第55話「俺だったら見殺しにしたと思う」

 腹立たしげにそう言い捨てて急に立ち上がったカンナは、力任せに良広の頬を殴りつけた。さすがにこの世のどんなものよりも丈夫な血華と言うべきか、女のように華奢な体で殴られたというのに良広の口に中には鉄臭い味が広がった。その横で、「いやあ、いい音したな」と呑気に笑うのは光介だった。


「見ろ、馬鹿良広」


カンナは咲の掛け布団を剥いだ。そこには今にも割れそうな風船を連想させる咲のお腹があった。それが時々所々隆起したり沈んだりを繰り返す。良広の頭の中はそれを見た途端に真っ白になった。言葉も出ない。


「お前、かわいいよな。初めての自己犠牲を止められてマジ切れしてやんの」

「五月蝿い。これ以上内側から圧力かかったら、破裂する」


仕方ないんだ、とカンナは先ほどと同じ姿勢をとった。光介は何の躊躇もなく、鎌を振り下ろした。良広は悲鳴すら上げることは出来なかった。花が真二つになったかと思ったとたん、その傷口から血が流れた。迸った血の臭いが部屋に充満し、咲の体臭と入り混じってひどい悪臭となった。カンナの首筋から流れ出た血は着物や布団を赤く染め、カンナの肌に木の根のような線を引いていくが、辺り一面が血の海に沈むことも天井に血が着くこともなかった。


 カンナは素早くロザリオの鎖を引きちぎり、咲を抱き抱えるようにして首筋の傷に咲の唇を押し当てた。すると今まで自分の指一本動かさなかった咲が口を開き、まるでアイスクリームでも舐めるかのように舌と口を動かした。そして、ごくり、と音を立てて咲の喉がゆっくりと上下した。やがてカンナの傷口はすっかり塞がってしまったようであるが、咲は名残惜しそうに珊瑚のようにカンナの肌の上に残った血の筋を舐め始めた。それもなくなると最後には着物や布団、畳の上、挙句の果てには鎌の血痕まで咲は嘗め尽くした。咲が自分で動くその光景が良広にとっては信じられない反面、血に対する執念に恐怖を覚えた。


「たぶん、自分の蝶の犠牲になったのが咲ちゃんだったから、あいつは初めて蝶に立ち向かうことにしたんだと思う。偉いよ」


自分の体を猫のように舐め回す咲を見つめるカンナの穏やかだが暗い瞳を見た光介は、唐突にそう言った。正直、俺がカンナの立場だったら逃げてる、と。


「咲ちゃんが目の前にいて、その中に俺の蝶がいるって分かってたなら、俺は咲ちゃんを見殺しにしたと思う」


カンナは顔を歪めながら、咲が赤ん坊のようにしゃぶっていた着物を咲の口から引き抜いた。咲の腹部に目をやれば、隆伏運動は収まり、張りもなくなったように感じられた。小さく安堵の息を漏らし、咲の体を支えながら布団に咲を寝かせたカンナは、不意に裾を引っ張られた。そして耳元で掠れた小さな声がした。その声は、カンナがずっと言葉を返したいと思い続けていた幼女の声に酷似していた。


「けっか。に、げ……て」


咲はカンナの着物の裾を捉え、虚ろな眼ではあるが確かにカンナを見つめていた。その双眸には、涙がたたえられていた。

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