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この中の一人だけ、私が幸せにできるのだと思った。
私の何枚目かのシングルCDが発売された週の、土曜日の午後、数年前の春の終わりの日。予約してくれた人に、店頭で私が直接サインを入れたCDを手渡しするというイベントがあったのだ。始まってから二時間、屋外まで続く、途切れることのない私のファンの列を見て、そう思ったのがきっかけだった。
仕事も慣れ過ぎなくらいに小慣れてきて、ご覧の通りに固定ファンもついてきている。デビュー当時みたいなアイドル調の売り方もこの頃は、それが一周回ってというか、その媚び方にいまいち上手く馴染めないままでいる私を見て笑うみたいな、変な楽しみ方をしてくれているみたいだ。それはそれで演じられた私なのだけれど、完璧を求められないというのは、やっぱり気が楽だ。妖精、なんてふざけ混じりに呼ばれ始めたのも、むしろボロが出てきたこの頃だったと思う。
そうやって少しだけ仕事に余裕が出てきたこの頃、私は誰かに優しくしたくなっていた。幸せのお裾分け、だなんて変なことを言うつもりはないけれど、少なくとも、誰かに優しくできるような人なのだと、自分のことを思っていた。そうあるべきだと考えていた。確か、いつだったか忘れるくらいに昔、そんなことを何かの本で読んだのだったと思う。『大人同士ならば、相手が誰であろうとも、それなりに結婚生活の一つくらい成立させられるのが、人間としての真の成熟というものだ』とかなんとか。読んだ時はびっくりしたけれど、それから意識してみると、なんだか自分の母親が一番それにあてはまっているような気がしたのだ。色々な日常の不満を、子供である私にも見せないで、淡々と生活を営み、家庭を維持し、私がある程度の年齢になってからは働きにも出て。なるほど、大人であるとは、そういうことなのか。
まあ、そして、誰かを愛することが、誰かに優しくすることの一番の形なのだとも思っていた。つまり、誰かに優しくしたくて、誰かに愛されたかったのだ、きっと。
五分間だけ挟まれた休憩時間に下がっていた、お店のバックヤードから戻りながら、サインを入れる席に座る前に立ち止まって、ちょっとだけ高い目線から、列の後ろの方まで目をやった。そちらの方から上がる歓声に大きく手を振って応える。
「いやー、ごめんねー。待たせちゃってるよー」
ぜんぜーん、なんて野太い声で返ってくる。列にいる人の、八割方くらいまでは男性だ。いつものことだけれど、みんな同じ人みたいに見えるなあ。少し大きめのサイジングでチェックのネルシャツを羽織って、眼鏡をかけて。実際、一人で何周も並ぶような人もいるから、見分けがつかないのもしょうがないかもしれないけれど。
たぶん、と私は思う。この人たちが一人一人、色んなことを考える別々の人で、それぞれの理由で、私に会いに来てくれている。たぶん私は、そういうことをちゃんと考えなくてはいけないし、そういうことを想像できる人なのだ。難しいけれど。でも、私のことをそれなりに好きな人たちであることは間違いないだろう。だったら、と思ったのだ。この中の一人を選んで、私が一人の人としてその人を愛して、その人に愛されることができるんじゃないだろうか。
誰かに、優しくしよう。
―
列の中にいた人の中でも、特に口の堅そうな、なんて言い方はきっと嘘だな。一人で参加していて、何周も並ぶほどアイドルとしての私を好きでもなくて、そこまで変な恰好をしていなくて、少し気の弱そうで、という人を選んで、マネージャーさんからこっそり連絡をとってもらった。昔の知り合いに似ている、だかなんだか、適当な理由をつけて。
「えっと、はじめまして。未優卯で呼ばれてる方の私のことは知ってるんだよね。本名は柏木未都子って言います。君のことは、なんて呼んだらいいかな」
「あ、その、えっと、俺、本庄っていいます。えへへ」
「さすがに名前くらいは、こないだメールで訊いたけどさ。まあいいや。本庄くん、でいいかな」
