ファントム・エイジ
城島 大
プロローグ
ガタン、ガタンと揺れる満員電車の中。オレは必死に両手で吊皮を掴んでいた。
目の前には二十代のキャリアウーマン。見るからに気の強そうな女だ。
(くそっ! 女性専用車両があるんだから、そっちに行けっての!!)
オレの悲痛な叫びは、しかしその女には届かない。無論、声に出してはいないのだから当然だ。
今のこのオレの現状を理解してくれる人間は多いと思う。事実、オレが必死の形相で体をくの字に曲げて吊革にしがみついている状況を、同情の目で見つめてくるオッサン達がいる。
そう。これは痴漢対策だ。
何かあった時に「いえいえ、私の両手はちゃんとみなさんが見えるところにありましたよ」と主張するためのものなのだ。
女性が痴漢という犯罪に苦悩する気持ちは分かる。それに対し、理不尽な怒りと億劫な気持ちを抱えていることも強く理解する。
だが男の気持ちも分かってくれ。こうして、毎日毎日いらない気を遣わなければならない男の気持ちも。
オレはふと、女性の前の席がちょうど一人分空いていることに気付いた。
(座れよ‼ 若々しいエネルギーを自慢したいのか知らねえけど、お前が座ってくれるだけで一人の人間を救うことになるんだよ‼)
わざわざ言うまでもあるまい。
無論、オレの声が彼女に届くことはなかった。
◇◇◇
「おい、どうした久城。なんだか疲れてるようじゃないか。刑事のくせにだらしないぞ」
ボロアパートの扉の前。オレの上司にあたる松林が、平然とした顔でそんなことを言ってきた。
「……徒歩出勤のアンタにゃ一生わかんねーよ」
案の定、松林は小首をかしげている。
以前こいつが声高々に女性専用車両は男性差別だと訴えていたのを、オレは忘れていなかった。あれは痴漢という、一瞬で男を地獄に突き落とす危険に苛まれていない部外者の意見だ。
その日から、オレの中でこいつは、私腹を肥やす警察上層部の馬鹿共と同じいけ好かない輩の一人に分類された。
「今日は特にしっかりしてもらわにゃならんのだ。この扉の奥にいる男はかなりのじゃじゃ馬だからな。いつもナイフを所持していて、前も刑事がやられたらしい」
「へぇ。どこを?」
松林は無言で股間を指さした。
「穏やかじゃねえな」
こういう仕事をしている以上、怪我の一つや二つでぐちぐち文句を言うつもりはねえが、その手の怪我だけは遠慮したいものだ。
「まあでも、わざわざ心配するまでもねーよ。軽く二三発小突いてやりゃいいんだろ?」
そう言うと、松林はいつものように顔を真っ赤にさせた。
「ばっかもん! 何度言わせれば分かるんだ!! こいつはただの重要参考人だ! 暴力沙汰なんか起こしたら、また警察の不祥事だとマスコミが騒ぎ立てるぞ! いいな!? 決して乱暴を働くなよ!」
オレは思わずため息をつき、耳の穴をかっぽじった。
「だったらわざわざオレなんか連れてくんじゃねーよ」
「抑止力だ。抑止力。検挙率ナンバーワンのお前は良くも悪くも有名だからな。ここらへんの悪党には、警察手帳よりもお前の名前を出す方がよっぽど効果的なんだ」
「さいでっか」
オレは煙草を取り出して口にくわえようとした。
すると、松林がそれをぶんどった。
「ここは禁煙だ」
「……禁煙じゃない場所は?」
「ない!」
なんて暴論だ。
喫煙者が暮らせる場所なんて、この世界にはないらしい。
「いいか!? 刑事たる者、いついかなる時も市民の模範となってなくてはいかんのだ! それをなんだ! 職務中に煙草なんぞぷかぷか吸いよって!」
まだ吸ってねーよ。お前が取っちまったんだよ。
そんな文句を拳に込めて放ってやろうかとも思ったが、さすがに上司相手にそれはできない。それになんだかんだ言って、このクソオヤジには色々と世話になってるのだ。ここは一つ貸しにしておいてやろう。
「まったく。何度言ったら覚えるのだ貴様は? 新米の頃からずっと注意してるタメ口に至っては、とうとう諦めてしまった! 本当に、猿並みの知能だな」
前言撤回。今すぐ即行でぶん殴る!
