺らぐのを感じてしまう。

 胸の奥がくすぐったくなり、疼いた。身体の中で暴れるものがさらに大きくうねる。

「俺は、お前の気持ちが知りたい」

「順慶様は、私が嫌いですか、私は……」

「俺は色恋を知らぬ」

 順慶は朝菊の声を遮るように言った。

「お前をこうして見る時、胸の中にあるものがなんなのか分からない……」

 順慶は、自分を見つめる眼差しに訴えるように言う。こうしてはまともに直視するのは初めてのことかも知れない。黒目がちな瞳に吸いこまれるような錯覚に陥った。

「お前を見ていると胸が騒ぐ。怒りや恐怖とは違う。昂揚に近いかもしれないが、やはり同じではない」

「はい」

「お前の姿をいつも追うような気がする」

「は、い」

 朝菊は目を伏せた。長い睫毛が震える。

 自分が朝菊に迫っていることに気づく。

 華奢な肩に手をのせると、小刻みな震えが伝わった。湿った呼気が首筋をくすぐる。

 灯台の火がじりじりと音をたてた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る