呼び出して、初めてちゃんと彼と顔を合わせた時のことだ。年下の彼に余裕を見せつけるために、自分でも行かないようなイタリアンを選んだんだった。普段は着ることもほとんどない、パンツスーツなんか着たりして。恐縮している彼の、戸惑いを誤魔化してばかりいる笑顔を見ながら私は、自分が選んだ目の前の人のことより、自分が誰かを選んだということの意味ばかり考えていた。
「お酒、呑む方?」
「ああ、えっと、まあ、機会があれば」
「機会ねえ、増えるよ、そういうの。そのうち」
「そうっすか」
ワインリストから目を上げないで、何かを言い繕うように話す、彼の言い方が印象に残っている。
結局、ちゃんと目を合わせて話せるようになったのは、その後に行ったカラオケで隣に座って、しばらくしてからさり気なく彼の手を握ってからだった。驚いた顔で私の横顔を見つめているのに気付かないふりで、真那ちゃんのかっこいい曲を一曲気持ちよく歌い上げた。真那ちゃんはこの曲を、立って振り付けしながら踊るのだから、本当にたいしたものだ。息切れしそうなのをこらえるのに大きく深呼吸をしてから、アウトロが流れている中、私はかぶりを振って、彼と目を合わせる。
「ねえ、私のこと、どのくらい好き?」
「あの、はい、それは、えっと、かなり」
「じゃあまあ、頑張ってみようか」
大体そんな感じで、私たちは付き合い始めたのだ。この一連の出来事を真那ちゃんに報告すると、変に真面目な顔で「役者は、あらゆる経験が芸の肥やしになるから。なんでもやってみたらいいよね」なんて言っていた。あれは彼女なりのアドバイスだったんだろうか。彼女が誰かと付き合ったとか別れたとかって話はあんまり聞かないけど。
―
上手くいっていた、と思う。少なくとも初めの一ヶ月は。何をしてあげても喜んでもらえていたし、私もそれが嬉しかった頃だ。
仕事の方も出演作を絞っていて、時間にわりと融通の利く期間だったし。彼も学生だったから、よく昼間から、彼の部屋で映画ばかり観ていた。彼がバイトしているレンタルショップで、古い洋画を聞きかじった名前だけで選んで借りてきて、端から観ていた。彼と一緒に見る時は字幕を使って、その後に時間を作って一人でこっそり、吹替をしている大御所さんたちの演技を確認するのがその頃の習慣だった。彼が借りるのは特撮とアニメ映画ばかりだった。それも、彼が一度観たものだ。前に観た時のことを訊きながら観ていって、物心をついて以降の彼の思い出もだいぶ聞き出すことができた。それから初めて二人で、公開中の映画を観に行ったのだ。私が端役で出ているやつだった。一度も見返していない。
基から不自然だった私たちの関係だけれど、最初に、あれ、とちょっと違和感を覚えたのは、初めてのセックスの時だった。前戯の時まではずっと、慣れてるふりをしながらも彼は真剣な顔で、手探りで怯えたような手つきでいたのに、挿入された瞬間にそれがゆるんで、それと同時に、相手の気持ちが変わるのが、なんとなく分かった。
情、という言葉が近いと思う。届かない高みに向け火の手を伸ばしてちりちりと焦がれていた炎が、高みに届いてしまった瞬間に温度を下げてしまったみたいだった。
その違和感は、最後まで結局消えないままになった。何かの意味が変えられてしまっていた。例えば優しさの意味だ。私は、彼の一つ一つの要求に、素直に応えることが難しくなっていた。
本当に簡単に応えられることなら構わないのだけれど、少しためらってしまうようなことを譲歩するのが、自分の中で許せなくなってきていた。私がそこまでは譲りたくないと思って断ったことなのに、彼はそこがスタートポイントだと思っているらしくて、代わりに何をしてあげるだの、だったらこれでいいだのと、話し合いの条件だと思っているものを次々と出してくるのだ。あるいは、私の態度次第ではそれすらも簡単に諦めて取り下げてしまう。そんな、最初に出した勝手な要求が通れば儲けもの、みたいな気持ちで要求を押しつけられて、私はいつも、譲歩すればしただけの損をしたような気持ちになった。そして、それを拒むたびに、話し合いの余地もない頑なさとして責められるような言い方をされていた。
