『道化』

矢口晃

第1話

 ある、暖かな春のことです。

 ピエロは、悩んでいました。

いったいどうすればいいか、もうここのところ一週間あまりも、ただそのことについて頭を悩ませていました。

 相談できる仲間は、一人もいませんでした。そんなことを相談すれば、きっと仲間の誰もがあきれて、自分のことなど、もう仲間とは思ってくれなくなるだろう。そう考えると、ピエロはその悩みを、誰にも打ち明けることができませんでした。

 ピエロは手当たり次第に、近所の本屋を訪ね回りました。そしてその中に、自分の悩みを解決するのに少しでも役に立つ本はないかと、目をお皿のようにして棚から棚へと本の題名を見て歩きました。「これは」と思う題名の本が見つかったら、手にとって目次や本文にざっと目を通して見るのですが、いずれも自分の悩みを解消してくれるようなものではありませんでした。

「はああ。どうしたらいいんだろう……」

 ピエロはそう呟きながら、何度となく赤い大きな口からため息をもらしました。もとから泣いているような大きなばってんの目も、いっそう悲しそうに見えるのでした。

 次の日曜日までには、何とかしなければなりません。そして次の日曜日までには、もうあまり時間も残ってはいないのでした。

 お客さんの前ではいつでもおどけてこっけいなふるまいをするピエロですが、内面はとても純粋で、まじめで、優しい性格の持ち主でした。ですから、普通の人ならもしかしたらそこまで悩まないかもしれないことに対してまで、真剣に考え過ぎてしまうのです。

 片足だけで玉乗りもできる、フラフープも両手両足で同時に回せる、一輪車を逆立ちしながら両手で漕ぐことだってできるピエロにも、どう解決していいのかわからない問題が、たった一つだけありました。

 そんなピエロが、しょんぼりと肩を落として、ある古本屋に立ち入った時のことです。それほど広くはない店内の、自分の背丈の二倍も高そうな本棚の間を、ゆっくりゆっくりとピエロが本を探しながら移動していると、

「やあピエロさん、こんにちは」

 と、ピエロに声をかける男性がいました。

 ピエロが声のした方に静かに顔を向けると、帳場の後ろのふすまを半分だけ開けたその奥に、居間の中央のまるいちゃぶ台のそばに、おとなしい三毛猫を膝に抱いたおじいさんが目に入りました。テレビが点いているらしく、居間のどこかからお昼の番組らしい音声が聞こえていました。古本屋のご主人らしいそのおじいさんは、もう春だというのにまだ厚ぼったいちゃんちゃんこを着て、にっこりと優しそうな顔をピエロの方に向けていました。

「何か、お探しものですか?」

 おじいさんは、声が小さくてもはっきりとした口調で、ピエロにそう尋ねました。ピエロは、親切な店のご主人に少しだけ無理に愛想笑いを見せながら、

「ええ。まあ……」

 と歯切れの悪い返事をしました。

「何だが、元気がないようだね。どこか具合でも悪いのかい?」

 おじいさんはそう言うと、膝の上でくうくう寝息を立てていた三毛猫をゆっくりと持ち上げ、隣の空いていた座布団の上に移しました。気持ちよく転寝をしていた三毛猫は、最初迷惑そうにふてくされた表情を見せましたが、日当たっていた座布団が思いの他暖かく気持ちよかったためか、またすぐに体を丸めてさっきより深く眠りいってしまいました。

 ピエロはこの親切なおじいさんをあまり心配させては申し訳ないと思い、今度はできるだけ明るい声で、

「いいえ。とても元気ですよ。ありがとうございます」

 と答えました。

 おじいさんは、

「そう、そうれはよかった」

 という代りににこにこと温和な笑顔を見せながら、立ち上がり、居間から帳場の方へ進んできました。そして、帳場へ降りる下駄に足を入れながら、

「では、次にやる手品の本でも探しにきたのかい?」

 とピエロに再び質問をしました。

 ピエロは何と答えようか一瞬迷いましたが、すぐに、

「ええ、まあ、……そういうわけでもないのですが」

 と曖昧な返事のしかたをしました。

 おじいさんは、それで何かを敏感に感じ取ったようでした。いつも町の広場で子供たちに見せている、あの朗らかで人懐っこいピエロとは、今日の様子が全く違っていたからです。

