月光血戦
@shimoyuki
プロローグ
満月の夜だった。
被害者の室田美月、当時23歳が帰宅途中に暴漢に襲われた。
全身を真っ黒いロングコートで包んだ犯人の男は、曲がり角から突如現れあっという間に被害者の身体の自由を奪った。自身の体内から沸き立つ、抑えきれない醜い欲望を彼女の身体で発散するのが男の目的だった。
彼女が不運だったのは、その日に限っていつもと違う人通りの少ない帰宅ルートを使ってしまった事で、その理由は無理矢理友人に付き添わされた生け花教室だった。
元が根っからのお人好しで頼まれると断れない性格のせいで、これまで何度も損をして来た美月だったが、今回も同様で、もちろん美月は生け花になど全く興味はなかった。
が、職場で唯一の同性の同期である笹野に頼まれ、気の小さい美月は断って彼女との関係に亀裂が生じるくらいなら、と結局、今回も首を縦に振るしか無かった。
その時は、きっと笹野の性格上すぐに飽きてしまうことは容易に想像がついたし、実際その通りになった。2時間の授業の間に、彼女の中で風船のように膨らんでいた興味や期待の塊がみるみる萎んでいくのが美月には手に取るようにわかった。
当然のごとく別れ際、笹井の口から次の誘いの言葉はなかった。結局ふたり揃って1ヶ月分の月謝と入会金、さらに入会と同時に買わされた鋏などの道具類の代金を無駄にしただけだった。
そして、うつむきながら家路に着いている途中、ついに彼女は汚らわしく身勝手極まりない性犯罪に巻き込まれる事となってしまった。
暴漢は鼻息荒く力強く美月の身体を押さえつけながら、左手でその口を塞いだ。驚きと混乱の後すぐに恐怖が全身を走り抜け、美月の身体は自然と、まるで工事現場のそばに置いてある紙コップのようにガタガタと震え出した。
その日美月が歩いていた大通りから外れたその道は、数メートルごとに設置された古い街灯はあるものの、深い時間の夜が生み出す闇にはほとんど効果がなかった。
通り沿いに大きな小学校があり、朝や夕方は登下校する生徒の声で賑わうが、当然ながらこんな時間に無邪気な子供の声どころか若者や大人の声すら聞こえてこない。美月は知らなかったが、実はその小学校は昔から幽霊が出ると地元では有名な学校で、ただでさえ人を寄せ付けないたたずまいの夜の校舎がその噂で不気味さだけをどんどん肥大化された結果、夜中にこの通りを歩く人の姿は皆無となっていた。
その事実を知らなかったとはいえ、こんな夜道を一人で歩いてしまったことは美月の犯した最大の失態だった。これまで、友人などから変質者や痴漢に遭った話などを何度か聞いたことはあったが、絵に描いたような平凡な顔とスタイルで、これまで一度も男性にチヤホヤされた経験などもない自分は、そういった経験とは無縁なのだろう、と無意識に感じていた油断が仇となってしまった。
犯人の男が、この道の人通りのなさを知った上での犯行だったのかは今となっては確かめる術はないが、実際の道の静けさとあからさまに恐怖に震える美月の反応で気を大きくしたのか、男は大胆にもその路上でそのまま行為に及ぼうとしはじめた。
確かに、微かながら光る街灯の灯からも外れた場所にいるふたりの姿は、目の前まで近づかないと確認出来ないほど闇に溶け込んでいた。さらに、男の左手もさることながら、何よりも押し寄せる恐怖によってすっかり口を塞がれていた美月は、最早大声で助けを呼ぶなどという思考にすら達することが出来ずにいた。
気がつくと美月は地面に仰向けにされていた。両手首は男の右手でがっしりと掴まれていたが、錯乱によってなのか痛みという感覚はどこかへいってしまっていた。
その時初めて、うっすらとだが男の顔が見えた。40代くらいだろうか。髭面で頬が異常にこけ、健康的な要素は微塵もない。暗い生で表情はよく見えないが、男が発する荒い鼻息がその興奮を物語っている。
