しばらくほっといて欲しい人が入る箱

椎見瑞菜

1

 電車ががたんと音をたてて、人に埋まるロングシートが前後に揺れた。手の中の文庫本から視線を上げると、立っている人たちの更に向こう、向かいの車窓からぼやけた月が見える。少し暖かくなってきたこの季節でも、この時間帯の人混みにはまだ窓が曇る。ここからだと、家の最寄り駅まであと二十分くらいはかかるだろうか。

 一度目を閉じてから、視線をまた手元に戻した。先ほど寄った古本屋で買ったばかりのこの本は、薄手だけれどなかなか古いものらしく、黄ばんだページの中に小さな文字がびっしりと敷き詰められていて、デスクワークの仕事帰りに読むのには向いていないようだ。その小口に指を宛てて、残りの紙幅をぱらぱらとめくると、本の後半でそれが軽く止められる。買った時には気付かなかったけれど、そのページの周りはちょっとだけ膨らんでいて、そこには薄い布の端切れで作られた栞がちんまりと挟められていた。無地のパステルカラーの布に、レースのテープで少しだけ飾り付けがされている。

 う、と僕は息を漏らした。手作りだ。古本の中に挟まって、そのまま忘れられていたもの。温度のある小さな気泡を飲み込んだみたいな圧迫感が、僕の内部に現れたような気がした。

 がたん、電車が今度は、跳ねるように上下に揺れる。ロングシートのいちばん端の席で、背中のシートと右隣の壁の直角の隙間に、ねじこむように僕はぐっと身を押しつけた。車体の金属のひやりとした温度が、ジャケット越しに伝わってくるようだった。伏せた視界の端に、多くの人たちの脚が見える。それぞれが動いていた。僕の全身の皮膚が、過呼吸を起こしているみたいだった。

 がたん、揺れるたびに、その衝撃で内臓の中から気泡が気怠げに浮かび上がっていくような気がする。僕は頭まで壁に預けた。諦めて本を閉じて、胸ポケットから取り出したオーディオプレイヤーの音量を上げる。どうでもいい歌だったが、知っている歌だった。未都子が僕と知り合う前に出した何枚目かのアルバムの、真ん中くらいに入っていた曲だ。彼女の曲によくあるミディアムテンポの曲で、リズムパートの手数だけが多くてライブ映えする、というところまで、彼女の曲によくあるパターンの曲だ。何回かライブでもやった後、そのポジションは新しい他の似た曲にとって代えられた。伸ばす声の最後に少しだけ音をしゃくり上げる彼女の癖が、丁寧にコンピュータ処理されていた。

 本の中に再度閉じ込めた栞のことを考える。家に帰ったら、僕はあの栞を捨てられるだろうか。捨てられないだろうな、と自分で思った。理由は分からないけれど。読み終わったらこの本の中にまた挟んで、そうしたら。ふと読み返した時にこれを見つけて、その度に、今のこの湿度を思い出すのだ。たぶん。それなら、と思う。そこまで含めれば、それは僕の感情と呼んでも良いだろう。飲み込んだ気泡のぶんだけ、自分が少しだけ膨らんだ気がした。


 帰ってきた真っ暗な部屋に電灯をつけて、それから柔らかい生地の部屋着に着替えた僕は、居間の真ん中で横倒しになった大きな段ボールの中に、身を入れた。元は新品の洗濯機が入っていたこの段ボールは、座った人が入って少し余裕があるくらいの大きさで、横向きに開いた入口の蓋を中から軽く閉めると、自分の手の色が白黒に見えるくらいの僅かな灯りが、角の隙間から少しだけ射し込むようになっている。

 その中に入ってから僕は、ようやく大きく息をついた。それから左手を伸ばして、それぞれの方向の壁に順番に触れた。底面の潰れ方も、両側面の乾いた感触も、箱の中にこもる自分の呼吸の音も、いつも通りだった。

 一通り確かめ終わった後は、何をするでもなく、僕はそこで時間が過ぎるのを待っていた。経験的に言って、関係ないことを考えることが大切だった。例えばこの箱の外側のこと。今日会社で叩いてきたキーボードのことも、地球の裏側にある草原のことも、今の僕には等しく関係がなかった。考えている自分のことを考え始める前に、さらさらと流れていく意識の先を追いかけていくことが大事なのだ。うまく眠れない夜みたいに。目を閉じた、その瞼の中の黒の濃さが、どこからかの距離を表していればいいと思った。