そんなことじゃないのにな、と私は悲しくなる。私は貴方にできるだけ優しくしたいのだけれど。そんな、口先だけで並べ立てられる交換条件程度で譲れることなら、私は最初から許しているのに。
―
『未都子さんは、もう俺と別れたいんですか』
また春が来て終わる頃、出会ってから一年が経つかどうかという時期までに、この言葉を何度言われただろう。私を責めるような言い方だけれど、多分電話口の先では、いつもみたいに縋るような目つきをしているのだろうと思った。そうやって、自分ではその気もその覚悟もないくせに、口先の言葉だけで話の賭け金を釣り上げるような言い方をして、私が譲歩するのを待っているのだ。
でも、彼はきっと、そういうやり方しか知らないんだろうな、それが一番これまで上手くいっていたやり方なんだろうな、と理解してしまうくらいには、長い時間を付き合ってきた。
「そうじゃないんだけど、さあ」
付き合い始めた頃に減っていた仕事の量が巡り合わせでまた増え出していて、休日に会えることも少なくなっていた。問題は時間そのものより、それに連れて私の方に余裕が少なくなってきたことにあったのだけど。
『じゃあ二人でどっか行きましょうよ!』
「その時間が、なかなかねえ」
翌日の収録の、セリフのタイミングを確認するためのビデオチェック映像を流し見して台本と突き合わせながら、電話に答えていた。
『ちゃんと、こないだ買ったばっかのデート用の服、着ていきますから!』
「そうなんだ」
『そうなんだ、って何すか!』
これで彼の方では、私とカップルなりの喧嘩をしているつもりらしい。喧嘩の落とし処を見つけるために譲歩しようにも、普段私の方から何かを要求することがほとんどないから、自分が何を譲れるのかも分かっていないみたいだった。この頃にはこうやって私は、自分が失敗したことには気付き始めていたのだ。どのくらい失敗していたのかは分かっていなかったけれど。
「でもなあ、何かをしてくれるから好きってわけでもないしなあ。それって、普通じゃないのかなあ」
『意味分かんないっすよ!』
「まあ、分かんないよね。いや、ごめん、なんでもなくて」
私だって、昔から人付き合いが得意だったわけではなくて、仕事を始めてからその辺りの機微みたいなものを、わりと理屈を先に立てて覚えてきた。こういう時に普通の人はこう思うだろうから、そういう時にこういうことを言ってはいけない、だとか。もちろんそれは完璧ではないし、だから、ちょっと相手の行動が自分の想定から外れてしまうと、私は過剰に戸惑ってしまう。
「なんでもなくて、ですよ」
私は、何故自分がいちいち彼の態度に対してがっかりしているのだろうと思う。いつかの何かを期待しているんだろうな。多分、彼にできることがあるとしたら、その期待を私に抱かせ続けることなのだろう。例えば、それに自分で気が付くことだ。例えば、甘える以外に優しさの利用方法を考えることだ。
「……あのさあ、本庄くんの方は、別れたいと思ってるの?」
『そんなわけないじゃないっすか! なんのために、こんな、俺、』
「そう。そうだよねえ。じゃあ、いっか。いいよ。来週の……いつだっけ、火曜か木曜のどっちかなら。午後、空けるよ」
作詞とか声優雑誌のコラムとか、締切の近い書き物の仕事をやるのに確保していた時間だったが、まあ、私がなんとかすればなんとかなる時間だ。平面的に敷き詰められていた積み木を重ね上げて隙間を作るみたいに。仕事とか責任とか義理とか、色々な名前のある同じ色の積み木だ。
『じゃあ火曜日で! えへへ、ありがとうございます。なんか、ごめんね』
「いえいえ」
いつものように、お礼も謝罪も、自分の要求が終わった後に言葉だけで付け足されていた。私への気配りから発せられた言葉というより、単に自分の利益を確定させるためだけの言葉みたいだ。また、彼のやり方で上手くいく悪例を覚えさせてしまったなあ、と私は首をひねる。今更のことだったけれど。