やがて男はゆっくりと顔を近づけて来た。バタバタと懸命に足を動かすが、いくら痩せているとはいえ、中年の男の体重は美月の身体の自由を奪うには充分だった。吐き気をもよおすような不快な息づかいが美月の顔を撫でる。
「さ、騒ぐな。し、死にたくな、なければ、お、大人しくし、し、しろ」
男の低い声と同時に、不快な息づかいが耳元に移る。身の毛のよだつ思いでさらに恐怖が深まる。いくら興奮状態とはいえ、男の息の荒さは常軌を逸していて、このまま呼吸困難にでもなるのではないかと思えるほどだった。
後の解剖によって判明したことだが、この男は重度の麻薬中毒者だった。解剖医いわくその身体は生きているのが奇跡的といえるほど全身をくまなく薬物に犯されていて、やせこけた頬も言葉に歯切れがなかったのも、薬物切れの禁断症状によるものだった。
男は押し黙ったまま美月の首筋から項の辺りに顔をうずめる。この男の性癖なのか、執拗なまでに匂いをかいだり舌で舐めずったりしている。ザラザラとしたその感触が項の辺りを這う度に、美月は味わったことのない悪寒で気が遠くなりそうになる。
美月の男性経験はたった一人だけだった。今になって思えば典型的な若気の至りの恋ではあったが、それでも当時の美月はその彼を心から愛していたし、それは相手も同じだと信じていた。
結局9ヶ月ほどで彼が他に女を作って去ってしまったのだが、彼と身体を重ねている時は、その体温を通じて感じる心地よい安堵感が全身を包んでいた。だから後悔などしていないし、今でも大切な思い出として美月の身体に残っている。
その当時とは対極ともいえるこの状況で美月は、その温もりを思い出すと同時に、このままこの醜い男に身体中を触れられ、舐められ、そのうえ欲望の塊で貫かれたりしてしまったら、そのかつての幸福な温もりごと自分自身のすべてを破壊されてしまいそうな、これまでとは違う恐怖が押し寄せて来た。
その時だ。美月の頭の中で何かが割れたような感覚がした。シャボン玉が割れる程度の小さな感触ではあったが、確かに感じた。さらに、灰色がかった靄のようなものがスーッと薄れていく感覚が続く。そこでようやく、止まっていた時計の針が動き出したように恐怖で縮こまっていた美月の中の防衛本能が目を覚ました。
『このまま好き勝手、されるがままでたまるか。こんな醜く汚らわしい男のせいで台無しにされるような人生なんてごめんだ』
脳内に響いたその言葉は紛れも無く美月自身のものだった。もしかしたら声に出ていたのかもしれない。それほどまでにはっきりと自身に問いかけるように聞こえて来た。そしてその声を合図に、美月は驚くほど冷静になっていた。いつの間にか、全身を縛っていた恐怖は消え去り、自分自身が置かれている状況を理解し、確認した。
カーディガンとシャツが破られ、下着がわずかに露出してはいるが、胸にはまだ男の手は伸びていないようだ。飽きる様子も無く相変わらず、不快な音を立てながら首元を舐っている。当然、下半身もまだ無事だ。今ならまだ間に合う。
男はよほど夢中なのか油断しきっているのか、気が付くといつのまにか右腕だけが自由になっていた。男の気が逸れない程度に目線をどうにか動かすと自由となった右腕の届きそうな先にバッグが転がっている。少しずつ脳が働きを取り戻していく。
男に襲われるわずか前、確か携帯で地元の友人に電話をかけ、散々だった一日の愚痴をこぼしていた。これから人生最大の災難に見舞われる事も知らずに、生け花教室で足が痺れて参った話などを20分ほど一方的に話して電話を切った。
ぼやけていた記憶の輪郭に、徐々にはっきりと焦点が合っていく。そうだ、その時バッグの口を開けたまま携帯を閉まった。さらに記憶に目を凝らす。男に倒された時の衝撃でバッグは路地に転がった。そう、口が開いたままで!そして今日、私は『不運にも』生け花教室に付き添わされた!普段なら絶対に持ち歩くはずの無い物騒なある物を、私は持っている!そう、今日に限って!