 自分のみしかいないこの箱の中で、逆立った毛並みが戻っていくように、自分と自分以外の境界が、箱の中の薄暗い空気の中に、ゆっくり滲んで溶ける。抱え込んだ左膝を通じて全身に響く自分の鼓動の音に慣れるまで、僕はこっそりと深い呼吸を繰り返した。


 一時間ほどを箱の中で過ごしていただろうか、玄関から鍵の回る音がして、僕のいる居間へと足音が響いた。

「ただいまー、って、あれ。あー、そう、うん」

 未都子の声だった。さっきオーディオプレイヤーで聞いた歌声よりも、少し低い地の声。指向性、とでもいうのだろうか、どんなに遠くにいてもすぐ近くにいるような、向けられた相手に届けるための声だ。この声を直接聞くようになってから二年、一緒に暮らすようになってからは、もう一年が経つだろうか。この段ボール箱だって、同棲を始める時に買い換えた洗濯機のものだ。

「なるほどねえ」

 一度部屋に戻ってからまた戻ってきた未都子が、ぽす、とこの箱を軽く叩いて言った。僕が中にいることも、すぐ分かってしまうみたいだ。


 それからちょっと間があって、もう一度部屋に戻って、それから箱のすぐ近くに座ったらしい未都子が、台本を読む声が聞こえてきた。

「君は、眠れない夜にだけ恋をする生きものだった。まるでウサギみたいに」

 仕事の時に使う彼女の高い声の色を残しながら、いつもより落ち着いた口調を使って、モノローグ一つで作品の舞台へと引き込むための説得力を、その声に持たせていた。さすがだな、と思う。

 未都子は、本名の名字と名前のそれぞれの最初の一文字だけを残した『柏 未優卯』という名前で、声優をやっている。主にアニメーションに声を宛てながら、一方でその名前で歌った音源を出したりライブをやったりもしていて、いわゆるアイドル声優というくくりに含まれるらしい。ファンからは、名前の読みから『みゆう』だの『みゅう』だのとも呼ばれているが、インターネット上では最近、冗談交じりに『妖精』なんて呼ばれている。若くしてデビューしてから十年以上が経つのに、顔も声質も幼さを失わないまま変わらないところに由来するみたいだ。

「君は、恋をしている夜にだけ、いつもよりやわらかくて、それから、すこしだけ甘かった。まるで黒猫みたいに」

 この前、主役がとれたと言っていた、劇場用アニメーションの台本だろう。いつだか、彼女が読み終わった原作本が食卓に置かれていたのを、ぺらぺらとめくったことがある。破局した女性同士のカップルの、片方の独白から幕が開ける、そこの台詞だ。たぶん明日がその場面の収録なのだろう。彼女はいつも、収録前日に台本を通して一度、声に出して読む。演技というよりは、漢字の読み方や呼吸を入れる場所などの確認が主らしくて、実際にテレビで放送されるものを聞くと、そちらの方が更に表情豊かだ。

 今も恐らく、彼女の片手の中には、いつもこの練習の時に使う、油粘土の塊が握られているのだろう。声を宛てるのに何か対象が必要らしくて、昔、僕と出会うずっと前は、その粘土を人型に捏ねて、台詞に合わせてその人形の手足を動かしていたらしい。今はそんなことはしていなくて、片手にちょっと余るくらいの大きさの、何の形もしていない粘土の塊を弄びながら練習をしている。そのせいで、未都子の使い終わった台本はいつも、粘土の油の染みで汚れているのだ。


 彼女の喉は僕の箱の中の空気まで震わせていて、そのことを思うと僕は、空気を飲み込んで、スムーズに自分の臓腑に馴致させることが、さっきまでよりずっと楽に思えた。未都子が僕のことなんかいないみたいに、自分のことをやっていてくれるのが、僕にとってすごく気の休まることだった。

 同棲を始める時に、お互いに一人になる時間を作るために、それぞれの部屋に鍵を付けようと言った僕に、彼女が提案したのが、この大きな箱を居間に置いておくことだった。その中にお互いがいる時には、できるだけお互いがいないみたいに振る舞って、決して中に向かって話しかけないことが、僕らのルールだ。

