第7回 得度

気づくと夏の息吹が遠ざかり、冬の気配が大和平野を包みこんでいた。

 藤政は主立った家臣たちと共に興福寺を訪れていた。

 得度を受けるためである。

 夏が盛りを迎える前までに、決心は固まっていた。ここまで時をかけたのは万全の態勢でこの日を迎えたいという気持ちがあったからだ。

 三好と松永の争いは和睦という形で一端は双方が矛を収める形で終結したが、夏頃に三好方が動き、摂津や和泉にある松永の拠点を次々と制圧した。

 久秀の行方は未だようと知れなかった。

 ここにきて、さすがに死んだのではないかと脳裏を過ぎることがあったが、一方で三好方が久秀の首を獲っていないかぎり死んではないないだろうとも思った。

 松永方の動きをこれまで以上に念入りに調べさせた。些細な漏れもなくせと左近には命じた。

 結果的に、久秀の存在はともかくとして松永はまず大軍を起こすことはできぬだろうことを確信した上でこうし奈良を訪ねていた。陣所を周辺に築き、警戒を厳にさせた。

 本陣からでも北方にそびえる佐保山の丘陵づたいに城を窺うことができる。

 あれこそ久秀の大和における本拠地の一つ、多聞城だ。秋の色につつまれた山の中にありながら、白い城壁が朝日を浴びて輝いて見えた。そこから興福寺まで半里と離れてはいない。

 実際、久秀にも筒井軍の動きはすでに伝わっていたらしく、多聞城より兵がやってきた。といっても本格的な戦ではなく少数のぶつかりあいに終始した。

 久秀が指揮しているのかどうかは定かではないが、相手方はこちらの勢いの旺盛なのを察知するとすぐに兵を引いた。

 筒井軍の意気は軒昂としている。

 当主の晴れの場であり、おめでとうござりまするという声に何度も答えた。

 共に境内に入れるのは重臣まで。

 藤政一行を迎える興福寺の僧侶の顔まで心なし明るく見えた。

「殿、大きくなられまして」

 他の家臣たちの目がなくなったことで感極まったように重臣の一人が声をあげた。

「泣くな、みっともない」

 藤政は思わず苦笑してしまう。

「大殿様よりお預かりした藤政様が今、立派に成長され、私は……」

 泣き出しこそしないが、見ると目を赤くしているのが何人かいた。

「分かった。ともかく泣くな。寺のものに迷惑だろう」

 急に照れくさくなり、藤政は顔を背けた。

 敷地内にある成身院には立ち入るのは藤政のみだ。寺の人間に案内され入ろうとすると背後より、

「藤政様」

 誰かが声をあげた。振り返ると、次々に他の臣もそれに倣う。

 左近は押し黙っていたが射貫くような強い視線を送ってくる。

 次にここから出る時にはすでに俗名でなくなっているのだということに思い至るのに少し時間がかかった。

 見た目も変わるが、名も変わる。

 これまでそんなことは少しも考えていなかった自分を笑う。

 こだわりつづけていたのは気持ちであり、それがすべてだった。

 最終的にはその気持ちすら関係ないという思いに至る。

 そこまで至るのに時間がかかったことが不思議で、なにをあそこまでうじうじと悩んでいたのか分からなかった。

 しばらく待っていると、幾人かの僧侶を従えた宗慶権大僧都が現れる。

 得度の儀を藤政は静かな気持ちで受けた。

 左近が言ったとおり、必要なのは形なのだ。

 心が俗世を離れるわけではない。

 僧侶であれば今日という日が世俗に染まった心を長い修業を通し、練り直していく出発点になる。しかし藤政にとってこれは練り直すための入り口ではなく、半聖半俗という身で俗世へ戻っていくための通過点なのだ。

 儀式はすべてとどこおりなく済んだ。

 事前に得度の作法などを重臣より叩きこまれていたが、役に立ったかどうかという感じだった。

 成身院を出、境内を歩く。玉砂利の擦れる音が耳に心地よい。頭に手をやり、なで上げる。

「左近、もう少し早う決めるべきであった。寒いぞ、これは。まあ、しかし触り心地は我ながら悪くはない」

「頭の形も悪くないと思いまする。これも筒井家の血筋でござりましょう」

「剃るためにあるような頭か」

 一仕事終えたように口も軽く、思わず笑った。

「左近、俺の名は今日より、陽舜房順慶というらしいぞ」

「順慶様、でござりまするか」

「馴れるまでにいささか時はかかりそうな気がする。自分で言っても、これにふさわしき当主たれるのかという気持ちが強い」

「一つ、お聞きしてよろしゅうござりますか」

「なんだ」

「こたびの得度の件ですが、我らがしつこく言ったから、でござりましょうか」

 順慶は笑う。

「俺が決めたのは農家の子のおかげだ」

「は?」

 左近は間の抜けた顔をする。

 順慶は巡察の時にであった子どものことを話してやった。

「俺が御仏の遣いで、そのおかげで自分たちが暮らしていると言った。母からそう教わったらしい」

「でありましょう。筒井の郷の者たちは皆、そう教えられていますから」

「簡単に言ってくれるな。俺はこれまで知らなかったのだぞ」

 左近はにやりと微笑んだ。

「慕われる者は常にそうあるべきと存じます」

「俺は常に自分がどう変化するかを考えていた。しかしそんなことはどうでも良かったのだ。お前が言ったとおり、民にとっては大和の守護者の裔なのだろう。そしてその裔はこうして坊主であり、興福寺の衆徒でなければならない。どうしてもなにもない。昔からそうだった、ということだ。それで領民の誰もが安心できる。それがすべてだということに気づいたのだ」

「なるほど。そのように納得された上での得度ということで安堵いたしました。家臣の中では少ししつこく言い過ぎたかと悔やんでいるものもおりましたから」

「せいぜい後悔させておけ。あのしつこさに辟易したのもだからな。一歩間違えれば、本当に俗世との関係を断ち切らぬともかぎらない」

「殿っ」

「戯れ言だ。左近、父が得度したのは十二歳だ。そして二十七歳の若さで亡くなられた。が、大和一円に影響をおよぼすほどの大身になるというありあまる功績を成されたことはお前に語るまでもなかろう。俺は父を越えようなどという思いはもたぬ。しかし父が成せなかったことをすることが、果たせなかった孝行であると定めている。松永久秀を討つ。よいな」

「はっ」

 その声は境内に高らかに響く。

「久秀を追い散らすは民のためである。しかし討ちたいと思うのは俺の欲だ」

「元より我らも気持ちは同じ。そして我らは殿の家臣。殿の望みを遂げさせるために働く所存でございます」

「頼むぞ」

「はっ」

「よし、皆のもとに戻るか。なさねばならぬことはたくさんある」

 夏よりもいくらか明度の落ちた日差しを浴び、ほのかに温かくなった頭を撫でる。

 陽舜房順慶。

 民の望む筒井家の当主の器はできあがった。

 ここから自分がその型にどんな中身を流しこんでいくかだ。

 順慶は決然と歩きだす。

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