『未都子さん、大好きです!』
なんでだろうなあ、と単純に思った。優しいからだろうか。優しくできているからだろうか。だったらいいなあ。
「あらあら、それはどうも。じゃあ、火曜の話、なんか行きたいとことか、考えといてね」
『はい! それじゃ!』
切った携帯電話にそのままスケジュールの変更を反映させる。色々と思うところはあるけれども、さすがにこれをそのままコラムのネタにするわけにもいかない。上手いシチュエーションを考えて歌詞にしちゃうか、なんて考えていた。
付き合い始めてからの一年で本庄くんは、外見だけはびっくりするくらいに垢抜けていた。もう夏から就職活動の下準備が始まるからと、この時には黒に戻していたけれど、それまでは毎朝、アッシュを入れた髪を無造作気味にセットしていたものだ。買い揃えたという服は、白の長袖カットソーに黒のベストを重ねたもので、似合ってはいるのだけれど、それより先に、なんだか若いなあと思ってしまう。
「おつかれさま」
観光地化されて妙に舗装が整った山道を、本庄くんの運転するレンタカーでしばらく登った先、駐車場に車を駐める。平日の昼間だけあって駐車場はがらがらで、端っこの方に大型の観光バスが何台か並んでいるだけだった。
「山の上、結構涼しいっすね」
「うん、風がね」
スカートの表地が風をはらんで少し膨らんだ。収録現場の冷房対策でこの季節からいつも持ち歩いている、薄手のカーディガンを羽織ることにした。
一時間くらいの車の中では、私が最近出したアルバムCDをBGMにして、数週間ぶりに会った彼に、最近の仕事の話を根掘り葉掘り尋ねられた。普通のカップルの会話であり、業界の内実に対して彼の趣味からくるただの興味であり、沈黙を埋めるための何かであったりした。それらを切り分けるのは、あんまり意味のない単なる意地悪なのだろうと思って、考えないことにする。一枚ずつなら簡単に、どんどん剥がれていってしまうのだ。実際、話が弾めばそれだけで楽しいわけだし。
まったく、会えば会ったで楽しいのは間違いないんだよなあ、と思う。二人共が同じ方向に楽しければ、彼に何も譲歩する必要がないからだ。難しいのは、楽しくない時、向かい合った時に優しくできるかどうかだ。
本庄くんがにこにこ笑いながら手を差し出してくる。その手は温かい。
普段街中で見るのとは違う形の葉をした草に覆われた中に通る、軽いアップダウンと共にうねった小道を二人で歩いて行く。ちょっとだけ急な角度の曲がり道を抜けると、一気に視界が開けて、紫色のラベンダー畑が山肌に広がっていた。
「すっげ」
「ほんとだ」
風が吹くたびに細いラベンダーの花が同じ方向に傾いて、紫色の海を伝播していく波のようだった。
「満開とかあるんだよね、花だから」
ポプリとかでよく見るラベンダーの一つ一つの花は種のように小粒で、あまり花開くという印象がないけれど。近付いて見てみると、そういえば花の色も、ポプリの中の花のしっとりした濃い紫より、若干薄い気がする。
「写真、撮らせてくれませんか」
本庄くんがケータイをポケットから取り出した。
「……ごめん」
付き合い始めてあちこちに行っても、彼に私の写真を撮らせることはなかった。彼ならきっと、誰かに見せたりすることはないだろうが、それでもだ。もしかしたら、彼のいつもの無自覚な要求に対して、反射的にただ意固地になっているだけなのかも知れないけれど。
「……どうしても、ですか」
そういう目をされても、だ。甘えるような目つきをしながら、分かりやすく彼のテンションが下がる。私のせいなのかどうかが分からない。私は、自分が罪悪感を覚えない言い方を選んだ。
「仕事の一つだと、私は思ってるよ」
「……そっすか」
あっさりと本庄くんは引き下がった。思わず私はこっそり深い息をついて、自分が抱いていた緊張感に気付く。こうやって、自分が擦り切れないようにする工夫のことも、人が持つ優しさの中に含まれるのだろうか。それはなんだか、すごく優しくないことのような気がする。