「一人になりたいっていうのは、本当に一人になりたいのかな」

 あの時に彼女がそう言った理由が、今は少しだけ分かる。僕が考える外の世界に上手く自分の存在をフィットさせられない時でも、未都子が僕のことを見ないふりをして放っておいてくれるおかげで、少なくとも彼女の世界には箱の形の空隙がきちんととってあって、僕はそこにぴったりと合わせるみたいにして、他の世界への繋がりを取り戻せることができているのだと思った。


「たぶん、感情には、本物も偽物も意味もなかった。願わくは、明日の私が、気持ちよくなれますように。……願わくば、じゃなくてか。まいいや。明日訊こ」

 台本をめくる音がやんだ。明日のぶんの収録がここまでというところなのだろう。僕はもそもそと箱から外に出た。未都子の顔を見ないまま、キッチンに向かいながら、僕は声をかけた。

「紅茶、淹れるけど」

「頂きましょう。片付けてくるし」

 硬水だったか軟水だったか、とにかく喉に優しいというミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して、ケトルに注ぐ。沸騰音が聞こえてくるのを待ちながら、ポットとティーカップを戸棚から取り出す。本当は、ポットやカップをお湯で温めておくのがいいらしいのだけれど、そこまではしていない。そこに、未都子が前にイベントの差し入れとしてファンからもらったという、どこぞの紅茶の葉を用意する。それからミルク。これも、油分が喉にいいらしい。

 食卓の自分の席について、ティーポットの中で揺れる茶葉を見ていると、向かいあった席に未都子も座った。まだ化粧を落としていないが、部屋着のワンピースに着替えていた。締め付けるところのないゆるいシルエットが膝元まで伸びていて、淡いピンクとベージュのボーダーが乗っている。

「来週の日曜、午後からお休み取れそう」

「お、マジで、どっか行く?」

「そう、ねえ」

 未都子の仕事は曜日が関係ない上に、休日にはファンの前に顔を出すようなイベントに出ることも多くて、僕と休みが重なることはあまりない。それも、一緒に暮らすようにした理由の一つだ。もちろん、休日のイベントなら僕も行くことがあるし、一方的には会っていないわけではないのだけれど。

「未都子は、どっか行きたいとこある?」

「みゅうは特にないみゅうー」

 頬を力なく食卓にぺたりと付けて、口だけを動かして答えた。デビューしたての頃に、こんな話し方をする不思議アイドル的な売り出し方をされていたことを、今でもちょっとだけ根に持っていて、最近はこうやって少しだけ自虐的に、ふざけた時に使っている。

「考えときましょうか」

「そう、ねえ」

 恐らく、また未都子の仕事終わりにどこかで待ち合わせることになるのだろう。大体は仕事そのままの服や靴で行けるように、屋内で何かを見に行くことが多い。それが何かを決めるのは、大概、僕の役割だ。

「ぬぬーぬーぬぬぬぬー」

 分かりやすく楽しくなったように、未都子は鼻唄を歌い始めた。聴いたことのないメロディだ。「新曲?」と尋ねると、歌うのをやめないで、頬を食卓に付けたままで顎を軽く引く。今が収録の新曲となると、一ヶ月くらい先、四月くらいに始まるアニメの主題歌になるのだろうか。だったら聞き覚えがあるはずだから、もっと別の、カップリング曲やアルバムの中の曲なのかも知れない。

「わん、つう、くる、って、まわって、んたたん、ほいほいっ」

 間奏を口ずさみながら、テーブルに広がるソバージュの毛先を絡めた指の先で、天板を叩いて拍をとる。その新曲の振付けも練習しているのだろう。未都子の薄い紫に塗られた爪が叩く、こつこつという音が、そのまま僕の胸の内側で反響して、その音が響いた部分から、何かを上書きしてくれているみたいだった。

「ねえねえ、弾いて弾いて」

「いいけどね」

 そう言って僕たちは、居間の片隅に立てかけてある、キーボードのところまで移動する。鍵盤はたったの五オクターブ、ペダルすらない安っぽいキーボードだ。胡座をかいた僕の両膝と、左隣に脚を伸ばして座った未都子の右膝に乗せると丁度いい。電源を入れて、挿し込んだイヤホンを片耳ずつ分けた。このキーボードに通電したときの、独特のぷすっという音が鳴る。