高ぶる感情の正体はいまや恐怖ではなかった。憤怒だ。それも、今までに経験したこと無いほどに煮えたぎった憤怒。今すぐ体内に水を注げば一瞬で沸騰したお湯に早変わりしそうなほどに、全身のあらゆる部位が熱を帯びているのがわかる。
目線を男の側頭部へ向ける。砂糖の塊に群がる蟻のように一心不乱なその無様な姿がさらに美月の体温を上昇させる。
今すぐにでも目を覆いたくなるような光景だが、視線は外さない。男の動きに細心の注意を払いながら、ゆっくりと右手を伸ばす。位置は見なくとももう把握出来ている。全神経を右腕に集中させる。これほどまでに自らの感覚を研ぎすませた経験はない。それが目的である感触に触れるのを待つ。呼吸が止まりそうなほど張りつめた神経がやがて冷たい感触を捕らえた。これだ。
つい4時間ほど前、痺れる足を堪えながら生まれて初めて使用したそれをしっかりと掴む。生け花用の鋏だ。通常のよくあるはさみと違い、持ち手の部分がペンチのような形をしていて、刃の部分は鳥のくちばしのように短い。当然ながらたった2時間でうまく使いこなせるわけもなく、生け花というよりも鋏の使い方教室に通っている気分だった。
その冷たい感触が右手からゆっくりと全身を伝う。それに伴い、沸騰していた憤怒が恐ろしく冷たい感情へと変化していく。驚くほど冷静に、これから自分が起こす行動を頭の中で言葉にして繰り返す。
「力いっぱい振り下ろせ」
言葉を浸透させるように、一度深く目を閉じる。音がたたぬようゆっくりと鋏を掴んだ右手を掲げる。殺傷力を上げるためか、無意識に逆手に持ち替えていた。
「ハァ、フゥ、フゥ、ウゥウ、フ」男の息が漏れている。もうたくさんだ。
目を静かに開ける。灰色の夜空に浮かぶ一点の星のように鋏の切っ先がキラリと光っている。ふ、と同僚の笹野の顔が浮かぶ。アンタのおかげでこんな目に合って、アンタのおかげで命拾いしたよ、と心の中で呟く。もし誘われていたのが茶道教室だったら、このまま私は無力にこの醜い男に犯されていただろう。仮に命は助かったとしても、女としての自分は死んでいたに違いない。それは命を落とす事よりもよっぽど恐ろしく、絶望的だ。
掲げていた右腕の痺れで我に返る。鋏の向こうで大きな満月が男に覆いかぶさられた無様な姿の美月を見下ろしている。
「ああ…こんな時でも月は綺麗」
思わず漏れた美月の声に反応し、男が顔を上げようとした瞬間だった。
ブジュッという音と共に、濁った夜空に鮮血が舞う。目一杯降り下ろした鋏の刃が、男の左の首筋に深く突き刺さった。
「うぃぎゃあああっ!」響く絶叫は男のものだ。たまらず美月から離れ、地面をのたうち回っている。首元を抑える手がみるみる赤く染まっていく。
対照的に美月はゆっくりと上半身を起こした。自分の瞳とは思えないほど冷たい視線を男に向けているのが自覚できた。それどころか、反射的に離していてもおかしくない状況下にも関わらず、美月の右手にはしっかりと鋏が握られたままだ。それは万が一の男の反撃に備えての本能的な行動だった。
だが、当然ながら男は激痛に悶えるだけで反撃の余地など皆無だった。涎をまき散らしながら言葉にならない絶叫を上げ、変わらず地面を転がっている。足元のアスファルトに赤い血だまりができていく。
その状況を目の当たりにしても不思議と恐怖は無かった。今まさに、恐ろしい行為を行ったとは思えないほど、美月の精神状態は安定していた。男がもがき苦しむその姿を、まるで、興味をなくした古いおもちゃを見る子供のように冷たく冷めきった目で見つめていた。それどころか、右手を伝う汚れた男の血の感触に、心の中で悪態をついた。