と思った時、がちゃりと音がして、目の前のドアが開いた。
「さっきからうるさいわ! 眠れねーから静かにしろや!!」
オレも松林も、思わずきょとんとしてしまった。
インターホンを押して、空咳をしつつ応答を待ち、ドアが開いたらおもむろに警察手帳を見せる手筈だったのに、こいつは一気に二つも行程をすっ飛ばしやがったのだ。
しばらくそいつはオレ達をじっと見つめていたかと思うと、勢いよくドアを閉めて鍵をかけた。
オレは思い切りドアを蹴り破った。
はっきり言って条件反射だ。飼い犬が散歩中、リードを引きずりながら走り出して行ったら、動物愛護団体にでも所属してるのかと問いたくなるような女連中は、たとえハイヒールを履いていても全速力で追いかけるだろう。それと同じだ。
あとで賠償請求が届くとか、訴えられるかもしれないとか、上司にこっぴどく叱られるとか、そういうことを考えていたら検挙率ナンバーワンになどなれはしない。
オレは即座に部屋へ入った。男は窓から飛び降りる瞬間だった。
「久城! 回り込むぞ!!」
「それじゃおせーよ」
オレは躊躇なく、そいつが飛び出した窓から外へダイブした。
確認もせずに飛び出したが、案の定そこには駐輪場の屋根があり、オレはそこに飛び降りた。
周りを瞬時に確認するも、そこは入り組んだ脇道で、既に人影はない。
随分と素早いもんだ。
おそらく奴は、警察が来ることも織り込み済みでこの家を借りていたんだろう。つまり逃走経路はあらかじめ決めていたってことだ。
オレは横にある二階建ての家のベランダに飛び移った。
洗濯ものを干していた中年女性が悲鳴をあげる。
「失礼」
オレはベランダの手すりに足をかけると、そこから屋根へと飛び移った。
よじ登り、辺りを見回す。
ここはすぐ近くに商店街がある。そこまでの道筋を目で追い……背中を向けて走っている奴の姿を見つけた。
オレは即座に走った。
屋根から屋根へと跳躍し、相手を捕捉する。
人ごみの多い商店街に入られると厄介だ。できればそれまでにとっ捕まえたい。
ふと目の前に工事中の建物があり、何に使うものなのか、ロープがちょうどいい具合にオレの前に垂れ下がっていた。
オレは躊躇せずにそれを掴み、何度か引いて強度を確認すると、男のいる場所めがけてターザンの如く突撃した。
浮遊感と突風が身体を襲う。
どんぴしゃだ。
このまま行けば、ちょうど男とぶつかることになる。
男はオレに気付いた。
その瞬間、懐から何かを取り出す。シャキンと音を立てて、刃が飛び出した。
「え!? ちょ、それタンマ!!」
容赦のない一撃がオレへと放たれる。
そのタイミングに合わせて、オレはナイフを持つ手首を蹴り上げた。
ナイフは空を舞い、音を立てて地面を滑る。
しかしオレは態勢を崩してしまい、そのまま魚屋に突っ込んでしまった。
客寄せのために店先に並んだ生け簀(す)に突っ込み、ガラスが割れる盛大な音と冷たい水の感触、激しい痛みに襲われる。
一瞬だけ、魚屋の店主の驚愕した顔が反転して目に映った。
男はそれを見て、すぐに逃走を開始する。
「オ、オレの魚ちゃんが……!」
水浸しの状態で仰向けに倒れていたオレは、すぐ隣で元気に跳ねている魚を見た。
どう考えてもオレより元気だ。
オレはすぐに飛び起きた。
地面に落ちていたあの男のナイフを回収し、ずんずん歩く。
全身を走る痛みも感じないほどヒートアップしている。一度こうなると、相手を完全に叩きのめさないと気が済まない。
すぐに商店街の大通りへと復帰するも、男は既に人ごみの中に紛れていた。今から走っても追いつけそうにない。
口の中を切ったがために溜まっていた血を吐き捨て、オレは小さく息をついた。
「人がせっかくスマートに終わらせてやろうと思ったのによ」
オレはホルスターのボタンを外し、銃を取り出して構えた。
「お前ら! 撃たれたくなかったらさっさと屈みやがれ!!」