「なんだか、様子がおかしいねえ」

 そう呟くように言うおじいさんに、

「そうですか? そんなこと、ありませんよ」

 と、ピエロは作り笑いをしながら答えました。しかし、嘘や隠し事は、人にはすぐにばれてしまうものです。何かを隠すのに必死のピエロの真っ白な額に、うっすらと汗の粒が浮いているのをおじいさんは見逃していませんでした。

 ピエロの隣まで来ていたおじいさんは、その時ふと視線をまぶしい外の方に向けて、尋ねるともなくピエロにこう言いました。

「ずいぶん、暖かくなりましたねえ」

「ええ。そうですね」

 話の内容が突然天気のことに変わったので、ピエロは少し戸惑いながら答えました。

 おじいさんはそんなことは気にもとめない様子で、

「今日の天気じゃあ、外は、暑いくらいですか?」

 とゆっくりとした口調で言いました。

「おや?」

 ピエロは、心のなかでそう思いました。まだ、季節はようやく春になったばかりです。いくらいい天気に晴れていたとしても、暑いなんていうはずがないと思ったからです。

 ピエロは、答えました。

「いいえ。まだ、暑いというほどではありませんでしたよ」

 おじいさんはそれを聞いてにっこりと笑うと、またピエロの方に顔を向け直しました。やや背中を丸めているおじいさんは、若いピエロの顔を下から覗き込むように見上げながら、

「でも、そんなに汗をかいているじゃあ、ありませんか」

 と言いました。

 ピエロは、どきっとしました。そして、今度は何も言えませんでした。

「何か、人に話したいことが、あるんじゃないのかい?」

 ピエロは、とうとう作り笑いを浮かべるのさえやめて、じっと唇を結んでうつむいてしまいました。

 まるで春の日差しのように暖かい心をもったおじいさんは、真剣なまなざしでピエロを見つめながら、さらに続けて問いかけました。

「このわしでよかったら、その苦しい胸の内を、打ち明けてはどうだね?」

 長い人生の中で培われてきた、おじいさんの人を見定める眼力は、ピエロを一目見た瞬間から、何か悩みを抱えて来たことを感じ取っていました。

 そして、それとまったく同じことに、ピエロ自身も気がついていました。

 このおじいさんには、どんな隠し事をしても意味がない。そしてまた、このおじいさんなら、たとえどんな悩みを打ち明けたって、自分をばかにしたり、笑いものにしたりしないだろう。