泣きたくなったのを隠すように、私は膝を折って、足元のラベンダーの花に顔を近付けた。鼻の奥まですっと通ってそこで広がるような独特の嗅ぎ慣れた匂いが、細い枝の先でそれを包むようにまとまって付いている花の周りを更に取り巻くように、実在感のある形で漂っていた。
ラベンダーといえば、何年か前のアニメの仕事でラベンダーという名前のキャラに声を宛てたことがある。その頃はファンからの差入れはほとんど、ラベンダーの石鹸だとかラベンダーのアロマだとかだった。
「子供の頃はこの匂い、苦手だったはずなんだけどな」
花を軽く指に擦りつける。その送られてきたラベンダーグッズで、自分がラベンダーの香りがもう苦手でないことに気が付いたのだった。
「いい匂いじゃないっすか」
本庄くんが隣に腰を下ろして、指先だけ摘まむように私の手をとった。そのまま、私の指に移された香りで、その匂いを確かめる。
「なんか、初めて人にもらったポプリが、匂い強すぎて」
あれは幼稚園の頃だっただろうか。こうやって咲いてる実物のラベンダーも見たことなかった頃だ。
「そういうの、鼻、慣れない?」
「ちょくちょく慣れるんだけど、ちょっと離れるとまた鼻にくるようになるし、ねえ。これがいつまで経っても薄れないしさ」
「へえ」
結局そのポプリは、お母さんに渡してしまったのを覚えている。
「私も大人になりました」
「……変わっただけ、じゃないですか」
ラベンダー畑から彼に目線を移した。ちょっとだけ首を傾げる。
「成長ですよ、成長。私、一回好きになったもの嫌いになったこと、あんまりない気がするし」
「それ、まだ大人になったばっかだからじゃないすかね」
彼の言葉の意味を簡単にしか捉えていないふりをして、照れ笑いをしてみせた。
―
その時に袋一杯に摘んだラベンダーは、逆さにしてうちのトイレに吊しておいたら、二週間くらいで綺麗な紫色を保ったままちゃんと乾燥して、なんだかそれっぽいインテリアになっていた。その香りがどのくらい保つものだったのかは分からない。本庄くんと別れた時に、まとめて捨てちゃったからだ。
その時期はまた、しばらく会ってない日が続いていた。もう梅雨が明けて、夏と言っていい季節になっていた。
「言ってる意味は分かるけど、しょうがなくない?」
チェーンの個室居酒屋の前のエレベーターホールで私は、本庄くんからの電話に答えていた。収録がわりと遅い時間まで続いた後、仲のいい演者三人で御飯を食べに来ていたのだ。私と真那ちゃんと、みどりさん。みどりさんは、一世代上の面倒見のいいベテランさんだ。
ところが御飯の途中でかかってきた本庄くんの電話はなかなか長くて、このままだと女子会コースのメインの豆乳しゃぶしゃぶを食べ損ねる。さすがにそんな理由で彼氏からの電話は切れないけれど。今日も一緒の真那ちゃんなら、女子二人ぶんくらい容赦なく食べれちゃうからな。
『もう三週間も延び延びなんですよ』
「だからさあ」
豆乳しゃぶしゃぶは諦めて、席に戻ったら追加でなんか頼もうか。わりと長丁場の現場だったから、私も結構おなかが空いていた。入口に貼り出されている旬のメニューを目線で辿った。揚げ物、揚げ物は違うなあ。
本庄くんが言っているのは、私たちが付き合い始めてからの一周年記念日の話だ。彼はちゃんとお祝いをしたいらしいのだけれど、私の仕事やらなんやらでその機会はないまま、もうその記念日は三週間も前の話になっている。私も、無理に都合をつけようとしなかったからだ。
「本庄くんも、来週からなんか働き始めるんでしょう?」
『インターンシップですけど。だからその前の日とか。あと、インターンシップっつっても土日は休みですし、その時でも』
ああ、冷やしトマト、いいな。