 さっき聴いた未都子の歌声を思い出す。弾くのはコードだけ、しかもメロディもサビも、いつも通りの飛びきりよくあるコード進行だ。別に、間違ったって構わない。

「いくよ」

 未都子の爪が、僕の左手の甲を四つ叩いた。左手でベース音を押さえて、右手はアルペジオにしてコードを追うだけの簡単な伴奏を付けるだけで、未都子の鼻唄の歌声はがらりと変わる。普段の伸びやかで芯のある声とも、妖精のように軽やかな未優卯の時ともまた違った声だ。少しだけ広がりがあって、香水みたいに、僕らの周りに一瞬だけふんわりと漂ってその場で消えてしまう、そんな歌声だった。


 一通り歌い終わって、隣の未都子と顔を合わせる。

「ねえ」

 未都子の声が、囁き声に変わった。薄く笑って、僕の体にもたれかかってくる。すぐ下から見上げるようにして、僕に目を合わせてくる。目を逸らそうとしても、彼女の目以外だと、もう唇以外のところに、視線を留められるところなんかなかった。

 僕がそんな状態なのを確認して、それから目を細めて、く、と更にもう一間合い、彼女が顎をそのまま近付けてくるけれど、そこからもう、彼女は自分からは動かない。リップの剥がれかけた唇が少し開いて、その間を小さく息が通る。結末まで全部分かった、優しい挑発だった。自分のあらゆる部分の手触りを、未都子の体で一番やわらかい部分のそれに合わせたみたいだと思った。

「ねえ?」

 声だって、ぴったりその一間合い、さっきに比べてその間隔が詰められている。かなわないな、と僕は思った。いつものことだけれど。そのことさえ含んで、二人だけの共犯者みたいに、僕たちは同じ微笑を交わした。普段は相手の考えていることなんか分からないけれど、この一瞬だけは分かる気がする。それを味わうように、僕らの間にある僅かの、湿った空気を軽く吸った。それから軽く息を止めて、僕は未都子の唇に自分のそれを合わせる。同じ味の空気の交換だった。



 出演作のDVDに、ファンクラブ会員限定のグッズなど、毎週のように未都子の事務所から送られて来るもの、それから使い終わった台本なんかは、整理するわけにもいかなくて、倉庫みたいに使っている、専用の部屋に順番に放り込んでいく。

最近未都子がゲスト出演したAMラジオの録音をイヤホンで聴きながら、僕は居間の隅々まで掃除機をかけていた。

 ラジオの中で未都子と話しているのは、桐川真那という、同じ事務所の声優だ。名前は本名らしい。未都子より幾つか年上、デビューは同期くらい。みゅう、なんて呼ばれてアイドル然とした柏未優卯とは違い、桐川真那は声優でありながら、本格的な歌手としての評価も高くて、アーティスト色の強い売り出し方をされてきているようだ。毎夏のように全国を廻ったライブツアーをやっているし、またそのぶん、アニメーション以外のナレーションの仕事も多い。存在感がとても強くて、精力的、という言葉がよく似合っている。妖精なんて呼ばれて浮世離れした未都子とは真逆だ。それでも、どちらも同じ事務所で若手女性声優としてのトップクラスの知名度を維持してきたこともあって、こうやって一緒に仕事をすることも多く、未都子に言わせると、戦友という感覚に近いらしい。

 今回は、それぞれの新しいCDのカップリング曲をお互いに作詞しあったということだ。未都子が歌う方の曲が一週間先にリリースされるらしくて、今週はそちらの話ばかりをしている。ラジオ自体はこの次の週のぶんも続けて録っているはずだが、桐川真那の曲が発表されるのはその、来週放送分のようだ。先ほど放送された未都子が歌うその歌は、先日からよく家で彼女が鼻唄で歌うメロディの、あの曲だった。『ふわふわしかしてない』なんてタイトルのその甘い曲調に、桐川真那のアーティスト然とした硬めの歌詞が乗ると、石を包んだ薄手の和紙みたいな手触りを持つ曲になっていた。


 毎週日曜の習慣にしている部屋の掃除を昼前に終わらせようとしたところで、ポケットの中のケータイが震えた。未都子の名前の表示。こういう時、彼女はいちいち電話をかけてくる。