 ピエロはそう思って、一週間の間、誰にも打ち明けられずに苦しんでいた悩みごとを、思い切って打ち明けることを決心しました。

「実は……」

「うん。何だい?」

 ピエロの手は、小刻みに震えていました。声もいつもよりかすれ、耳は真っ赤に充血していました。おじいさんはただ頷きながら、ピエロの話し出すのを静かに待っていました。

「実は、……実は、実家の母親に、次の母の日に、何をプレゼントしたらいいのか、迷っているのです」

「母の日?」

 この答には、さすがのおじいさんも少し意外な感じを受けたようでした。

 ピエロは額からこめかみにかけてさらに汗の粒を多くしながら、一生懸命言葉をしぼりだすようにしておじいさんに話を続けました。

「はい。もう、あまり時間がないのです」

「確か――」

 おじいさんはそう言いながら、視線を宙に浮かせて、今年の暦を思い返していました。そして、

「確か、今週の日曜日だね、母の日は」

 と、ピエロに尋ね返しました。

「ええ。そうなんです……」

 ピエロはそう言うと、しょんぼりと黙りこくってしまいました。

 いったい、どういうことだろう。おじいさんは不思議に思いながら、ピエロにこう言いました。

「母の日と言えば、すぐにカーネーションと思うのが普通だと思うが、それではいけないのかい?」

 ピエロは一度ぐっと顎を引いてから、

「ええ。いけないんです」

「どうして? 君のお母さんは、カーネーションがあまり好きではないのかい?」

「そうではありません」

 ピエロは少し口調を強くして言いました。

「私の母は、カーネーションが大好きです。ですから、毎年私からカーネーションの花が贈られてくるのを、とても楽しみにしています」

「だったら、今年もカーネーションを贈ったらいいと思うが、それではいけないのかい?」

「ええ――」

 そう答えたピエロの口調は、さっきまでと同じ、弱々しいものに戻っていました。

「どうしてだい?」

「実は――。実は……」

 ピエロは、最後に全身の勇気を一杯に振り絞るようにして、話し出しました。

「お金を、落としてしまったのです」

「お金?」

「はい。今年も、母の日には実家の母にカーネーションを贈ろうと思い、何週間も前から、広場などで私の芸を見て下さったお客様から頂いたチップを、こつこつと貯めていたのです。そして今週になって、さあいよいよカーネーションを買おうと思って隣町の大きな花屋に向かう途中、全財産の入った財布ごと、電車の中にかばんを忘れてきてしまったのです。しまった、と思い、駅や警察に相談をして探してもらいましたが、今日までまだ見つかっていません。今からお金を集めようと思っても、そんなお金がすぐに集まるはずもなく、どうしよう、何かカーネーションに変わる、できればお金のかからないプレゼントはないだろうかと、探して歩いていたのです。でも、どうやってそんなプレゼントを探せばいいか私には知恵がありませんので、何か参考になる本でもないかと、こうして本屋を訪ね歩いているのですが、どうにもだめです……。ああ、私はいったい、どうすればいいというのでしょう。このままでは、せっかく母の日を心待ちにしている母親に、何のプレゼントもしてあげることができません」

 今にも泣きだしてしまいそうな表情でそう話すピエロの様子を、ゆっくりと黙ってうなずきながら聞き終わったおじいさんは、

「ちょっと待っていなさい」

 と言って、いったん帳場の奥の居間の中へ姿を消しました。

 四、五分後、再びピエロの前に現れたおじいさんは、手に古びたテープレコーダーを提げていました。おじいさんは持って来たそのテープレコーダーを帳場の台の上に乗せると、ピエロに向かってこう言いました。

「君の今の率直な気持ちを、このテープレコーダーに向かって話しなさい」

「え?」

 ピエロはばってんの目を丸くして、おじいさんに聞き返しました。

 おじいさんは、諭すように言いました。

「君のその純粋で、まじめで、お母さん思いの気持ちほど、君のお母さんにとってすばらしい贈り物はないよ。さあ、君の優しい気持ちを、このテープに録音するんだ」

「それで、いったい……」

「私が、届けてあげよう」

「え?」

 ピエロは不思議に思いました。おじいさんはピエロを町の広場で見かけたことがあり、顔だけは知っていたかもしれません。ですが、ピエロにとっては、このおじいさんと会うのは、この日が初めてだったからです。当然、おじいさんはピエロのお母さんがどこに住んでいるかさえ、知っているはずがありません。

 おじいさんは、そんなことはまるで問題にでもしないというような様子で、ピエロの手を引き、ピエロをテープレコーダーの前に立たせました。

「準備は、いいかい?」

 ピエロはあわてました。まだ、何を話すかさえ考えてはいません。しかしおじいさんはそんなことお構いなしに、録音開始のスイッチを押してしまいました。

 否応なく、録音が開始されました。

 ピエロはとにかく、何かを話さなくてはいけないと思いました。しかし、あわてればあわてるほど、何から話したらいいかわからなくなってしまいました。

「あ、あの。お母さん、僕です。ピエロです。あ、あの、お元気ですか? 今年の母の日は、カーネーションを、お、贈れません。ごめんなさい。僕が、お金を落としちゃったから。探したんですけど、見つからないんです。あ、あの、それで、ぼ、僕は……」

 ここまで一息で言い終わると、ピエロはやっと少し落ち着きを取り戻した様子で、

「今年の母の日は、お母さんのために、何もプレゼントすることが、できません。本当に、ごめんなさい。でも、お母さんには、いつも、とても感謝しています。僕を、こんなに大きく育ててくれたことに。また、いつも、僕を励ましてくれることに。感謝しています。本当に、ありがとうございます。長生きして下さい。そうしたら、僕は、いつか本当に立派なピエロになって、お母さんを旅行に連れて行ってあげたいです。おいしいものも、たくさん食べさせてあげたいです。だから、いつまでも、ずっと、元気でいて下さい。それが、僕からの、願いです。――お母さん、本当に、ありがとうございます。お母さんがいてくれて、僕は、本当に幸せです」