店の中から、今日一緒に来ているうちの一人、みどりさんが出てくる。私の様子を確認しながら目の前の廊下を通り過ぎていく彼女に、私は苦笑いと一緒にした会釈を返した。多分、お手洗いに行くとかいう名目で、私の様子を見に来てくれたのだと思う。先輩に気を遣わせてしまったのが申し訳なくて、私は電話口での態度を一層頑ななものにしてしまう。
「だめだよ。働き始めなんだから、ちゃんと意識して休まないと。二週間なんでしょう、終わってからでもよくない?」
『……未都子さんはそれでいいんですか』
「いいって言ってるんだけど」
言葉に出してから、自分の言い方の棘に気が付く。でも、この棘がないとまた彼に押し切られそうで、わざわざ隠し直すことはしない。自分が意地の悪い人になったみたいで、すごく嫌な気持ちになる。
メニューから目を離して、私は改めてフロアの壁にもたれかかった。天井の蛍光灯がちらついている。
『なんで未都子さんは、それで平気なんですか」
言葉を整理するのに、少しだけ間を入れた。
「……本庄くんは、今の私と二週間後の私と、どっちが好き?」
『一緒じゃないですか、関係ないすよ、そんなん」
「私は一緒のつもりはないけど?」
問いかけるように答えた。自分の期待しているものについて、これ以上ないくらいのヒントを与えたつもりだった。
『違いを見分けろってことですか』
「全然違うよ」
なんだかがっかりしてしまう。毎度のことだけど。
『分かんないですよ! 言いたいことあるなら、ちゃんと言って下さいよ!』
切れかけた堰のように彼の口調が速くなって、甲高くなった声色に必死さが増していた。それに釣られないように意識して平坦に抑える私の声が、余計に彼を苛立たせるようだった。この時の私が、親しい他人の感情を自分の声で揺さぶることに、職業的な愉悦感を全く覚えなかったかと訊かれると、答えは自分でも正直よく分からない。与えられていたように思い浮かぶ言葉を、反射的に最も効果的な言い方で使うことができるようになっていた。
「分かってくれないとしょうがないから。別に私が言いたいわけじゃないし。わざわざ言わないでいること、訊けばなんでも教えてもらえると、なんで思うの」
『分かんないですよ……。そんなの、付き合ってる意味、あるんですか……。未都子さんは、もう別れたいんですか……。こんなんだったら、別れた方がマシですよ!』
彼の声が急に涙声に変わった。けれど、それすら私には、感情を抑える努力の放棄にしか見えないことに気が付いた。またか、と思ってしまう。どうせその言葉には覚悟も責任もなくて、だから傷つくとしたら私だけだと思っているのだろう、と。だから、そのぶん自分の方にも、何かを手放す権利があるような気がしてしまった。
「じゃあ、別れましょう」
自分で言った言葉の意味も分からないまま、何か身が軽くなった気がした。彼の方でも、その意味を理解した途端、その嗚咽が激しくなる。言葉の返ってこない携帯電話に、さよなら、と告げて、そのまま電源ごと切った。
個室に戻ると、やっぱり既にお鍋の中には、締めのうどんが投入されていた。
「あはは、なんか追加していい?」
「いーよ」
私と同じタイミングでトイレから戻ってきたみどりさんが、席に戻りながら、注文用の端末を私に手渡してくれる。
「あ、私も、あそこの、ねぎとにんじんの牛肉巻き」
「マジで」
個室の壁のメニューを指さす真那ちゃんをまじまじと見つめてしまう。パワフルだなあ。すると真那ちゃんの視線も、私にぶつかった。そのまま私に問いかける。
「みゅう、電話、彼氏? 彼氏うじ?」
私が長くやってるラジオでは、送られてきたメールを読む時のラジオネームに、『うじ』を付けて呼ぶ慣わしなのだ。
「いやー、今別れてきたから、元彼うじ?」
注文用の端末へと目を逸らしながら、できるだけ普通に答えた。
「えええ……。さっき、そんな感じじゃなかったじゃん……別れ話だったの、あれ……」
みどりさんが驚きの声を上げる。まあ、みどりさんと擦れ違った時は、別れ話になるとは自分でも思ってなかったからな。
「いやまあ、真那ちゃんから話聞いてた限り、別れるの、時間の問題って感じはしてたけど」