「はい?」

「ああらまあ、元気かい……」

 ケータイから聞こえてくるのは、訛りの強い、嗄れた老婆の声だ。というか、僕の祖母にそっくりの声だ。台詞も、僕がたまに電話をするときに必ず祖母が最初に言うものだ。こっそり聴いて、物真似の練習をしていたらしい。声優が本気で声で物真似をすると、声だけでは全然聞き分けることができない。練習していた色んな物真似を僕に披露するために、彼女はことあるごとの連絡を電話でしたがるのだ。

「ねえ、似てた?」

「元気のげの音は、少し鼻にかけるんですよ」

 僕の実家の訛りを覚えられて、仕事に影響が出ても困るのだけれど。

「んげんき」

「そこまでいかないけど。お仕事おしまい?」

「うむ。今からそっち帰るし。駅前でいい?」

 大体、出かける前に彼女に聞いていた予定通りだ。掃除をこのまま終わらせてから出かけても、僕の方が早く着くのだろう。

「いいですよ。着いたら、もっかい連絡下さいな」

「なんか、行くとことかで決まってる時間、ある?」

「映画だけど、まだチケット買ってないし、適当に着き次第でいいよ」

「ういうい」

 電話を切って、掃除もそこそこに、僕も外出用の服に着替える。一年ぶりに袖を通す、薄手のジャケットを羽織った。それから、待ち合わせまでの時間を潰すための、読みさしの文庫本をバッグに入れて、僕は家を出た。


 駅に隣接する、小さなバスターミナルを兼ねたロータリーにベンチを探す。時計塔を兼ねた屋外彫刻の影に隠された、僕がいつも座る四人がけの椅子が、今日も春の日差しに暖められていた。切り取られているみたいに空いたその椅子に、僕は腰を下ろした。

 道の脇にある排水溝に、散った桜の蕊が濡れた色で溜まっていた。何日か前に降った小雨で、街路樹の桜は大概が散ったらしい。散る花の美しさをよく称えられるけれど、桜吹雪みたいに綺麗に散ることのできる桜は、ほんの一部だ。

 バッグから本を取り出して頁をめくる。あの日、家に帰ってから栞は入れ替えた。新刊によく挟まっている、どこにでもある紙製のものだ。厚紙の、意味のない硬さが心強い。


 残っていたはずの百数十ページを、気が付くと読み終わってしまっていた。大体二時間くらいかかっているはずだ。おかしい、と思って、慌ててケータイを取り出すけれど、未都子からは特に連絡が入っている様子はない。

「何時?」

 未都子の声が、いつものトーンで、四人がけのベンチの逆の席から届いた。

「え?」

 途中から誰かが腰掛けたことは視界の端に入っていたはずだが、それが誰だかなんか、気にしてもいなかった。未都子だったのか。マリンボーダーのチュニックTシャツからジーンズの脚を伸ばしている。確かに、朝、出かける時に着ていた服だ。

「って、いたなら声、かけてよ」

「見てたら、なんか。ねえ?」

 言いながら彼女は、外出する時にだけかける赤いメタルフレームのアイウェアを外した。ぱたぱたとそれを折り畳んで、仕事用のバッグへと入れかけて、一度迷うような仕草をしてから、「ま、いっかね」と呟きながら、そのままバッグへ仕舞い込む。僕が改めて見た携帯電話の時刻は、家を出る前に待ち合わせに見込んでいた時間から、もう一時間半以上が経っていた。お昼ご飯の時間も完全に逃している。

「えっと、ごめん」

「いやいや。なんかあれだし、今日はご飯買って帰ろっか」

「いや、折角のお休みなのに、ほんとごめんなさい」

「なに食べる?」

 言いながら立ち上がった彼女を見て、慌てて僕も立ち上がる。自然に彼女が僕の手をとった。滑り込ませるように、僕の指と指の間に自分の指を入れていく。

「テイクアウトだと、ちょっと歩いたとこに、ハンバーグの美味しいのがあるらしくて」

「おにく! いいね」

 合図をするように一瞬だけ力が込められて、繋いだ手をその場で彼女の方に軽く引かれた。そうして僕らは、いつもみたいにどうでもいいことを話しながら歩き出す。握りしめずに軽く触れるように、だけれど正しい位置にある彼女の指先が、足を踏み出すたびにさらさらと、僕の拳を撫でる。

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