そう叫ぶと、まるでドミノ倒しのように、悲鳴と共に群衆が地面にひれ伏す。
ようやく男の走る後姿を捕えることができた。
狙うのは、奴の足……ではなく、すぐ隣の立て看板。
寸分違わずその留め金を撃ち抜くと、立て看板は自分の重さに耐えきれず、走り過ぎようとしていた男を巻き込んで倒れた。
遠目でそれを確認したオレは、歓喜の口笛を一息だけ吹くと、ゆっくり近づいて行った。
もぞもぞと看板の中を動き、男が這い出てくる。
「まだ追いかけっこする気かよ。最近の若い奴は元気だな」
しかし先程の衝撃で足をくじいたらしく、ひょこひょことびっこを引いている。
それでも逃走は諦めていないらしく、そのまま道を曲がって見えなくなった。
「……ったく。しょうがねえ奴だな」
オレはゆっくりと後を追った。
角を曲がると、そこは駐車場だった。
砂利石が敷かれた場所に、乗用車やトラックが停められている。
オレはゆっくりと前を進んだ。
歩く度に砂利石の音がする。その音が、オレのものしか聞こえない。
トラックの前を通り過ぎようとした時、突然鉄パイプが振り下ろされる。
オレはそいつの手を掴んで軽くいなすと、頭を引っ掴んでトラックに叩きつけた。
そのまま、男は力無くその場に倒れ込んだ。
「最初からおとなしくしとけっつーの」
オレはガラパゴス携帯を取り出し、松林を呼んだ。
◇◇◇
「ばっかもん!!!」
オレの姿を見て心配の一つでもするかと思えば、松林の野郎は開口一番そう叫んだ。
「こいつはただの参考人だとあれほど言っただろう! それに貴様! さっき発砲したな⁉ しっかり銃声が聞こえてきたぞ!!」
「あんな必死こいて逃げる奴が犯人じゃないわけねーだろうが。おそらく別件でもっとデカいヤマに絡んでる」
ボロボロのズボンを弄り、オレは目当てのものを取り出した。
その手にあるタバコの箱は、びしょびしょに濡れている。
オレはため息をついてそれを放り投げた。
「道端にものを捨てるな! それに煙草は止めろと何度も言ってるだろ! 刑事が模範にならなくてどうする!」
「へいへい」
溜息交じりに、捨てた煙草を拾い上げる。
屈んだ状態で何気なくトラックに目をやると、その下に仰向けに倒れた状態で、じっとこちらを見つめる一人の少女がいた。
「……そんなところで何やってんだ? お前」
オレに少女趣味はないし、迷子の子供を素通りするくらいにはガキに興味がない。しかし何もない駐車場のトラックの下に隠れている少女には、些か興味があった。
「おい、誰と話してるんだ?」
松林は事後処理に忙しいらしく、コイツを確認しようとはしない。
普通の感性の人間なら、こんなところに人が隠れてるとは思わないだろう。
よく見ると、その少女はびっくりするくらい青白い顔をしていた。おそらく小学校の制服と思われるものを着ているが、薄汚れていてボロボロだ。
この少女は、総じて生気というものを感じさせなかった。
少女は、じっとオレを見つめていたかと思うと、ゆっくりと口を開いた。
「あなた、もうすぐ死ぬ」
「は?」
それを聞いて、思い出すのは昔流行ったホラー映画だ。
ビデオを見た人間は七日後に死ぬとかいう馬鹿げた設定のあれ。
テレビではなくトラックの下という違いはあるし、わざわざ死ぬことを教えてくれるのも呪いにしちゃあ親切だ。
しかしオレの乏しい人生経験の中で、一番今の状況と近しいものがそれだった。
オレが声を掛けようとした時、スパンと松林のメモ張がオレの頭を叩いた。
「人の話を聞けと言ってるだろ!」
「いや、ミニ貞子が……」
「はあ?」
松林は、まじまじとオレを見つめてきた。
「お前、頭でも打ったんじゃないか?」
さっきお前にぶたれましたとも言えず、オレは殴られた場所を掻くことで、それを暗に訴えた。
当然の如く、松林はこの活かした皮肉に気づかない。
ふともう一度トラックの下を覗くと、既にそこにあの少女はいなかった。