やがて、男の身体がピクピクと痙攣を始めた。耳をつんざくほどの絶叫もいつのまにか消え、か細いヒュウヒュウという呼吸音がわずかに聞こえるだけだ。
美月は思い出す。子供のころ、まだ生死とか命の尊さとかいう判別がつかない頃、残酷な無邪気さで蟻を踏みつぶした時の事を。驚くほどあっけなく、この地球上から命がひとつ奪われていくさまを、膝を抱えて見つめていたあの感覚に似ている。
ひとつ違うのは、あの時、踏みつけた蟻がやがて全く動かなくなった瞬間、美月は言い知れぬ不安に襲われた。その正体をやがて年を重ねるにつれて学び、同時に命というものを学んだのだ。
ところが今はどうだ。圧倒的に蟻よりも大きく、何よりも、性別はちがえど、自分とほとんど同じ身体の構造をした人間という生物が、まさにあの時の蟻のように自分の行いで息絶えようとしているというのに、身体中のどこを探しても、罪悪感の欠片も見当たらないのだ。そしてすぐにその理由を理解した。
それは、相手が自分に対し、無力で無害であったかどうかの違いだ。
あの時踏みつけた蟻は、美月を妨害するでもなく、危害を加えて来たわけでもなく、ただそこにいただけだった。もしかしたら、仲間の待つ巣へと帰る途中だったのかもしれない。とにかくあの蟻はただそこに存在していただけだった。まるでさっきまでの自分自身のようだと美月は思った。ということは、あの時の私はこの男と同じだ。罪も無くただ、その場にいた無力で無害な生物に、欲望や好奇心で攻撃をくわえた。
もしあの時、窮地に立たされた蟻が反撃をくわえてきていたら、そしてもしその蟻が例えば毒を持っていたりして、結果的にその毒に犯されて死んだとしても自分にはその蟻を攻める事など出来なかっただろう。当たり前だ。攻撃をしかけたのは自分で、蟻はただ、今、私がそうしたように、自らの持てる限りの武器を使って身を守っただけなのだから。
目の前で息絶えていく男は、あの時の無知で残酷な自分自身だ、と美月は思った。知らなかった、なんて言い訳にならない。再び罪悪感が背筋を伝う。それは目の前の男にではなく、一匹の蟻へ向けてのものだった。一人の人間が、音も無く死へと向かう姿を前に、美月は心の中でもう一度、一匹の蟻に対して深々と頭を下げた。
後ろから悲鳴がしたのはその時だった。振り返ると若い男が目を大きく見開いてこっちを見ている。正確には、視線は美月の足元の瀕死の男に向いている。
「警察を呼んでいただけますか?」
その言葉で若者の視線が美月の方へ動く。その瞳には明らかに動揺と恐怖心が宿っていた。微かに足も震えている。
そこで、自分の携帯電話があった事を思い出す。携帯を拾おうとゆらりと身体を動かすと、若者がビクリと後ずさりした。
「驚かせてごめんなさい。でも私は…」
目の前の若者の怯える姿があまりにも過敏なので、申し訳ない気分になり、釈明しかけた所で、こみあげてきた。
「フフフフ…フッフフフ…」
笑いだった。言い知れぬ達成感と高揚が、堪えきれず笑いになって漏れてきた。
やってやった。私はやったのだ。自分自身の力で、理不尽で淀んだ【悪】をひとつ摘み取ってやった。数時間前に学んだ生け花とは正反対の行為だけど、その充実感は比べものにならない。
止まらない高笑いの足元には、醜い姿をした一匹の死骸が転がっていた。
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