「そうなんですか」
自分ではそんなつもりがなかったから、知った口を利かれることに少しだけ反感を覚えるけれど、でもみどりさんが言うんだから、きっと正しいのだろう。
コースの最後に出てきた出来合いのロールケーキを食べて、大きく息をついた。言葉のない休符のような時間に、私はさっきの本庄くんとの電話を思い出してしまう。御飯を食べてお腹がいっぱいになって、心理的に余裕ができると、自分を責めるような気持ちが湧いてきてしまうのだ。
「どうしよう……別れちゃったよ……」
だけれど、別れたあとに感じた、荷を下ろすような気持ちには嘘をつけないし、実際に彼に電話してやり直そうと思ったりはしないのだった。多分、何度やり直したって、また私はこの結論に辿り着くはずだ。その変化の可能性は、さっきまでの私がずっと信じたかったもので、一度諦めてしまった今では、二度と取り戻せないものだった。
別れたこと自体よりも、今はどちらかというと、その別れ方に対する悔悟の念があった。最初に始めたのが私なのだから、終わらせるには終わらせるための責任があったはずだった。
「優しく……できなかったよ……」
真那ちゃんが、あやすように私の背中を撫でた。きっと今頃、電源を切った携帯電話の向こう側で、彼は一人で泣いているのだろうと思った。周りの人に相談できないような恋愛だったのは、私の仕事のせいだ。
「そういうタイミングも全部含めて、縁だよ」
真那ちゃんは、いつも悟ったようなことを言う。その正しさも分かる。けれど、その正しさは、今の私が甘受していいものなのだろうか。
だって私は、優しくない人だ。ようやく分かった。ずっと、優しい人のふりをしてきただけだ。優しい時にしか、優しくできない人だ。
―
本庄くんと別れてから半年くらいした頃に、妹の紹介で知り合って、付き合い始めたのが、今の彼氏だ。居間に置かれた箱の中、目を閉じて耽っていた思い出から、私は目を覚ました。
箱の角にちょっとだけ空いている穴から、キッチンで夕食の用意をする彼の後ろ姿を覗く。箱の中にお互いがいる時は、できるだけお互いがいないみたいに振る舞う、というルールを守って、気にしないふりをしているけれど、さっきから落ち着きなさげに、私のいる箱へちらちらと視線を遣っている。この人は、優しい人。
仕事に着ていった服を着替えもせずに、帰宅直後から箱にしばらく入っていた。ようやく出てきた私を見て彼は、何も言わずにお湯を沸かして、温かい飲み物を淹れてくれる。
「ありがと」
「いーえ。あ、そういやごめん、ご実家から来てた郵便、間違って開けちゃったよ」
食卓には、宅配ピザのチラシやなんかと一緒に、途中まで雑に封の切られた封筒が置いてあった。その無地の白い封筒の隅に書いてある差出人の住所と名前は実家の母のものだが、宛名は彼のものになっている。私たちが同棲しているこの部屋の表札には、彼の名前しか書いていないし、私が頼んだ通販も全て彼の名義で届く。実家の両親も、私に郵便を出す時には、この住所に彼の名前を書くのだ。だから、ちゃんと確認をしないと、彼と私のどちらに届いたものなのか分からなくなってしまう。
「中、見た?」
「いや。開ける途中で気が付いて」
反射的に「じゃあ、別にいいよ」と答えてしまいそうになるけれど、一度深く息をついて、きちんと考える。私は、大丈夫だろうか。大丈夫、だと思う。私は何かを我慢しているだろうか。していないと思う。このくらいのことでは、心は摩耗していない。こんなことが今後何回か積み重なっても、私は気にせずにいられる。優しくしても、大丈夫だ。私は、今自分が飲み込んだ何かを、知っている。
彼の顔を見た。
好きだなあ、と思う。今は。将来の自分の感情のことは、分からないけれど。悲しいくらいに、分からないけれど。
私は、私のわがままで、この人を愛さなくてはいけない。だって私は、優しくない人だ。
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