「ともかく、重要参考人をこうも傷つけたというのは大問題だ。ひとまずは────」
「なぁ。誰かガキがトラックの下から出てきたのを見なかったか?」
突然の奇妙な質問に眉をひそめながらも、同僚達は思い思いに首を横に振る。
オレは気になって、トラックの下に潜り込んだ。
「おい、本当に何をやってるんだお前は」
この辺り一帯は砂敷きになっていて、誰かが地面を這おうものなら、その跡がくっきりと残るはずだ。
突然、何者かに足を掴まれ、トラックの下から引っ張り出される。
「久城!! お前まったく反省してないだろ!!」
そこには怒り心頭の松林がいた。
「もういい! お前は一か月謹慎処分だ! 家でその生意気な態度を反省しろ!!」
◇◇◇
オレは警視総監の部屋から出て、盛大にため息をついた。
案の定、オレが追っていた容疑者はヤクザとの大きな取引に関わっており、頼んでもいないのにぺらぺらと内情を話してくれた。その辺りの功績を鑑みれば、オレの行為には正当性の一つもつきそうなものだが、待っていたのは勲章でも労いの言葉でもなく、松林の主張した一か月の謹慎処分だった。
いつも身体の一部のように身につけている警察手帳も拳銃も、ここにはない。
ハッピートリガーである自覚はないが、銃が手元にないというのは何とももの悲しい。
アクション系のハリウッド映画で爆発シーンが一つもないような感じだ。
ふと前を見ると、婦警の安奈がいた。以前の合コンで知り合い、色々と交渉中の女だ。
彼女はオレの方を見て、にやにやと笑っている。
「また叱られてたんですかー? 懲りないですねぇ、久城さんは」
「うるせえ。それよりお前、今日は暇か? どうだ? オレと一杯……」
「すいませーん。私、既婚者に興味ないんで」
「元既婚者だ」
「元でも何でも、既婚者には興味ないんで」
……とまあ、いつもこんな感じだ。
一体何年前の話だと思ってるんだと、オレはさっさと離れていく安奈の背中を見つめながら、ぶつくさ文句を言っていた。
ふと、その隣に部下の金田がいた。
「またフラれたんですか?」
「うっせぇ」
「ダサいなぁ」
「ビビッて声もかけねー奴に言われたくねえよ」
「僕、女に興味ないんですよね」
最近の若者はすぐこれだ。
女に興味ないから。酒の席は好きじゃないから。
自分の感情だけ優先すれば全てうまくいくと思ってやがる。
「早く戻って来てくださいよ」
「あん?」
「久城さんって言うことキツいし顔も怖いけど、何言ってもキレたりしないんで、気が楽なんですよね」
若い奴は嫌いだ。
生意気だし文句も多い。
なにより、こうやって無防備に甘えてくるところがなんとも腹立たしい。
オレは懐を弄り、もはや一箱だけとなった秘蔵の煙草を金田に渡した。
「餞別だ。くれてやるよ。お守り替わりだ」
「あ、僕タバコ吸わないんで」
「……」
気付けば、オレはこいつを殴っていた。
「金田ー! どうした‼ 何があった⁉」
わらわらと駆け寄ってくる奴らを背景に、オレはさっさとその場をあとにした。
言われるまでもない。
さっさと戻って来てやるさ。
ふと、オレは思い出した。
『あなた、もうすぐ死ぬ』
……ないない。
そんなわけあるか。預言者かっつーの。
オレはそういうオカルト話は信じねーんだ。
◇◇◇
「ちくしょう~、ヒック。どいつもこいつも馬鹿にしやがってよぉ」
居酒屋で、オレはジョッキに入ったビールを飲み干すと、それを叩きつけるようにテーブルに置いた。
「じじい! おかわりだおかわり!」
「じじいじゃねえっていつも言ってんだろ! オレは時代の最先端をいくピチピチの五十代だぞ! フェイスブックだってやってんだぞボケ!!」
「誰もいねえ場所に料理運んだりするようなボケたじじいが何言ってやがる! あとピチピチとか古いんだよ! 今はなぁ! ナウいっつーんだよ! 時代遅れのじじい!」