 ガチャッ、と音がして、録音は終了しました。急に、お店の中がしんと静まり返りました。

 ピエロは、無言のまま、ただじっとおじいさんの顔を見つめていました。

 おじいさんは、ただ静かに、ピエロの目を見つめ返していました。

 しばらくして、おじいさんから、口を開きました。

「全部、言えたかね?」

「は……、はい」

 ピエロは、自信がなさそうに、小さく答えました。それを聞くと、おじいさんは心から湧き出た満面の笑顔を顔いっぱいに湛えて、

「世界一、すばらしいプレゼントだ」

 と、ピエロの手を、そのかさついた両手でぎゅっと握りしめました。

 おじいさんにそう言われて、また、強く両手を握りしめてもらって、やっとピエロにも、安らぎの表情が戻ってきました。ただ、それでも、ピエロにはわからないことが一つだけ残っていました。

「おじいさん」

「何だい?」

 ピエロは、その疑問を、おじいさんに投げかけました。

「さきほど、おじいさんは、このプレゼントを私の母親のもとに届けてくれるとおっしゃいましたよね?」

「ああ。確かにそう言ったな」

 おじいさんはにこにこと笑いながら答えました。

「いったい、どのようにして届けて頂けるのですか? だって、私の実家は、ここからとても遠い所にあるのですよ。電車でも、丸一日以上かかる場所にあるのです。そんなところへ、いったいどうやって、このテープを届けてくれるというのですか?」

「それはな……」

 おじいさんは、そう言ったきりピエロの問いかけには最後まで答えずに、帳場の裏から、静かに居間へ戻って行ってしまいました。

しばし呆然としているピエロの前に、居間の方から姿を現したのは、どういうわけか、一羽の真っ白なコウノトリでした。

コウノトリは両足を使って軽く跳ねると、帳場の台の上に器用に着地しました。

いよいよ訳が分からずに、ただ目を丸くしているばかりのピエロに、帳場の台の上からコウノトリが言いました。

「ピエロや」

 コウノトリの発したその声は、紛れもなく先ほどの店主のおじいさんの声そのものです。

 コウノトリは人の言葉を使い、ただ茫然とするばかりのピエロに対して話をしました。

「見ての通り、わしの本当の姿は、コウノトリじゃ。お前さんの、純真で、本当に優しい真心には、心底感動した。わしは今から空へ羽ばたいて、お前さんの声を録ったこのテープを、お前さんのお母上のもとまで届けに行く。なに、心配はいらん。お前さんのお母上がどこに暮らしておるかなぞ、聞かなくても分かる」

「で、でも――」

 何か言おうとするピエロを静止するよに、コウノトリは話を続けました。上のくちばしと下のくちばしとが、時々ぶつかりあってかつんかつんと乾いた音を立てます。

「礼などいらん。いいか、よく聞くがよい」

 ピエロは自分の言おうとしたことをコウノトリからあまりにも的確に静止され、思わず息をぐっと飲み込みました。

「わしらコウノトリは、幸福を運ぶのが何よりの宿命じゃ。そして同時に、幸福を運ぶことこそが、わしらにとって、何よりかけがえのない幸福なのじゃ。わしらは幸福を運べさえすれば、それでこと足りている。他には何もいらん。ピエロよ。今日はお前さんから、わしは何にも代えがたい温かい真心をもらった。その温かい真心を、お前のお母上に届けに行く。それだけで何もいらん。それさえあれば、他には何もいらん。いいか、ピエロよ、よく聞くがよい」

 ピエロは、全身を耳にして、コウノトリの次の言葉を待ちました。

「その、純粋な心を忘れるな。そして立派なピエロになれ」

「はい」

 その言葉には、今までにはなかった力が漲っていました。

 ピエロの気持ちが、こもっていました。

 コウノトリは、ピエロの声の入ったテープをくちばしに挟むと、大きな翼を帳場の台の上で広げました。そして、ピエロに向かって、

「では、言ってくるぞ」

 と言うと、ばさばさと翼をはためかせて、狭い店の扉から、勢いよく外へ飛び出していきました。

 ピエロは、それを追うように店の外に飛び出しました。そして、空に向かって大きく手を振りました。

「おじさーん。ありがとーう」

 その声が聞こえたのか、コウノトリは二、三度空に輪を描くと、北東の空をめがけてみるみるその姿を小さくしていきました。

 後には、誰もいない古本屋が残されていました。

 おじいさんの膝に抱かれて眠っていた三毛猫は、やっぱり座布団の上で、心持よさそうに昼寝をむさぼっていました。

 ピエロは、歩き出しました。

 さっきまでの、あの落ち込んでいたピエロとは、全くの別人になって。

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『道化』 矢口晃 @yaguti

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