「出てけー!!」
オレは無理やり店から追い出された。
「客を追い出すとは何事だ! ツイッターで拡散してやっからな!」
「使えねえくせにいっちょまえなツラするな!」
ぴしゃりと引き戸を閉められ、オレは舌打ちした。
謹慎が終わったら、即刻金田からツイッターの使い方を教わろう。そして世に言われる炎上とやらであのじじいを火だるまにしてやるのだ。
オレはそんな文句の言葉をいくつも頭の中で浮かべながら、一人寂しい夜の道を歩いていた。
そこでふと、夜の街にしては珍しい人種を発見する。
小学生くらいの少女だ。制服姿で、長い黒髪で顔を隠して突っ立っている。
何人かのサラリーマンが彼女の横を素通りするも、全員が素知らぬフリだ。
まったく。この光景を見れば、日本が親切の国だと思ってやって来る外国人も落胆だろうな。
「おい。迷子か?」
オレが声をかけるも、少女は何も言わない。長い髪が邪魔して、こちらに気付いていないのだろう。
「おいったら」
ようやく、自分が呼ばれていることに気付いたようだ。
軽く髪をかき分けて、オレを見上げる。
そこから覗いたのは、ガキながらも非常に整った顔立ちだった。
そこで、オレはようやく気付いた。
こいつは、昼間オレに妙なことを言ってきたあのガキだ。
「お前、昼に会ったろ?」
ガキは何も言わない。
昼間に会った時と同じで、色白の顔からは生気というものが感じられない。
こちらを見上げるその姿は、見てるだけで首が痛くなる。
オレは舌打ちすると、少女の背丈に合わせて屈んだ。
「名前はなんて言うんだ? オレ刑事だから、家まで送ってやるよ」
そう言って警察手帳を見せようと懐に手をいれ、そこでようやく謹慎処分を受けていることを思い出した。
「……あー、悪い。今は警察手帳持ってないんだ」
って、ちょっと待て。これってあれじゃないか? 少女を誘拐しようとするド変態と間違われても仕方ないような……。
ふと後ろを見ると、先程まで少女の存在などなかったように目を合わせなかった大人達が、不審者を見るような視線をこちらに送っていた。
……これはとんだ厄日になりそうだ。子供なんて無視して帰ったらよかった。
しかし、中途半端に首を突っ込んでしまった手前、今さらさようならという訳にもいかない。
オレはため息をついて、警察手帳の代わりに携帯を取り出した。
「家の番号くらい知ってるだろ? 貸してやるからとりあえず電話しな」
携帯を差し出すも、ガキはじっとそれを見るだけで、受け取ろうとしない。
「なんだ? ガラパゴス携帯使えねーのか? 今時のガキはスマホみたいな訳わかんねー機械平気でいじくってるくせに、情けねーな。ほら、ここの番号を押して……って、つめた! お前の手、死人みたいに冷たいぞ!」
っと、しまった。この言い方はガキ相手にまずったかな。
「うそうそ。ほら、あれだ。手が冷たい奴は優しいって言うだろ? それが言いたかったんだよ、オレは」
頭を撫でてやろうとするも、掴む力が強かったのか、オレの手と一緒にぐるぐると頭が回った。
しかしこのガキ、今時の奴にしてはまったく喋らない。
試しに頬を摘まんでみるも、表情一つ変えやしない。
少し面白くなってきて、一つ変顔でも作成してやろうかと思案していた時だった。
ダアンと、まるで何か大きなものが地面に落下するような音がした。
オレ自身は、酔っ払いが飛び降りでもしたのかな、と思う程度だったが、目の前の少女は違った。
先程まで何をされても顔色一つ変えなかったガキが、目を見開き、音をした方に顔を向けていたのだ。
「どうした? さっきの音が気になるのか? 別になんでも……」
オレはその顔に見覚えがあった。
よくクソったれな犯罪者がオレに対して見せる顔。そう、恐怖に染まった顔だ。
手が小刻みに震えているのは、決して寒さからではない。
「おい、一体どうしたんだよ」
ダアン!!
再び、同じ音が響き渡る。
オレもようやくその異変に気付いた。
ダアン!!
その音は、確実にこちらへ近づいて来ている。そしてその音源は、障害物のない一本道でありながら、まったく確認できなかった。
ダアン!!
ダアン!!
ダアン!!
徐々に音が近づいてくる。酔っ払いの吐しゃ物でも洗い流したのか、そこにある水たまりが音と共に飛沫を飛ばす。
まるで、“そこに見えない何かがいるように”。
オレはガキの手を掴み、全速力で逃走した。
長年刑事をやってきた勘が言っている。
“コイツ”はヤバイと。
「おい! お前あいつが見えるのか!?」
オレに引っ張られる形で走るガキは、何も言わない。
代わりに返事をしたのは例の透明野郎だ。
ダン、ダン、ダンと明らかにさっきより早いテンポで音を出している。
あれが足音なんだとしたら、追いつかれるのも時間の問題だ。
「くそ、なんだってんだよ! チェビー・チェイス!? チェビー・チェイスなのか!?」
オレは目の前にあった水道のホースを掴み、水をぶっかけた。
水の流れる跡を見て、オレは唖然とする。
人間を一握りにできそうな大きな腕。それを中心に丸い胴体のようなものが見えるも、原型がまるで分からない。
ただ一つ言えるのは、そこにいたのは、紛れもない怪物だったということだ。
「おいおいマジかよ……」
その時だった。
突然凄まじい衝撃に襲われ、オレの身体が宙に吹き飛んだ。
地面をバウンドするように転がり、思わず唸る。
「~~っ! いってぇ……」
正直痛いなんてもんじゃなかったが、ボキャブラリーの少ないオレにはそんな言葉しか出てこなかった。
ガキを確認する。どうやら背が小さかったおかげで当たらなかったらしい。
こちらを見て、どうすればいいか分からずおろおろしている。
「いいからお前はさっさと逃げろ! 邪魔だ!!」
オレの叫び声に驚いたのか、ガキは躊躇しながらも逃げて行った。
怪物が動こうとするのを、濡れた体表から確認する。
「おい」
怪物がぴたりと動きを止めた。
「オレはな。何もてめえの姿を確認したくて水を撒いたわけじゃないぜ」
オレは懐からナイフを取り出した。
昼にとっ捕まえた男から押収し、そのまま忘れていたものだ。
オレはそれを真上に放り投げた。
ヒュンヒュンと回るそれが、電線を断ち切る。
そのまま電線が地面へ落ちていき、ポチャンと水についた。
その瞬間、バリバリと凄まじい音と光が辺りを包み込み、オレは思わず顔を腕で覆った。
おそるおそる見ると、何もないはずの空間から黒い煙があがっている。
どうやら、透明人間にも効き目はあったらしい。
しかし、倒すとまではいかなかったようだ。鈍い動きながらもこちらに向かって移動している。
「チッ。しつけーんだよ!」
オレは走って通路を抜けた。
その瞬間、車のライトがオレを包み込んだ。
あっと思う暇もない。
耳の中が弾けるような音が響き渡り、気づけばオレは、車と壁に挟まれて血反吐を吐いていた。
……なんだそりゃ。どんな悪党と戦って死ぬ最後になるかと思ってみれば、こんなしょうもない死に方かよ。
オレはその体を車のボンネットに預けた。
……ま、いいか。ガキ一人救ったと思えば、それで……。
徐々に薄れゆく意識の中、オレの目の前に、あまりに場違いな黒いスーツ姿の女性が見えた気がした。
オレはその時、ああこれが死神かと、そんなことを思いながら────
────死んだ。
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